黙示録講解

(第27回)


説教日:2011年4月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(25)


 本主日は2011年の復活節です。私たちは復活節の礼拝を召天者記念礼拝としています。これまでは、それに合わせて、説教もイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにかかわるお話をしてきました。しかし、今年は3月11日に起こりました東日本大震災によってもたらされました甚大な被害がなおも残っている状況です。きょうは、この日が復活節であることを念頭に置きつつ、この数週間お話ししてきました、この大震災にかかわるお話を続けてまいりたいと思います。
 これまで、私たちはこの大震災に接し、それがもたらした被害の甚大さに目を覆い、頭を抱え、うなだれながらも、私たち自身が天と地の造り主である神さまの御臨在の御前にあることを覚えて、その御前にひれ伏し、神さまを礼拝してきました。そして、神さまがその一方的な愛と恵みによって、私たちを御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、御国の祭司としてくださったみこころにしたがって、この国のために、特に、被災の地にある神の子どもたちのために執り成し、祈ってきました。
 そのようにして、造り主である神さまの御臨在の御前において、この大震災の現実を受け止める私たちの信仰の耳に聞こえてくるのは、みことばがあかししている全被造物のうめき、すなわち、神さまがお造りになったすべてのもののうめきです。
 先々週、この被造物のうめきのことをあかししているローマ人への手紙8章14節ー23節に記されているみことばからのお話を始めました。そして、先週と先々週は、その前半の14節ー17節に記されている、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

というみことばにしたがってお話を進めてきました。
 ここには、私たちが「神の御霊に導かれる」「神の子ども」とされていることが記されています。これはローマ人への手紙の流れの中では、これに先立って記されている、神さまの一方的な愛と恵みによって備えられた罪の贖いに基づいて私たちに与えられた祝福です。
 神さまは創造の御業によって、人をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとして、ご自身のかたち、神のかたちにお造りになりました。造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きることが神のかたちに造られた人のいのちの本質です。しかし実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それで人は神さまとの愛の交わりから断たれてしまい、死の力に捕らえられてしまいました。そして、自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、滅びなければならないものとなってしまいました。
 私たちはこのようなものとなってしまいましたが、神さまはなおも私たちの罪を贖ってくださり、私たちをご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためにご自身のひとり子を贖い主として立ててくださいました。
 御子イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神であられますが、父なる神さまのみこころに従って、人の性質を取って来てくださいました。そして、その地上の生涯の最後に、私たちの罪を負って十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて、私たちがすでに犯してしまった罪も、これから犯すであろう罪もすべて贖い、清算してくださいました。
 イエス・キリストが十字架の上で、私たちの身代わりとなってお受けになったさばきは、「最後の審判」におけるさばきに相当する、最終的なさばきです。それで、私たちに対する神さまのさばきはすでに、イエス・キリストの十字架において終わっています。私たちの罪は完全に清算されています。
 御子イエス・キリストは私たちの罪のために死んでくださっただけではありません。私たちを新しく生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。私たちは復活節に、特に、このことを覚えています。
 イエス・キリストはただ単に生き返ったのではありません。聖書の中には、死んだ人が、生き返った事例がいくつか記されています。神である主とイエス・キリストがよみがえらせてくださったのです。けれども、その人々はやがて死んでしまいました。イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、これとはまったく違います。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光をお受けになって、もはや死ぬことがないいのち、永遠のいのちによみがえられたのです。ローマ人への手紙6章9節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

と記されています。さらに、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたのは、私たちをその復活のいのちによって生かしてくださるためです。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。
 神さまはこのように、イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださり、死と滅びの中から救い出してくださっただけでなく、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、神さまとの愛の交わりに生きるものとしてくださいました。これらのことを受けて、ローマ人への手紙8章14節ー17節では、私たちは「神の子ども」とされており、御霊によって導いていただいて、神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけていると言われています。「神の子ども」として神さまのことを、愛と信頼をもって「お父さん」と呼んでいるということです。
 このすべては、神さまが私たちに対する一方的な愛と恵みによって備えてくださったことです。
 私たちは、私たちを死と滅びの中から贖い出し、ご自身の子としてくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるために、御子をも十字架の死にお渡しになった神さまの愛に包まれています。私たちはすでに、罪を贖われている神の子どもです。先週取り上げました5章9節、10節には、

