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説教日:2002年7月7日 |
これに先立つ天地創造の第二日に、神さまは大空をお造りになって、「大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別され」ました。そして、第三日に「大空の下にある水」を一所に集められて「かわいた所が」が現われるようにされました。このことによって、植物が芽生え育つのに必要な条件が造り出されました。けれども、そのような条件が整えられたからということで、自動的に植物が芽生えて育つわけではありません。11節に、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。 と記されていますように、神さまの「創造のみことば」によって植物が芽生えさえせられたのです。 地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。 という神さまのみことばにおいて、「芽生えさせよ」と訳されていることば(ダーシャー・動詞)は、「植物」と訳されていることば(デシェ・名詞)の同族語です。このことばは、この「芽生えさせる」という意味を表わす形(ヒフィール語幹)では、聖書の中には、ここに出てくるだけです。そのほかの形でも、「緑である」とか「植物が生えている」という意味を表わす形(カル語幹)で、ヨエル書2章22節に出てくるだけです。 ですから、このダーシャーということばは、神さまの天地創造の御業を記す記事の中で、神さまが地に働きかけてくださって、地が初めて植物を芽生えさせるようになったことを表わすためだけに用いられているという点で、特殊な意味合いをもったことばです。それで、このことば自体が「植物を出す」というような意味合いをもっています。ただ11節には、これとは別に「植物を」という目的語がありますので、「芽生えさせよ」と訳されているわけです。 これに対しまして、これに続く12節で、 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。 と言われているときの、「生じた」と訳されていることば(ヤーツァー)は、これよりもずっと広い意味で「生ずる」、「もたらす」、「産出する」ということを表わし、植物に限らずいろいろなものに当てはめられます。 創造の御業の記事の理解にとって大切なことですが、この12節で述べられていることは、11節で述べられている「創造のみことば」によってなされた御業への「補足説明」です。創造の御業の記事において、11節に記されているような、神さまの「創造のみことば」による御業は、どの場合にも記されていて、創造の御業の記事の「要素」になっています。しかし、補足説明は必ずしもすべての御業に付け加えられているわけではありません。たとえば、第一日目の御業や9節、10節に記されている「地」と「海」の創造には、補足説明がありません。 それでは、神さまの「創造のみことば」を記している11節と、そのことへの「補足説明」を記している12節の関係はどのようになっているのでしょうか。 それは、今お話しました「芽生えさせよ」と訳されていることば(ダーシャー)と、「生じた」と訳されていることば(ヤーツァー)の意味合いの違いに表われています。11節では、「植物を出す」という意味合いをもっていることば(ダーシャー)を用いて、神さまの天地創造の御業によって、それまでなかった植物が地から芽生えさせられたことを記しています。これは、まだ種も草の根も何もない状態の地から、神さまが「創造のみことば」をもって、「植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせ」てくださったことを示しています。その意味で、これは、それまでになかったものを造り出された神さまの創造の御業です。 これに対しまして、今日の私たちが普段見ているような形で大地が植物を芽生えさせるのは、もともと「地」の中に植物の根や種があって、それが季節になると芽生えてくるということです。そのことは、12節で、「生じた」と訳されていることば(ヤーツァー)が用いられて表わされます。この私たちが普段見ている植物の芽生えは、神さまの創造の御業による「最初の芽生え」から始まっています。 このように、11節とその補足説明である12節では、神さまの創造の御業による「最初の芽生え」が出発点となって、さまざまな植物の芽生えが今日に至るまで連綿と続いてきているということを伝えています。 ですから、「地」が植物を生み出したのではありません。あるいは、植物が芽生える条件が整えられたので、自然と植物が芽生えてきたのでもありません。造り主である神さまが「創造のみことば」をもって、植物を造り出されたのです。その際に、神さまは、さまざまな植物を、その種や根によって地から芽生え出るものとしてお造りになりました。それで、今日の私たちの目には、地からさまざまな植物が芽生えて出てくることは自然なことと見えるようになっています。 11節、12節には、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。 と記されていますが、ここでは、神さまが「地」にさまざまな植物が芽生えて育つために必要な「役割」を与えておられることが述べられています。 