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説教日:2011年1月30日 |
神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、自らの本性が罪によって腐敗してしまいました。この「腐敗」は基本的に神さまとの関係におけるもので、造り主である神さまを神とすることなく、造り主である神さまを神として愛し、あがめることも、礼拝することもなくなってしまったことに、その第一の現れがあります。これによって、神のかたちに造られた人が造る歴史と文化も根本から腐敗したものとなってしまっています。 そのことに触れているローマ人への手紙1章21節には、 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 と記されています。 ここで、 彼らは神を知っていながら、 と言われていますように、すべての人は神さまを知っています。それは、神さまが人をご自身との愛の交わりに生きるものとして、神のかたちにお造りになったからです。人は外から教えられなくても、初めから造り主である神さまを知っているものとして造られています。そして、このことは、人が人であるかぎり変わることはありません[それで、このことは形而上的・心理的なことです]。罪を犯した人は造り主である神さまを知らないものとなったのではなく、造り主である神さまを知っていながら、神としてあがめることも、感謝することもしなくなってしまったのです[このことは、人の認識と意志にかかわることで、認識的・倫理的なことです]。これがローマ人への手紙1章21節で、 彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 と言われていることの意味です。 このように、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、神のかたちに造られたものとしての存在の奥底において造り主である神さまを知っていながら、造り主である神さまを神として認めることはありませんし、礼拝することもありません。その代わりに、罪の自己中心性によって、自らを神の位置に据えようとします。同時に、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとして造られているために、自らのうちにある「根本的な要求、欲求」が人を突き動かして、自らの考えにしたがって「神」に当たるもの、すなわち偶像を造り出して、それを礼拝し、それに仕えるようになります。そのことが、続く22節、23節では、 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と言われています。 これに続く24節ー32節には、 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。 と記されています。 24節冒頭には「それゆえ」ということばがあります。これは、24節ー32節に記されていることが、この前の部分に記されていることを受けていることを示しています。この前の部分に記されていることは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人が、造り主である神さまを知りながら、神としてあがめることも、感謝することもないばかりか、自らの間尺に合うものを神として作り出して、逆にこれに仕えるという、愚かなことをしているという現実です。 そして、このことが、25節に記されている、 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 ということばにまとめられて、再確認されています。つまり、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人が、造り主である神さまを知りながら、神としてあがめることも、感謝することもしないこと、そして、自らの間尺に合うものを神として作り出して、これに仕えていることが根本的な罪であり、そこから、この24節ー32節に記されているさまざまな罪が生み出されているということです。 このような基本的な構成の中で、さらに、24節、26節、28節に繰り返し用いられている「引き渡す」(パラディドーミ)ということばによって、造り主である神さまを知りながら、神としてあがめることも、感謝することもしないこと、そして、自らの間尺に合うものを神として作り出して、これに仕えていることを根本的な罪として、そこから生み出されるさまざまな罪は、神さまのさばきの結果として生み出されたものであることが示されています。 この「引き渡す」ということばが用いられている24節、26節、28節のそれぞれにおいて、主語である「神」ということばが用いられて強調されています。[ギリシャ語では最初に主語として「神」ということばが用いられれば、その後はわざわざ主語を表す必要はなく、動詞の3人称単数形を用いれば、その主語は「神」であることが伝えられます。]ここでは、彼らを彼ら自身の「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡された」のは神さまであることが強調されています。それは、彼らが造り主である神さまを知りながら、神としてあがめることも、感謝することもしないこと、そして、自らの間尺に合うものを神として作り出して、これに仕えていることに対するさばきとしてなされたことです。 この「引き渡された」と3回繰り返して言われていることについて、それぞれを具体的に見てみましょう。 一つ目の24節には、 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 と記されています。