黙示録講解

(第1回)


説教日:2011年2月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(17)


 ヨハネの黙示録1章1節には、黙示録が「すぐに起こるはずの事」を示すために記されていることが示されています。これまで、このことと関連していくつかのことをお話ししてきました。
 その最後のこととして取り上げているのは、22章7節、12節、20節に記されている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばをどのように理解したらいいかという問題です。というのは、このみことばが記されてから2千年経った今も、まだイエス・キリストの再臨がないからです。
 この問題を考えるうえでわきまえておかなければならないことは、イエス・キリストの再臨の意味です。終わりの日にイエス・キリストが再び来られるのは、神さまが創造の御業と贖いの御業によって実現し、始めてくださったことを完成に至らせてくださるためであるということです。
 さらに、このこととのかかわりで大切なことは、神さまの創造の御業と贖いの御業の関係です。言うまでもなく、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落することがなければ、贖いの御業は必要ありませんでした。神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、神さまが創造の御業によって実現し、始めてくださったことが、損なわれてしまいました。神さまはそれを回復し、完成させてくださるために贖いの御業を遂行しておられます。
 このことに関しては、少し注意深く考える必要があります。広く、贖いの御業の意味と目的は、私たちご自身の契約の民を死と滅びの中から救い出してくださることであると考えられています。しかし、ご自身の契約の民を死と滅びの中から救い出してくださることは大切なことではありますが、主の贖いの御業の意味と目的のすべてではありません。贖いの御業の意味と目的は、ご自身の契約の民を死と滅びの中から救い出してくださることであるという理解は、贖いの御業の意味と目的を極めて狭く、しかも、人間中心に理解しています。このことは、創造の御業を視野に入れて考えるとよく分かります。
 創世記1章26節ー28節には、

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここに記されているように、人は神のかたちに造られています。では、人は何のために神のかたちに造られたのでしょうか。もちろん、死と滅びの中から救われるために、神のかたちに造られたのではありません。先ほどの、神さまの贖いの御業の意味と目的は、私たちご自身の契約の民を死と滅びの中から救い出してくださることであるという理解ですと、人は死と滅びの中から救い出されるために造られたかのように理解してしまうことになります。このような理解は、神さまのみことばである聖書が示している創造の御業と贖いの御業の関係を視野に入れていないために生じてしまいます。
 人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られました。それは何よりも、造り主である神さまの愛を受け止め、神さまとの愛の交わりのうちに生きるためです。より具体的には、造り主である神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、神さまへの愛を表していきます。神さまがお造りになったこの世界に現れている神さまの愛といつくしみ、知恵と力に満ちた聖なる属性を汲み取りつつ、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することによって、神さまへの愛を表すのです。また、そのような礼拝を中心とした神さまとの交わりのうちにあって、神さまの愛に包まれて、同じく神のかたちに造られている者たち同士の愛の交わりを広げ、さらには、委ねられた生き物たちにいつくしみを注いでいきます。
 このようにして、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、神さまへの愛と、お互いへの愛、そして、委ねられた生き物たちへのいつくしみを表していきます。そのすべてをとおして、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を現すのです。このことのために人は神のかたちに造られています。


 その神のかたちに造られた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人は造り主である神さまに対して罪を犯したものとして、神さまの聖なる御怒りを受けて滅ぶべきものとなってしまいました。ここで話が終わっていれば、神さまの贖いの御業はご自身の民を永遠の滅びから救い出してくださるためのものであるということになります。しかし、ここで話は終わってはいません。神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにより、この世界をさまざまな可能性を秘めた歴史的な世界としてお造りになり、この世界の歴史と文化を造る使命を神のかたちに造られた人にお委ねになった神さまの創造の御業をとおして表されたみこころの実現が阻止されてしまったのです。
 これを霊的な戦いという視点から見ますと、暗やみの主権者であるサタンが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人を造り主である神さまに背くように誘惑して成功したことによって、サタンが神さまの創造の御業をとおして表されたみこころの実現を阻止したことになったのです。
 父なる神さまがご自身の御子を贖い主として立ててくださり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、贖いの御業を成し遂げてくださったのは、神さまが創造の御業をとおして表されたみこころを実現し、完成へと至らせてくださるためです。私たちご自身の契約の民を永遠の滅びの中から贖い出してくださったばかりでなく、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして、また、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすものとして、回復してくださいました。
 永遠の神の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったので、私たちの罪は完全に贖われています。私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきは、すでに、御子イエス・キリストの十字架において執行されており、終わっています。私たちはもはやサタンとその子孫とともに自らの罪のさばきを受けて、滅びるべきものではありません。ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 私たちはかつて「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた」ものでした。しかし、今は、このような贖いの御業にあずかって解放されています。そして、死の力から解放されているものとして、いやむしろ、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きているものとして、新しい時代の歴史と文化を造るように召されています。また実際に、私たちは造り主である神さまを神として礼拝することを中心として、神さまを愛し、契約共同体の隣人を愛することを本質とする新しい時代の歴史と文化を造っています。

