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説教日:2011年4月10日 |
そのようにみことばの光に導かれて契約の神である主の御臨在の御前にひれ伏している私たちの耳に聞こえてくるのは、やはりみことばがあかししている全被造物のうめきです。これから、このことについてお話ししたいと思います。 まず、ローマ人への手紙8章14節ー17節を見てみたいと思います。そこには、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。 ここにでは、私たちが「神の御霊」のお導きによって、父なる神さまのことを「アバ、父」と呼ぶことができるほどの親しさをもって、神さまとの愛の交わりのうちに生きていることが示されています。私たちがこのような特権と祝福にあずかることができるようになったのは、神さまが私たちに対する一方的な愛と恵みによって、私たちのために、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを備えてくださったことによっています。 私たちは神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっていたものでした。そのような私たちを、神さまはご自身の子として迎え入れてくださるために、いまから2千年前に、ご自身の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。 御子イエス・キリストは私たちの罪を負って十字架にかかってくださり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、私たちのために義を立ててくださいました。イエス・キリストは永遠の神の御子であられ、義そのものであられますから、ご自身のために義を立てる必要はありません。イエス・キリストは私たちのかしらとして、私たちために義を立ててくださったのです。さらに、イエス・キリストはその十字架の死に至るまで従われたことへの報いとして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。 私たちは、このようにしてイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。それは、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることです。御霊は私たちを、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス・キリストと結び合わせてくださって、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに当てはめてくださっています。その意味で、私たちは御霊に導いていただいています。 イエス・キリストが私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださったので、私たちの罪に対するさばきは、イエス・キリストの十字架においてすべて終わっています。そのために、私たちは、神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることはありません。それで、私たちは「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではない」と言われているのです。罪の結果である死と神さまのさばきの予感に恐れおののき、その恐怖に縛られてしまう霊を受けているのではありません。 そればかりではありません。私たちはイエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって立ててくださった義にあずかって、神さまの御前に義と認められています。私たちはこのイエス・キリストの義を「身にまとって」、大胆に父なる神さまの御臨在の御前に立つことができるのです。 また、神さまは、私たちがあずかっているイエス・キリストの義に基づいて、私たちにご自身の子としての身分を与えてくださっています。イエス・キリストは初めから神の御子です。これに対して私たちは、御霊によってイエス・キリストと結び合わせていただいたことによって、養子として神さまの家族に迎え入れていただいています。私たちは「子としてくださる御霊」を受けていると言われていますが、これは文字通りには「養子としてくださる御霊」です。そうではあっても、その当時の社会においては、ギリシャ・ローマの社会においても、旧約聖書に基づくユダヤの社会においても、養子も実子と同じ権利と特権を与えられていました。 さらに、神さまは私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにもあずからせてくださって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、その復活のいのちに生きるものとしてくださいました。これによって私たちは、神の子どもとして、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。この、神さまとの愛の交わりが、聖書が言う「永遠のいのち」の本質です。私たちはただ神の子どもとしての身分を与えていただいているだけではありません。御霊に導いていただいて、父なる神さまのことを「アバ、父」と呼ぶ神の子どもとして、神さまとの愛の交わりのうちに生きる特権と祝福にあずかっているのです。 このように、私たちを父なる神さまとの愛の交わりのうちに生かしてくださる方は御霊です。