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説教日:2002年6月2日 |
言うまでもないことですが、その当時、エジプトから出るための道としては、通常の交通路がありました。しかし、主はわざわざイスラエルの民が紅海を通ってエジプトを脱出するように導かれました。 出エジプト記13章17節、18節では、 さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。 と言われています。 長いことエジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は、反乱を防ぐエジプトの政策によって戦うために必要な武具を持つことを許されなかったことでしょう。また、戦いの訓練もできていなかったはずです。そのために、ペリシテ人を初めとする諸国の民との戦いを恐れて引き返す恐れがありました。それで、 神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。 と言われています。 そして13章21節〜14章4節には、 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。 と記されています。 ここに記されているとおり、このことには主の贖いの御業としての理由がありました。14章4節では、 パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。 と言われています。 もちろん、それはイスラエルの民へのあかしでもありました。出エジプト記14章27節〜31節には、 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。 と記されています。 けれども、この、紅海における神である主の救いとさばきの御業は、ただ単に、ご自身の民であるイスラエルに対するあかしという以上に、エジプトを初めとする諸国の民に対するあかしとしての意味をもっていました。 15章14節〜16節に記されていますように、モーセとイスラエルの民は、その時、 国々の民は聞いて震え、 もだえがペリシテの住民を捕えた。 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、 モアブの有力者らは、震え上がり、 カナンの住民は、みな震えおののく。 恐れとおののきが彼らを襲い、 あなたの偉大な御腕により、 彼らが石のように黙りますように。 主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。 あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。 と歌いました。 もちろん、これは、主の民イスラエルを奴隷として虐げていたエジプトに対するさばきとしての意味をもっていました。けれども、エジプトに対するさばきということだけであれば、イスラエルがエジプトの地にある間にエジプトに下された、過越の夜のさばきを頂点とする十の災いを通してのさばきで十分であったのではないでしょうか。 紅海の水を分けてイスラエルの民を通らせてくださり、そこでエジプトの軍隊を滅ぼされたことは、エジプトだけでなく、それ以外の国々にも、主がどなたであるかをあかしすることになりました。その地域の弱小国家は、どこもエジプトという強大な国家の動きに注意を払っていたはずです。それで、エジプトで起こったこと、特に、彼らが最も恐れていたエジプトの軍隊が全滅するような損害を受けたというニュースは、いち早く周辺の国々に伝わったことでしょう。 出エジプト記14章13節、14節には、エジプトの王パロの軍隊が負いかけてくるのを見て恐れたイスラエルの民に対してモーセが語った、 恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。 ということばが記されています。 このことばからも分かりますが、主がイスラエルの民とともにいてくださってイスラエルの民のために戦ってくださったのです。それが紅海においてパロの軍隊をおさばきになるという形であかしされました。この後は、エジプトの支配者は二度とイスラエルの民に手を出すことはありませんでした。エジプトの支配者は諜報の能力に優れていましたから、当然、荒野を旅するイスラエルの民の存在を知っていたはずです。しかし、荒野を旅するイスラエルの民には手を出しませんでした。それは、この紅海での出来事が、エジプトにとって余りにも特異で恐るべき出来事であったからでしょう。 また、それは、その地域の国々の記憶にも留められていたようです。たとえば、それから40年後のカナンの地でのことを記すヨシュア記2章9節〜11節には、 主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。 という遊女ラハブのことばが記されています。 このように、主が紅海の水を分けて乾いた地を出現させ、イスラエルの民にそこを通らせてくださり、同じ水でエジプトの軍隊を全滅させられたことは、その当時の人々に深い印象を残しました。それは、言うまでもなく、そこで起こった出来事が特異で恐るべき出来事であったからです。それとともに、そこには、もう一つの理由があると思われます。 古代オリエントの文化の中では、「海」は神(神々)に敵対する暗やみの勢力として、それ自体神的なものとして理解されていました。たとえば、ウガリット神話に出てくるヤム、あるいは、ヤム・ナハルは暗やみの勢力である怪獣ですが、その名は「海」あるいは「海・川」を表わしています。それで、その当時の人々にとっては、主が紅海の水を分けて乾いた地を出現させ、イスラエルの民にそこを通らせてくださり、同じ水でエジプトの軍隊を全滅させられたことは、主が暗やみの勢力をも従わせておられることと写ったわけです。紅海での主の御業は今日の私たちにとっても大変な出来事であったと感じられますが、その当時の人々には、今日私たちが考える以上の衝撃を与えたと思われます。 詩篇74篇13節、14節では、そのことを踏まえて、 あなたは、御力をもって海を分け、 海の巨獣の頭を砕かれました。 あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、 荒野の民のえじきとされました。 と歌われています。 この詩篇に歌われていますように、実際に、主は紅海における救いとさばきの御業をとおして、主が暗やみの勢力をも従わせておられるというあかしを立てられました。 とはいえ、これには注意して受け止めなければならないことがあります。確かに、聖書は、主が暗やみの勢力を、ご自身の無限の知恵と御力によって治めておられることを示しています。けれども、海そのものが暗やみの勢力である、というような考え方を退けています。海そのものは、創世記1章9節〜13節に記されているみことばが示しているように、神さまの天地創造の御業によって造られたものです。その意味で、それは神さまがお造りになったよいもので、後にそこに生き物たちが群がるようになる場所です。 