 このすべては、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。それは、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが御霊によって私たちを愛のうちに生かしてくださり、導いてくださっているということでもあります。栄光のキリストは御霊によって私たちが新しい時代の歴史と文化を造るように、私たちを愛のうちに生かしてくださり、導いてくださっています。
 このことは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、十字架の死によってご自身の民のための贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが与えてくださった命令において更新されて与えられていることを意味しています。このイエス・キリストが与えてくださった命令は一般には「大命令」(Great Commission 「大いなる任務」)と呼ばれますが、日本では「大宣教命令」と呼ばれています。この命令についてはマタイの福音書28章18節ー20節に、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 ここで、イエス・キリストは、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

と約束してくださっていますが、それは、父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストが、御霊によって常にご自身の契約の民とともにいてくださり、福音のみことばの宣教をとおしてご自身の民を死と滅びの道から、ご自身の御臨在の御許へと贖い出してくださり、父なる神さまを礼拝することを中心として、新しい時代の歴史と文化を造るように導いてくださることを意味しています。
 そして、終わりの日には、栄光のキリストが再び来てくださって、私たちが地上において造っている新しい時代の歴史と文化を完成してくださる形で、新しい天と新しい地を造り出してくださいます。

 この「大命令」において、栄光のキリストは、

 あらゆる国の人々を弟子としなさい

と命じておられます。これがこの「大命令」の中心となっている命令です。ですから、この「大命令」では、空間的、地理的に、「あらゆる国の人々」が視野に入っています。また、歴史的、時間的には、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

と約束されているように、「世の終わりまで」が視野に入れられています。「世の終わりまで」全体を視野に入れながら、「いつも」という、いつの時代のどの人にも、また、その人のどんな時にもというような、細やかさをもった約束です。
 このことは、すでに取り上げたことがありますが、終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章14節に、

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されていることを思い起こさせます。このイエス・キリストの教えにおいても「全世界」と「すべての国民」が視野に入れられています。
 とはいえ、イエス・キリストの教えにおいて初めて「全世界」や「すべての国民」が視野に入ってきたのではありません。すでにお話ししましたように、これは、契約の神である主がアブラハムに与えてくださった召命とともに約束してくださっていたことの成就です。主がアブラハムを召してくださったことを記している創世記12章3節には、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、アブラハムへの約束が記されています。主は「地上のすべての民族」を視野に入れて、アブラハムを召してくださっています。
 そして、創世記22章に記されていますように、アブラハムは約束によって生まれた子であるイサクを主にささげました。アブラハムはイサクをささげなくてすんだのではありません。主はアブラハムがイサクを殺すことは止められましたが、雄羊を備えてくださってアブラハムがイサクの代わりにそれをささげるようにしてくださいました。これによって、アブラハムがイサクを主にささげることを完遂させてくださいました。アブラハムは確かにイサクを主にささげ、主はイサクをご自身のものとしてお受け取りになられました。これによって、アブラハムとイサクの血肉の関係はいったん切れてしまっています。それで、アブラハムは、改めて、新しいイサクを主から受け取っています。このことに、「アブラハムの子」とは、必ずしもアブラハムの血肉の子孫のことではないことが示されています。
 そのようにして、アブラハムが約束の子イサクを神さまにささげたたとき、主は、アブラハムに、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と約束してくださいました。この約束においても「地のすべての国々」が視野に入れられています。
 このことは、最終的には、イエス・キリストにおいて成就しています。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されているとおりです。
 ここで、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり

と言われているときの「異邦人」は複数形です。そして、この「異邦人に」ということばは、この部分の最初に出てきて強調されています。「アブラハムへの祝福が」「異邦人に及ぶ」ということが大切なことであるのです。このことは、すでに、このガラテヤ人への手紙3章の8節に、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。

と記されていたことでした。そして、この13節、14節においては、アブラハムの子孫として来られて、私たちに代わって律法ののろいを受けてくださったイエス・キリストにおいて、そのことが成就していることが示されています。
 14節には、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
 新改訳の訳ですと、「その結果」ということばで導入されている、

 私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです

ということは、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及」んだことの結果であるということになります。これは新改訳の解釈を示すものです。ギリシャ語の原文には「その結果」ということばがありません。それで、それを外して訳しますと、14節は、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