それで、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです と言われています。そして、この父なる神さまとの愛の交わりの中心が、神さまの御臨在の御前における礼拝です。それは、ヨハネの福音書4章24節に記されています、 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 というイエス・キリストの教えに示されていますように、御霊に導かれ、福音のみことばの真理に従った礼拝でなければならないのです。 ローマ人への手紙8章16節では、 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と言われています。この「御霊ご自身が」ということばは「御霊」を強調しています。しかも、原文のギリシャ語ではこのことばが冒頭に出てきてさらに強調されています。 「私たちの霊とともに、あかししてくださいます」という部分は、「私たちの霊に、あかししてくださいます」と訳すべきであるという主張もあります。語法の上ではどちらも可能です。(ここに用いられている動詞は、基本的に、「ともにあかしする」という意味の動詞です。しかし、新約聖書の中では、「・・・にあかしする」という意味でも用いられています。)この「私たちの霊に、あかししてくださいます」と訳すべきであるという主張は、「私たちの霊」だけでは、自分が「神の子どもであること」を信じることができないということに基づいています。それで、ここでは「御霊ご自身が、私たちの霊に、あかししてくださいます」と言われているというのです。確かに、御霊によらなければ、私たちは自分が神の子どもであることを信じることができません。それで、この主張は筋が通っています。 しかし、私は、新改訳が示している理解の方がよいのではないかと考えています。というのは、この14節ー17節では、私たちがすでに御霊に導いていただいて神の子どもとして歩んでいることが記されているからです。私たちは御霊に導いていただいて、すでに神の子どもであることを信じるようになっています。その意味では、すでに私たち自身のうちに「神の子どもであること」の自覚があり、それに基づくあかしがあります。そうであっても、私たちは自らのうちに罪の性質を宿しており、しばしば罪を犯しますので、その確信を失いそうになります。あるいは、後ほど取り上げます17節に出てきますが、この世にあるがためのさまざまな「苦難」のために、その確信が揺らぐこともあるでしょう。しかし、そのようなときにも変わることがないあかしがあります。常に変わることなく「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」ので、私たちは神の子どもとして歩むことができるということです。 ローマ人への手紙8章14節ー17節では、私たちがすでにこのような特権と祝福にあずかっていることが示されていますが、それで終わってはいません。その最後の17節には、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。 14節ー16節では、私たちがすでに父なる神さまの一方的な愛と恵みによって備えられたイエス・キリストの贖いの御業にあずかって神の子どもとされていること、そして、御霊に導いていただいて、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きていることが示されています。それに続く17節では、このことの上に立って、なおも将来、私たちの現実となる特権と祝福のことが語られています。それは「相続人」として、相続財産を受け取るということです。 ここでは、私たちが「相続人」であることがいろいろと説明されていますが、そのうちの三つのことに注目したいと思います。 一つは、私たちが「神の相続人」であるということです。 この「神の相続人」ということばは、「神さまご自身を相続財産として受け取る相続人」という意味にも、「神さまが与えてくださる相続財産を受け取る相続人」という意味にも理解することができます。どちらも聖書にあかしされていることですので、選ぶことは難しいのですが、このローマ人への手紙の論述の大きな流れからは、「神さまが与えてくださる相続財産を受け取る相続人」という意味であると思われます。 どういうことかと言いますと、ローマ人への手紙の中では、ここで初めて「相続人」のことが出てくるのではなく、すでに、4章13節ー15節に出てきています。13節には、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。 と記されています。 ところが、この後の4章16節以下では「相続人」のことは8章17節まで出てきません。新改訳の4章16節は、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。 ということばで始まっています。ここに出てくる「世界の相続人となることは」ということばは新改訳の補足で、原文のギリシャ語には出てきません。16節は、 そのようなわけで、信仰によるのです。 ということばで始まっています。 その間の4章16節ー8章16節の論述において、「相続人」のことは忘れ去られていたのではありません。むしろ「相続人」のことを念頭において論じられてきたと考えられます。というのは、4章13節ー15節では、「相続人」となることが「律法によってではなく、信仰の義によった」ということを述べています。それで、パウロは、まず、「律法によってではなく、信仰の義によった」ということがどのようなことであるかを論じています。