すでにお話ししましたとおり、神である主が、紅海の水を分けて乾いた地を出現させ、イスラエルの民にそこを通らせてくださり、同じ水で、エジプトの軍隊を全滅させられたことは、主が、天地創造の三日目に「天の下の水」を一所にお集めになって、「かわいた所」が現われるようにしてくださった神であることをあかししています。これが、聖書が示すこの出来事の意味です。 海そのものが神(神々)に敵対する暗やみの勢力であるという考え方は、神(神々)に敵対する勢力が初めからあって、神(神々)と戦っているとするものです。それは、悪が実体である(形而上的なものである)とするものです。聖書には、そのような教えはありません。 創世記1章31節に、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていますように、聖書が示すところは、すべてのものは善いものとして造られた、ということです。この世界に存在するすべてのものは造り主である神さまの御手によって造られたものですが、悪は神さまによって造られたものではありません。つまり、悪は実体ではないのです。 それなのに、この世界に悪いものが存在しているのは、自由な意志をもつものとして造られた人格的な存在者が、造り主である神さまの御前に高ぶって、自らが神の位置に立とうとする罪を犯したことによって、堕落したからであると教えられています。それが、サタンを初めとする悪霊たちの堕落であり、人類の堕落です。もともと善いもの、優れたものとして造られていた人格的な存在が、造り主である神さまに対して罪を犯したために、その自由な意志を含めた人格的な特性が腐敗してしまいました。このことが、この世界に悪が存在するようになった理由です。 そして、被造物の世界も、神のかたちに造られてこの世界を治める使命を委ねられた人間との一体において虚無に服してしまいました。そのことは、創世記3章17節に記されていますように、神さまが罪を犯して堕落してしまったアダムに、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 とさばきのことばを宣言されたことに表わされています。 また、この神のかたちに造られている人間と被造物の世界の一体性を踏まえて、ローマ人への手紙8章19節、20節では、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 と言われています。ここでは、神である主の贖いの御業によって人間が本来の神のかたちの栄光に回復されれば、被造物も人間との一体において回復されるという「望みがある」ということが示されています。 いずれにしましても、海が荒れ狂う恐ろしいものとなったのは、また、水が洪水などによって人を脅かすものになったのは、さらには、海や大水が神さまのさばきの手段として用いられるようになったのは、ノアの時代の洪水によるさばきに典型的に示されているように、神のかたちに造られて、この世界を治める使命を委ねられている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによっています。 聖書には、海や、大水を恐るべき性格をもったものとして描いている個所がいくつもあります。たとえば、詩篇69篇1節、2節では、 神よ。私を救ってください。 水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。 私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています。 と言われています。 このような描写には、このような聖書の教えの背景があることをわきまえたうえで理解する必要があります。 先ほどお話ししましたように、海が荒れ狂う恐ろしいものとなり、水が洪水などによって人を脅かすものになったのは、神のかたちに造られてこの世界を治める使命を委ねられている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによっています。人はそのことをとおして、自らの罪と堕落の現実を認めて、造り主である神さまの御前に身を低くすべきです。それなのに、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、海そのものが悪であるとすることによって、自分たちの罪による堕落の責任を認めて、造り主である神さまの御前にへりくだることをしないようにしているわけです。 これらのことと関連して、黙示録21章1節を見てみましょう。そこには、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 と記されています。ここでは、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって造り出される新しい天と地においては、人間の罪による堕落の結果生じた荒れ狂う「海」の存在、そして、その当時の文化において暗やみの力の象徴として用いられていた「海」は、もはや存在しなくなることが示されています。 創世記1章10節では、 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。 と言われています。 ここには、神さまが かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた ことが記されています。 すでにお話ししたとおり、聖書において名をつけることは、その名がつけられたものの位置や特性を示すとともに、名を与えた者が名をつけられたものの上に権威をもっていることを示しています。 ここでは、神さまがご自身の主権のもとに「地」と「海」にそれぞれの位置をお与えになって、「地」は「地」として、「海」は「海」として保ってくださることを意味しています。それで、「海」がその位置を越えて「地」を覆うようなことはありません。詩篇104篇9節において、 あなたは境を定め、 水がそれを越えないようにされました。 水が再び地をおおうことのないようにされました。 と告白されているとおりです。 同時に、これによって、神さまは、「地」には「地」としての意味(役割)を、「海」には「海」としての意味(役割)を与えてくださいました。これによって、「地」には植物たちが芽生え育つようになり、生き物たちが生息し、やがて、神のかたちに造られている人間が生きることができるようになります。そして、「海」には「海」にすむ生き物たちが生息することができるようになりました。 天地創造の第三日に「天の下の水」を一所にお集めになって、「かわいた所」が現われるようにしてくださり、 かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた 神さまは、今日に至るまで、真実な御手によって「地」と「海」を、それぞれに固有な位置と意味をもつものとして保ってくださっておられます。 人々はこの「地」を「母なる大地」と呼んでいます。「地」には、無尽蔵とも思えるほどの豊かさがあるのです。しかし、その「地」の豊かさは、造り主である神さまの無限のいつくしみの御手が備えてくださっている豊かさです。 |
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