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説教日:2002年9月1日 |
この御業に続いて、11節、12節で、 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。 と言われていますように、神さまは植物を地から生じさせる御業を遂行されました。植物は「母なる大地」という思想が考えるような大地の力によって自然発生的に芽生えてきたのではありません。神さまの「創造のみことば」によって芽生えさせられたのです。その際に、神さまが整えられた、潤った大地が用いられたのです。 このように、地に蒔かれた種が芽生え育つことは、造り主である神さまの御手の支えによることです。 罪を贖われて、神さまとの本来の関係を回復された主の民は、自分たちの生存にとって最も基本的なことに対する神さまの備えと真実な御手の支えを覚えて、さまざまな形で告白することによって、神さまの御業をあかしします。たとえば、イスラエルの民は、申命記14章22節に記されている、 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。 という戒めにしたがって「すべての収穫の十分の一」を聖別して主にささげることをとおして、すべてのものが主の御手によるものであることを告白しました。この告白において最も基本的なことは、申命記10章14節で、 見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。 と言われていることです。 人間は神さまのものであるこの世界に住むものとされています。神さまはご自身の世界に住むようにされた人間を初めとする、すべての生き物を真実な御手をもって養い続けてくださっておられます。その支えの御手は、まず、地に蒔かれた種を芽生えさせ育ててくださるという、人間を初め、すべての生き物にとって基本的に必要な食べ物を備えてくださることに現われています。しかもそれは、人間や生き物たちが造られる前から備えられていたものです。 マタイの福音書6章9節〜13節には、 天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕 という「主の祈り」が記されています。それは大きく分けますと、前半の、直接的に神さまの栄光が表わされることを求める祈りと、後半の、私たちの必要が満たされることを求める祈りに分けられます。その後半の私たちの必要が満たされることを求める祈りは、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りから始まっています。 これは、神さまが天地創造の初めに、ご自身が整えてくださったこの地に、まず、種をもって実を結ぶ植物を芽生えさせて、人間を初めとして、すべての生き物に必要な食べ物を備えてくださったこと、そして、その後に、生き物たちをお造りになったことに符合しています。 また、広く認められていますように、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りは、ただ私たちの食べ物だけを祈り求めるものではなく、食べ物によって代表される、私たちにとって基本的に必要なものを祈り求めるものです。 その際に、私たちはこの食べ物に関して、神さまが天地創造の初めから、私たちのために備えてくださっているものであることを教えられています。つまり私たちが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈るのは、そのように祈らないと神さまが与えてくださらないからではなく、私たちが求める前に神さまが私たちにとって基本的に必要なものをご存知であられるばかりでなく、私たちのために備えてくださっていることを信じているから祈るわけです。マタイの福音書6章7節、8節に記されているように、イエス・キリストが、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 と教えておられるとおりです。 ですから、神さまのみことばに裏付けられた祈りは、私たちの信仰告白であり、信頼の告白です。 その意味で、そしてただその意味でだけ、先ほどお話ししました、「すべての収穫の十分の一」を聖別して主にささげること 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈ることは、深く結びついています。 「ただその意味でだけ」と言いましたのは、私たちの収入を聖別して主にささげることは、それによって主の祝福を「買う」ためのものではないからです。主にささげることと、主に祈ることは、私たちの信仰と信頼の告白の二つの形という点においてつながっています。 マタイの福音書6章31節〜33節には、 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 言うまでもなく、このイエス・キリストの教えは、天地創造の御業において、神さまがすべての生き物たちの基本的な必要、特に神のかたちに造られている人間の基本的な必要を満たしてくださるために、すべての備えをしてくださっていることと深く結びついています。 このことはまた、造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださったことを記す創世記1章28節と、それに続く29節においても示されています。 1章28節には、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。そして、それに続く29節には、 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」 と記されています。これは、神のかたちに造られて「歴史と文化を造る使命」を委ねられた人間が、その使命を果たしていくときに、必要なものはすべて、神さまが備えてくださるということを示しています。その意味で、これは、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えに符合しています。 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、神の子どもとしていただいている私たちは、罪の贖いを成し遂げられて栄光をお受けになったイエス・キリストから、マタイの福音書28章18節〜20節に記されている、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 という、一般に「大宣教命令」と呼ばれる、新しい使命を委ねられています。もちろん、それは天地創造の初めに神のかたちに造られている人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」と一致する使命です。 私たちは新しい使命を受けた者として、神さまを造り主として礼拝しています。そして、造り主である神さまを礼拝することは、先ほどのささげものと祈りによって代表的に、また具体的に表現されている、日常の生活のあらゆることにおいて、神さまを信じ、神さまを信頼して歩む歩みへと広がっていきます。