![]() |
説教日:2011年3月6日 |
御子イエス・キリストが創造の御業を遂行された方であることは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に示されています。そこは、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、改めていくつかのことを確認しておきましょう。ここで、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と言われていて紹介されている「ことば」は、永遠の神の御子です。1節冒頭の、 初めに、ことばがあった。 というみことばは、創世記1章1節に記されている、 初めに、神が天と地を創造した。 というみことばと対応していて、神さまが創造の御業を遂行されたときに、この「ことば」は、すでに継続して存在しておられたことを示しています。ですから、「ことば」は神さまがお造りになったこの時間的な世界に属している方ではありません。時間はこの世界の時間ですので、この世界が創造されたときに始まりました。しかし、「ことば」はこの時間的な世界が創造されるのに先立って継続的に存在しておられました。「ことば」は時間を越えた永遠の存在、すなわち、神であられるということです。1節最後に、 ことばは神であった。 と言われているとおりです。 また、 ことばは神とともにあった。 というみことばは、この「ことば」が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを意味しています。このことは、改めて、2節で、 ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていることによって強調されています。このことは、御父と御子の間に、御霊による、無限、永遠、不変の愛の交わりがあり、神さまが永遠にまったく充足しておられることを意味しています。神さまの本質的な特性は愛です。それは、神さまに愛という特質があるというだけではなく、実際に神さまは無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにいましたもう御方であるということです。 もし、神が一位一体であるとしますと、神には無限、永遠、不変の愛があるけれども、その無限、永遠、不変の愛を通わす相手がいないということになってしまいます。つまり、神はその無限、永遠、不変の愛をすべて表しきることはできないということになってしまうのです。しかし、御父と御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、神さまの愛は完全な現実となっています。 そして、3節においては、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と言われています。これによって、実際に創造の御業を遂行されたのは御子であることが示されています。御父との無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられる御子が、創造の御業を遂行されたということです。 御子が創造の御業を遂行され、今も摂理の御業によって、お造りになったすべてのものを支え、導いておられることは、このほかの個所でも示されています。たとえば、コロサイ人への手紙1章16節、17節には、 天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 と記されています。また、ヘブル人への手紙1章2節後半ー3節前半には、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と記されています。 ではどうして、御子が創造の御業を遂行されたのでしょうか。それは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられるからです。神さまは三位一体の神です。その神さまが創造の御業を遂行されたときに、御父、御子、御霊の間で、人間的な言い方になりますが、「役割分担」をされました。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまご自身を代表しておられます。父なる神さまにおいて、神さまの無限の栄光は表現されています。その栄光は程度においても範囲においても無限です。もし父なる神さまが直接、創造の御業を遂行なさったとすれば、この宇宙は造り出された瞬間から神さまの無限の栄光にさらされることになります。そうすれば、この大宇宙も一瞬のうちに焼き尽くされてなくなってしまいます。創造の御業において、父なる神さまはすべてのことをご計画されました。 そして、創造の御業は、御子が父なる神さまのみこころにしたがって遂行されました。御子はその無限、永遠、不変の栄光を隠して、この世界にかかわってくださる役割を負われたのです。このようにして御子は、無限に身を低くされて、創造の御業を遂行されました。 御子が造り出されたもの一つ一つの本質的な特性を生かしてくださっているのは御霊です。いのちあるものがそのいのちを発揮して活動しているのは御霊のお働きによっています。私たち人間が与えられた、知性や感性や意志や芸術性などのさまざまな能力や愛やいつくしみなどの特性を発揮して生きることができるのも御霊のお働きによっています。 これらのことはいのちあるものの活動のことですが、天体を初めとしてさまざまな物体が、それぞれに与えられた特性を発揮して存在し、この宇宙全体が絶えず変化しつつも、まったき調和のうちにあるのは、御霊のお働きによっています。 これらのことは、御子が父なる神さまのみこころにしたがい、御霊によって、すべてを支え、生かし、導いてくださっているということでもあります。 この三位一体の神さまの御父、御子、御霊の創造の御業における「役割分担」に当たることは、贖いの御業においても見られます。父なる神さまが贖いの御業のすべてをご計画されました。御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって贖いの御業を遂行されました。そして御霊は、御子イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いに基づいて、私たちの罪をきよめ、私たちを新しく生まれさせてくださり、神の子どもとして、父なる神さまとお互いを愛する愛のうちを歩むことができるように導いてくださっています。 ヨハネの福音書1章14節には、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されています。 ここには、永遠の神の御子であられ、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにいます「ことば」が「人となって」来られたことが記されています。これは、先ほどお話ししましたように、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、今から2千年前に、人の性質をお取りになって来てくださったということです。 