それが4章16節ー8章16節に記されていることです。そして、これまで見てきましたように、私たちが、父なる神さまが備えてくださった贖い主であるイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められて、神の子どもとされていることを明らかにしたうえで、17節において、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 と論じているのです。 そうであるとしますと、この「相続人」は4章13節に出てくる「世界の相続人」のことです。そうしますと、「神の相続人」ということばは、「世界」すなわち「神さまが与えてくださる相続財産を受け取る相続人」という意味であるということになります。ただし、この私たち神の子どもたちが相続財産として受け取る「世界」は、新しい天と新しい地のことで、神さまが御臨在される「世界」のことです。それで、そこには、神さまが相続財産であるということも含まれています。 以上が第一のことです。もう一つのことは「キリストとの共同相続人」ということです。これにつきましては、結論だけをお話しします。 すでにお話ししてきましたように、私たちは御霊によってイエス・キリストと結び合わせていただいて、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかっています。私たちはイエス・キリストにあって神の子どもとしていただいています。それで、当然のことですが、私たちはイエス・キリストにあって「相続人」となっているのです。イエス・キリストこそが本来の「相続人」であられ、私たちはイエス・キリストに結び合わされて「キリストとの共同相続人」となっています。 最後に注目したいことは、イエス・キリストと苦難をともにするということです。 ここでは、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われていていて、その目的はイエス・キリストと「栄光をともに受けるため」であると言われています。イエス・キリストは十字架の苦しみを味わわれた後に、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。それで、御霊によってイエス・キリストと結び合わされている私たちも、イエス・キリストとともに栄光を受けるためには、イエス・キリストとともに苦しみを味わわなければならないということになります。これはみことばが一貫して示しているところです。 それにしても、イエス・キリストと苦難をともにするとはどういうことなのでしょうか。 このこととのかかわりで思い起こされるのは、ヨハネの福音書15章18節ー20節に記されています、 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。 というイエス・キリストの教えです。ここでは、私たちがイエス・キリストを信じているなら、世の人々は、イエス・キリストを迫害したように、私たちをも迫害すると言われています。 このようなことから、イエス・キリストと苦難をともにすることに、イエス・キリストを信じているために受ける迫害が含まれていることは否定できないと思われます。しかし、それだけではないと考えられます。というのは、これに続く18節には、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と記されているからです。ここでは「今の時のいろいろの苦しみ」が出てきます。「いろいろの苦しみ」は「苦しみ」の複数形で「いろいろの苦しみ」を意味しています。そして、この「いろいろの苦しみ」が「将来私たちに啓示されようとしている栄光」と時間的に対比されて示されています。この「将来私たちに啓示されようとしている栄光」はイエス・キリストとともに受ける栄光であると考えられますので、それに先立って私たちが味わっている「今の時のいろいろの苦しみ」もイエス・キリストと苦難をともにすることに含まれていると考えられます。 そして、この18節から25節までに記されていることは、迫害のことというよりは、全被造物が虚無に服して、うめいている状況とかかわっています。19節ー23節には、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。詳しいことは、日を改めてお話ししますが、結論的にいいますと、「被造物が虚無に服した」のは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために生じてしまったことです。神さまに対して罪を犯して、堕落してしまった最初の人アダムに対するさばきを記している創世記3章17節ー19節には、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない と記されています。ここには、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、「土地」がのろわれ、人は労苦のうちに食し、ついには死に至ってしまうというという悲惨な現実が示されています。その一方で、人はこのむなしさ、はかなさ、悲惨さの中で労苦しながら、自らの存在の意味、生きる目的を考えるように促されています。 ローマ人への手紙8章18節ー25節は、このことを背景として記されています。それで、18節に出てくる「今の時のいろいろの苦しみ」には、迫害のことだけでなく、私たち人間の罪の結果もたらされたさまざまな悲惨、たとえば、病や自然災害や事故など、また、それにともなう死と死別の悲しみ、人間同士の誤解と憎しみと争いなど、さらには、動物たちの間の弱肉強食の関係などが考えられます。 