(第19回)


説教日:2002年10月6日
聖書箇所:創世記1章9節〜13節
説教題:種類にしたがって


 創世記1章9節、10節には、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。神さまは天地創造の第三日に、天の下の水を一所に集めることによって「かわいた所」を出現させられました。そして、「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられ」ました。
 神さまが「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた」ことは、神さまが名をつけられた「」と「」に対して主権をもっておられることを示しています。神さまがお付けになった名は、その名を与えられたものの本質を表わしています。天地創造の御業は、神さまがすべてのものをお造りになった御業ですので、一つ一つのものの本質は神さまがお与えになったものです。それで、神さまは「かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた」ことによって、「」と「」のそれぞれに固有の位置を与えてくださり、「」と「」がそれぞれの意味をもち、役割を果たすようにしてくださったのです。
 また、神さまは「」と「」の名をつけられたことことによって、「」と「」をご自身の主権の下にあるものとしてくださり、特別な意味で関わってくださるようになりました。「」と「」は、やがて造られる「いのちあるもの」の住み処となる所です。神さまはこの「」と「」に主権的に関わってくださり、これを「いのちあるもの」の住み処として支えてくださるのです。
 この御業に続いて、11節と12節に、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

と記されていますように、神さまは、植物を地から生じさせる御業を遂行されました。
 神さまは「かわいた所を地と名づけ」られました。それで「」は「」としての意味と役割を果たすようになりました。神さまは創造の御業によって、その「」にいわゆる「大地の力」を備えてくださっていました。けれども、植物は大地の力によって自然発生的に芽生えてきたのではありません。神さまの「創造のみことば」によって芽生えさえせられたのです。神さまが「創造のみことば」によって、それまでに存在していなかった植物を地から芽生えさせてくださったのです。これは植物が「」から芽生えるものとして、また神さまが「」に備えてくださった力によって育まれるものとして創造されたということです。


 11節、12節に記されている、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。

というみことばにおいては、「種類にしたがって」ということばが三回繰り返されて強調されています。
 さらに、20節、21節では、

ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。

と言われており、24節、25節では、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。

と言われています。
 これらの個所では生き物の創造のことが記されていますが、ここでも同じように「種類にしたがって」ということばが繰り返されて強調されています。
 これらの個所で「種類」と訳されていることば(ミーン)は、旧約聖書ヘブル語本文には三十一回出てきます。そのうち三十回は五書の中に出てきて、他の一回はエゼキエル書47章10節に出てきます。
 このことば(ミーン)には、三つの文法的な特質があると言われています(TWOT、1巻、503頁)。
 第一に、このことばは、常に、「 ・・・・へ」、「 ・・・・について」、「 ・・・・ にしたがって」などを意味する前置詞(レ)とともに用いられます。これによって、そこで取り上げられているものの特性を示しています。それぞれの「種類」(ミーン)は、それぞれの特性を持っているということです。
 第二に、このことばは、常に、単数形で用いられています。これは集合名詞で、一つ一つの集合体の「総称」のような形になっています。つまり、一つの「種類」(ミーン)は、集合的なもの「総称」です。
 第三に、このことばは、常に、人称語尾を伴っています。これによって、その人称語尾によって示されているものが属している、総体的な集合体があることを示していると思われます。
 ある人々は、この「種類」(ミーン)ということばを、今日の植物学や生物学上の分類の「種」( species )に当たるものと見て、神さまが「種類」(ミーン)を創造された時に、「種」を定められたと論じます。
 神さまが生物学上の「種」を定められたのは、創造の御業によることであるということは確かです。けれども、聖書に出てくる「種類」(ミーン)が生物学上の「種」に当たると考えることは出来ません。「種類」(ミーン)は生物学上の「種」に当たるものを表わすことがありますが、それ以外のものを表わすこともあります。
 たとえば、レビ記11章13節〜23節では、

また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、とび、はやぶさの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、う、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものである。