となります。この場合は、

アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ

ことと、

 私たちが信仰によって約束の御霊を受ける

ことは同じことを別の面から説明しているということになります。つまり、

アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ

ということは主の贖いの御業の歴史における預言と約束の成就のことを示しており、

 私たちが信仰によって約束の御霊を受ける

ということは、私たちそれぞれの現実のことを示しています。私たちが「キリスト・イエスによって」「アブラハムへの祝福」にあずかっていることは、「私たちが信仰によって約束の御霊を受け」ていることに現れているのです。
 私たちはこの御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれて、その復活のいのちによって新しく生まれています。そのイエス・キリストの復活のいのちは愛を本質的な特性とするいのちです。私たちはこの御霊によって、造り主である神さまを神として愛し、礼拝するものとなりました。また、この御霊によって、お互いに愛し合う神の子どもとしての歩みを続けるものとなりました。ローマ人への手紙8章14節、15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

と記されているとおりです。
 私たちはこのように、御霊に導いていただきながら、言い換えますと、栄光のキリストが私たちを御霊によって導いてくださることしたがって、愛を本質的な特性とする新しい時代の歴史と文化を造っています。それが新しい時代の歴史と文化であることは、それがイエス・キリストの贖いの御業に基づく、御霊のお働きによるものであることによっています。

 このように、イエス・キリストと使徒たちの教えを記している新約聖書は、神さまがアブラハムに与えてくださった契約の祝福が、アブラハムのまことの子孫であるイエス・キリストによって「すべての国民」に及ぶようになること、そのためには、福音が「全世界」の「すべての国民」に宣べ伝えられなければならないことを示しています。そして、そのことを踏まえたうえで、「世の終わり」が来ることを示しています。
 このことは、より広い視野で見てみますと、アブラハムのまことの子孫であるイエス・キリストによってアブラハムに約束された祝福が「すべての国民」に及び、それによって「すべての国民」の中から召された神の子どもたちが、御霊によって新しい時代の歴史と文化を造るようになるということです。そして、栄光のキリストは、その神の子どもたちを栄光のうちによみがえらせてくださり、すでに、神の子どもたちが造り出している新しい時代の歴史と文化を完成してくださる形で新しい天と新しい地を再創造してくださるために、終わりの日に再び来てくださるということです。
 そうしますと、黙示録に記されている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばは、このようなことの光の下で理解しなければなりません。このイエス・キリストのみことばは、時計を見ながら生活をしている私たちの感覚を規準として、理解してはならないものなのです。
 このみことばを理解するためには、これまでお話ししてきましたように、創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、人を神のかたちにお造りになって、これにこの世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまのみこころを最も基本的なこととして踏まえていなければなりません。また、その創造の御業において表された神さまのみこころが、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって実現しなくなってしまったときに、神さまがご自身の御子を贖い主として立ててくださって、ご自身の民を死と滅びの道から贖い出してくださったばかりか、新しい時代の歴史と文化を造るものとして回復してくださっていることをも踏まえていなければなりません。
 さらには、このことに暗やみの主権者であるサタンとその子孫の働きがかかわっていることも踏まえていなければなりません。

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばは、これらすべてのことにかかわる父なる神さまのみこころを実現し、完成へと至らせてくださることを約束してくださっているものです。
 先主日には、終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章の45節ー51節に記されている、イエス・キリストの教えについてお話ししました。そのたとえによる教えでは、24章全体に記されている教えに沿って、終わりの日のことが問題となっています。
 その教えではしもべに任務を委ねて旅に出た主人のことがたとえに用いられていました。そこには「忠実な賢いしもべ」と「悪いしもべ」が取り上げられています。「悪いしもべ」は終わりの日の栄光のキリストの再臨を表示する、主人の帰りの時のことを計算して、その時にはいいところを見せようとしていました。そして、主人の帰りがまだないと考えて委ねられた任務に反することをしていました。しかし、主人は思いがけない時に帰って来ました。これに対して、「忠実な賢いしもべ」は主人が帰る日を計算することなく、常に、主人が自分に委ねてくれた任務に忠実でした。もちろん、主人の帰りを待ちつつのことです。

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストのみことばは、そのような意味での忠実さ、常に変わることがない忠実さを求めるものであると考えることができます。
 しかし、それには先ほどお話ししました意味があります。ですから、その忠実さは単に指示された通りにしているという忠実さではありません。この世にあるがためのさまざまな試練の中にありながら、特に暗やみの主権者であるサタンとその軍勢の働きのためにもたらされるさまざなま試練にさらされながらも、栄光のキリストから委ねられている新しい時代の歴史と文化を造る使命を、栄光のキリストが必ず成し遂げさせてくださるとともに、終わりの日には完成へと至らせてくださることを信じて待ち望みつつ、忠実であるということです。
 これにつきましては、もう少し、お話ししたいことがありますので、さらにお話を続けます。


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