黙示録講解

(第23回)


説教日:2011年3月27日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(21)


 先週は、それまでお話ししてきましたヨハネの黙示録1章1節に記されています「すぐに起こるはずの事」とどこかでつながっているのですが、3月11日に起こりました東北関東大震災(東日本大震災)を受けまして、それに関連することをお話ししました。今日は先週お話ししたことを補足したいと思います。
 先週お話ししましたように、私は大震災の報に接しまして、私たちが契約の神である主の御臨在の御前に立たせられていることを覚えさせられました。その際に、私はこのことを、この上なく厳しい試練に立て続けに遭ったヨブのことと重ね合わせて受け止めました。これがどのようなことであるかにつきましては、先週お話ししましたので繰り返すことはいたしません。今日お話ししたいのは、先週、ごく簡単に触れました、私たちの想像を絶する苦難の中でヨブの信仰が高められていったことは、ヨブが契約の神である主の真実さを徹底的に信じて、その上に立ち続けたことによっているということです。おおまかなことになってしまいますが、そのことをお話ししたいと思います。


 ヨブに起こったことを理解するうえで決定的に大切なことは、ヨブが主の一方的な愛に基づく恵みによって、主との契約関係に入れられていたということです。
 神さまが与えてくださった契約は、今日の私たちが考えるさまざまな取引において結ぶ契約とは少し違っています。神さまの契約は、神さまがご自身の愛と恵みを保証してくださるものです。神さまがその一方的な愛と恵みによって私たちをご自身の民としてくださり、常に私たちとともにいてくださることを約束し、保証してくださっています。そのために契約が用いられているのは、契約で保証することが最も確かなことであるからです。神さまは真実な方ですので、その約束は確かなものですが、神さまはご自身の民である私たちのためにそれを契約によって保証してくださっているのです。
 ヨブが契約の神である主との契約に入れていただいていることを示すものをいくつか上げておきましょう。
 まず、ヨブ記の著者は、おもに序章と終章の部分においてですが、説明のためにいろいろなことを記しています。そのうちの著者が引用しているヨブ記の登場人物のことばを除きますと、著者自身のことばが残ります。その純粋に著者のものであることば中で、神さまの御名がどのように用いられているかを見ますと、契約の神である主の御名である「ヤハウェ」が28回用いられています。新改訳ではこの御名は太字の「主」で表されています。これに対しまして、「神」を表すことばは「エローヒーム」は3回用いられているだけです。このことは、ヨブ記では契約の神である主、ヤハウェのことが取り上げられていることを示しています。
 次に、これも著者の説明の中に出てくるのですが、この契約の神である主、ヤハウェがヨブについて語っておられるときには、一貫して、ヨブのことを「わたしのしもべヨブ」と呼んでおられます。これにつきましては、1章8節、2章3節、そして特に42章7節、8節を見てください。42章7節、8節では、ヨブのことを述べるときに、その都度、「わたしのしもべヨブ」と呼んでおられます。契約の神である主、ヤハウェが一貫してヨブのことを「わたしのしもべヨブ」と呼んでおられることは、ヨブが主のしもべであり、ヨブと主の間に契約関係があったことを意味しています。
 さらに、14章15節には、

 あなたが呼んでくだされば、私は答えます。

というヨブの主への呼びかけのことばが記されています。これは、主とヨブの間に、「」と「あなた」の関係、そのように親しく呼びかけ、答える関係があったことを意味しています。確かに、この試練の中で主は沈黙しておられますが、ヨブはこれまでそうしてきたように、主に祈り、呼びかけているのです。
 このようなヨブの主への呼びかけ、祈りは、これより前にも、またこの後にも、繰り返しなされています。その中でこの個所を取り上げているのは、これに続く16節も取り上げたいからです。その16節には、

