黙示録講解

(第26回)


説教日:2011年4月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(24)


 本主日から始まります一週間は、2011年の受難週に当たります。受難週においては、約束のメシヤであられるイエス・キリストが、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架におかかりになって死なれたことを、特に覚え、感謝とともに心に留めるときです。
 もちろん私たちは、毎日、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことを覚えます。イエス・キリストの十字架の死こそが、私たちが神の子どもとして歩むことができることの基礎であり、根拠であるからです。
 そのような日々の歩みがある中で、特に受難週にイエス・キリストの十字架の死を覚えることに意味があるのでしょうか。
 受難週に、特別にイエス・キリストの十字架の死を覚えることは、お誕生日のお祝いをすることにたとえられます。私たちは毎日の生活の中で、いつもともにいてくれる家族の存在を感謝とともに覚えています。しかし、そのひとりひとりの誕生日には、特別に、その家族の存在があることを感謝しつつ覚えます。それと同じように、私たちは日ごとに、自分たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかって、神の子どもとして歩むことができることを感謝とともに、心に留めています。その上で、受難週には、また、特別な思いにおいて、イエス・キリストの十字架の死について思い巡らし、神さまの愛を心に留めます。
 このようなことを念頭に置きまして、きょうも、3月11日に起こりました東日本大震災に触れながら、お話を始めたいと思います。
 私たちは、この未曾有の大災害に接して、からだだけでなく、心も大きく揺さぶられました。恐れとおののきとともに、自らの存在の小ささを思い知らされました。そして、自分たちが神さまの御臨在の御前に立たせられていることを感じ取って、その御前にひれ伏して礼拝してきました。
 先ほどお読みいたしましたヨハネの黙示録1章1節ー8節の中にあります、5節後半ー6節には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されています。イエス・キリストは十字架の上で流された血によって、私たちを「罪から解き放」ってくださったばかりでなく、「ご自分の父である神のために祭司としてくださ」いました。それで私たちは、御国の祭司として、すべてのものをお造りになり、いまも真実な御手によって、すべてのものを支えてくださっておられる神さまの御臨在の御前に立って、神さまを礼拝しています。そして、このひと月あまりの間は、特に、神さまが、大災害にあえぐこの国をあわれんでくださるようにと執り成し祈ってまいりました。
 先週は、このように消え去ることがない大災害の衝撃の中で、神さまの御臨在の御前にひれ伏している私たちの耳に聞こえてくる、全被造物のうめきについてのお話を始めました。先週取り上げましたのは、ローマ人への手紙8章14節ー17節に記されています、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

というみことばです。
 ここでは、私たちが今すでに神の子どもとされていることが示されています。このローマ人への手紙の流れの中では、神さまが私たちを神の子どもとしてくださったのは、神さまの一方的な愛と恵みによっているということが、一貫して示されています。
 今週は受難週ですので、ここで改めて、神さまが私たちをご自身の子どもとしてくださったことを振り返って、神さまの私たちに対する愛を確認したいと思います。


 創世記1章27節には、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになりました。神さまの本質的な特性は愛です。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人は、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして造られました。
 創世記2章7節には、

神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

と記されています。ここでは、神さまが無限に身を低くされて、親しく人にかかわってくださっていることが示されています。このようにして神さまの御手によって形造られた人は、造られたその時に自分の意識が働くと同時に、そこにご臨在しておられる神さまの御顔が自分に向けられていることを感じ取ったはずです。神のかたちに造られた人にとっての最初の事実は、自分が造り主である神さまとの交わりのうちにあるということでした。
 生まれたばかりの魚は、すぐに自分で泳ぎだしまして、親を探し回ることはありません。しかし、動物は生まれるとすぐに母親との関係の中で生き始めます。魚は親に向くものとして造られていません。それで、魚は親との関係がなくても自分だけで生きていきます。しかし、動物は親に向くものとして造られています。それで、動物は親との関係がなくなりますと、生きてはいけません。もちろん、親が育てることを放棄した動物の赤ちゃんを人が育てることがあります。その場合には、その動物の赤ちゃんは、自分を育ててくれている人を親だと思っているわけです。
 神のかたちに造られた人は、ただ親やほかの人々に向くものとして造られているだけではありません。それ以上に、造り主である神さまに向くもの、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして造られています。これが神さまのみことばである聖書が一貫して教えていることです。それで、造り主である神さまとの愛の交わりのうちに生きることが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。

 しかし、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまいました。それで人は、自分自身のうちに罪を性質を宿しており、思いとことばと行いにおいて、罪を犯してしまいます。その結果、人は自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰を受けなければならないものになってしまいました。その刑罰は肉体的な死であるだけでなく、死んだ後に受けるさばきによる滅びでもあります。
 ローマ人への手紙6章23節には、