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されていました。終わりの日に私たちの救いが完成することは確かなことであるということです。
 そればかりではありません。続く11節には、

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。

 私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と言われていますように、私たちは神さまを私たちの喜びとしています。それは、また、子どもが愛に満ちた父に「アバ、父」、「お父さん」と呼びかけて、父の子であることを喜ぶように、私たち自身をも喜ぶことでもあります。
 私たちはもうすでに、このような祝福にあずかっています。しかし、それだけではないのです。8章17節には、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

と記されています。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために」ということばは、これまでお話ししてきました私たち神の子どもたちが受けている祝福は、なおも、やがて来たるべき栄光に満ちた祝福の序章であるということを意味しています。そして、私たちはその栄光に満ちた祝福に至るために、今ここで「キリストと・・・苦難をともにしている」と言われています。
 ここでは、神の子どもとされている私たちは「キリストと・・・苦難をともにしている」と言われていますが、その「苦難」が何であるかは述べられていません。それは、これに続く18節ー23節において明らかにされていきます。


 18節ー23節に記されていることが、「キリストと・・・苦難をともにしている」ということとどのようにかかわっているかということは、すでに先々週お話ししました。それをまとめておきましょう。
 まず18節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されています。
 ここでは「今の時のいろいろの苦しみ」が「将来私たちに啓示されようとしている栄光」と対比されて示されています。「今の時」と「将来」が対比され、「いろいろの苦しみ」と「栄光」が対比されています。この「将来私たちに啓示されようとしている栄光」は、17節で「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために」と言われているときの「栄光」のことです[ただし、17節では「ともに栄光化する」という動詞(シュンドクサゾー)で表されていて、「栄光」(ドクサ)という名詞はありません]。それで、「今の時のいろいろの苦しみ」は17節で「キリストと・・・苦難をともにしている」と言われていることによる「いろいろの苦しみ」であると考えられます。
 そして、これに続く19節ー22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。
 ここでは、

被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている

と言われています。「被造物全体」とは神さまがお造りになったすべてのもののことです。この場合、この「被造物全体」には私たちは含まれてはいません。というのは、続く23節において、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されているからです。もちろん私たちも被造物ですが、ここでは、ほかの被造物と私たち神の子どもたちは区別されています。また、19節において、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われているときにも、神の子どもたちと被造物は区別されていますし、21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われているときにも、神の子どもたちと被造物は区別されています。それと同時に、この19節と21節に記されているみことばは、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。・・・被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

というように、被造物と私たち神の子どもたちが深く結び合わされていることを示しています。
 これは神さまの創造の御業を記している創世記1章27節、28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、造り主である神さまが人をご自身のかたちにお造りになり、人にご自身がお造りになったこの世界をお委ねになったからです。28節に記されています、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまの命令のことばは、一般に「文化命令」と呼ばれるもので、この神さまがお造りになった世界の歴史と文化を造る使命です。
 この28節に記されている神さまのみことばでは、神のかたちに造られた人はこの地上のことにかかわる使命を与えられているように見えます。しかし、詩篇8篇5節、6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。このみことばは、神さまが神のかたちに造られた人に、「万物」すなわちご自身がお造りになったすべてのものをお委ねになったことが記されています。神のかたちに造られた人は神さまがお造りなったこの世界全体、すなわち、宇宙全体にかかわる歴史と文化を造る使命を委ねられています。ちなみに、ここでも「万物」と歴史と文化を造る使命を委ねられた神のかたちに造られた人が区別されています。
 この歴史と文化を造る使命は、何よりも、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになった方であり、今も真実にすべてのものを支えておられる方であることを認めて、いっさいの栄光を神さまに帰し、神さまを造り主として讚え、感謝をもって御前に礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命です。それは、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを、神さまの御手の作品としていつくしむことであり、決して、委ねられたものを自分たちのために搾取することではありません。
 このように、「万物」すなわち神さまがお造りになったすべてのものは、造り主である神さまのみこころによって、神のかたちに造られた人と一つに結び合わされています。
 ところが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって人は死の力に捕らえられ、神さまの聖なる御怒りによるさばきに服するものとなりました。神さまに対して罪を犯して、堕落してしまった最初の人アダムに対するさばきを記している創世記3章17節ー19節には、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない

と記されています。
 ここでは、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、「土地」が「のろわれてしまった」と言われています。さらにその結果、人は「一生、苦しんで食を得」、「ついに・・・土に帰る」ようになったことが示されています。
 ローマ人への手紙8章19節ー23節は、このことを背景として記されています。
 20節では、「被造物が虚無に服した」と言われています。今私たちが目の当たりにしています大震災も、「被造物が虚無に服した」ことの現れです。
 「被造物が虚無に服した」ことは、先ほど引用しました創世記3章17節に記されています、アダムに対するさばきのことばの中で、

 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われていることに対応しています。
 しかし、「被造物が虚無に服した」といっても、それは空しく終わることではありません。ローマ人への手紙8章20節全体では、

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

と言われています。「被造物が虚無に服した」のは神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられたのに造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人ととの結びつきによっています。それは造り主である神さまが「被造物」を神のかたちに造られた人と結び合わされたからです。そうであれば、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が罪を贖われて、神の子どもとして回復されることがあれば、「被造物」も神の子どもたちとの結びつきによって回復されることになります。それで、続く21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われています。さらに、それで、19節では、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

と言われているわけです。
 私たちは今回の大震災を通して、「被造物が虚無に服した」ことを極めて顕著な形で思い知らされることになりました。そして、そのために、22節で、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているときの、「被造物全体」のうめきを聞くことができるほどの現実感をもっています。
 しかし、この「被造物全体」のうめきも空しいうめきではありません。それは二つのことに表れています。
 一つは、ここでは「ともにうめく」ということば(シュステナゾー)が用いられていますが、23節には、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。ここでは私たち神の子どもたちが「うめいている」(ステナゾー)と言われています。このうめきは、「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んで」いるがためのうめきです。
 同じように、「被造物全体」のうめきも、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

という望みがあるからこそのうめきです。
 もう一つのことは、22節では「被造物全体」がうめいているだけでなく、「ともに産みの苦しみをしている」と言われています。これは、新しいものが生み出されるための苦しみのことです。やはり、望みのうちにある苦しみです。
 ヨハネの福音書15章21節には、

女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。

というイエス・キリストのことばが記されています。このイエス・キリストのことばも、今のこの時代における神の子どもたちの苦しみが、やがて、終わりの日には喜びに変わることを教えておられる中で語られています。
 このように、「被造物全体」のうめきは、空しいうめきではなく、望みのうちにあるうめきです。しかし、それはあくまでも、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって罪を贖われ、新しく生まれて御霊に導かれているいる神の子どもたちとの結びつきにおいてのことです。御子イエス・キリストの贖いの御業と無関係であれば、「被造物全体」のうめきはまったく空しい、絶望のうめきとなってしまいます。

 ローマ人への手紙8章23節には、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されていました。ここでは私たちは「御霊の初穂をいただいている」(直訳「御霊の初穂をもっている」)と言われています。この「初穂」は、この後に完全な収穫があることを示し、保証しています。
 先に取り上げました、14節、15節では、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と言われていました。私たちは神さまの一方的な愛と恵みによってこのような神の子どもとしての豊かな祝福にあずかっています。しかし、23節では、これもまだ「御霊の初穂をいただいている」状態であると言われています。もっと豊かな愛における神さまとのいのちの交わりが与えられるようになるというのです。それは、「私たちのからだの贖われること」、すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストが御霊によって、私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださることによっています。
 ここで「栄光あるものとしてよみがえる」と言いましたが、それは、父なる神さまと御子イエス・キリストの栄光の御臨在の御前に立って、神さまとの愛の交わりに生きることができる状態になることです。
 そのことが、ここでは「子にしていただくこと」であると言われています。もちろん、先ほどの14節、15節にありますように、私たちはすでに「神の子ども」です。その私たちがここでさらに「子にしていただく」と言われています。それは、14節、15節で言われている以上の豊かな祝福を指しています。結論的には、終わりの日に、29節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

と言われていることが実現することを意味しています。私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられるということです。そのことはヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

とあかしされています。
 私たちはすでに御子イエス・キリストの復活にあずかって、新しく生まれています。その私たちが、終わりの日に「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられてよみがえるとき、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と約束されている「被造物」も栄光ある状態、すなわち、神さまと御子イエス・キリストの栄光の御臨在にふさわしい状態に造り変えられます。これが、私たち神の子どもたちが待ち望んでいる新しい天と新しい地です。


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