 私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、
 私の咎をおおってください。

と記されています。ここでヨブは自分に罪があることを認めています。そして、それを贖ってくださるように祈り求めています。これは、主がその一方的な恵みによって備えてくださった罪の贖いを、ヨブが信じていたことの現れです。
 このほかにもいろいろなことがありますが、主とヨブの間には契約関係があり、ヨブは契約の神である主、ヤハウェのしもべでした。そして、この主の契約には主の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられており、ヨブはそれを信じています。
 ですから、ヨブにとって、自分が主の一方的な愛に基づく恵みのゆえに主のしもべとされていることは、主の契約によって保証されていることであり、この上なく確かなことであることになります。主は真実な方です。その真実は絶対的です。ですから、主がご自身の契約において約束し、保証してくださっている罪の贖いを信じている自分が主のもの、主のしもべであるということは、絶対に確かなことであるとしなければなりません。ヨブはまさにこのようなところに立っていたのです。ヨブは自分のよさや自分の力に頼っていたのではありません。主が真実であられることと、その真実な主がご自身の契約において示してくださっている、一方的な愛に基づく恵みによって備えてくださっている罪の贖いの確かさを信じ、それにより頼んでいたのです。

 このように、ヨブは、自分が主のしもべであることは主の契約によって保証されたことであり、主の真実さにかけて、それは確かなことである、ということを信じていました。それで、災いであれさいわいであれ、自分にどのようなことが起こっても、それは主のみこころを離れては起こらないということを堅く信じていました。またそれで、先週お話ししましたように、1章に記されている四つの大きな災いが立て続けに起こっても、それが主のみこころを離れて起こったことではないと信じたのです。そればかりが、そのすべての出来事の報に接したとき、そこに契約の神である主、ヤハウェの御臨在を感じ取り、その御前にひれ伏して礼拝して、

 は与え、は取られる。
 の御名はほむべきかな。

と讃美をもって告白しました。ヨブからすべてのものが取り去られたように見えますが、ヨブにとって最も大切なものは残されていました。それは、主がヨブの神であられるという事実です。それゆえに、ヨブは主のものであり、主を神として礼拝し、その御名を讚える特権と祝福にあずかっていたのです。
 先週は第一の試練しか取り上げられませんでしたが、2章1節ー10節には、ヨブに襲いかかった第二の試練のことが記されています。
 簡単にまとめますと、サタンはヨブに第一の試練を加えたことで引き下がりませんでした。まだ、ヨブには健康が残されている、と主張しています。ヨブは自分のからだを病から守ってもらいたいから、主を信じているだけだというのです。それで、5節に記されていますように、

彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。

と提案しました。
 主がそれを許可されたことを受けてサタンがなしたことが、7節、8節に記されています。そこには、

サタンはの前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

と記されています。
 この後になされる三人の友人たちとの対話の中でヨブが述べていることを見てみますと、7章4節、5節には、ヨブの肉が崩れてウジがわいた(あるいはうみが出た)ことと、苦痛のために夜も眠れないことが記されています。19章17節ー20節には、息が悪臭を放ち、妻を初めとしてあらゆる人々に嫌われたことや、まったくやせ細ってしまったことが記されています。さらに30章30節には、皮膚が黒ずんでしまい、痛みが骨にまで及んでいたことが記されています。ですから、これは単なる皮膚病ではなく、内臓までもひどく冒されていたことを意味しています。
 私は、子どもたちが重症のアトピー性皮膚炎の痒みで、夜も眠れないで苦しんだときに、一晩中、そのからだをさすり続けたことが、何度もありました。もちろん、家内と交代でのことです。子どもたちが小さなときには、もっと強く掻いてくれと求められたことがしばしばでした。それは、本当に、いたたまれないことでした。それに、私の方が疲れ果てて途中で寝入ってしまったこともよくありました。そのようなときに子どもたちはどう感じたのだろうかと、ずいぶん後になって、思い起こしては、心がひどく痛みました。子どもたちの苦しみは今も完全によくなっているわけではありません。それだけに、ヨブの苦しみが想像を絶するものであることを感じます。8節で、ヨブが、

土器のかけらを取って自分の身をかき

と言われていることは、爪を立てて掻いても間に合わないということです。そして、

灰の中にすわった。

と言われていることは、町のごみ捨て場に座っていたことを意味しています。
 そればかりでなく、9節、10節には、

すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

と記されています。第一の試練をヨブとともに乗り越えたヨブの妻も、ついに、

 神をのろって死になさい。

と言いました。このことから、ヨブの妻は「サタンの使い」であると呼ばれることもあります。しかし、それは彼女がヨブの状態をとても見ていられないこと、いたたまれないことと感じてのことでしょう。とはいえ、これによって、ヨブの妻の信仰が主ご自身を求めるものではなかったことが明らかになってしまいました。それはヨブの苦しみをさらに増すことでしたが、ヨブは苦しみの中から妻を諭しています。ヨブは、

 あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。

と言っているのであって、「あなたは愚かな女だ」と言って、非難しているのではありません。「あなたらしくないではないか」と諭しているのです。

 これで、ヨブの試練が終わったのではありません。むしろ、これら二つの試練はヨブ記の序章に記されていることです。ヨブ記の本論は苦しむヨブの許にやって来た三人の友人たち、すなわち「テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファル」との対話にあります。それがヨブの第三の試練となっています。
 1章3節で「東の人々の中で一番の富豪であった」と言われているときのヨブに交流を求めて、ヨブの許に来た人は多かったことでしょう。しかしこの友人たちは、すべてを失ったヨブの許に来たのです。12節、13節には、

彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。

と記されています。友人たちは遠くから、町のごみ捨て場に座って、自らのからだをかきむしっているヨブの姿を見て、そっと立ち去ったのではありません。「七日七夜」ヨブとともにごみ捨て場に座り続けたのです。この友人たちは非常に優れた人物でした。
 しかし、その友人たちも、ヨブのことを真に理解することができませんでした。それは、友人たちが最終的に求めていたものと、ヨブが最終的に求めていたものが違っていたからです。
 友人たちはひとりの神を信じていましたが、因果応報の原理に立って、ヨブの身に起こったことを理解していました。それは、「人は良いことをすれば神から報いを受け、悪いことをすれば神から罰を受ける」ということでまとめられます。この因果応報の原理は、古今東西、どのような社会にも、また文化にも見られるものです。その意味での普遍性をもっています。そして、誰の目から見ても、ヨブの身に起こったことは、単なる自然災害ではありません。それで、友人たちは、ヨブは神の刑罰を受けたのであると考えました。そして、それに基づいて、ヨブは罪を犯したと結論づけました。
 友人たちは、この理解に基づいて、犯した罪を悔い改めて、神のあわれみを求めるようにと、ヨブを説得します。そうすれば、神はヨブの繁栄を回復してくださるというのです。その際に、三人の友人がそれぞれの立場から因果応報の原理を補強しながら、ヨブを説得しています。もちろん、友人たちは心からヨブのためを思って、このように説得しているのです。
 しかし、友人たちの説得は、友人たちも気づいていないのですが、サタンの願っていることを実現しようとしてしまうものです。というのは、友人たちが願っていることは、ヨブの繁栄が回復されることだからです。因果応報の原理は「人は良いことをすればかみから報いを受け、悪いことをすれば神から罰を受ける」ということで終わっていません。その後に、「だから、良いことをして、神からの報いを受け取りなさい」という教訓となっているのです。1章9節、10節に記されていますように、サタンは、

ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

と言いました。ヨブは形としては、神を恐れているけれども、最終的に求めているのはこの繁栄であって、神ご自身ではないというのです。言い換えますと、ヨブにとって神は、この繁栄をもたらしてくれる「手段」であって、「目的」ではないというのです。
 友人たちは、その善意にもかかわらず、ヨブにその繁栄の回復を求めるための処方箋を示しています。もし、ヨブが友人たちの忠告を受け入れて、かつての繁栄の回復を求めるなら、サタンが言ったことが正しかったことになってしまいます。
 これに対してヨブは、自分は潔白であると主張します。すでにお話ししましたように、自分に罪はないとは言っていませんし、自分は罪を犯したことがないとも言っていません。ヨブは自分に罪があることを認めています。しかし、同時に、契約の神である主が、その一方的な愛に基づく恵みによって、罪の贖いを備えてくださっており、その贖いに基づいて、自分をご自身のしもべとして受け入れてくださっていることを信じています。そして、それは主の真実さのゆえに、決して揺るぐことなく確かなことであると信じています。それで、ヨブとしては、自分は主の備えてくださっている罪の贖いを信じて、罪の贖いにあずかっているから「潔白」であると主張しているわけです。
 この契約の神である主、ヤハウェの恵みによる罪の贖いを知らない友人たちには、ヨブの潔白の主張は、ヨブが自らの罪を認めようとしない、かたくなな状態にあることの現れとしか思えませんでした。友人たちからすれば、これではヨブの繁栄の回復はおぼつかないことになってしまいます。それで、友人たちは、次第に激しいことばでヨブを責めるようになります。それに対して、ヨブも、そのことばを激しくしていきます。