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

と記されています。ここで、

 罪から来る報酬は死です。

と言われているときの、「報酬」と訳されていることば[オプソーニオン(ここでは複数形・オプソーニア)]は、通常、働いたことに対する賃金を表しますが、特に、兵士に対する賃金を表しています。それで、これは「」を指揮官にたとえて、私たちがその下で、その命令にしたがって戦いを展開する兵士にたとえられていると考えられます(参照・BDAG、EDNT)。もちろん、この戦いは霊的な戦いです。つまり、私たちが神さまに背を向けて生きていくことに対して支払われる「賃金」が「」であるということです。
 この場合の「」は単なる肉体的な死ではなくて、神さまの聖なる御怒りによるさばきによる滅びのことです。そして、この「」は、これに続いて、

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです

と言われているときの「永遠のいのち」と対比されています。その意味で、この「」は人の永遠のあり方にかかわる「」です。
 ここには、この「」と「永遠のいのち」のほかにも対比があります。「罪から来る報酬」と「神の下さる賜物」は、分かりやすくするための新改訳の訳ですが、直訳調に訳しますと、「罪の報酬」と「神の賜物」となります。このようにして、「」と「」が対比され、「報酬」と「賜物」が対比されています。「報酬」が働きに対する賃金であるのに対して、「賜物」(カリスマ)は「無償で惜しみなく与えられる豊かな贈り物」です。しかも、神さまが私たちに無償で与えてくださったのは「永遠のいのち」です。まことに豊かな贈り物です。もちろん、これは神さまがその一方的な愛と恵みによって私たちに与えてくださったものですが、そこに何の犠牲もないわけではありません。ただし、その犠牲は私たちが払っているのではなく、神さまが私たちのために払ってくださったものです。「私たちの主キリスト・イエスにある」ということばが示していますように、神さまはイエス・キリストによって、私たちに「永遠のいのち」を与えてくださいました。[注] ヨハネの手紙第一・4章9節、10節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。

[注]新改訳は「私たちの主キリスト・イエスにある」ということばが「永遠のいのち」にかかるとしています。この「私たちの主キリスト・イエスにある」ということばは、ギリシャ語では最後に来ています。これが強調のためであるとしますと、これは全体にかかると理解することもできます。その場合には、「私たちの主キリスト・イエスにあるって、神の下さる賜物は永遠のいのちです」となります。

 神さまは私たちを死と滅びの中から贖い出してくださるために、ご自身のひとり子をも与えてくださいました。それはひとえに神さまの私たちに対する愛から出ています。それはまた、御子イエス・キリストの私たちに対する愛によることでもあります。ヨハネの手紙第一・3章16節に、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

と記されているとおりです。

 ローマ人への手紙5章6節ー11節には、

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

と記されています。
 ここでは、かつての私たちのことが、「弱かった」、「不敬虔な者」、「罪人」、神さまの「」であったと言われています。このように並べてみますと、神さまの御前における私たちの状態、神さまとの関係における私たちの状態が、だんだんと深刻さの度合いを増していることが分かります。御子イエス・キリストはそのような私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。
 7節に記されています、

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

ということは、人間の愛の現実を示しています。「進んで死ぬ」と言われているときの「進んでする」ということば(トルマオー)は「あえて・・・する」とか「思い切って・・・する」というような意味合いを伝えています。
 人はいろいろな状況で、あえて自らを犠牲にすることがあります。そのようなことが、今度の大震災のさ中においてもあったことが、さまざまに報じられています。私たちはそれに心を揺さぶられ、しばしば涙を流してきました。
 決して、それらの行為を辱めるということではありません。というより、それらの行為が私たちの心を揺さぶるものであることをしっかりと見据えたうえでのことですが、ここでパウロは、神さまの私たちへの愛はさらに驚くべきものであるとあかししています。
 神さまはこの世界と私たちをお造りになった方です。また、私たちとこの世界を真実に支えてくださっている方です。しかし私たちは、造り主である神さまを徹底的に無視し、むしろ、自分たちの手で作ったものを神としていたようなものです。ローマ人への手紙1章22節、23節に、

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されているとおりです。これはその当時のローマの社会の現実でしたが、また、かつての私たちの現実でもありました。
 そのように、私たちは造り主である神さまを神とすることはなく、むしろ、神さまの御手に支えていただきながら、神さまに背を向けて歩んでいました。そのような私たちのために、神さまはご自身の御子をお遣わしになりました。それも、御子が高いところから私たちを支配するためではなく、私たちと一つになってくださって、私たちの罪をご自身の身に負って、十字架にかかって死んでくださるためでした。しかもその死は、単なる肉体的な死ではなく、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださったための死であり、私たちに代わって地獄のさばきによる死の苦しみを味わってくださったものでした。このようなことは、私たち人間の想像をはるかに越えたことで、私たちには「あり得ない」としか思えないことです。
 先ほどのローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されていました。

