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説教日:2002年8月4日 |
この29節と30節のみことばでは、すべてのいのちあるものたちのために、神さまが食べ物を備えてくださっていることを示していますが、神のかたちに造られている人間の場合と、その他の生きものたちの場合には違いがあります。それは、人間について語られている場合だけに、種のことが述べられているということです。 これは、人間だけが植物の種や果樹の実を食べ、ほかの生きものたちは草だけを食べるということを述べているように見えます。しかし、実際には、人間も野菜を食べますし、生きものたちも種や実を食べます。また、人間に対して、 見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。 と言われていますが、この最後の、 それがあなたがたの食物となる。 という神さまのみことばの「それ」は、「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」を指しています。けれども、人間は「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」そのものを食べるのではなく、草や果樹の「実」を食べます。同じように、生き物たちも草だけでなく、その実も食べると考えられます。 それで、人間の場合に種や実のことが触れられているのは、人間が耕作や種まきをして、草や果樹の実を刈り取り収穫することを通して、「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」から食べることを意識してのことであると考えられます。 一方、マタイの福音書6章26節に記されていますように、イエス・キリストは、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 と教えておられます。そのように、人間以外の生きものたちは、刈り入れや収穫をしません。それで、創世記1章30節において、人間以外の生きものたちの食べ物に触れるときには、種や実のことが述べられていないのであると考えられます。 もしかすると私たちは、イエス・キリストが、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。 と言っておられる「空の鳥」を、うらやましく思うかもしれません。何も働かなくても食べ物が与えられるというのですから、こんないいことはないと感じるかもしれません。そのような思いから、「地上の楽園では、何もしなくても、いつでも好きなものが食べられる。」というような考え方が生まれているのかもしれません。 しかし、イエス・キリストは、 あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 とことばをつないでおられます。 また、創世記2章15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。人間が遠い人類の共通の記憶にある地上の楽園のようにあこがれているエデンの園において、人間は、そこを耕し、守っていたのです。 これに先立つ、2章8節〜14節で、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。 と言われていますように、エデンの園は、神である主がご臨在される場所として、限りない豊かさと潤いに満ちているところでした。また、そこは、全地を潤す水の水源であることに示されていますように、神さまのご臨在に伴う祝福の源でもありました。 その祝福の中心は、園の中央にあった「いのちの木」によって礼典的(サクラメンタル)に示されている神さまとの愛にあるいのちの交わりにありました。ちなみに、「礼典的(サクラメンタル)」というのは、「目に見えない神さまとの愛にあるいのちの交わりの祝福を、見える形で表示し保証してくださるものとして」ということです。神さまが「いのちの木」を礼典的なものとして与えてくださったので、神のかたちに造られている人間がその神さまの備えを信じて、その木から取って食べることによって、実際に、神さまとのいのちの交わりの祝福にあずかるようになるのです。そのような信仰がないのに、とにかくその木から取って食べれば、自動的にそのような恵みと祝福が与えられるということではありません。神のかたちに造られている人間がエデンの園を耕し、そこを守ったのは、このような祝福にあずかっているものとして、神さまのご臨在の場である園を守ったということを意味しています。 エデンの園はこの上なく豊かに潤ったところでしたから、そこを耕したのは、耕さないと実が実らないからではありません。耕さないと実が実らないという不毛な状態と、それに伴う人間の労苦は、創世記3章17節〜19節で、 また、アダムに仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と言われていますように、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに罪を犯して、御前に堕落してしまったことに対するさばきによってもたらされたものです。 また、神のかたちに造られている人間は、エデンの園を耕しただけでなく、そこを守ったと言われています。それは、動物たちが入ってきて荒らすといけないからということで、動物たちの侵入を阻止したということではありません。 2章19節〜25節には「ふさわしい助け手」としての女性の創造のことが記されています。その際に、19節に、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と記されていますように、生きものたちが最初の人のところに連れてこられました。人は自分の許に連れてこられた生き物たちに名をつけました。名をつけることは、すでにお話ししましたように権威を発揮することです。人は生き物たちに名をつけることによって、それらの生き物との関係を結びました。それによって、それらの生き物とかかわっていくようになります。このことは、生き物たちも神のかたちに造られている人間とのつながりにおいて、造り主である神さまのご臨在の祝福にあずかっていることを思わせます。 このような祝福は神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって失われてしまいました。けれども、イザヤ書65章17節〜25節には、 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。 先の事は思い出されず、心に上ることもない。 ということばで始まる、終わりの日の回復の預言が記されています。その預言の最後は、25節の、 狼と子羊は共に草をはみ、 獅子は牛のように、わらを食べ、 蛇は、ちりをその食べ物とし、 わたしの聖なる山のどこにおいても、 そこなわれることなく、滅ぼされることもない。 ということばで結ばれています。ここには、人間が、約束の贖い主が成し遂げてくださる贖いの御業にあずかって、罪を贖っていただき、罪ののろいの下からいのちの祝福の下に回復されるとき、生き物たちも人間とのつながりにおいて回復される様子が記されています。 このように、聖書には、その本来の状態においては、生きものたちも神さまのご臨在の御前からあふれ出てくる祝福にあずかっていることが示されています。生き物たちは神のかたちに造られている人間とのつながりにおいて、その祝福にあずかっているのです。