 そのような論争が続く中で、ヨブは、友人たちの決まり切った論法の不備を指摘しています。不法な者たちが繁栄して、そのまま世を去ることなど、この世には因果応報の原理では説明しきれない事実がいくらでもあるということが示されます。友人たちの論争の歯車が噛みあわない中で、ヨブは途中で目を転じるようにして、主に呼びかけ、語りかけています。しかし、主からの応答はありません。それで、ヨブは次第に、主の側に契約違反があるのではないかと考えるようになります。
 大切なことは、そのようなヨブの考えを支えていたのは、自分の良さではなく、主が備えてくださっている罪の贖いの確かさと、主の契約の真実さです。主がその一方的な愛に基づく恵みによって備えてくださった罪の贖いは確かなものであるし、それを備えてくださっている主は真実な方である。それで、その恵みの備えを信じている自分が主のしもべであることは、確かなことである。それなのに主は、このように、しもべである自分を災いをもって打たれたうえ、自分がその苦しみの中から呼び求めても答えてくださらない。これは、主がご自身の契約に違反しておられるからではないかということです。
 そのような思いとともに、ヨブは天の法廷における法廷闘争を考えるようになります。
 その発端は9章32節、33節に記されている、

 神は私のように人間ではないから、
 私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」
 と申し入れることはできない。
 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
 私たちの間にはいない。

というヨブの嘆きにあります。
 この「さばきの座」は天の法廷のことです。言うまでもないことですが、神さまの上に神さまをもさばく天の法廷があるのではありません。神さまご自身が義であられ、あらゆる義の源であられ、土台であられます。ます。そして、神さまは真実な方ですので、義を曲げられることは決してありません。ですから、この天の法廷も契約の神である主の真実さに基づいて存在しているはずのものです。
 ここで、ヨブは、自分と神さまの絶対的な区別を痛感しています。それとともに、自分と神さまの間に立ってくださり、この問題の調停をしてくださる「仲裁者」に思い至ります。ただし、ここではそのような方がいないと嘆いているだけです。
 しかし、それは嘆きでは終わらず、次第に、確信に変わっていきます。もちろん、そこに至るまでの友人たちとの論争と主への絶えることがない呼びかけの中で、ヨブは自分の苦悩の深さを嘆き続けます。
 16章19節ー21節には、

 今でも天には、私の証人がおられます。
 私を保証してくださる方は高い所におられます。
 私の友は私をあざけります。
 しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
 その方が、人のために
 神にとりなしをしてくださいますように。
 人の子がその友のために。

と記されています。
 19節に出てくる「私の証人」は古代オリエントの契約締結に際して、必ず立てられている「証人」のことです。その意味で、これは契約の証人です。古代オリエントの多神教的な文化の中では、神々が証人として召喚されていました。もちろん、聖書ではそのような神々を認めていませんから、「天」や「地」や「山」など、永続するものを証人として召喚しています。引用はしませんでしたが、これに先立つ18節には、

 地よ。私の血をおおうな。

というヨブのことばが記されています。これはヨブが「」を契約の証人として召喚しているものであると考えられます。
 19節でヨブは、その方は「高い所におられます」と告白しています。つまり、これは天におられて、ヨブのために天の法廷に立ってくださる証人です。結論しかお話しすることができませんが、この「高い所におられ」るということばは神さまに当てはめられることばです。それで、この「高い所におられ」る「証人」はご自身が神であられる方です。そうでありながら、ヨブは、

 その方が、人のために
 神にとりなしをしてくださいますように。

と述べています。それで、この方ご自身は神であられるのですが、神とは区別される御方です。この謎は、ヨブ記の中では解けていませんが、ヘブル人への手紙9章15節に、

 キリストは新しい契約の仲介者です。

とあかしされており、ローマ人への手紙8章34節に、

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

とあかしされているイエス・キリストをを知っている私たちは、このヨブが信じている「証人」がどなたであるかを理解することができます。
 想像を絶する苦しみの中で、ひたすら契約の神である主を求めてうめいているヨブのうちには、天におられる証人への確信が生まれてきました。さらに深められていきます。
 19章25節ー27節には、