その歩みの中で、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えが、私たちの間に現実のこととして実現していきます。 けれども、このイエス・キリストの教えは、決して、自動的に必要なものが備えられていくということを意味してはいません。このイエス・キリストの教えの背景となっている、天地創造の御業においても、神さまが芽生えさせられた植物の種は、神のかたちに造られている人間に与えられています。それによって、人間は造り主である神さまの備えを信じて、種を蒔き、その実を収穫することをとおして、自分が蒔いた種を育み育ててくださる神さまの御手を身近に覚えるようになるのです。そこに、人間が参与して働く余地があります。人間は自分に委ねられた分を果たすことの中で、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えに教えられている原則が自分たちの上に実現していくことを経験します。その意味で、イエス・キリストの教えに示されている原則は、天地創造の初めから神のかたちに造られ、神さまからの使命を委ねられている人間、そして、その使命にしたがって生きる人間に当てはまることです。 この、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えは、今日の私たちに向けて語られたものです。それで、イエス・キリストの教えに教えられている原則は私たちに当てはまります。それと同時に、この原則は天地創造の初めに神のかたちに造られ、神さまから使命を委ねられている人間に当てはまるものです。 しかし、私たちの状況は、天地創造の初めの状況とはかなり違っています。何よりも、神のかたちに造られている人間自身が、与えられている自由な意志を造り主である神さまのみこころに背く方向に働かせて罪を犯し、堕落してしまっています。それによって、人間は罪と死の力に捉えられてしまい、自分を神の位置に置こうとするほどの自己中心性に縛られてしまっています。それで、人間はもはや「神の国とその義とをまず第一に」求めることはなくなってしまいました。また、人間のいのちそのものと、それが生み出す人生が不毛なものになってしまいました。 そればかりでなく、人間が働きかけるようにと造り主である神さまから委ねられた「自然界」も、人間との一体性によって、不毛な力に縛られてしまうことになりました。創世記3章17節〜19節に、 また、アダムに仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と記されており、ローマ人への手紙8章19節〜22節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されているとおりです。 先ほどのイエス・キリストの教えに示されている原則は、今日の私たちにとっては、そのような厳しい状況の中で実現していくことです。その土台は私たち自身の中にはなく、神である主が一方的な恵みによって私たちの罪を贖ってくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださったことにあります。このことによって、私たちは「神の国とその義とをまず第一に」求める者に造り変えられています。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、新しい使命を委ねられているので、「神の国とその義とをまず第一に」求めるようになっているのです。 けれども、私たちが「神の国とその義とをまず第一に」求めることには、さまざまな困難が伴うようになってしまっています。まず、この世界そのものが神のかたちに造られている人間の堕落とともに虚無に服して、不毛なものとしての側面を持っています。 そこに予想される人間の労苦は、 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 と言われていますように、本来は、人間を謙虚にさせて、自らの罪の現実に気づかせるためのものでもありました。しかし、自らを神の位置に置こうとするほどに、罪の自己中心性に縛られてしまっている人間は、ほとんどの場合、それによってへりくだるどころか、その労苦を軽くするために、他の人々を踏みつけ、搾取するようになってしまいました。そこから、さまざまな争いが生まれてきています。ヤコブの手紙4章1節〜3節には、 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 と記されています。 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかって、新しい使命を委ねられている神の子どもたちは、このような厳しい状況の中で、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えを信じて歩んでいます。 このような厳しい状況というのは、私たちの住んでいるこの世界が、人間の罪による堕落がもたらした不毛で、混乱と争いの多い世界であるというだけのことではありません。それ以上に、神である主の恵みによって罪を贖われ、新しく生まれている私たち自身のうちに、なおも罪の暗やみと自己中心的な欲望が満ちています。先ほど引用しましたヤコブの手紙4章1節〜3節の厳しい叱責の言葉は、他でもない、神の子どもたちに向けられている言葉です。 そのように、外においても自分自身のうちにおいても厳しい状態にある私たちが、それでも神の子どもとして、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えを信じて歩むことができるのは、私たち自身が御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとしての身分を与えられ、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として回復されているからです。またその結果、神さまの愛に包まれて、神の家族の兄弟姉妹たちとの交わりのうちに生きる者として回復されているからです。私たちは礼拝を中心とする神さまとの愛にあるいのちの交わりの中で神さまを知り、神さまが信頼すべき方であることを知るようになります。そして、この神さまへの信仰と信頼の中で、「神の国とその義とをまず第一に」求めるようになります。 私たちは神さまの恵みによって神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かされている者として神さまを礼拝します。その礼拝の中で、私たちの収入を聖別して主にささげることをとおして、すべてのものが主の御手によって備えられているものであることを告白します。それとともに、日ごとの祈りの中で、すべてのものを備えてくださっている主の御手に信頼して、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と、神さまを信頼して祈ります。私たちは、日々の歩みにおいて、この信仰と信頼の告白を繰り返すことをとおして、より現実的に神さまを信頼する者としていただいています。 |
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