ここでは、 神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡された と言われています。ここでは、「その心の欲望のままに」と言われているときの「ままに」と訳されたことば(エン)をどのように理解するかの問題がありますが、彼らが自らの「心の欲望」のうちにあることが示されています。この「欲望」と訳されたことばは「強い欲望」を示します。よい意味で用いられることもありますが、ここでは悪い意味で用いられています。さらに、ここでは「心の」ということばがついていて、それが心の奥深くに根を下ろしているものであることが示されています。 そして、そのような「心の欲望」のうちにある状態で「汚れに引き渡され」たと言われています。この「汚れ」と訳されたことば(アカサルスィア)は、「不道徳」特に「性的な不道徳」を表わすことばです。しかし、このことばには特殊な意味合いがあります。このことばは旧約聖書の儀式律法における「きよいもの」と「汚れたもの」の区別、あるいは動詞であれば「汚れること」と「きよめられること」の区別に用いられています。また、「汚れた霊」(マルコの福音書1章23節、3章11節、30節など)を表すときにもこのことばが用いられています。これらのことは、この「汚れ」が基本的に神さまとの関係のあり方にかかわるものであることを示しています。このことが根本にあって、「道徳的に汚れていること」が考えられます。 これに続いて、 そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 と記されています。これは、新改訳の訳に従いますと、神さまが「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」た結果を表しています。あるいは、これは「汚れ」という一般的なことばをさらに説明している可能性もあります。どちらにしても、ここで問題となっているのは、性的なことです。 このことは、二つ目の26節、27節でより特殊な性的な問題である同性の間の性的関係へと受け継がれています。そこでは、 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。 と言われています。 ここで、「男」と「女」が出てきますが、これらのことばは、通常の「男」(アネール)と「女」(ギュネー)を表わすことばではなく、生物学的な「男性」(アルセーン)と「女性」(セーリュス)を表わすことばです。この二つのことばは、創世記1章27節に、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 と記されているなかに出てくる「男と女」を思い起こさせます。このヘブル語の「男と女」も生物学的な「男性」(ザーカール)と「女性」(ネケーバー)ということばです。この二つは、創世記6章19節では生き物たちの「雄」と「雌」を表しています。また、このギリシャ語訳の七十人訳でも、先ほどの「男性」(アルセーン)と「女性」(セーリュス)を表わすことばが用いられています。 この創世記1章27節においては、神さまが人を神のかたちにお造りになったこととともに、男も女も等しく神のかたちに造られていることを示しています。それとともに、ここで生物学的な「男性と女性」ということばが用いられていることは、これに続く28節に記されている歴史と文化を造る使命において、神さまが、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 と言われたことへとつながっています。 このことから、ここローマ人への手紙1章26節、27節で「自然な用」と言われていることは、造り主である神さまが創造の御業によって、男も女も等しく神のかたちにお造りになり、その男と女に、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を委ねられたことを背景としていることが分かります。 さらに、ご存知のように、聖書の中では、夫と妻の関係は契約の神である主とその民の関係、さらには、キリストと教会の関係を表しています。造り主である神さまは、ご自身と神のかたちに造られた人の愛にあるいのちの交わりがどのようなものであるかを映し出すものとして、結婚関係における男と女、すなわち、夫と妻の関係を与えてくださっています。また、結婚関係における夫と妻の関係は、人が造り主である神さまと神のかたちに造られた人の愛にあるいのちの交わりがどのようなものであるかを理解するための手がかりともなります。 このことを考えますと、ローマ人への手紙1章26節、27節で、 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。 と言われていることは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを知っていながら、神としてあがめることも感謝することもしないばかりか、自分の間尺に合うものを神として造って、これに仕えていることを映し出していることが見て取れます。 さらにこのことを指し示すことがあります。ここで、 女は自然の用を不自然なものに代え と言われているときの「代え」と訳されていることば(メタラッソー)は25節で、 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。 と言われているときの、「取り代え」と訳されていることばと同じことばです。また、このことばは、23節で、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と言われているときの「代えてしまいました」と訳されていることば(アラッソー)の同義語です。 三つ目の28節においては、神さまがさばきによって、 彼らを良くない思いに引き渡された と言われています。