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説教日:2011年2月6日 |
神さまは創造の御業によって、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。そして、人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになった世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。 人は、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きるものとして、神のかたちに造られています。神のかたちに造られた人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きることにあります。そのように、人は神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちにあって、歴史と文化を造る使命を果たします。その使命は、神さまがお造りになったこの世界と、その中の一つ一つのものに現れている神さまの知恵と力、愛といつくしみなどの聖なる属性を汲み取って、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを造り主として礼拝することを中心として、神さまの栄光を現す歴史と文化を造ることです。 この意味で、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、神さまが創造の御業によって造り出されたこの世界を受け継いでいます。このことは、神さまが御子イエス・キリストをとおして遂行される贖いの御業の歴史の中で、「約束の地」を地上的な「ひな型」として、地を受け継ぐこと、あるいは、神の国に入ることが重要な主題の一つになっていることにかかわっています。 ちなみに、神の国と天の御国は同じものを指しています。言うまでもなく「天国」とは聖書では「天の御国」のことです。また、私たちが地を受け継ぐことと、神の国すなわち天の御国に入ることは同じことを別の面から見ているだけです。地を受け継ぐことは、最終的には、終わりの日に来られる栄光のキリストが、ご自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、再創造される新しい天と新しい地を受け継ぐことにほかなりません。 その新しい天と新しい地は、創世記1章1節において、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われている、神さまが創造の御業によって造り出されたこの世界の完成したものです。新しい天と新しい地においては、神さまが最初の創造の御業によって造り出された世界にご臨在されたときより、さらに豊かな栄光に満ちた御臨在があります。イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪をまったく贖っていただき、イエス・キリストの復活にあずかって栄光によみがえる私たちは、新しい天と新しい地における神さまの充満な栄光に満ちた御臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになります。 また、終わりの日に栄光のキリストがご自身の成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地も、歴史的な世界であることには変わりがありませんし、罪をまったくきよめられて、栄光あるものとしてよみがえるからといっても、私たちが時間的な存在であることには変わりがありません。さらに、神さまが最初の創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが、新しい天と新しい地において取り消されるということでもありません。私たちは新しい天と新しい地においても歴史と文化を造る使命を負っています。充満な栄光に満ちた神さまの御臨在の御許において、さらに豊かな愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして、新しい天と新しい地とその中にあるものに現れている神さまの知恵と力、愛といつくしみなどの聖なる属性をより深く豊かに汲み取りつつ、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを礼拝することを中心として新しい天と新しい地の歴史と文化を形成するのです。 このようにして、神さまはご自身が最初の創造の御業において実現してくださったことを、贖いの御業によって回復してくださるばかりか、完成へと至らせてくださいます。これが、神さまがそのみことばである聖書全体をとおして示してくださっていることです。 どうして、神さまが最初の創造の御業において実現してくださったことが、そのまま完成へと至らないのでしょうか。それは、言うまでもなく、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからです。 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、神さまがお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る主役です。暗やみの主権者であるサタンは、このような意味をもっている人を、造り主である神さまに背くようにと誘惑して成功しました。それによって、この世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人にこの世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた神さまのみこころは踏みにじられてしまった形になりました。 もちろん、神さまはその時点で、ご自身に対して罪を犯して、ご自身に背くものとなってしまった人をサタンともどもおさばきになって、滅ぼしてしまうこともおできになりました。そして、この世界は神のかたちに造られた人以外の存在、たとえば御使いたちにお委ねになって、その歴史と文化を造ることもおできになったことでしょう。しかし、ヘブル人への手紙2章5節ー8節には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 と記されています。神さまは「後の世」すなわちやがて来たるべき新しい天と新しい地を御使いたちにではなく、神のかたちに造られた人にお委ねになりました。 そのことを示すためにここで引用されているのは詩篇8篇4節ー6節です。これは、神さまが創造の御業によって人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことを記しています。ですから、このヘブル人への手紙2章5節ー8節では、創造の御業において神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、「後の世」すなわち新しい天と新しい地を委ねられていることが示されているのです。 そのために、神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださり、御子をとおして贖いの御業を遂行してくださいました。同じヘブル人への手紙1章3節には、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されています。ここでは、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であられる御子が「罪のきよめを成し遂げ」られたことが記されています。そしてこれにつづいて、 すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 と記されています。これは詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることの成就です。このテーマはヘブル人への手紙の中ではさらに、1章13節で取り上げられていますが、それは飛ばしまして、10章12節節ー14節に記されていることを見てみましょう。そこには、 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。 ここにあかしされていますように、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、人を誘惑して罪を犯させた「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する主のさばきの宣言を記している創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されている中に出てくる「女の子孫」のかしらであられる方は御子イエス・キリストであったのです。御子イエス・キリストはその十字架の死によって罪の聖めを成し遂げられ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられ、 すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 そこにおいて、サタンとその子孫たちに対する最終的なさばきを執行されるべき時、すなわち終わりの日のさばきの執行の時を待っておられます。その時になれば、ご自身が「女の子孫」のかしらとして、サタンとその子孫たちへの最終的なさばきを執行されます。 