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説教日:2011年2月27日 |
この神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、神さまが神のかたちに造られた人に与えてくださった契約の中に位置づけられます。 この契約は、一般には「わざの契約」と呼ばれていますが、私はクラインやロバートソンの主張に賛同して「創造の契約」と呼んでいます。 一般にこの契約は、神のかたちに造られた人だけにかかわるかのように理解されていますが、実際には、全被造物にかかわる契約です。というのは、創世記1章26節ー28節に記されている、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 というみことばから分かりますように、人が神のかたちに造られていることと、歴史と文化を造る使命が委ねられていることは切り離すことができないように結び合わされているからです。 このことと関連して、私たちの取っている立場を告白するウェストミンスター信仰告白のことを取り上げてお話ししたいと思います。 その前に、ウェストミンスター信仰告白に限らず、信仰告白がどのようなものであるかについて、簡単にお話ししておきます。 栄光のキリストのみからだである教会の歴史の中には、契約の神である主のみことばについてのさまざまな理解の仕方が現れてきました。それは、みことばを読む人々がある時代とその文化の中に生まれて育っているために、その人々が生まれながらに身に着けてしまっている、その時代と文化に特有な、さまざまな発想があるからです。そして、それは人類の堕落後のことですので、ほとんどの場合に、みことばの教えとは多少なりとも違っている発想です。それは私たちにも当てはまります。しかし、人は自分の中に、そのようなみことばの教えからそれている発想があるということに、なかなか気づくことができません。そのために、どうしても、みことばを自分たちの発想で読んで、理解してしまいます。 このようなことのために、さまざまな異端と呼ばれる教えが生まれてきました。それは、そのような教えを唱えた人々に悪意があったということではありません。その人々は真剣にまた真実にみことばに聞こうとしていたのです。しかし、そのような意図にもかかわらず、結果的には、みことばの教えを曲げてしまいました。 少し簡単すぎますが、そのようなわけで、みことばについての誤った理解と、それに基づく教えが生み出されたときに、教会は、果たして、みことばはどのように教えているかということを共同して追求しました。もちろん、その教えを唱えている人々も参加してのことです。そこで哲学的な思弁が展開されたのではありません。あくまでも契約の神である主のみことばそのものの意味を汲み取ろうとしました。実際には、残念ながら、政治的な思惑もそこに入ってしまったという現実がありますが、基本的には、みことばの真の意味を汲み取るために真剣な討論が重ねられました。 その結果として、古代教会においては、いくつかの信条が作成されました。たとえば、「ニカイア信条」とその展開である「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」においては、神さまが三位一体の神であられることが、みことばの教えであるということが告白されています。これは、御子イエス・キリストが真の神ではなく、神のような存在であるという、アレイオス派の理解の仕方を退けています。 その後、御子イエス・キリストが真の神であられるなら、その神であられることと、御子がお取りになった人としての性質の関係はどのように考えられるかということをめぐる論争が生じました。そのことは、一般に「カルケドン信条」と呼ばれる「カルケドン信仰定式」において、「二性一人格」ということで整理されています。[注] [注]カルケドン信仰定式では、1(アレイオス派に対して)キリストの真の神性を、2(アポリナリオスやエウテュケスに対して)キリストの真の人性を、3(いわゆる「ネストリウス派」に対して)一つの位格における神性と人性の結合を、4(エウテュケスに対して)一つの位格における神性と人性の区別を明確にしています。ちなみに、ネストリウス自身はいわゆる「ネストリウス派」の考え方(二性二人格)を取っていなかったようです。 今日、私たちが十分踏まえていることですが、人が神さまの御前に義と認められるのは、自分の行いによるのではなく、御子イエス・キリストを信じる信仰によるという「信仰義認」の教理も、そのような論争を経て告白されてきたものです。 信仰告白は、そのような歴史の中で、聖書がどのように読まれてきたか、そして、聖書が教えていることをキリストのからだである教会がどのように理解しているかのあかしです。そのような信仰告白が作成されたことの根本にあるのは、私たち救われてもなお自らのうちに罪を宿しているものが、どんなにみことばを曲げて理解してしまうものであるかという自覚です。 「信仰告白などはいらない。聖書だけあればいい。」と言う人々がいます。しかし、その人々は、キリストのからだである教会の歴史の中でどれほどみことばを誤解した教えが生み出されたかということを無視しています。また、自分はそのような人々と違って、間違うことがないということを暗に主張しています。 信仰告白を取り上げるに際しての釈明が長くなってしまいましたが、最初の契約のことを取り上げているウェストミンスター信仰告白第7章2項には、 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。 と記されています。最初の契約のことはこれで終っていて、続く3項ー6項では、いわゆる「恵みの契約」のことが取り上げられています。つまり、この告白では「恵みの契約」の方に力点が置かれているのです。 この2項に記されている、 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。 ということ自体には、先ほど触れました「わざの契約」という呼び方のことを除いては、異論はありません。しかし、これがみことばを通して神さまが示してくださっていることのすべてではありません。