繰り返しになりますが、これは、神さまが、私たちの住んでいるこの世界に光があるようにしてくださったことから始まって、大空、すなわち、大気圏の創造によって、その上にある水と下にある水を分け、大気の循環のシステムを造り出してくださったこと、そして、天の下にある水を一所に集めてくださって、「地」を出現させてくださったことを受けています。神さまは、これらの御業によって造り出されたものに名前をつけて、それぞれに固有の位置と役割を与えてくださるとともに、それを特別な意味でご自身の主権の下においてくださって、保ってくださっています。 このような一連の御業を経て、神さまは、「地」を、さまざまな植物を育み育てるものとして整えてくださいましたし、実際に、そのような役割を果たさせてくださいました。その結果、「地」はさまざまな植物を芽生えさせ、それを育み育てるようになりました。それは、造り主である神さまの知恵と力にかなったことです。 しかし、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落して、神さまを見失ってしまっている人間は、神さまが整えてくださった「地」そのものを、あがめるようになってしまいました。現代においてもそうですが、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、神さまが地にこのような役割とそれに必要な力をお与えになったことを認めません。ただ、地そのものに何か植物を生み出すような力があると考えています。そして、地が植物を生み出すことが畏敬の念をもって受け止められ、地は「母なる大地」と呼ばれています。このようなことから、「生命力」があがめられる「豊穰の祭り」が盛んに行なわれるようになりました。その際に、神々が登場しますが、その神々も、この世界に働きかけて雨を降らせたりして、豊年満作をもたらすとされています。この場合には、もともと、この世界が、雨が降り植物が芽生える世界としてあります。神々は、このような世界に働きかけるのです。 これらの「豊穰の祭り」は、神さまが創造の御業において地に植物を生み出しそれをはぐくみ育てる役割とそれに必要な力をお与えになったことを見失って、地そのものを神格化してしまったことから始まっています。 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって神さまとの交わりを回復されている私たちは、神さまが地にお与えになった役割とそれに必要な地からの素晴らしさに賛嘆いたします。大地から芽生えてくる草花の豊かさと美しさ、穀物の種類の多さとありがたさ、木々の生い茂る森林の役割の大切さなど、知れば知るほど驚きに満たされます。そのことによって、私たちは、造り主である神さまの知恵と力と、私たちに対するいつくしみの豊かさに打たれます。詩篇65篇9節〜13節には、 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、 これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、 彼らの穀物を作ってくださいます。 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、 夕立で地を柔らかにし、 その生長を祝福されます。 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、 あなたの通られた跡には あぶらがしたたっています。 荒野の牧場はしたたり、 もろもろの丘も喜びをまとっています。 牧草地は羊の群れを着、 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。 人々は喜び叫んでいます。 まことに、歌を歌っています。 と記されています。 11節、12節に、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。 と記されていることの中で、特に注目しなければならないのは「種」です。 神さまの「創造のみことば」を記している11節では、「種」のことが二回繰り返されていて強調されています。しかし、それで終わってはいません。「補足説明」である12節においても、それと同じように「種」のことが二回繰り返されて強調されています。 このように「種」のことが強調されていることは、これまでお話ししてきました「地」の役割と切り離すことができません。すでにお話ししましたが、11節に、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。 と記されていますように、神さまは、まず、「地」に働きかけて、それまで存在していなかった「種」を結ぶ草や木を「地」から芽生えさせてくださいました。それ以後は、その同じ御業を繰り返されるのではなく、神さまがお造りになった「地」と「種」をお用いになって、「地」にさまざまな植物が繁茂するようにされたのです。 1章28節では、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と言われていて、神のかたちに造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられたことが示されています。その際に、「地を従えよ。」と言われていますが、それは、神さまが、このように整えてくださった「地」を、さらに、神さまのみこころに沿って整えていくことを意味しています。