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説教日:2011年3月20日 |
ヨブ記1章を見てみますと、1節ー5節にはヨブの人となりが記されています。そこには、 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。 と記されています。 ここでヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人であったと言われています。また、理想的な家庭をもっていました。それは、息子7人と娘3人というように、それぞれが「7」と「3」という完全数で構成され、「互いに行き来し」というように、お互いの間に親しい交わりがあったことに表されています。さらには、「東の人々の中で一番の富豪であった」と言われていますように、ヨブは財産にも恵まれていました。 6節ー12節には、一転して、天における、契約の神である主の御臨在の御前での「神の子ら」の集いのことが記されています。 6節には、 ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。 と記されています。 ここで「主」は、新改訳で太字で記されていますように、契約の神である主、ヤハウェです。また、この「神の子ら」は御使いたちのことです。聖書の中にはこれと同じような、主の御臨在の御前における御使いたちの集いのことが出てきます。これは、一般には、「神の子らの会議」と呼ばれていますが、主の贖いの御業の遂行にかかわるものです。 そのような「神の子ら」の集いにサタンがやって来ていたと言われています。そこにサタンが参加することが許されたのは、主が贖いの御業の遂行においてサタンをもお用いになることがあるからです。この点については、列王記第一・22章19節ー23節を参照してください。 8節には、 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」 と記されています。 ここで主はヨブのことを「わたしのしもべヨブ」と呼んでおられます。これは、主とヨブの間に契約関係があったことを意味しています。つまり、ヨブは主の一方的な愛に基づく恵みによって、主の契約の民とされていたということです。それで、5節に記されていますように、ヨブは自分の息子たちそれぞれのために全焼のいけにえをささげています。このことは、ヨブが主の一方的な恵みによって備えられている罪の贖いを信じていたことを示しています。 このようにヨブが主の一方的な愛に基づく恵みによって主との契約関係にあるもとのされていること、そして、それゆえに、主の贖いの恵みを信じていたということは、ヨブの正しさを理解するうえでの鍵です。ヨブは「潔白で正し」かったと言われていますが、それはヨブに罪がなかったとか、ヨブが罪を犯さなかったという意味ではありません。実際、ヨブは自分に罪があることを認めています。この点に関しては、7章21節、10章14節、13章22節、23節、14章16節、17節、31章33節などを見てください。ヨブの正しさ、すなわちヨブの義は、主の贖いの恵みを信じていることに基づく義です。ヨブは罪を犯すけれども、主が一方的な愛に基づく恵みによって備えてくださっている罪の贖いにあずかって、罪を赦していただいているのです。これは、私たちのことばで言いますと、「信仰による義」です。 主がヨブのことを取り上げられたときに、サタンはヨブを告発しました。9節、10節には、 ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。 というサタンの言い分が記されています。 ここでサタンは、 ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 と言っています。「いたずらに」と訳されていることば(ヒンナーム)は、「ただで」とか「わけもなく」というようなことを表します。サタンは、ヨブが神を恐れていることには、れっきとしたわけがあると主張しています。それは、10節に記されていますように、主がヨブの財産を豊かにされたからだというのです。7節には、 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 と記されていますが、「地を行き巡り、そこを歩き回って来」たサタンは、人間の現実を鋭く観察しています。人間が神を信じているのは、その神から、たとえば「無病息災」、「家内安全」といった、何らかの「御利益」をもらおうとしているからであるということを見て取っていたのです。つまり、見返りを当てにして神を信じているというのです。サタンは、その点はヨブも例外ではないと主張しているわけです。 同時に、この、 ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 というサタンのことばは、真に神を恐れるということは、「ただで」神を恐れることであるということを踏まえています。この点は主も当然のこととして踏まえておられます。つまり、主がヨブのことを「神を恐れ」ていると言われたのは、ヨブが「ただで」主を恐れているということです。言い換えますと、ヨブは主から何かをもらえるから主を神として恐れ敬っているのではなく、主が神であられるから、神として恐れ敬っているということです。さらに言いますと、ヨブは主からいただけるものを求めているのではなく、主ご自身を求めているということです。 これは、聖書の中に繰り返し出てくる、主ご自身が私たちの受け継ぐべき相続財産であるという告白に通じるものです。詩篇16篇5節には、 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。 と記されています。また、73篇25節、26節には、 天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。 この身とこの心とは尽き果てましょう。 しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。 という告白が記されています。また、142篇5節には、 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。 