この「思い」と訳されたことば(ヌース)は、しばしば「理性」と訳されることばですが、知的な理解力とともに、倫理的な判断力や意志の力などをもつ「心」や「精神」を表すものです。さらには、それらによって、考えられた「考え」や「思い」なども表します。「良くない」と訳されたことば(アドキモス)は検査の結果「不良」あるいは「失格」と判定された状態を表わしています。もちろん、これは神さまの御前において「不良」あるいは「失格」であると判定されるものです。 この結果として生み出されるもののことが、 そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 と記されています。具体的には、29節ー32節において、 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。 と言われています。 これに先立って、2回、神さまがさばきによって彼らを「引き渡された」と記されていることでは、神のかたちに造られた人の最も基本的な関係である男と女すなわち夫と妻の関係のことが取り上げられていました。創造の御業において、神さまは男と女を神のかたちにお造りになり、その二人から子どもたちが生まれて、親子関係が生じ、さらにその子どもたちが増え広がることによって、共同体が形成され、社会関係が生まれました。 3回目に神さまがさばきによって彼らを「引き渡された」と記されていることでは、基本的には、このようにして形成された共同体の隣人に対する関係がさまざまな形で損なわれている様子が記されています。そして、最後に、 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。 と記されている状態になってしまっていること自体も、神さまのさばきの結果です。これが進みますと、良心の働きによる歯止めが利かなくなっていきます。 このようなことを見てきたのは、すでにお話ししました、創世記6章5節に記されている、大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代の、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 という状況は、まさに、このような意味での神さまのさばきによって生み出されたと考えられるからです。その時代には一般恩恵に基づく御霊の抑止的なお働きがなかったので、それがより徹底した形でなされることによって、全人類がその罪の腐敗を極みに至らせてしまったのではないかと考えられます。 ノアの時代の大洪水によるさばきは終わりの日におけるさばきの地上的な「ひな型」でした。少し前に引用しましたが、その終わりの日の状況について記しているテサロニケ人への手紙第二・2章3節には、 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。 と記されています。そして、9節ー12節においては、 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 と記されています。 ここでは「不法の人」はサタンの働きによって、サタンを具体的に表す存在として到来することが示されています。ここで「不法の人の到来」と言われているときの「到来」と訳されていることば(パルースィア)は、新約聖書において24回出てきますが、そのうちの16回はイエス・キリストの到来を表す専門用語として用いられています(EDNT)。「不法の人の到来」にともなうという「力」、「しるし」、「不思議」と訳されていることばは、イエス・キリストの御業を表すときにも用いられたことばです。とはいえ、これらには(ギリシャ語では最後に)「偽りの」という但し書きがついています。つまり、「不法の人」は、イエス・キリストが人としての性質を取って来られたことをまねして、またイエス・キリストに対抗する存在としてサタンが用意したものです。「不法の人」こそ、にせキリストの極まったものです。 「滅びる人たち」がこの「不法の人」に惑わされることについては、 彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 と言われています。そして、これに続いて記されている、 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。 というみことばは、ローマ人への手紙1章24節ー32節に3回記されていました、神さまがさばきとして彼らを「汚れ」や「恥ずべき情欲」や「良くない思い」に「引き渡された」ということよりも、さらに積極的なさばきの執行が示されています。ここで、 惑わす力を送り込まれます と言われているときの「送り込まれます」は現在時制で表されていて、その確かさが強調されています。もちろん、これは、「滅びる人たち」が、 救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。 言い換えますと、その人々は神さまの愛のうちに示された福音の真理を拒否して、にせキリストにかかわる偽りを受け入れるからです。 神さまはその人々が受け入れる偽りを用いて、ご自身のさばきを執行されます。 もちろん、これらのことは、単なる描写や予告ではありません。終わりの日にイエス・キリストが再び来られる日を待ち望む私たちへの警告であり、勧めであり、励ましです。これは、神さまが愛によって示してくださったイエス・キリストにかかわる福音の真理のうちに留まり、そのうちを歩むことの大切さを示しています。実は、このことが、 見よ。わたしはすぐに来る。 というイエス・キリストのみことばの理解とも深くかかわっています。 |
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