そのような全被造物がうめいている状況の中で、私たちもうめいています。今回の大震災は、被造物世界がそのようなうめきの中にあることの顕著な現れであると考えられます。 私たちはイエス・キリストがこの全被造物がうめいている世界に来てくださったことを知っています。そこには、私たち人間の罪がもたらしたさまざまな悲惨、病や自然災害や事故、それらにともなう死と死別の悲しみ、人間同士の誤解と憎しみと争いなどが渦巻いていました。 それに対して、イエス・キリストはどうなさったのでしょうか。イエス・キリストはそのような悲惨が人の罪の結果もたらされたものであることをご存知であられました。しかし、それで、人々を糾弾して回られたのではありません。確かに、罪の悔い改めを求められました。しかし、それは福音のみことばのあかしの中でなされたことです。イエス・キリストはさまざまな悲惨の中で苦しみ悲しむ人々と常にともにあって、その苦しみと痛みと悲しみをご自身のこととして負ってくださいました。マタイの福音書8章16節、17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。イエス・キリストはただ悪霊を追い出し、病をいやされたのではありません。まことの神なるお方として、その人々がどのような痛みと苦しみと悲しみの中にあるのかを汲み取られ、そのすべてをご自身の痛みと苦しみと悲しみとされたのです。 そして、最後には、その根本原因となっている、私たちの罪を贖ってくださるために、私たちの罪をその身に負って、十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストは私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けくださいました。それは地獄の刑罰に相当するものです。イエス・キリストは私たちが味わうべき最も悲惨な苦しみを、私たちに代わって味わってくださいました。 私たちはこの世で苦難を味わうということに対して、被害者意識をもってしまいます。そして、迫害とまではいかなくても、誤解を受けたりしますと、その人々に対する、心秘かな糾弾を始めてしまいます。ときには復讐心を燃やしてしまうこともあります。しかし、マタイの福音書5章44節に記されていますように、イエス・キリストは、 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 と教えられました。そしてそのとおりに、ご自身を十字架につけている人々のためにも祈られました。ルカの福音書23章34節には、 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。 という、イエス・キリストが十字架の上で祈られた祈りが記されています。もちろん、イエス・キリストを十字架につけている人々は、彼らなりに自分たちのしていることを知っています。しかし、その人々はイエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを知りませんし、イエス・キリストがどなたであるかを知りません。そのために、このようなことをしてしまっています。イエス・キリストはそのような人々のために祈っておられます。 イエス・キリストと苦難をともにするとはこのようなことです。全被造物がうめかなければならない状況の中にあって、自分たちをただ被害者とするのではなく、自らの罪の現実にうめきつつ、いまなおこのような状況にある人々とうめきをともにすることです。そして、福音のみことばの光を指し示しつつ、造り主である神さまの御前にひれ伏して礼拝し、とりなし祈ることです。イエス・キリストが苦しみを王家になったのは私たちの罪を贖ってくださるためでした。しかし、私たちは他の人の罪を贖うために苦しむことはできません。私たちにできることは贖いの御業を成し遂げてくださった主に、とりなし祈ることです。 私たちはイエス・キリストの栄光は、イエス・キリストの十字架においてこそ最も豊かに示されているということを信じています。そのことは、これまで繰り返しお話ししてきたことです。その意味で私たちは、十字架は恥辱で、復活は栄光であるという形で、二つを対立的に捉えることはしません。むしろ、イエス・キリストの栄光は恵みとまことに満ちた栄光であり、十字架において最も豊かに示されたと信じています。そして、イエス・キリストの復活において、十字架において現された栄光が確証されていると信じています。ですから、イエス・キリストと栄光をともにするということは、私たち自身が、私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださったイエス・キリストに似た者に造り変えられることを意味しています。コリント人への手紙第二・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されているとおりです。 それは、具体的には、ペテロの手紙第一・2章21節ー24節に記されています、 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 という教えにしたがって、御霊に導いていただいて、歩むことの中で私たちの現実になることです。 終わりの日に再臨されるイエス・キリストは、私たちに復活の栄光を与えてくださり、私たちをご自身のかたちに似た者に造り変えてくださいます。そして、新しい天と新しい地の創造とともに、全被造物のうめきを取り去り、すべてを喜びに変えてくださいます。 |
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