黙示録講解

(第1回)


説教日:2011年2月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録1章1節ー8節
説教題:すぐに起こるはずの事を(16)


 ヨハネの黙示録1章1節には、黙示録が「すぐに起こるはずの事」を示すために記されていることが示されています。これまで、このことと関連していくつかのことをお話ししてきました。その最後のこととして、22章7節、12節、20節に記されている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

という栄光のキリストのみことばをどのように理解したらいいかという問題についてお話ししています。
 この問題を考えるうえでわきまえておかなければならないことは、イエス・キリストの再臨の意味です。結論的に言いますと、終わりの日にイエス・キリストが再び来られるのは、神さまが創造の御業と贖いの御業によって実現してくださったことを完成に至らせてくださるためであるということです。


 神さまは創造の御業によって、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。この世界が歴史的な世界であるということは、ただ単に、この世界が時間とともに経過し、変化していく世界であるということを意味しているだけではありません。この世界が神さまがお造りになった目的に向かって前進していく世界であるということを意味しています。その意味では、この世界は進歩し発展していく世界として造られています。そのことは、神さまがお造りになったものにも現れています。神さまは創造の御業の第3日に種をもって実を結ぶ草や木をお造りになりました。その草や木の実は、一粒からさらに豊かな実を結ぶ草や木に成長します。また、生き物もさらに多くの子を生み、その生息する地や海に増え広がっていきます。神のかたちに造られた人も例外ではありません。神さまはこれらのものが増え広がる世界を知恵をもって造っておられますし、愛といつくしみの御手をもって、いっさいのものを、真実に支えてくださっています。
 詩篇104篇24節には、

 よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
 あなたは、それらをみな、
 知恵をもって造っておられます。
 地はあなたの造られたもので満ちています。

と記されています。神さまはこれらすべてのことをとおして、ご自身の造り主としての栄光を現しておられます。
 神さまは人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。このようなご自身の御手のわざである歴史的な世界を神のかたちに造られた人にお委ねになったのです。人は神のかたちの本質的な特性である愛をもって、自らに委ねられたこの世界の歴史と文化を造るように召されています。それは、何よりもまず、造り主である神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることに現れてきます。人はこの世界に現れている造り主である神さまの知恵と力、愛といつくしみに満ちた聖なる属性を汲み取って、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝します。このことが、神のかたちに造られた人の造る歴史と文化の中心にあります。このことを中心にして、神のかたちに造られた人はお互いの間においても、神のかたちの本質的な特性である愛を表します。さらには、委ねられた生き物たちに対していつくしみを表します。このようにして神のかたちに造られた人が造る歴史と文化は、神さまの栄光を現す歴史と文化です。
 これが歴史的であるということは、先ほどお話ししましたように、それが造り主である神さまが定められた目的に向かって進歩し発展していくことを意味しています。このことを今お話ししていることに合わせて言いますと、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造るにしたがって、神さまの栄光がより豊かに現されるようになるということを意味しています。神さまが創造の御業によって造り出された世界は、神さまの知恵と力、愛といつくしみなどの聖なる属性を豊かに映し出す世界でした。それで、神さまの栄光はこの造られた世界をとおして豊かに現されています。しかし、神さまがこの世界を歴史的な世界としてお造りになったのは、この世界が、神さまが最初に造られた状態のままで続くということではなく、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、この世界が造り主である神さまの栄光をさらに豊かに現すようになるためであったのです。
 神のかたちに造られた人は、このように豊かな祝福と重大な意味をもった使命を委ねられています。当然、神さまはこのような歴史と文化を造る使命をお委ねになっている人に、この使命に対するわきまえと、それを果たすのに必要な能力を与えてくださっています。ですから、神のかたちに造られた人は単なる能力をもっているのではなく、神さまがこの世界と自分たちをお造りになったことをわきまえています。さらには、神さまがお造りになったこの世界が歴史的な世界であり、自分たちも歴史的な存在であることをわきまえています。そして、神さまが自分たちを神のかたちにお造りになって、この世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことをわきまえています。これらのわきまえは造り主である神さまが神のかたちに造られた人のうちに植え付けてくださったもので、人が生まれた後に学んで身に着けるものではありません。このようなわきまえをひとことで言い表せば「歴史の観念」ということになるでしょう。ただし、このことばは一般に用いられているものではありません。これはすでにお話ししたことがある「神の観念」と関連させて「歴史の観念」としたものです。