注意しなければならないことですが、これは、永遠の神の御子であられる方が「人」に変化されたということではありません。御子は無限、永遠、不変の栄光の主です。ですから、御子が神でなくなるということはありませんし、ありえません。ここで、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と言われていることは、永遠の神の御子が、神であられることにはいささかの変化もなく、今から2千年前に、私たちと同じ人の性質をお取りになったということです。この時から、御子イエス・キリストは「まことの神」であられつつ「まことの人」であられます。 このことは、先週も触れました「カルケドン信条」と呼ばれる「カルケドン信仰定式」をまとめる「二性一人格」ということばで要約されることです。「まことの神」と「まことの人」という二つの人格があるのではなく、御子イエス・キリストという一つの人格、一人の御方において、神の本性すなわち「神性」と人の本性すなわち「人性」が、「変化も合成も混合もなく」、「分離しがたく結合された」ということです。 ここには、まことの神、すなわち無限、永遠、不変の栄光の主であられる方の神の本性と、この方がお取りになった、罪を除いてあらゆる点で私たちと同じ人の本性の関係の問題があります。これはあらゆる点において有限な私たちの理解を越えたことです。それは、永遠と時間の関係が私たちの理解を越えているのと同じです。もちろん、この場合の永遠は、時間がいつまでも続くという意味での永遠ではなく、時間を超越しておられる神さまのみに当てはめられる永遠のことです。私たちは「永遠」ということばを使いますが、それがどのようなものであるかを経験的に知ることはできません。それでそれを、すべて理解することができるわけではありません。また、この永遠と時間の関係を理解しきることはできません。これらのことに関しては、私たちは自らの限界を自覚しつつ、みことばが示していることを踏み越えないようにしなければなりません。 このことを心に留めたうえで、いくつかのことをお話ししたいと思います。 先ほど、御子イエス・キリストにおいて、神性と人性が「変化も合成も混合もなく」、「分離しがたく結合された」と言いました。この「変化も合成も混合もなく」、「分離しがたく結合された」いうことばは、「カルケドン信仰定式」を受け継いだ「ウェストミンスター信仰告白」第8章2項から取ったことばです。 「変化も合成も混合もなく」ということばは、御子イエス・キリストの神性と人性が結合されたことによって、イエス・キリストの神性あるいは人性、あるいは両者が変化して、イエス・キリストがまことの神あるいは、まことの人ではないものになってしまったのではない、ということを意味しています。 具体的には、先週その名を上げましたエウテュケスは、御子イエス・キリストの神性と人性が結合されたことによって、イエス・キリストは神でもなく、人でもない「第三のもの」になってしまったと主張しました。イエス・キリストの人性は私たちの人性と同じとは言えないというのです。 また、アポリナリオスは、人は肉体と魂と精神から成っていて、イエス・キリストの場合には、その最も高次の部分である精神が、ロゴス、すなわち、ヨハネの福音書1章1節の「ことば」に取って代られたと主張しました。そもそも、人を肉体と魂と精神(あるいは霊)という三つの部分に区分することがみことばの教えであるかどうかが問われなければなりませんが、この点はおいておきましょう。このアポリナリオスの主張では、イエス・キリストは、人としては「精神」に当たる部分がないということになり、まことの人ではなくなってしまったことになってしまいます。 このようなエウテュケスやアポリナリオスの理解の仕方では、イエス・キリストはまことの人ではなく、私たちと一つとなって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださることができないばかりか、私たちの人間性のすべてを回復し、栄光あるものとしてくださることもできません。 このことと関連していますが、イエス・キリストが処女マリヤからお生まれになったことにはいくつか意味があります。 よく知られているのは、イエス・キリストが罪のない方として来られたということにかかわっています。イエス・キリストは聖霊のお働きによって処女マリヤの胎に宿られたということです。 もちろん、マリヤにも罪の性質がありました。しかし、イエス・キリストは通常の仕方でお生まれになったのではありません。ルカの福音書1章35節には、 聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 と記されています。これは御使いガブリエルがマリヤに告げたことばです。ここでは、イエス・キリストの誕生は「いと高き方の力」とも呼ばれている聖霊のお働きによることであると言われています。これを別の角度から見ますと、神の御子が、ウェストミンスター信仰告白8章2項のことばですが、「聖霊の力により、処女マリアの胎内に、彼女の本質を取って、みごもられたのである」ということになります。そのようにしてマリヤの胎に宿られた御子イエス・キリストの人性は、初めから、聖霊によって、まったく聖いものとされていました。 もしイエス・キリストに罪があるのであれば、自らの罪の贖いを必要としており、他の人の身代わりになって罪のさばきをお受けになることはできません。しかし、イエス・キリストは罪を除いて、すべての点において私たちと同じ人の性質をお取りになりました。 このことはよく知られていることですが、ここではもう一つのことをお話しします。 マタイの福音書3章9節には、バプテスマのヨハネがパリサイ人やサドカイ人に対して、 「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 と教えたことが記されています。確かに、神さまは石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになります。そうであれば、どうして、イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになったのでしょうか。石ころからとまでは言わないとしても、改めて土地のちりから造られた人の性質をお取りにならなかったのでしょうか。 これは、神さまが創造の御業によって神のかたちに造られた人に与えてくださった契約、すなわち「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約とのかかわりで理解しなければなりません。ローマ人への手紙5章12節には、 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。 と記されています。ここでは、最初の人アダムが罪を犯したときに、アダムと一体にある「全人類が罪を犯した」と言われています。そして、その結果、「死が全人類に広がった」と言われています。私たちはアダムにあって罪を犯し、その罪責を負い、死ぬべきものとなってしまったというのです。それは最初の人アダムが、神さまが創造の御業によって神のかたちに造られた人に与えてくださった契約のかしらであり、私たちはその契約においてアダムと一つに結ばれていることによっています。