ここに告白されていることは、神さまが神のかたちに造られた人に与えてくださった最初の契約の中心にあることです。けれども、ここに告白されていることがすべてあると考えてしまいますと、問題が生じてきます。というのは、この第7章2項に告白されていることがすべてであるとしますと、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約は神のかたちに造られた人のいのちのことだけにかかわっているということになってしまうからです。それでは、最初の契約がもっているより広い意味が見失われてしまいます。 どういうことか考えてみましょう。 この告白の中では「本人の完全な服従を条件として」と言われています。このために、この契約が「わざの契約」と呼ばれているのですが、この呼び方のことはおいておきます。注意したいのは、この「本人の完全な服従を条件として」と言われているときの「完全な服従」とはどのようなことかということです。 私たちが「完全な服従」ということを考えますと、それは、極めて厳しいものであるというイメージをもってしまいます。それで、「本人の完全な服従を条件として」ということは、とても厳しい条件であると感じてしまいます。しかし、これは、人類の堕落後の状況にある世界に生きている私たちの読み込みによることです。実際には、つまり、創造の御業において神のかたちに造られた状態にある人にとっては、そのようなことはまったくなかったのです。 ここで言われている「完全な服従」とは、契約の主のみこころを表す律法に完全に従うことです。すでにお話ししましたように、契約の神である主の律法は、契約の神である主を愛することとと、契約共同体の隣人を愛することに要約される愛の律法ですし、契約の神である主への愛と隣人への愛をさまざまな状況において表現していく原理です。しかも、人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られていますし、主の律法は初めから神のかたちに造られた人の心に記されています。それで、神のかたちに造られた人にとっては、愛の律法は外から自分を規制してくるものではなく、自分の愛の本性に沿った、最も自然なものです。 このことを先ほどお話ししました歴史と文化を造る使命の意味を考え合わせますと、「完全な服従」とは、具体的には、歴史と文化を造る使命を果たすことの中での「完全な服従」のことです。それは、「完全な服従」ということばが、今日の私たちにとって感じられる窮屈さとはまったく無縁のものです。神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことは、自らの心に記されている愛の律法にしたがって、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造ることにほかなりません。造り主にして契約の神である主の愛に包んでいただいているものとして、主を神として愛し、あがめ、礼拝することを中心として、同じく神のかたちに造られている契約共同体の隣人を愛し、歴史と文化を造る使命とともに委ねられているすべての生き物たちに愛といつくしみを注ぎつつ、神さまの栄光を豊かに表す歴史と文化を造るのです。これは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られており、その心に愛の律法を記されている人にとっては、最も自然なことであり、最も喜ばしいことであり、最も意味あることです。ですから、「本人の完全な服従を条件として」ということは、造り主である神さまから委ねられた、最も意味があり、最も喜ばしいことであり、最も自然なことである歴史と文化を造る使命を果たすことであり、決して重荷となることではなかったのです。 ウェストミンスター信仰告白第7章2項において、 人間と結ばれた最初の契約はわざの契約であって、それによって、本人の完全な服従を条件として、アダムに、また彼においてその子孫たちに命が約束された。 と告白されているのは、人が神さまの律法に完全に服従するなら、契約の神である主は報いを与えてくださって、永遠のいのち、すなわち、最初に神のかたちに造られたときのいのちよりさらに栄光に満ちたいのちを与えてくださるということを意味しています。 同じことを繰り返すことになりますが、ここで告白されていることですべてが尽くされているわけではありません。神のかたちに造られた人が神さまの律法に完全に服従するということは、具体的には、神さまが委ねてくださった歴史と文化を造る使命を果たすことでした。そのことに対して、神さまは報いてくださって、永遠のいのちを与えてくださいます。しかし、それがみことばが教えているすべてではありません。人だけが栄光を受けるのではないのです。神さまは神のかたちに造られた人を栄光に満ちたものとしてくださるだけでなく、神のかたちに造られた人に委ねられたこの世界をも、神さまの栄光をより充満な形で現す世界をしてくださって、それを栄光あるものとされた人に受け継がせてくださるのです。その神さまの栄光をより充満な形で現す世界に当たるのが、新しい天と新しい地です。 どうしてこのようなことが言えるのかということですが、みことばは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したことによって、人が罪へのさばきを受けて死ぬべきものとなってしまっただけでなく、歴史と文化を造る使命において神のかたちに造られた人に委ねられたこの世界全体が虚無に服してしまったと教えています。その最初のあかしは、罪を犯してしまった最初の人アダムに対する神である主のさばきのみことばに見られます。創世記3章17節ー19節には。 また、人に仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と記されています。 言うまでもなく「土地」は人格的な存在ではありませんので、倫理的な責任は負っていません。それで「土地」が罪を犯すということはありません。それなのに、アダムが罪を犯したために「土地」がそののろいを受けたということは、どういうことなのでしょうか。それは、1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているみことばがあかししていますように、神さまが神のかたちに造られた人に「地を従え」る使命をお委ねになったことによっていると考えられます。