 これを理解するために、この「歴史の観念」と関連している、神のかたちに造られた人の本性に植え付けられている「神の観念」のことを振り返ってみましょう。
 前に取り上げたことがありますローマ人への手紙1章20節ー23節には、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 20節では、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と言われています。これは、「被造物」すなわち神さまがお造りになったこの世界、今日のことばで言えば、この大宇宙のすべてのものをとおして、神さまの「目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」が啓示されているということです。
 当然、この「被造物」の中には、神のかたちに造られた人も含まれています。しかも、聖書のみことばによりますと、神のかたちに造られた人はこの「被造物」の頂点として造られています。それは、人のからだの成り立ちの不思議さに造り主である神さまの知恵と力が現されているという以上のことです。そのことであれば、他の生き物たちにも当てはまります。人は愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られています。それゆえに人は自由な意志をもつ人格的な存在であり、その心に造り主である神さまの律法が記されています。そして、それは愛の律法です。というのは、マタイの福音書22章37節ー40節に、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

というイエス・キリストの教えに示されているように、神さまの律法の全体がこの二つの大切な戒めに要約されるし、この二つの戒めから律法のすべての戒めが出ているからです。この愛の律法が人の自由な意志を導いて、人は契約の神である主と契約共同体の隣人を愛するようになります。神のかたちに造られた人は初めから神さまの契約のうちにあるものとして造られています。それで、初めから契約の神である主と、契約共同体の隣人を愛するものでした。このようにして、神のかたちに造られた人は、自らが愛を本質的な特性とする人格的な存在であることをとおして、造り主である神さまが生きておられる人格的な方であられ、愛の神であられることを直接的に現す存在であるのです。
 神のかたちに造られた人はそのように愛を本質的な特性とする人格的なものですので、自らのうちに造り主である神さまに対するわきまえをもっています。それは生まれた後に人から教えられるものではなく、神のかたちに造られたそのときから人の心に植え付けられているわきまえです。これは神のかたちに造られた人の本性に植え付けられている造り主である神さまへのわきまえです。人にはこのわきまえがあるので、人は自らの外にあるこの世界に現されている神さまの「目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」を受け止めることができるのです。このように、神のかたちに造られた人の本性に造り主である神さまへのわきまえが植え付けられているので、またそれゆえに、人がこの世界に現されている神さまの「目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」を受け止めることができるので、ローマ人への手紙1章21節においては、

 彼らは神を知っている

と言われています。このような神のかたちに造られた人の本性に植え付けられている造り主である神さまへのわきまえのことを「神の観念」とか「神聖観念」とか「宗教の種」などと呼びます。
 神のかたちに造られた人の本性には、この「神の観念」だけでなく、これとともに、これと密接に結びついている「歴史の観念」も植え付けられています。

 造り主である神さまは人を神のかたちにお造になって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。そして、それにともなって、人の本性に造り主である神さまに対するわきまえとしての「神の観念」と「歴史の観念」を植え付けてくださいました。このことは、人が人であるかぎり変わることはありません。実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。しかし、そうではあっても、人が神のかたちに造られていることも、歴史と文化を造る使命を委ねられていることも変わってはいません。神のかたちに造られた人の本性に「神の観念」が植え付けられているので、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、「神」に対する本性の欲求を満たそうとします。しかし、人は罪によって心は造り主である神さまから離れてしまっていますので、造り主である神さまを神としないで、自らの発想に基づいて偶像を作り出してしまいます。このことが、ローマ人への手紙1章21節ー23節に、

彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 それと同じように、造り主である神さまが神のかたちに造られた人の本性に「歴史の観念」を植え付けておられるので、歴史と文化を造ります。このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落した後も変わることがありません。いかなる意味においても歴史と文化を造ることがないという人はありません。しかし、人は自らの罪によってその心が造り主である神さまから離れてしまっています。それで、人は造り主である神さまを神として礼拝することを中心として歴史と文化を造ることはありません。その意味で、造り主である神さまの栄光を現す歴史と文化を造ることはありません。実際に、人は造り主である神さまの代わりにさまざまな「偶像」を作り出し、それに仕える歴史と文化を造ってきました。
 人が天地創造の御業の初めから今日に至るまで、さまざまな歴史と文化を造ってきたのは、人が神のかたちに造られており、神さまから歴史と文化を造る使命を委ねられており、その使命を果たすために必要なあらゆる能力、賜物を与えていただいているからです。
 その意味では、罪によってその心が造り主である神さまから離れてしまっている人も、自分ではまったくその意志がないのに、いわば不本意ながら、造り主である神さまの栄光を現さざるをえないのです。もちろん、その人は造り主である神さまを神と認めることはありません。まして、造り主である神さまを礼拝することはありません。しかし、その人が偶像を作り出すこと自体が、造り主である神さまが神のかたちに造られた人の本性に「神の観念」を植え付けておられることを現しています。また、その人がその偶像に仕えながら歴史と文化を造ること自体が、造り主である神さまが神のかたちに造られた人の本性に「歴史の観念」を植え付けておられることを現しています。このことに、その人の思いを越えて、神さまの御業が映し出されているのです。
 ある国の王が自分の民のための事業をするようにと命じて、多額の資金を家来に与えたとします。ところが、そのばく大な資金を手にした家来が、その王国の民のための事業をするどころか、多くの民を欺いて自らを肥やすような事業をしたとします。
 この場合、この家来があこぎな事業ではあっても、その事業をすることができること自体は、王が資金を与えたからです。つまり、この家来が事業をしていること自体は、王から資金を与えてもらっていることを現しています。しかし、その資金はその王国の民のためになる事業をするために、王から与えられたものです。家来はそれを悪用しています。それによって、王の思いをまったく踏みにじっています。本来、王の民へのいつくしみを現すためのものであるはずの資金を使って、王の不名誉になることをしています。当然、王はそのような家来をさばき、その家来を罰するとともに、その事業を悪い事業として廃止することになります。そのことにおいて、王国の民のために事業資金を使うことが王の意志であることが明らかにされます。
 人が愛を本質的な特性とする神のかたちに造られ、それゆえに、自由な意志をもつ人格的な存在であり、その心に愛の律法が記されていること、また、歴史と文化を造る使命を委ねられており、それゆえに、歴史と文化を造る使命を果たすために必要なさまざまな能力、賜物を与えられていることは、そのたとえで、王が家来に資金を与えたことに当たります。神のかたちに造られた人は造り主である神さまからこれらの祝福と賜物を与えられているので、歴史と文化を造ります。しかし、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、それらの賜物を与えてくださった造り主である神さまのみこころを踏みにじる歴史と文化を造ってしまいます。ちょうど、先ほどのたとえで、不真実な家来が王が資金を与えたときの王の意志を踏みにじってしまっているのと同じです。そして、王が不真実な家来をさばいて罰し、その事業を廃止するように、そのような、造り主である神さまのみこころを踏みにじるような歴史と文化を造っている人は、神さまのさばきを受けるようになります。そして、その人とその人が造った歴史と文化は滅び去ってしまいます。それは、神さまが神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の本来の意味が明らかにされるためのことでもあります。神のかたちに造られた人が本来どのような歴史と文化を造るべきであるのかが明らかにされるのです。

 このようなことを念頭において、イエス・キリストの教えの一つを見てみましょう。マタイの福音書24章には、イエス・キリストがオリーブ山で教えられた、終わりの日に関する教えが記されています。そのいくつかはすでにいろいろな機会にお話ししたことがありますが、その24章の最後に記されている、たとえによるイエス・キリストの教えを見てみたいと思います。45節ー51節には、

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、「主人はまだまだ帰るまい」と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

と記されています。
 ここにはいろいろなことが記されていますが、いまお話していることと関連することだけをお話しします。
 ここには二人のしもべが出てきます。一人は「忠実な賢いしもべ」と呼ばれており、もう一人は「悪いしもべ」と呼ばれています。この二人は、

