黙示録講解

(第24回)


説教日:2011年4月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(22)


 ヨハネの黙示録1章1節には、この書に記されていることが「すぐに起こるはずの事」であることが示されています。これまでこのことについて、いろいろなことをお話ししてきました。そして、その最後のこととして、イエス・キリストの再臨のことを取り上げてお話ししてきました。先週と先々週は、このこととの関連を意識しながら、3月11日に起こりました東日本大震災にかかわるお話をしました。きょうもそれと関連したことをお話ししたいと思います。
 私たちは今回の大震災の被害の大きさの前にたじろぎ、ときに目を覆い、頭を抱えてしまいました。それとともに、このような出来事に触れながら、ヨブの経験に重ねて、契約の神である主の御臨在を強く覚えさせられてきました。そのことは、私たちがこの出来事をさらに越えて、天と地とその中のすべてのものをお造りになり、今日に至るまでその一つ一つを真実に支えておられる契約の神である主の御顔を仰ぎ見て、その御前にひれ伏し、礼拝するほかのないものであることを思い起こさせてくれました。
 そうではありますが、先々週お話ししましたように、私たちは大震災が起こったので、あわてて「正体不明の神」に祈ったのではありません。これまでの毎日の歩みの中で、常に私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださっている主の御顔を仰ぎ見たのです。私たちにとっては、主の御顔を仰ぎ見ることは、最も自然なことであり、最も喜ばしいことです。これは、いつも父と母のもとで安心して生活している子どもが、危険を感じたときに父と母のもとに駆け寄るのと同じです。
 エペソ人への手紙1章3節ー5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されています。
 父なる神さまは永遠の前から私たちを愛してくださって、私たちを御子イエス・キリストにあって「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。それで、神さまは創造の御業において私たちを神のかたちにお造りくださいました。また、私たちが罪を犯して、御前に堕落してしまったときにも、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自分の御子イエス・キリストを贖い主としてお遣わしになりました。また、イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって、私たちの罪の咎を負って十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。このようにして、神さまはご自身の御子によって、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださいました。そればかりでなく、私たちをご自身の子どもとして迎え入れてくださいました。
 このすべては父なる神さまの一方的な愛から出ています。それで、神さまは私たちから何の「見返り」も求めておられません。ヨハネの手紙第一・4章9節、10節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されているとおりです。


 先週と先々週は、ヨブに起こったことをもとにして、真の信仰は、このように私たちを愛して、私たちをご自身の子どもとしてくださった神さまご自身を求め、神さまご自身を愛して、礼拝するものであるということをお話ししました。
 先ほど父と母のもとで生活している子どものことを取り上げました。もちろん、父と母はその子に必要なものを備え、必要に応じてそれを与えます。しかし、その子に「もの」だけを与えておけばいいということはありません。その子にとっては、父と母が自分とともにいてくれることがいちばん大切なことです。また、結婚する男女においても、どちらかが最後に目を留めているものが、相手自身ではなく、相手の財産であるとしたら、それは卑しむべきことであるとされます。このようなことは誰でも知っていることです。
 人間同士の関係においても、このように考えられています。それなのに、神との関係になると、どうなのでしょうか。私自身も身に覚えのあることですが、その神自身がどなたであるかには関心がなく、その神がどのような「御利益」をもたらすかに関心を注いでしまっていました。そして、そのことに対して、何の問題も感じないという「霊的な暗やみ」の中にいたのです。
 その私たちが、ご自身の「ひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださ」った神さまを知るようになりました。神さまは私たちに何の「見返り」も求められないで、私たち自身を愛してくださり、私たち自身を子として迎え入れてくださり、常に、愛をもって包んでくださっています。これが、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

とあかしされている神さまです。
 この、神さまの愛は、今ここにある私たちの間で、すでに現実となっています。

 私たちはこの度の大震災に直接的には巻き込まれませんでしたが、いずれ、何らかの形でこの世を去ることになります。しかし、私たちが肉体的に死んだとしても、それで、神さまの私たちへの愛が終わるわけではありません。私たちがこの世を去っても、私たちが父なる神さまの子どもであることは変わることはありませんし、私たちに対する父なる神さまの愛が変わることもありません。このすべては、私たちにではなく、私たちをご自身のものとしてくださった神さまにかかっています。神さまがどのようなお方であるかにかかっているのです。
 そのことを示しているみことばはいろいろありますが、きょうは、すでにいろいろな機会に触れたことがある、ルカの福音書20章27節ー38節を見てみましょう。そこには、

ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、こう言った。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

と記されています。
 ここには、復活をめぐるサドカイ人たちとイエス・キリストとのやり取りが記されています。
 28節に記されています、

もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。

という規定は、旧約聖書の最初の五つの書からなる「モーセ五書」の最後の書である申命記25章5節に記されている規定です。このような結婚を「レビラト婚」(嫂婚)と呼びます。申命記では、この結婚の目的がこれに続く6節の、

そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。

という規定に示されています。
 イスラエルの民は、モーセ律法が契約の神である主の律法としての権威をもっていることを知っています。その点は、イエス・キリストも認めておられます。サドカイ人たちは旧約聖書の中でもモーセ五書を最も権威あるものとしていました。それで、彼らはモーセ五書にある規定に基づいて、復活があるのなら、おかしなことになってしまうと議論を仕掛けています。7人の兄弟が同じ一人の女性を妻として死んだ場合に、彼らが復活した後には、その女性は誰の妻となるのかというのです。
 サドカイ人たちは神さまの存在を信じていますが、その世界観は現世的なもので、神さまの超自然的なお働きを信じていませんでした。それで、人は肉体的に死んでしまえばそれで終わりという考え方をしていました。
 死者のよみがえりのことは旧約聖書のモーセ五書以外の個所から明確に論証することができます。
 たとえば、終わりの日のことを預言的に記しているダニエル書12章2節、3節には、

地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

と記されています。12節で「多くの者が目をさます」と言われているときの「多くの者」と訳されたことば(ラッビーム)は聖書の中では、しばしば、「すべての者」を表すために用いられています。ここでもその意味で用いられていると考えられます。
 また、新約聖書は詩篇16篇10節に記されている、

 まことに、あなたは、私のたましいを
 よみに捨ておかず、
 あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

というみことばを引用して、特に、これをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりに当てはめています。ペンテコステの日になされたペテロのあかしの中でなされたことが使徒の働き2章27節に出てきます。また、パウロのあかしの中でなされたことが13章35節に出てきます。もちろん、この詩篇はいわゆるメシヤ詩篇ではありません。それで、このみことばは、この詩篇の作者であるダビデにも当てはまりますし、契約の神である主の民すべてにも当てはまります。そうであるからこそ、私たちご自身の民の罪を贖うために、私たちと一つになられて十字架にかかって死なれたイエス・キリストが、私たちをご自身の復活にあずからせてくださるために死者の中からよみがえられたことに当てはまるわけです。
 さらに、先週と先々週取り上げましたヨブも、ヨブ記19章25節ー27節に記されていますように、

 私は知っている。
 私を贖う方は生きておられ、
 後の日に、ちりの上に立たれることを。
 私の皮が、このようにはぎとられて後、
 私は、私の肉から神を見る。
 この方を私は自分自身で見る。
 私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

と述べて、自分が復活して、自分を「贖う方」を見るようになるという信仰を告白しています。
 イエス・キリストは復活のことを明確に示しているこれらの個所に訴えないで、サドカイ人がよりどころとしているモーセ五書のみことばに基づいて答えておられます。このイエス・キリストの教えがなかったとしますと、モーセ五書から死者のよみがえりを論証することはできないと考えるほかないような気がします。そのような難題をイエス・キリストはあえて取り扱っておられます。

 サドカイ人たちが根拠としているレビラト婚の規定そのものは、子どもの誕生によって父の名が残り、家系が受け継がれていくことにかかわる規定です。それは地上の歴史の中におけることです。それでこれは、人が死んだ後にその人がどうなるかということについては何も教えていません。まして、復活のことに関しては何も教えていません。ですから、サドカイ人たちは自分たちの主張に合いそうな聖書のみことばを探して、やっと、このようなこじつけの論法を見つけ出したと考えられます。
 これに対しまして、イエス・キリストは、神がどのような方であられるかという、聖書の根本的な教えに基づいて、彼らに答えておられます。それは二つの部分に分けることができます。
 一つは、34節ー36節に記されていることです。サドカイ人たちは、復活後の世界は、今私たちが生きているこの世のあり方と同じであると考えています。そうでないと、彼らの論法は崩れてしまいます。しかし、イエス・キリストは、

次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

と教えておられます。この教えにはいくつかの大切なことが示されていますが、今お話ししていることと関係ある一つのことだけを取り上げます。
 復活は永遠のいのちによみがえることであって、復活した人は死ぬことがありません。それで、歴史を継承するために結婚して、子孫を残す必要はありません。ですから、復活の後には、結婚相手の奪い合いのようなことはなくなります。そうであれば、サドカイ人の論法は崩れてしまいます。
 これは、復活の後には、皆が超然としたものになり、愛し合うことがなくなるという意味ではありません。私たちは復活の時にはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をまったくきよめられます。それで、お互いの間の憎しみや嫉妬のようなものはなくなります。そして、真の意味で「神の子ども」として、より深く豊かな愛によって、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりのうちに生きるようになりますし、お互いの交わりのうちに生きるようになります。このような深く豊かな愛によって、父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりのうちに生きることが、聖書が教えている永遠のいのちの本質です。永遠のいのちは、ただ単にいつまで生きているという状態ではありません。