「あなたは私の避け所、 生ける者の地で、私の分の土地です。」 と記されています。その他、119篇57節、エレミヤ書10章16節、哀歌3章24節なども見てください。 ヨブ記に戻りますが、サタンは、 ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 と言って、主に挑戦しています。そして、11節に記されていますように、 あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。 と提案します。それを受けて、12節には、 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。 と記されています。 これらの、天における主の御臨在の御前で起こっていることは、ヨブには知らされていません。それには理由があります。 もし、この主とサタンのやり取りがヨブに知らされていたとしたら、どうなったでしょうか。ヨブが災いに遭っても主をのろうことがなかったときにも、サタンは主に向かって「ヨブはあなたの味方をして、あなたをのろわなかったのであって、結局は、そのことへの報いがほしいのです」というような主張をするようになったことでしょう。天における主とサタンのやり取りが知らされないことによって、サタンがこのように考え、このように主張する余地はなくなっています。 もちろん、これだけではありません。このことによって、ヨブの苦しみはよりいっそう深くなりますが、そのことの中で、ヨブの信仰が引き揚げられて、ついには、19章25節ー27節に、 私は知っている。 私を贖う方は生きておられ、 後の日に、ちりの上に立たれることを。 私の皮が、このようにはぎとられて後、 私は、私の肉から神を見る。 この方を私は自分自身で見る。 私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。 と記されている、贖い主への信仰と復活への信仰へと至ることになります。このことは、ヨブが契約の神である主の真実さを揺るぐことなく信じていたこと、そして最後まで信じ続けたことに基づいています。しかし、これらのことについては、今日お話しする時間的な余裕がありません。 1章13節ー19節には、 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」 と記されています。 「シェバ人」の襲撃と略奪の後に「神の火」と言うほかない自然界の大災害があり、「カルデヤ人」の襲撃と略奪の後に「大風」という自然界災害があります。 「神の火」は一般には雷のことだと考えられています。しかし、これが「羊と若い者たちを焼き尽くし」たと言われています。そして3節では、その羊は7千頭いたと言われています。また、「若い者たち」は「しもべたち」のことですが、これほどの羊の群れを世話していたしもべたちも相当多かったはずです。それで、「羊と若い者たちを焼き尽くし」たのは、まさに「神の火」と言うほかないもので、通常の雷をはるかに越えた規模の災害でした。 それらの災難が「この者がまだ話している間に」ということばでつなげられているように、立て続けに起こったのです。しかも、 私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。 ということが繰り返されていますように、その災害は徹底したものでした。 このことの知らせを聞いて、ヨブはどうしたかということが、20節ー22節に、 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。 「私は裸で母の胎から出て来た。 また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。 と記されています。 ここでヨブは「地にひれ伏して」主を礼拝したと言われています。これは、ヨブが、そこに主の御臨在があることを強く感じ取ったことを表しています。そして、 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。 というヨブの讃美の告白は、これらのことは、ほかならぬ、契約の神である主、ヤハウェのみこころを離れては起こらなかったことであると理解したということを意味しています。 このような場合、これはサタンがなしたことで、主とは関係ない、と言いたくなります。確かに、これはサタンがなしたことであるということは、一面当たっています。しかし、これが主のみこころと無関係に起こっているとすることは、主も、ご自身のしもべを傷つけ、損なおうとするサタンの働きを止めることができなかったということになってしまいます。それは、12節に、 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。 と記されているみことばに反します。サタンも主の許可の下にしか働くことができないのです。 もちろん、ヨブはこの12節に記されていることを知りません。しかし、彼は自分に起こったすべてのことは、主のみこころから出ていると信じていましたし、その試練の中で、主の御名を告白して、主を讚えました。 このことは、言い換えますと、ヨブは自分が主の一方的な恵みによって主の契約のしもべとされていることと、主の恵みの真実さを徹底的に信じていることを意味しています。主の契約は主の真実さを保証するものです。主は真実な方であるので、自分が主の一方的な恵みによって主のしもべとされていることは、どのようなことがあっても変わることがないという信仰です。 それは二つの面で理解できます。 一つは、主が自分の主であられ、自分は主のしもべであるのであるから、主のみこころを離れては、何ごとも自分に起こることはないという信仰です。自分にかかわるすべては、主の御手のうちにあるという信仰です。 もう一つは、そうであるから、これらの恐るべきわざわいに遭ったとしても、自分が主のしもべであることには変わりがないという信仰です。実際、 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。 という讃美の告白は、「主」すなわち契約の神である主、ヤハウェの御名を告白するものです。この告白は、自分がなおも主、ヤハウェのしもべであるという確信の下に初めてなしうるものです。 