黙示録講解

(第28回)


説教日:2011年5月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(26)


 きょうも3月11日に起こりました東日本大震災に関連するお話を続けます。
 私たちはこの大震災を前にして、自分たちが天地の造り主である神さまの御臨在の御前に立たされていることを覚え、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝してまいりました。そして、神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちを御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、御国の祭司としてくださったみこころにしたがって、この国のために、特に、被災の地にある神の子どもたちのために執り成し、祈ってきました。
 そのような中で、私たちに聞こえてくるのは、みことばがあかししている全被造物のうめき、すなわち、神さまがお造りになったすべてのもののうめきです。それで、これまでこのことについてお話ししてきました。ここでは、すでにお話ししたことの中で、きょうお話しすることとかかわりあることだけを取り上げておきたいと思います。
 被造物のうめきのことはローマ人への手紙8章19節ー23節に記されています。そこでは、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われています。
 20節では「被造物が虚無に服した」と言われています。私たちは今回の大震災もこのことの端的な現れであると信じています。そして、22節では、このことのために、

被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている

と言われています。
 しかし、これは絶望のうめきではありません。それが「産みの苦しみ」であると言われていますように、新しいものが生み出されるためのうめきであり、苦しみであるのです。その新しいものとは、21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われています。被造物がやがて「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになるということです。
 どうしてそのようになるかということにつきましては、すでにお話ししたことをまとめておきます。神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、神さまがお造りになったこの世界を、神さまのみこころに従って治める使命、すなわち、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。そのことは、創世記1章27節、28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 この使命において、神さまがお造りになったものは、神のかたちに造られた人と一つに結び合わされています。
 神のかたちに造られて、このような歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、人は神さまとの愛にあるいのちの交わりを失い、死の力に服するものとなり、自らの罪のためにさばきを受けて滅ぶべきものとなってしまいました。そればかりでなく、神のかたちに造られた人と一つに結び合わされている被造物も、人の罪の結果であるのろいを受けて、「虚無に服した」のです。
 これに対して、神さまは人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落した直後に、贖い主を約束してくださいました。そして、旧約聖書全体にわたって、贖い主とその贖いの御業についてより詳しい説明をしてくださった上で、今から2千年前に、ご自身の御子イエス・キリストを贖い主としてお遣わしになりました。そして、御子の十字架の死によって、私たち主の民のすべての罪を贖ってくださり、私たちを御子イエス・キリストの復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる神の子どもとしてくださいました。
 そればかりではありません。創造の御業において、神のかたちに造られた人と一つに結び合わされているために、人の罪による堕落の結果ののろいを受けて「虚無に服した」被造物も、私たち神の子どもたちとの結びつきによって、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになるのです。
 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを再び神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして回復してくださるためのものですが、それで終わるものではありません。私たち神の子どもたちとの結びつきにより、全被造物を「滅びの束縛から解放」し、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れ」てくださるためのものでもあります。このこととの関連で思い起こされるのは、コロサイ人への手紙1章19節、20節に記されているみことばです。そこには、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業は、「万物」すなわち全被造物の回復のためのものでもあります。
 このような意味をもっている贖いの御業は、すでに成し遂げられています。それで、今、被造物は、すでに成し遂げられた贖いの御業に基づいて、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と約束されていることの完全な実現を求めて、「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」のです。


 私はあの大震災の日からこれまでの間に、神の子どもたちが記したいくつかの新聞や雑誌の記事に触れることができました。ある方々は、原子力発電所の事故について、人類が神さまの御前に高ぶって建設したバベルの塔に対する神さまのさばきを連想されたようです。原子力発電所における水素爆発の衝撃の大きさのためでしょうか、中には、バベルの塔が崩壊したということを記しておられる方もおられました。しかしみことばは、バベルの塔自体が崩壊したということを示してはいません。神さまがそこでことばを乱されたので、人々の間に思想や生き方の分裂が生じ、その結果、人々が全地に散らされることになったことが示されています。
 また、大津波との関連で、ノアの時代の大洪水を思い起こされた方々もおられました。
 これらの記事は、今回の大震災とそれによって引き起こされた大津波を、何らかの形で、神さまのさばきと結びつけて理解するものです。そのこと自体は間違ってはいません。先ほどお話ししましたように、みことばは、「被造物が虚無に服した」のは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによっていると教えているからです。
 しかし、これらの記事を記した方々も十分わきまえておられることですが、今回の大震災に限らず、直接的に被災された方々が、そうでない人々より罪が深いという結論を引き出すことはできません。被災を免れた者たちが被災された方々を上から見下ろすことはできないのです。ルカの福音書13章1節ー4節には、