ですから、最初の人がエデンの園を守ったというのは、動物たちがエデンの園を荒らしてしまうので、そのようなことがないように園を守ったということでもありません。 さらに、その時には、神のかたちに造られている人間の罪による堕落の後に生じた「いばらとあざみ」(3章18節)に代表される有害な植物は、まだ生えていませんでした。ですから、最初の人がエデンの園を耕し、それを守ったのは、有害な植物がはびこって園が荒れることから守ったということでもありません。 このようなことから、最初の人がエデンの園を耕し、それを守ったということは、有害な存在による、外からの侵害によって園が荒らされないように守った、ということではないと考えられます。むしろ、このことは、先はどお話ししました、神のかたちに造られている人間とそれ以外の生き物たちとの区別にかかわっていると考えられます。 エデンの園は豊かに潤っていましたので、そこにはさまざまな木々や草の実が豊かに実っていました。それで、人間もその他の生きものたちも十分に養われたことでしょう。けれども、そこで芽生えて育つ植物には意志がありませんから、どこにでも芽を出して育ちます。しかも、豊かに潤っているエデンの園では、すべてのものがどんどん育つことでしょう。放っておけば、どうなることでしょうか。 また、エデンの園の恩恵にあずかる生き物たちにも考えや意志はありませんし、園そのものに対する関心はありません。生き物たちは、そこにあるものを食べるだけです。 このような状態にあるエデンの園を、園として保つためには、どうしても、はっきりとした考えと意志をもつ存在による手入れや、何がどこに芽生えて育つのがいちばんよいかを判断する者による「交通整理」のようなものが必要です。おそらく、それが、神のかたちに造られている人間に委ねられていた、エデンの園を耕し、そこを守るということであったのであろうと考えられます。 このような「使命」を果たすためには、神さまがお造りになった一つ一つの草や木の性質や特質をしっかりと把握していなくてはなりません。その上で、一つ一つの木や草の特性にふさわしい、手入れがなされなくてはなりません。ですから、このような「使命」を果たすために、神のかたちに造られている人間は、神さまの御手の作品としての草や木の一つ一つにしっかりと向かい合うようにして、観察しなければなりませんでした。当然、そのことを通して、神さまの御業の豊かさと素晴らしさに実地に触れ、さまざまな実や種のうちに備えられた、神さまのご配慮の深さと豊かさを感謝とともに知ることになったはずです。 このことのうちに、ひとり、神のかたちに造られている人間だけが、生存にとって最も基本的な、食べ物を食べるということをとおして、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに、極めて現実的な形で触れるという特権があります。それは、「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることも」しない生き物たちには全く分からない祝福です。 このように、人間は、神さまがご臨在されるエデンの園において、神さまが備えてくださった祝福の豊かさにあずかりながら、その豊かさが無秩序な繁茂ということにならないように、秩序と方向性を与えていたと考えられます。 さらに、このことから、神のかたちに造られている人間が、神さまが造り出された地を耕し、備えられた植物の種や実を蒔いたり植えたりして、植物を育て、収穫することによって、神さまのお働きにあずかり、そのお働きを受け継いで管理している姿が見て取れます。 また、神さまは、そのような「使命」を果たすことが人間の基本的な必要を満たすことになるようにと、取り計らってくださっておられます。この点で、マタイの福音書6章31節〜33節に記されています、イエス・キリストの、 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 という教えに示されている神さまのご配慮が、創造の御業の中にも備えられているのを見ます。 もちろん、それによって、神さまは、ご自身がお造りになったものから御手をお引きになることはありません。神のかたちに造られている人間は、すべてを支えておられる神さまの御手に支えられて、委ねられている分を果たすだけです。 コリント人への手紙第一・3章5節〜9節には、 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。 と記されています。 人間が種を蒔き、木を植え、水を注ぐことだけでは何も生み出しません。大切なのは、そのことをとおして神さまが木を育ててくださり、実を結ばせてくださることです。神さまが育ててくださるので、種を蒔き木を植えることや、水を注ぐことが意味あることになり、実を結ぶにいたるのです。 このことには、さらに、もう一つの重要な意味があると考えられます。 このコリント人への手紙第一・3章5節〜9節に述べられていることは、いわば比喩的なことです。神さまがお造りになった、種をもって実を結ぶ植物が芽生え育って、実を結ぶようになることが、キリストのからだである教会の成長にたとえられています。そのどちらも、神である主の真実な御手の支えのもとに、そのために仕える者たちの働きが用いられて実を結ぶようになります。 ほかの生きものたちとは違って、神のかたちに造られている人間だけが、土地を耕し、種を蒔き、水を注いで育て、実った実を刈り入れて収穫します。実際、神さまがこのような世界をお造りになったので、古くから、人間は、種まきと手入れと収穫を中心にして、自分たちの生活のサイクルを自覚し、時の流れを意識してきました。 そのことをとおして、神さまは、ご自身がお造りになった世界の真理を教えてくださいます。それは、この世界は歴史的な世界であり、目的を持っているということです。神さまは、その目的を「実を結ぶこと」として示してくださり、ものごとが実を結ぶようになるのは造り主である神さまの祝福によることであり、真実な御手の支えによることであることを教えてくださっています。 そして、そのような意味で実を結ぶことに参与する者たちは、そのことを通して、神さまの祝福の御手を感じ取り、その働きが無意味に終わることがないことをくみ取ることができるようにしてくださっているのです。 先ほどの問題に戻りますが、私たちは、このような、天地創造の御業において神さまが備えてくださっている祝福に目を留めます。その上で、空の鳥たちが蒔くことも借り入れることがないままに神さまによって養われているということを考えたいと思います。このような生き物たちのことをうらやましく思うのは、先ほど引用しました創世記3章17節〜19節に、 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 と記されていますように、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった結果、食べる物を獲得することが目的化してしまい、そのために労苦するという現実があるためです。 本来は、神さまが備えてくださったこの地を耕すことは。労苦の源ではありませんでした。むしろ、それは造り主である神さまの愛に満ちたご配慮を身をもって味わう祝福の機会であったのです。今日においても、人々は、神さまの一般恩恵の下での種まきの時や収穫の時において、その祝福の一端を経験しています。 |
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