私たちはアダムをかしらとする最初の契約の下にあるものです。しかも、契約のかしらであるアダムにあって罪を犯して、神さまの御前に堕落し、その罪の刑罰としての死の力に服するものとなってしまっていました。 御子イエス・キリストは、そのような私たちご自身の民を罪と死の力から贖い出してくださるために来てくださいました。そのためには、イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださらなければなりません。つまり、アダムにあって最初の契約の下にあるものとして来てくださらなければなりませんでした。もし、御子イエス・キリストが、改めて土地のちりから造られた人間性をお取りになったとしたら、このことは実現しなくなります。イエス・キリストはアダムにあって最初の契約の下にある処女マリヤの人としての本質をお取りになりました。ガラテヤ人への手紙4章4節、5節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と記されています。 このようにして、御子イエス・キリストは創造の御業によって神のかたちに造られた人の本性をお取りになりました。罪を別として、私たちとまったく同じになられたのです。ヘブル人への手紙2章14節ー17節には、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。・・・・・・そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 と記されています。 ウェストミンスター信仰告白6章2項で告白されているもう一つのことは、一つの人格(位格)において、神性と人性が「分離しがたく結合された」ということです。日本語では「人格」には「人」ということばがあるからでしょうか、三位一体の神さまの御父、御子、御霊については「人格」としないで「位格」ということばを用いています。英語(パーソン)やラテン語(ペルソナ)やギリシャ語(ヒュポスタシスあるいはプロソーポン)では同じことばで表すのですが、日本語ではこのような区別をしているので、ややこしくなります。 一つの人格(位格)において、神性と人性が「分離しがたく結合された」ということは、神性に対応する人格(位格)と人性に対応する人格の二つの人格があるのではない、すなわち二性二人格ではないということです。この二性二人格、御子イエス・キリストに二つの人格があるという主張は、ネストリオス派(ネストリウス派)のものであるとされていますが、その名のもととなっているネストリオス(ネストリウス)自身はそこまで主張していなかったようです。 なぜ、一つの人格にこだわるのでしょうか。それは、御子イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった罪の贖いの御業の確かさにかかわっているからです。 もし御子イエス・キリストに神性に対応する人格(位格)と人性に対応する人格の二つの人格があるのであれば、まことの神とまことの人という二つの別々の人格的(あるいは位格的)な存在があることになります。その場合、まことの神は死ぬことはできませんし、誰かから痛めつけられるということもありえません。いかなる被造物も無限、永遠、不変の栄光の神さまに近づくことはできません。まして、神さまに危害を加えることはできません。ですから、人々から捨てられ、苦しみを受け、十字架にかかって死なれたのは、単なる人間イエスであるということになります。 その単なる人間イエスはあらゆる点において有限なものです。罪はなかったとしても、そしてそのために、私たちの身代わりになることができたとしても、私たちの罪の一つをも贖うことはできません。というのは、私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに逆らう罪であり、その一つの罪であっても無限の重さをもっているからです。私たちのたった一つの罪を贖うためにも、無限の償いがなされなければなりません。そうでなければ、神さまの絶対的な義が立ちません。そのように無限の償いをすることは、御使いであれ人であれ、どのような被造物にもできないことです。 ところがみことばは御子イエス・キリストの十字架の死が私たちのすべての罪を完全に贖うものであるとあかししています。それは、ご自身まことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、そのまことの人としての性質において、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを余すところなく受けてくださったからです。このように、十字架の上で死の苦しみを味わわれたのは、単なる人間イエスではありません。まことの神にしてまことの人であられる御子イエス・キリストが、その人としての性質において、死の苦しみを味わわれたのです。それによって、無限の償いがなされ、私たちご自身の民のすべての罪が完全に贖われました。 最後に、これらのことの上に、もう一つのことを確認しておきたいと思います。処女マリヤの胎に宿られた御子イエス・キリストは、私たちと同じ最初の人アダムにあって、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約の下にある方として来られました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。その結果、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されました。ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されているとおりです。 これは、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころに完全に服従されたことによって、その報いとして栄光をお受けになったことを意味しています。御子イエス・キリストが最初の契約における「完全な服従」という条件を満たされて、栄光あるいのちを獲得されたということです。それは、御子イエス・キリストが取って来てくださった、私たちと同じ人の性質において栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座してくださったということです。これによって、御子イエス・キリストは私たちご自身の民を、罪と死の力から解放してくださっただけではありません。さらに、私たちをご自身の栄光にあずからせてくださったのです。エペソ人への手紙2章4節ー6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されているとおりです。 ここに記されていることは(その定動詞は不定過去時制で記されていて)、すでに私たちに実現していることであることが示されています。栄光のキリストは、ご自身が成し遂げてくださったこれらすべてのことを完成に至らせてくださるために、終わりの日に再臨されます。 |
![]() |
||