 キリストが私たちのために死んでくださった

ということは(不定過去時制で表されていて)、今から2千年前に起こったことです。イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いはすでに終わっています。それで、私たちの罪はイエス・キリストの十字架において、すべて清算されてしまっています。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに終わってしまっています。
 しかし、これに続く、

 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ということは(現在時制で表されていて)、これまでも、またこれからも変わることがないことです。御子イエス・キリストによって、私たち人間の想像をはるかに越えた贖いの御業を成し遂げてくださったことに表されている神さまの私たちに対する愛は、今もまたこれからも、永遠に変わることがないのです。

 ローマ人への手紙5章では、これに続く9節、10節においては、

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と記されています。
 ここでは、すでに神さまが私たちのためになしてくださったことに基づいて、終わりの日に、神さまがなしてくださることが示されています。
 神さまがすでになしてくださったことは、弱くて神さまに認めていただくようなことは何もできないばかりか、「不敬虔な者」であり「罪人」であった私たちを、「キリストの血によって義と認め」てくださったこと、また、神さまの「」であった私たちを「御子の死によって」ご自身と和解させてくださったことです。
 これらのことは、先ほどお話ししましたように、人間の想像をはるかに越えたことで、私たちには「あり得ない」としか思えないことです。しかし神さまは、やはり人間の想像をはるかに越えた深く豊かな愛によって、私たちのためにこれらのことをなしてくださいました。そして、このようにして私たちに示された愛は、今も、またこの後も永遠に変わることはありません。そうであれば、すでに義と認められており、ご自身と和解させられている私たちが、終わりの日に、イエス・キリストによって「神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」し、イエス・キリストの「いのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」。
 このことと関連して、二つのことに注意したいと思います。
 一つは、すでにお話ししましたように、神さまが御子イエス・キリストによって、私たちのためにすでに成し遂げてくださったことは、私たち人間の目には「あり得ないこと」としか思えないことです。ここでは、そのような、最も難しいことをすでに成し遂げてくださったのであれば、終わりの日に私たちの救いをまったきものとしてくださることは、はるかに易しいことであるという論理があります。
 この論理を根底から支えているのは、私たちに対する神さまの愛が決して変わることがないということです。もし私たちに対する神さまの愛が変わってしまうのであれば、この結論は出てきません。いまから2千年前には、神さまはその豊かな愛によってご自身の御子をも十字架につけて私たちの罪を贖ってくださったけれども、その後で神さまの愛が変わってしまったので、終わりの日に私たちが「神の怒りから救われる」こともなくなってしまったというようなことになりかねません。しかし、このようなことは決してありません。神さまの私たちに対する愛は決して変わることがないからです。
 もう一つのことは、ここでは、神さまが御子イエス・キリストによってすでに成し遂げてくださった贖いの御業を、終わりの日に完全に私たちの現実としてくださることが示されています。しかし、そのためには、神さまが私たちを終わりの日に至るまで、御子イエス・キリストによって、ご自身の愛と贖いの恵みのうちに保ち続けてくださらなければなりません。ですから、これは、神さまが私たちを、常に、変わることなくご自身の愛と、御子イエス・キリストの贖いの恵みのうちに保ってくださることの保証でもあります。
 これらのことは、8章31節ー39節において、より明確に宣言されることになります。そこには、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、
 死に定められている。
 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と記されています。
 神さまは私たちの思いをはるかに越えた愛をもって御子イエス・キリストを私たちのためにお遣わしになりました。そして、御子の十字架の死によって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちをご自身の子としてくださいました。このことに現されている神さまの愛は、決して揺らぐことはありません。神さまはこの永遠に変わることのない愛をもって私たちを包んでくださっています。それで、

 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と言われていますように、私たちは神さまとの愛の交わりのうちに生きています。これが永遠のいのちの本質であり、私たちはすでに永遠のいのちをもっています。
 ですから、私たちは終わりの日を待ち望んでいます。その日は最後のさばきの日ではありますが、私たちはそれを恐れてはいません。なぜなら、私たちに対する最後のさばきは、御子イエス・キリストの十字架において終わっているからです。むしろ、終わりの日に再臨されるイエス・キリストは、私たちを栄光のからだによみがえらせてくださいます。それによって私たちは、父なる神さまの愛の現れであり、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになった御子イエス・キリストと、顔と顔とを合わせてお会いすることができますし、永遠に御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるようになります。


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