 主人から、その家のしもべたちを任されている

立場にあります。ここで「家のしもべたち」と訳されたことば(オイケテイア)は、雇い人や奴隷などを含む「家庭」や「世帯」を表わすことばです。しかし、ここでは、これに続いて、「忠実な賢いしもべ」の場合には、

 食事時には彼らに食事をきちんと与える忠実な賢いしもべ

と記されていますし、「悪いしもべ」の場合には、

 その仲間を打ちたたく

と記されています。ここに出てくる「仲間」ということば(シュンドゥールース)は文字通りには「しもべ仲間たち」を表しています。また、47節に、

まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

と記されていることから、このしもべたちはまだ主人の「全財産」までは任せられていません。それで、ここではこれら二人のしもべは「家のしもべたち」のかしらに任ぜられていると考えられます。
 とはいえ、このたとえによる教えは教会の指導者たちだけに当てはまるものではありません。このたとえに出てくる主人は契約の神である主を表していますが、最も広い視野で見ますと、神のかたちに造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、その主人から権威を委ねられたしもべにたとえられます。
 イエス・キリストのたとえにおいて、「忠実な賢いしもべ」のことは、

食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべ

と言われています。「家のしもべたち」のかしらに任ぜられているしもべが、その「家のしもべたち」の食事のお世話をしています。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人も、造り主である神さまから委ねられた生き物たちのお世話をしていたと考えられます。
 これに続いて、

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

と言われています。これは、取りようによっては、主人が帰って来たときに、たまたま、しもべ仲間の世話をしていたので、それを主人に認められた人はラッキーであったというような意味に取れます。実際に、どこかこれに近い理解の仕方をしている向きがないでもありません。その他の時にはどうであれ、主が再び来られる時には、善いことをしていたいというような思いをもっているわけです。もちろん、イエス・キリストはそのようなことを教えてはおられません。
 このことは、これを、「悪いしもべ」の場合と比べてみますと明らかになります。
 「悪いしもべ」については、

 「主人はまだまだ帰るまい」と心の中で思い、

と言われています。ところが、「忠実な賢いしもべ」については、主人がいつ帰って来るかということへの関心が記されていません。「忠実な賢いしもべ」が、主人がいつ帰るかということに無関心であったという意味ではありません。「忠実な賢いしもべ」は、主人が帰ってくる時だけにという計算をしないで、常に、忠実であったということです。これに対して、「悪いしもべ」は、主人が帰ってくる時を計算しています。そして、主人が帰って来た時にはいいところを見せようとしていたのです。
 ところで、「悪いしもべ」はどうして、

 主人はまだまだ帰るまい

と考えたのでしょうか。二つの可能性があります。
 一つは、主人がこれこれの用事で出かけると、そのしもべに告げたのであれば、その用事から帰りの時を推測していたということです。この場合は、初めから、主人が帰るまでには、かなりの期間があるということが予想できたので、

 主人はまだまだ帰るまい

と考えたわけです。
 もう一つの可能性は、主人の用事の内容が告げられなかった場合です。この場合は、そのしもべが考えていたよりも主人の帰りが、かなり遅くなったということでしょう。少々遅れている状況では、

 主人はまだまだ帰るまい

とは考えません。
 いずれの場合にも、主人の帰りが遅いものであることが踏まえられています。
 先ほどお話ししましたように、このたとえにおいて、

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべ幸いです。

と言われていますが、これは、主人がいつ帰ってくるかということを計算しないで、常に、委ねられていることに忠実であるしもべのことを述べています。これと同じことは、このたとえによる教えに先だつ、44節に記されている、

だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

というイエス・キリストのみことばにも当てはまります。このことは、いま問題となっている、

 見よ。わたしはすぐに来る。

というイエス・キリストの教えにも当てはまります。

 このようなことを踏まえて、終わりの日のことについてのパウロの教えの一つを見てみましょう。テサロニケ人への手紙第一・5章1節ー10節には、

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

と記されています。私たちが、

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

というみことばが示すことに沿って常に「主とともに生きる」とき、私たちには主の日が「盗人のように・・・襲う」ことはありません。


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