ここでヨブは財産ばかりでなく、忠実なしもべたち、さらには、子どもたちまでも失いました。そればかりではなく、もう一つの試練では、ヨブ自身が撃たれて、いくつかの病に苦しむことになります。ヨブはすべてを失ったかのように見えます。 確かに、もしヨブがサタンの言うように「ただで」主を恐れているのではなかったとしたら、つまり、ヨブが何らかの「御利益」を当てにして主を信じているのであったとしたら、ヨブはすべてを失ったことになります。しかし、それらすべてのものを奪い去られても、ヨブには最も大切なものが残っていました。それは、「主がわたしの神であられ、わたしは主のしもべである」という、主の契約に基づく事実です。そして、主の御前にひれ伏して、その御名を告白し、讃美することができる祝福と特権です。 私は、今度の大震災の報道に接し、その恐ろしさに頭を抱えながらのことですが、ここでヨブが感じ取っていたような、契約の主の御臨在を覚えないではいられませんでした。 ヨブには天における主の御臨在の御前の御使いたちの集いのことも、そこにおける主とサタンのやり取りのことも知らされていませんでした。ですから、ヨブには、なぜ自分にこのようなわざわいが立て続けに起こったのか理解できませんでした。しかし、ヨブはそこに真実な主の御臨在があることを感じ取り、すべてにおいて、主のみこころが働いていることを信じ続けました。同じように、私たちは、なぜ、今この大震災が起こったのかということをすべて理解することはできません。しかし、ここには真実な主の御臨在があることと、すべてのことにおいて、私たちの思いを越えた主のみこころが働いていることを信じています。 今度の大震災において、主の御許に召された神の子どもたちがおられます。これに対して、御子イエス・キリストを贖い主として信じて救いにあずかっている方々も、そうでない方々も同じように大津波にのみ込まれて死んでしまったのであれば、一体どこに違いがあるのかと問われるかもしれません。 しかし、それは、人は「ただで」神を恐れるものではなく、「無病息災」という「御利益」を求めて神を信じるものであるという、サタンの理解する信仰のあり方に基づく問いかけです。 今度の大震災において主の御許に召された神の子どもたちのすべてが、その試練の中で主を呼び求めたはずです。私たちも大きな揺れの中で、主を呼び求めました。もちろん、それはその災害からの救いを求めてのことです。それは、一見すると、「無病息災」の御利益信仰の現れと同じに見えます。しかし、その奥にあるものは、まったく違っています。その奥には「主は私の神であり、私は主の民である」という、主の一方的な愛に基づく贖いの恵みが生み出してくださった事実があるのです。ローマ人への手紙14章7節ー9節に記されている、 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。 という告白は、大震災という試練の中で主の御名を呼び求めた神の子どもたちの、常日頃からの告白であります。主の計り知れないみこころによって主の御許に召された神の子どもたちは、この変わることのない告白に基づいて、大災害という試練の中で主の御名を呼び求めたのです。 神の子どもたちは主がどなたであるかを知っています。主が私たちの罪を贖ってくださり、私たちをご自身の民としてくださるために十字架にかかって死んでくださったこと、そして、死者の中からよみがえってくださって、私たちを復活のいのちで生かしてくださっていることを知っています。さらに、このすべては、主が私たちを愛してくださった愛から出ていることを知っています。ですから、神の子どもたちは、決して、大震災が襲ってきたとき、普段は気にも留めない神、それゆえに、正体不明の神に祈ったのではありません。 私たちは、このような未曾有の大災害のすべてに主のみこころが働いていることを覚えるときに、主の御臨在の御前に立たされていることを自覚します。そのことによって、私たちはヨブのように、なおも、私たちが主の一方的な愛に基づく恵みによって主のものとされており、主を「わたしの主」と呼び、その御名を讚えることができることには変わりがないことを信じるように導かれます。 そのように私たちは、この大震災のさ中に、自分たちが主の御臨在の御前に立たされていることを覚えます。それによって、主の御臨在の御前でひれ伏して主を礼拝しつつ、この大震災を受け止めます。 主は天と地とその中のすべてのものをお造りになって、それを真実に支えてくださっておられる方です。それで、私たちは主に執り成し祈ります。この未曾有の災害の中にあって、天と地とその中のすべてのものをお造りになって、それを真実に支えてくださっておられる方に執り成しの祈りをすることは、神の子どもたちだけにできることです。ただこの災害が早く過ぎ去るということを祈るだけではありません。このことを通して、みこころがなされることを祈ります。特に、人々が造り主である神さまの御許に帰ることができることを、また、私たち神の子どもたちがさらに主に近づくことができることを祈ります。 主の計り知れないみこころによって主の御許に召された神の子どもたちも、地上に残された神の子どもたちも、等しく、主を「わたしの主」と呼び、その御名を讚えることができる、この上ない祝福と特権にあずかっています。このことは、私たちに、ローマ人への手紙8章31節ー39節に記されている告白を思い起こさせます。そこには、 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・・・(中略)・・・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と記されています。 この告白は、この度、主の御許に召された神の子どもたちにとっても、私たち地上に残された神の子どもたちにとっても、そのまま当てはまる告白です。ここで私たちが告白していることは、筆舌に尽くしがたい試練の中で、ヨブが信じ、望み見ていたことです。それが、私たちの主イエス・キリストにあって、私たちの現実になっているのです。 私たちの主イエス・キリストは、ここで私たちが告白していることを揺るぎないこととし、私たちをご自身の愛のうちにまったく憩わせてくださるために、終わりの日に、再び来てくださいます。 |
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