事実、2章4節後半と5節では、 神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。 と言われており、2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。 言うまでもなく、1章11節と12節で「種」のことが繰り返されて強調されているのは、それだけ「種」が大切なものであるからです。それは、特に、「種」が、後に神のかたちに造られる人間に与えられる食べ物として、ここですでに備えられていることを意味しています。 先ほどの、神のかたちに造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられたことを記す1章28節に続く29節には、 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 と記されています。 ここでは、11節、12節で、神さまが「地」から芽生えさせてくださった「種を生じる草」や「種のある実を結ぶ果樹」が、実際に、種を生じ、実を結んでいるという意味合いが伝えられています。神のかたちに造られた人間は、すでに神さまが「地」から芽生えさせてくださった「種を生じる草」や「種のある実を結ぶ果樹」を受け取って、神さまが整えてくださった「地」に働きかけ、さまざまな種や実を収穫するのです。 このような「種」の大切さは、特に、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、神さまのさばきを受けたことによって、よりはっきりと感じられるようになりました。最初の人に対するさばきを記している3章17節〜19節には、 また、アダムに仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と記されています。 このような、神さまのさばきの結果、さまざまな労苦が人間の現実となりました。その中心が、労苦して食べ物を食べることと、労苦のうちに食べ物を食べるけれども、ついには、「土に帰る」ということです。 そのことの意味については、その個所に至ったときにお話ししたいと思いますが、人間の罪による堕落によって、「土地」がのろわれてしまったということと、それによってもたらされる人間の労苦が極端な形で現われるのが、日照りなどによる旱魃によってもたらされる飢饉です。そのような災害に見舞われたときには、その飢饉の中で人々が死んでいってもなお、次の年に蒔く「種」だけは食べてしまわないように取っておいたという話を聞いたことがあります。その真偽のほどは分かりませんが、そのような話が生み出されるほど「種」は大切なものであるわけです。 先ほど引用しました1章29節には、 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 と記されていましたが、続く30節には、 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」 と記されています。 この二つを比べてみますと、動物や鳥たちなどに食べ物として草が与えられたことが述べられるときには、「種」のことは触れられていないことが分かります。これは、動物や鳥たちには「種」のことが問題にならないことによっています。マタイの福音書6章26節に記されていますように、イエス・キリストは、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 と述べておられます。 この世界にあっては、ひとり神のかたちに造られている人間だけが、造り主である神さまが「種」を生ずる草や、実をならせる木をお造りになったこと、そのようにして、いのちあるものに対して深い配慮をしてくださっていることの意味を考えるのです。 また、マタイの福音書6章9節〜13節に記されていますように、イエス・キリストは、私たちがどのようなことを祈るべきかを教えてくださいましたが、その私たちが祈るべき祈りの中に、11節に記されている、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りを加えておられます。 このような祈りを祈るようにと教えてくださった主は、天地創造の初めに、この私たちが住んでいる世界に光があるようにしてくださり、大気圏を創造して、その上にある水と下にある水を分け、大気の循環のシステムを造り出してくださいました。そして、天の下にある水を一所に集めてくださって、「地」を出現させてくださり、そこに、「種を生じる草」や「種のある実を結ぶ果樹」を芽生えさせてくださいました。ですから、イエス・キリストが教えてくださった、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りは、そのような天地創造の御業を遂行された神さまが、今日に至るまで真実な御手をもって、この世界と私たちを支え続けてくださっていることをわきまえたうえでの祈りです。また、天地創造の初めから、神のかたちに造られている人間をみこころに留めていてくださる神さまに対する信頼に基づく祈りです。 最後にこのこととの関連で、マタイの福音書6章31節〜33節に記されているイエス・キリストの教えに耳を傾けたいと思います。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 |
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