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここにはピラトの暴虐という人災とシロアムの塔の崩壊という事故による災害が取り上げられています。その当時のユダヤ教のラビたちの教えも含めて、世界中に見られる因果応報の考え方からしますと、その災害に遭った人々はほかの人々より罪が深いということになります。しかし、イエス・キリストはそのような考え方を否定しておられます。
 その一方でイエス・キリストは、その被害に遭った人々に罪がないとも教えてはおられません。私たちも含めて、すべての人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落しており、そのために死の力に服していますし、罪のさばきを受けて滅びなければならないものであるからです。イエス・キリストは目前の災害や事故による被害を越えた、永遠の死と滅びという深刻な問題を取り上げておられます。
 イエス・キリストはこの最も深刻な現実を、ないものとして解決しようとはされていません。人に罪がないとか、罪に対するさばきはないとして解決を図ろうとはしておられません。むしろ、人の罪の現実を踏まえて、ご自身が私たちの罪を負って十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それがイエス・キリストが示しておられる解決です。それで、イエス・キリストは、

あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

というように、自分たちの罪を認めて悔い改めるべきことを教えておられます。聖書の教えの中では、罪を認めて悔い改めることは、神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった罪の贖いを信じることと切り離すことができません。教理的には、罪の悔い改めと贖い主に対する信仰は一つのことの裏表であり、決して切り離すことができないということです。

 これらのことを踏まえて、さらにもう一つのことを取り上げたいと思います。
 先ほど触れましたように、ある方々は大津波の映像や被害を見て、ノアの時代の大洪水を連想しておられます。それも見当違いの連想ではありません。その大洪水は、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまの御前に堕落しきってしまったことに対するさばきとしてもたらされました。ノアの時代の大洪水によるさばきの執行は、終わりの日におけるさばきの執行の「地上的なひな型」です。
 創世記6章5節には、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。ここには、人の外側のこととして「地上に人の悪が増大し」たことと、人の内側のこととして「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ようになってしまっていたことが示されています。「みな」、「いつも」、「悪いことだけに」ということばは、人の心の腐敗が極まってしまっていることを意味しています。
 ここでは、

 主は・・・ご覧になった。

と言われています。これは、人の悪が極まってしまったのは神さまの御前におけることであったということを意味しています。神さまがそのようにご覧になっておられることであって、人がそのことを認めているわけではありません。その心が腐敗しきってしまっていた人は自分たちの現実をよしとしていたはずです。しかし、主は人の心のうちに至るまで見通しておられます。真にすべてを評価され、さばかれる方は、このように、すべてを曇りなく見通しておられる神さまだけです。
 このことを受けて、続く6節、7節には、

それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そしては仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されています。
 これに対しまして、さらに続く8節には、

 しかし、ノアは、の心にかなっていた。

と記されています。
 このみことばはとても大切なことを伝えています。これを直訳しますと、

 しかし、ノアは、の御目の中に恵みを見出していた。

となります。これは、ノア自身のよさを示すというより、ノアが主の恵みとあわれみに頼っていたことを意味しています。このことは、この後に出てくるノアの人となりと歩みを理解するうえで、決定的に大切なことです。
 実際、9節には、

ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

と記されています。「その時代にあっても」ということは、すでにお話ししましたように、人の罪の腐敗が極まってしまっていた時代の中にあってということです。すべての人がそのような恐るべき時代の流れに流されて、悪を徹底化させていく中で、ノアだけは「正しく」「全き人」であり、「神とともに歩んだ」のです。しかし、そのことは、ノアに罪がなかったという意味ではありません。ノアが主の御前に正しく、まったき人であったのは、ノアが「の御目の中に恵みを見出していた」からです。ノアがひたすら主の恵みとあわれみに信頼していたからです。ノアの人となりを生み出し、その歩みを支えていたのは、主であり、主の恵みとあわれみによることであったのです。

 さらに、11節、12節には、ノアの時代の状況のことが、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。そして、このことを受けて、続く13節、14節には、

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」

と記されています。そして、これに続いて、神さまが箱舟をどのように造るかを示してくださったことが記されています。
 ノアはこの神さまのみことばを信じて、箱舟を造りました。
 ノアが箱舟を造り終わった後のことを記している、7章1節ー4節には、

はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」

と記されています。
 ここには、主がノアに箱舟に入るように命じられたことが記されています。
 その際に、ノアとその家族だけでなく、あらゆる種類の生き物たちをも連れて入るように命じられています。それは、その生き物たちがノアとの一体性において救いにあずかることを意味しています。これは、すでにお話ししました、ローマ人への手紙8章21節に、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されていることを指し示している「地上的なひな型」です。
 また、ここでは、主がノアのことを、

あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

と述べておられます。すでにお話ししましたように、この場合の、ノアの正しさは、ノアが「の御目の中に恵みを見出していた」ことによっています。ノアの正しさすなわちノアの義を生み出し、支えていたのは主の恵みでした。
 このことは、大洪水によるさばきの後に箱舟から出てきたノアが最初にしたことからもうかがうことができます。8章19節には、ノアとその家族と生き物たちが箱舟から出てきたことが記されています。そして、続く20節には、

ノアは、のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

と記されています。これは、箱舟を出たノアがまず最初にしたことが、主ヤハウェを礼拝することであったことを示しています。
 ノアは主のための祭壇に「全焼のいけにえ」をささげたと言われています。これは、全焼のいけにえがすでにノアの時代にささげられていたことを示しています。
 レビ記1章には全焼のいけにえに関する規定が記されています.それによりますと、4節に記されていますように、全焼のいけにえをささげる人はその「全焼のいけにえの頭の上に手を置く」ことになっていました(もちろん、手を置くことは全焼のいけにえに限られたことではありません)。これによって、いけにえをささげる人の罪がそのいけにえに移され、そのいけにえはその人の罪を負い、その人の身代わりになって死ぬことが表されていると考えられます。そこでは、いけにえといけにえをささげる人の間に、ある種の一体性が見て取れます。
 ノアがそのような意味をもった全焼のいけにえをささげたということは、ノアのうちに罪の自覚があったことを意味していますし、ノアが契約の神である主が備えてくださった贖いの恵みを知っており、それを信じて頼っていたことを意味しています。ノアの正しさ、すなわちノアの義は、この信仰によるものです。
 このことは、今私たちが直面している大震災のことを考えるうえでも大切なことを示しています。
 ノアは、自分たちがこの大洪水によるさばきによってさばかれた人々とは違って、罪がないとは考えてはいなかったのです。彼の時代の人々とノアを区別していたのは、ノアが契約の神である主と主の贖いの恵みを信じていたけれども、彼の時代の人々は主とその贖いの恵みを信じることがなかったということでした。そうであれば、箱舟の外で大洪水による恐ろしいさばきが執行されていた間、ノアは自分たちもさばかれるべきものであることを常に思い起こしていたと考えられます。そして、自分たちは、ただ、主がその一方的な愛と恵みによって備えてくださった罪の贖いにあずかって、救いを受けているということを心に刻んでいたと考えられます。このことが、箱舟から出たノアがまずしたことが、主のための祭壇を築いて全焼のいけにえをささげたことであったことの背景にあったと考えられます。

 私たちは今度の大震災を通して、全被造物のうめきを聞き取ります。しかし、そのうめきをもたらしているのは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためです。ですから、私たちは単なる被害者ではないのです。ほかならぬ、この私たち自身の罪がこの全被造物を虚無の状態に陥らせた根本原因であったのです。そして、そのことを知らされているのは、みことばの光のもとにこの未曾有の大災害を理解しようとしている私たち神の子どもたちです。
 このことを心に刻みますときに、私たちは自ら身を低くするほかはありません。
 ですから、ローマ人への手紙8章23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されていることは、私たち自身の罪の現実を心に刻みながらのことです。
 しかし、私たちは自らの罪の現実を心に刻みますが、ノアのように動物のいけにえをささげることはいたしません。なぜなら、動物のいけにえは「地上的なひな型」でしかなかったからです。動物のいけにえは私たちの身代わりとなって十字架にかかって、私たちの罪の刑罰をお受けになったイエス・キリストを指し示していました。永遠の神の御子であられる方が私たちと一つになってくださって、私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださったのです。御子イエス・キリストの十字架の死は、私たち神の子どもたちの罪を贖ってくださるばかりでなく、全被造物を「滅びの束縛から解放」し「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れ」てくださるものです。
 ですから、私たちは被造物のうめきを聞くたびに、身を低くして、ご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださるとともに、全被造物を「滅びの束縛から解放」し「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れ」てくださるとの約束を与えてくださっている神さまの愛と恵みを心に刻みます。そして、深い感謝をもって、神さまを礼拝いたします。
 神さまは終わりの日に、再び御子イエス・キリストをお遣わしになります。御子イエス・キリストはご自身が、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、神さまがみことばによって約束してくださっているすべてのことを実現し、完成へと導いてくださいます。


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