 私は知っている。
 私を贖う方は生きておられ、
 後の日に、ちりの上に立たれることを。
 私の皮が、このようにはぎとられて後、
 私は、私の肉から神を見る。
 この方を私は自分自身で見る。
 私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

というヨブのことばが記されています。
 この「私を贖う方」の「贖う方」と訳されたことば(ゴーエール・ガーラルの分詞)は、親族として、身内の者をいろいろな問題から救い出すことを意味しています。レビ記25章25節、48節には、貧しくなった親族が手放した財産を「買い戻す」こと、あるいは、身売りした親族を「買い戻す」ことが記されています。
 ヨブはこの「私を贖う方」が「生きておられる」と述べています。この「生きておられる」と訳されたことば(ハイ)は、しばしば神さまのことを表すために用いられていますが、通常は、「生ける神」(申命記5章26節、ヨシュア記3章10節、サムエル記第一・17章26節、列王記第二・19章4節、エレミヤ書10章10節、ダニエル書6章26節など)という言い方で用いられています。これは、主が生きておられて、すべてのものを治めておられ、贖いの御業を遂行されるとともに、さばきを執行される御方であることを示しています。
 また、ヨブは、自分がこの「私を贖う方」とのかかわりで「神を見る」と言っています。
 これらのことは、この方が神であられることを意味しています。
 さらに、ヨブはこの方が、

 後の日に、ちりの上に立たれる

と告白しています。ここで、この「ちり」が地上の「ちり」なのか、よみの「ちり」なのかが問題となります。ヨブは、すでに、自分が間もなく死ぬということを繰り返し述べています。また、自分が死ぬことを「ちり」と関連づけて表しています。たとえば、17章16節では、

 よみの深みに下っても、
 あるいは、共にちりの上に降りて行っても。

と述べています。それで、この「ちり」は、「よみ」のちりであると考えられます。
 ヨブはこの神であられる方が、自分の親族となって自分を苦しみの中から助けてくださると告白しています。その際に、この方は、「よみ」に下る自分のところにまで下って来てくださって、自分とともに「ちりの上に立たれる」というのです。
 そればかりでなく、ヨブは、

 私の皮が、このようにはぎとられて後、
 私は、私の肉から神を見る。
 この方を私は自分自身で見る。
 私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

と告白しています。

 私の皮が、このようにはぎとられて後、

ということばは、ヨブが死んだ後のことを述べていると考えられます。そして、

 私は、私の肉から神を見る。

ということは、ヨブが自分の肉体において「神を見る」ようになるということを表しています。
 また、この「神を見る」ということは、聖書の中では、神さまの栄光の御臨在に触れることを意味しており、それによって、自らが栄光化されて、より親しい神さまとの交わりのうちに導き入れられることを意味しています。この点に関しては、出エジプト記34章29節、コリント人への手紙第二・3章18節、ヨハネの手紙第一・3章2節を見てください。
 ですから、ここでは、実質的に、終わりの日の復活に当たることが告白されています。そして、このすべては、ヨブが、

 私は知っている。
 私を贖う方は生きておられ、
 後の日に、ちりの上に立たれることを。

と告白している方によって、現実となるというのです。

 このようなことは血肉の力によって悟ることはできません。ヨブが自分の力で悟ったのではありません。契約の神である主が御霊によってヨブの思いと霊的な理解力を導いて、すべてを悟らせてくださったのです。
 ヨブがこの上ない苦しみの中で主を呼び求めている間、主は沈黙しておられました。しかし、それは目に見える次元のことです。その奥では、主は確かにヨブを支えて、主の契約の真実さと主が備えてくださっている罪の贖いの確かさを確信させてくださり、自分が主のしもべであるという確信のうちにとどまり続けるように導いてくださっていました。そして、ヨブの心を照らしてくださって、やはり、主の契約の真実さを土台として、天における法廷闘争を考え、ついには、自分とともにいてくださるために、よみのちりにまで下って来てくださる贖い主を信じるようになるまで導いてくださっていました。
 私たちはヨブが苦しみの中で仰ぎ望む形で信じた贖い主がどなたであるかを知っています。その御方は私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばき、すなわち、地獄のさばきを受けてくださるまでに、私たちと一つとなってくださいました。そのようにして、私たちをご自身の民としてくださり、父なる神さまの子どもとしてくださいました。そして、終わりの日には、このすべてを完全に実現してくださるために、栄光のうちに再臨されます。


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