その使命において、「地」は神のかたちに造られた人と一体とされているということです。 そればかりではありません。神さまのみことばは、神のかたちに造られた人がこの世界のすべてのものの「かしら」として立てられていることを示しています。詩篇8篇5節、6節には、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されています。 すでに繰り返し取り上げてきましたように、この最後に引用しました、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばは、新約聖書のあちこち(コリント人への手紙第一・15章27節、エペソ人への手紙1章22節、ヘブル人への手紙2章6節ー8節)に取り上げられています。しかも、それは、人としての性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストがご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださった後に、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、天に上って、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、原理的に、成就していることを示しています。 最初の人アダムが造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、最初の契約のかしらであるアダムと一体にある全人類が堕落し、死の力に服してしまいました。そればかりでなく、歴史と文化を造る使命によって神のかたちに造られた人と一体とされている全被造物がのろいを受けて虚無に服してしまいました(参照ローマ人への手紙8章19節ー21節)。 これに対して、父なる神さまはご自身の独り子を贖い主として立ててくださいました。 永遠の神の御子は、今から2千年前に、人としての性質をお取りになって来てくださいました。罪を除いて、すべての点で私たちと同じ人の性質をお取りになりました。このようにして、真の神であられつつ、まことの人となられた御子イエス・キリストは、最初の人アダムと同じように、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約の下にある方となられました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに服従されました。つまり、ウェストミンスター信仰告白第7章2項で、「本人の完全な服従を条件として」という最初の契約の条件を満たされたのです。それで、その「完全な服従」に対する報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられたのです。 先ほど、神のかたちに造られた人にとって「完全な服従」は、最も意味あることであり、最も喜ばしいことであり、最も自然なことであるということをお話ししました。それは、決して難しいことではありませんでした。しかし、御子イエス・キリストにとっては少し事情が違いました。「完全な服従」が最も意味あることであり、最も喜ばしいことであり、最も自然なことであるということには変わりがありません。しかし、御子イエス・キリストが従うべき父なる神さまのみこころは、最後にはイエス・キリストご自身が私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りのすべてを受けて、地獄の刑罰に相当する刑罰をお受けになることに至るまで従い通すことでした。それが、どんなに苦しいことであるかは、ことばにすることもできません。しかし、イエス・キリストはその十字架の死にまで従い通されました。 それによって、イエス・キリストは、ご自身を約束の贖い主として信じ、主として告白している私たちの罪を贖ってくださり、私たちを御霊によって復活のいのちによって新しく生まれさせてくださっています。父なる神さまは私たちを御子イエス・キリストのうちにあるものとしてくださり、御前に義と認めてくださり、ご自身の子としてくださって、恐れなく御前に近づいて、礼拝することができるものとしてくださっています。 しかし、先ほどお話ししましたように、みことばは、御子イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことが、詩篇8篇6節の、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばを成就することでもあるということも明らかにしています。言い換えますと、栄光のキリストは創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられるということです。 栄光のキリストはこのようにして成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造されます。そして、その新しい天と新しい地は、創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられたこの世界の栄光化されたものであり、やはり、栄光のキリストによって罪を贖われた私たち主の契約の民に委ねられるものです。ペテロの手紙第二・3章13節には、 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 と記されています。それは、罪がまったく清算されて、「義が住んでいる」(直訳)、すなわち、神さまのみこころが完全に実現し、行われている新しい天と新しい地です。 確かに、栄光のキリストは、終わりの日に、私たちを復活の栄光のうちに導き入れてくださるために来てくださいます。しかしそれだけではなく、私たち神の子どもたちとの一体において栄光化される新しい天と新しい地を、私たちに受け継がせてくださるためにも来てくださいます。 |
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