しかし、御子イエス・キリストは、ただその最終的なさばきの執行の時を待っておられるだけではありません。イエス・キリストは、 罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、 そこから約束の聖霊を注いでくださいました。 最初の聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事を記している使徒の働き2章1節ー4節には、 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と記されています。このことの意味を明らかにしているペテロの説教の結論部分に当たることを記している33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されています。 その日そこに居合わせた人々のことを記している5節ー11節には さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」 と記されています。この人々の出身地は、ユーフラテス川の東の地方とメソポタミアからアラビアまで、また小アジアの町々からエジプトとリビアに至るまで、そしてローマまでと広がっています。 5節に記されている、「敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て」(文字通りには「ユダヤたち、すなわち天下のあらゆる国からの敬虔な人たちが」)ということばは、その人々が、この「五旬節」(ペンテコステ)の祭りのためにエルサレムに来て滞在していたということを示しています。「五旬節」の祭りは「七週の祭り」とも呼ばれ、「過越の祭り」あるいは「種を入れないパンの祭り」、「仮庵の祭り」とともに、イスラエルの成人男子が年ごとにエルサレムにある主の神殿において主の御前に出でて、ささげ物をもって主を礼拝するように定められた三つの祭りの一つです。このことについては、申命記16章16節を参照してください。それで、ここにはエルサレムの住人たちとともに、「五旬節」の祭りのためにエルサレムに来て滞在していたユダヤ人たちと改宗者たちがいたと考えられます。 そして、その人々が、 あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。 と述べています。つまり、ガリラヤの人である弟子たちが、ここに集まってきた人々がやって来たすべての国のことばで「神の大きなみわざ」をあかししたということです。「神の大きなみわざ」ということばは、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業のことを指しています。 ここに記されていることは、ただガリラヤの人である弟子たちがここに集まってきた人々がやって来たすべての国のことばを話したということではありません。それでも大変な出来事ですが、それだけのことではありません。そのすべての国のことばで「神の大きなみわざ」が語られたということです。これは、すでにお話ししました、創世記11章1節ー9節に記されている、バベルでの出来事に対応しています。 ノアの時代に大洪水によるさばきによって終末的なさばきが執行され、ノアとその家族とノアとともにいた生き物たち以外のすべてが滅ぼされてしまいました。その後に、主は再び大洪水によるさばきによって人や生き物をすべて滅ぼすことはないと約束してくださいました。しかし、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人の本性は罪によって腐敗しており、人はその腐敗を極まらせてしまう傾向にあります。 そして、実際に、創世記10章8節ー12節に記されている権力者ニムロデの登場によって、人類は再び罪による腐敗を極まらせる方向に進み出しました。そのときに、主はその流れを阻止してくださるために、バベルにおいて、人々のことばを乱されました。その結果、思想や価値観が違ってしまった人々が地の面に散っていくようになりました。全人類が一つとなって、罪の腐敗を極まらせてしまう流れを造り出すのではなく、国あるいは民族が互いに競い合い、チェックし合って、腐敗が極まってしまうことが阻止されるように、主が摂理の御手をもって導いてくださるようになったのです。 このようにして、主は終わりの日に至るまで、人類が罪による腐敗を極まらせて、最終的なさばきを招くようになることがないように、歴史を保ってくださっています。 その間に、主はアブラハムを召してくださり、バベルにおいて散らされたすべての国民が、アブラハムによって祝福を受けるようになると約束してくださいました。その主の約束を記している創世記12章3節に、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と記されているとおりです。 このアブラハムへの約束は、アブラハムが約束によって生まれたイサクを主にささげたときに、より詳しいものとなりました。創世記22章18節には、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と記されています。これによって、アブラハムへの約束は、アブラハムの子孫によって地のすべての国民が祝福されるということであることが示されました。 そのことは、最終的には、アブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストによって実現しています。ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。 このみことばは、「五旬節」(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった「約束の御霊」を受けることが、アブラハムに与えられた祝福にあずかることであるを示しています。 同じガラテヤ人への手紙の4章4節ー6節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されています。 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって「律法ののろいから贖い出して」いただき、「子としての身分」を受けています。それで父なる神さまは「約束の御霊」すなわち、 「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 これによって、私たちは父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしていただいています。このようにして、アブラハムに与えられた約束が私たちのうちに成就し、私たちはその祝福にあずかっています。 このことを受けて、5章13節ー16節には、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 と記されています。 御霊によって導かれて歩む神の子どもたちは、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになりますし、「愛をもって互いに仕え」るようになります。このことを中心として、新しい時代の歴史と文化が造られるようになります。 ヘブル人への手紙1章3節で、 罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました とあかしされている御子イエス・キリストは、その御座から注いでくださった聖霊によって、私たちを神の子どもとして導いてくださり、父なる神さまへの愛と主の契約共同体の兄弟姉妹たちへの愛を特質とする新しい時代の歴史と文化を造るように導いてくださっています。それによって、私たちを神の子どもとしてさらに成熟したものとしてお育てくださり、キリストのからだである教会を建て上げてくださいます。 このすべてがアブラハムに与えられた約束の成就として起こっています。言い換えますと、バベルにおいて主のさばきを受けて地の全面に散らされた民が、御子イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いに基づいてお働きになる御霊によって、再び父なる神さまの御臨在の御許に集められ、父なる神さまを礼拝するものとされ、そのことを中心として、新しい時代の歴史と文化を造っているのです。 このことは、世の終わりまで、福音のみことばの宣教をとおして実現していきます。その意味で、マタイの福音書28章18節ー20節に、 わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 と記されている栄光のキリストの命令は、アブラハムへの約束の成就にかかわる命令ですし、ひいては、神さまが創造の御業によって神のかたちにお造りになった歴史と文化を造る使命を回復し完成へと至らせる命令です。 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 と言われていますように、栄光のキリストは世の終わりまで常に、御霊によってご自身の契約の民とともにいてくださり、この使命を実現してくださいます。そして、世の終わりには、再び来られて、暗やみの主権者であるサタンとその子孫に対する最終的なさばきを執行されるだけでなく、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださるとともに、新しい天と新しい地を再創造されて、私たちにそれを受け継がせてくださいます。 |
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