と言われています。
 私は、具体的な植物や生き物の植物学や生物学上の分類については何も分かりませんので、これからお話することは、自分で十分に確かめたわけではありません。
 生物学上の分類では、より大きな分類としての「門」から始まって、以下、「綱」、「目」、「科」、「属」、「種」、「変種」と細分化するようです。
 14節の「はやぶさの類(ミーン)」と16節の「たかの類(ミーン)」は、生物学上、ともに「たか科」に属しています。それで、「はやぶさの類(ミーン)」と「たかの類(ミーン)」は、「たか科」の中での区分です。そして、「はやぶさの類(ミーン)」と「たかの類(ミーン)」の「(ミーン)」は、更にその下の分類にあるものを総称しています。「はやぶさの類(ミーン)」であれば、その中に、さらに、いくつかの区分(分類)があって、それらがまとまって「はやぶさの類(ミーン)」となっているわけです。
 22節の「いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類」のうち、「こおろぎ」と「ばった」は「目」(直翅類目)に属しています。それで、「こおろぎ」と「ばった」は「科」に当たります。「いなご」と「毛のないいなご」は「科」に属していますので「属」になります。そして、それぞれに「 ・・・・ の類(ミーン)」ということばがつけられていて、そのさらに下の分類に属するものを「総称」しています。それで、ここで用いられている「種(ミーン)」は「科」の下の「属」か、「属」の下の「種」に相当するものを示しています。
 創世記1章11節、12節においては、まず、広い意味での「樹木」と「草」の「種(ミーン)」があります。その中に、「種を生じる草」や「種のある実を結ぶ木」の「種(ミーン)」があります。これらの「種(ミーン)」は、裸子植物や被子植物に属するものの「種(ミーン)」で、今日の分類では、「目」や「科」に相当するものを示しているように思われます。
 ですから、ここでは、「種(ミーン)」を今日の植物学や生物学上の「種」と同一視することは出来ません。それは、この創造の御業の記事が記された時代には、今日のように厳密な、植物学や生物学上の分類がなかったことを考えれば当然のことです。
 大切なことは、「種(ミーン)」を今日の植物学や生物学上の「種」と同一視することができるかどうかということではありません。大切なことは、創造の御業において、神さまが一つ一つの植物や一つ一つの生き物を、それぞれの「種類にしたがって」お造りになったということです。それで、この世界には、実に多様な種類の植物や生き物が存在しています。そして、それらの多様な植物と生き物の間には、今日の植物学や生物学の分類が示している、見事な調和が系統立てられて存在しています。すべては、神さまが一つ一つの植物や一つ一つの生き物を、それぞれの「種類にしたがって」お造りになったからです。
 このことの中で、人間は神さまがお造りになったさまざまな植物や生き物を観察して、今日の植物学的、生物学的な分類を生み出したのです。そして、その観察を通して、どうやら「種」は固定したものであって、自然とそれが別の「種」に変化することはないらしいということも分かってきたわけです。ですから、この創造の御業の記事において用いられている「種(ミーン)」ということばを今日の植物学や生物学上の「種」と同一視することができなくても、神さまが創造の御業において、「種」を固定したものとしてお造りになったということは十分に主張できることです。
 ただし、植物学や生物学上の「種」が固定したものであるかどうかは、聖書の「種類にしたがって」ということばだけから、直ちに主張できるものではありません。この場合には、神さまがお造りになったものを実際に観察することを通して分かったことが、聖書に記されている「種類にしたがって」ということがどういうことであるかを理解するための「光」となります。また、その逆に、聖書が示している創造の教理が、植物学上、生物学上の観察によって得られたデータを解釈する上での「光」となることもあります。少し難しいことですが、今日では、科学的な事柄の資料の選択や解釈には、その人がもっている世界観(パラダイム)が大いに関係していることが認められています。
 次に、この「種」ということば(ミーン)が用いられている、そのほかの個所を見てみましょう。
 創世記6章17節〜20節では、

わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

と言われています。
 20節の「各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうもの」の「各種類の」は創造の記事の「おのおのその種類にしたがって」と同じことばです。
 神さまはノアの時代に、神さまに対して罪を犯して堕落し、その罪の腐敗を極みまで深めてしまった人間をおさばきになる時、その人間との一体において、あらゆる種類の生き物が滅ぼし去られることを決心されました。6章5節〜7節に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されているとおりです。
 そのような中ではありましたが、6章17節〜20節では、ノアとの一体においてあらゆる種類の生き物たちを保存して下さることが述べられています。ですから、ここでの「種(ミーン)」は、すべての生き物を保存するための単位を示しています。ここでの「種(ミーン)」が一つ欠けるなら、その「種(ミーン)」は保存できません。その「種(ミーン)」が他の「種(ミーン)」から変化してできるというようなことはないわけです。
 レビ記11章では、先ほど引用しました個所からお分かりのように、聖いものと汚れたものを区別する文脈で、「種(ミーン)」が用いられています。
 ここで「種(ミーン)」がどのように用いられているかについては、先ほどお話しした通りです。ここでも、聖いものに属する「種(ミーン)」が、やがて汚れたものに属する「種(ミーン)」に変わっていくことはないし、逆に、汚れたものに属する「種(ミーン)」が、いつの間にか聖いものに属する「種(ミーン)」に変わっていくこともない、ということを前提としています。
 これと同じことは、申命記14章にも記されています。
 また、レビ19章19節には、

あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

という戒め(規定)が記されています。同様のことは、申命記22章9節〜11節にも、

ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。

と記されています。
 これらの戒めは、すべてのものをお造りになった神である主がそれぞれのものの「種(ミーン)」を明確に区別しておられることの上に立って与えられたものであると考えられます。そのことを、人間はわきまえて、尊重すべきことが示されています。
 このことは、マタイの福音書7章16節〜20節に記されている、

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

というイエス・キリストの教えにも反映しています。
 神さまは天地創造の御業において、この世界に存在する植物や生き物たちの一つ一つの「種(ミーン)」を確立して下さり、それぞれを明確に区別して下さいました。
 これによって、植物や生き物の世界に、実に多様なものが、それぞれの独自性を発揮しながら存在するようになりました。その数は、今日に至るまで人間が数え尽くしてはいませんし、その特性を調べ尽くしてはいません。
 その一方で、それほどの多様性がありながら、植物や生き物の世界は、混乱してわけが分からないものになることがないように保たれています。すべてが全体的な調和のうちに存在しています。
 これは、神さまが「光」と「やみ」を区別されて、混乱が生じないようにされたこと、また、「大空の上にある水」と「大空の下にある水」を「区別」されたこと、さらに「海」と「地」を区別して下さったことなどと通じることです。これらの御業によって、この世界は多種多様なものに満ちていながら、まったき調和と秩序のある世界として確立されています。まさに、コリント人への手紙第一・14章33節で

それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。

と言われているとおりです。

 


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