 もう一つの教えは、神さまご自身がどなたであられるかということにかかわっています。イエス・キリストは、

それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

と教えておられます。
 イエス・キリストが地上においてメシヤとしての働きをしておられた時代には、まだ、聖書の章や節の区分がありませんでしたから、「柴の個所」というように、その個所に記されていることを中心として、それがどこかを示しておられます。「柴の個所」とは、出エジプト記3章1節ー6節のことです。その後に、契約の神である主、「ヤハウェ」の御名が示されることが記されています。そのことも「柴の個所」に含まれると考えられますが、「」そのもののことは1節ー6節に記されています。モーセが羊の群れを追って神の山ホレブ、すなわちシナイ山に来たときに、主がご自身をモーセに現してくださったことが記されています。4節ー6節には、

は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

と記されています。
 イスラエルの父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの年代にはいろいろな説がありますし、出エジプトの年代も早期説(前1446年)と後期説(前1230年)があります。それで確かな数字は算定できないのですが、主がモーセにご自身を現してくださったのは、アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去ってから、数百年後のことです。その時、地上の歴史においては、アブラハム、イサク、ヤコブは数百年前の過去の人です。しかし、主はモーセに、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われて、ご自身を示されました。
 このことには歴史的な背景があります。それは、主がアブラハムにご自身の契約を与えてくださったことです。創世記17章7節には、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

という主のことばが記されています。ここで、主が、

わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

と言われたときの、

 わたしがあなたの神・・・となるためである。

ということに沿って、主はアブラハムの神となってくださいました。さらに、

 わたしが・・・あなたの後の子孫の神となるためである。

ということに沿って、アブラハムの「後の子孫」であるイサクとヤコブの神となってくださいました。そればかりでなく、ヤコブの子ら、さらには、その数百年後のモーセとイスラエルの民の神となってくださいました。
 イエス・キリストの教えのポイントは、アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去ってから数百年後の人であるモーセに対して、主が、

わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

と言われたということです。「わたしは、かつて、アブラハム、イサク、ヤコブの神であった」というのではありません。主は、アブラハムに与えてくださった契約に基づいて、アブラハム、イサク、ヤコブがこの世を去って数百年後のモーセの時代においても変わることなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり続けてくださっているのです。そうであれば、アブラハム、イサク、ヤコブは、このモーセの時代にも、主の御前にあって、深く豊かな愛にある主との交わりのうちに生きているということになります。
 それが、ルカの福音書20章38節に記されています、

神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

というイエス・キリストの教えの意味するところです。

 神に対しては、みなが生きているからです。

ということは、神さまとの交わりのうちにある人はすべて生きているということです。神さまがその人をご自身との愛の交わりのうちにあるものとして、お生かしくださっているのです。
 人のいのちと死を区別するのは、この世にあるかどうかではなく、造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあるかどうかです。神さまは、無限、永遠、不変のいのちそのものであられ、この世界のいのちあるものをお造りになり、そのいのちを支えておられます。その神さまとの愛の交わりのうちにある人は、この世にあっても、この世を去っても、いのちのうちにあって生きています。しかし、神さまとのいのちの交わりのうちにない人は、この世にあっても、この世を去っても、死の力に捕らえられています。

 ヨハネはその第一の手紙4章9節、10節において、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

とあかししていました。このように、父なる神さまはご自身の御子を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」遣わしてくださって、私たちをご自身のものとしてくださいました。私たちはこの神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの交わりのうちに生きる特権と祝福にあずかっています。
 ヨハネはさらにことばを続けます。11節には、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。私たちが父なる神さまの限りない愛に包んでいただいて、神さまとのいのちの交わりのうちに生きているのであれば、お互いに愛し合うことは、私たちにとって最も自然なことです。それもまた、神さまの御前に生きていることの現れです。
 主は今ここにいる私たちをご自身の民としてくださり、私たちの神となってくださっています。それで、私たちは今ここにいて、主との深く豊かな愛の交わりにあずかっています。その最も豊かな現れが、主の御臨在の御前における、この礼拝です。
 しかし、この私たちも、主イエス・キリストの再臨の日まで地上の歩みを続けるのではないかぎり、やがてこの世を去ることになります。しかし、イエス・キリストにある父なる神さまの愛に包んでいただいている神の子どもとして、神さまと、お互いの交わりのうちに生きることは、途絶えることがありません。
 御子イエス・キリストはこの交わりをまったきものとしてくださるために、終わりの日に再臨されます。その日には、私たちは、ここで取り上げましたアブラハム、イサク、ヤコブやモーセを初めとして、主の契約の民すべてとのより深く豊かな愛の交わりのうちに生きるようになります。そして、それ以上に、私たちのためにご自身の御子をも遣わしてくださった父なる神さまと、私たちのためにご自身のいのちをも捨ててくださった御子イエス・キリストの御顔を、より親しく仰ぎ見ることができるようになります。


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