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説教日:2000年9月24日 |
イエス・キリストは、サマリヤ人の女性に、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 と言われました。 このイエス・キリストの言葉は、サマリヤ人の女性がまだこの時には、「神の賜物」もイエス・キリストがどなたであるかも知らないことを表わす言い方です。同時に、これは、やがて彼女が「神の賜物」を知るようになり、イエス・キリストがどなたであるかを知るようになって、 そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 というイエス・キリストの言葉が、彼女の上に実現するようになることを予想させる言葉です。 この「神の賜物」が何であるかにつきましては、いくつかの見方があります。多くの人々が、それは「永遠のいのち」のことであると考えています。ある人々は、それは「律法」のことであると考えています。また、その部分を、 神の賜物、すなわち、あなたに水を飲ませてくれと言う者 と訳して、「神の賜物」は神さまから遣わされたイエス・キリストご自身のことであるとする見方もあります。いずれにしましても、ここで言われている「神の賜物」は、イエス・キリストが言われる「生ける水」と深くかかわっているものであることは確かです。 私は、「生ける水」のことを指していると考えるのがいちばんすっきりすると思っています。 ここでは、その「賜物」が何かということ以上に、それが神さまからの「賜物」であるということが大切です。それは、神さまの一方的な恵みによって惜しみなく与えられる「贈り物」のことです。私たちが求める前に、神さまが、イエス・キリストを通して用意してくださり、求める者に、何の条件をつけずに与えてくださるものです。まさに、 あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 とイエス・キリストが言われるとおりです。 もちろん、いくら「賜物」であるといっても、本人が求めることはないのに無理やり押し付ける、というようなことはありません。 イエス・キリストの、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 という言葉において、もう一つ大切なことは、 あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら ということです。 これは、先ほどお話ししましたように、サマリヤ人の女性は、彼女に「水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを」知っていないことを示しています。彼女の目には、イエス・キリストは、旅の途中で疲れ、喉が渇いてたどり着いた井戸は深くて、汲むものがなければ水は汲めないのに、汲むものがなくて困っている旅人でしかありませんでした。しかも、ユダヤ人の男性であるのに、サマリヤ人の女性に、 わたしに水を飲ませてください。 と言って頼むほどに困り果てている旅人でした。 彼女の目の前にいる「惨めな旅人」がどなたであるかを知ることが、すべてのことの鍵であるということです。それは、このサマリヤ人の女性の目の前にいる「惨めな旅人」は、栄光の主であるということです。 この、サマリヤ人の女性の目の前にいる「惨めな旅人」は、栄光の主であるということは、注意深く受け止められなければなりません。気をつけていませんと、イエス・キリストは、この時は、仮に、「惨めな旅人」の姿で現れているけれども、本当は、すべてのものが御前にひれ伏す栄光の主である、と言いたくなります。人の性質を取って来てくださり、人々から捨てられ、あざけりとののしりを受けた末に、十字架につけられて殺されたのは、仮のお姿であって、本当のイエス・キリストのお姿はすべてのものがその御前にひれ伏す栄光の主であるということです。しかし、それは、正しくイエス・キリストを表わすことではありません。 聖書は、一貫して、イエス・キリストが栄光の主であられることをあかししています。しかも、すべてのものが御前にひれ伏すべき栄光の主であることをあかししています。しかし、その栄光は、イエス・キリストが、人の性質を取って来てくださり、人々から捨てられ、あざけりとののしりを受けた末に、十字架につけられて殺されたことにおいてこそ、最も豊かに示されているということをあかししています。 イエス・キリストは、人々から捨てられ、十字架につけられて殺されたにもかかわらず栄光の主である、というのではなく、人々から捨てられ、十字架につけられて殺された、栄光の主であるのです。イエス・キリストは、人々から捨てられ、十字架につけられて殺されたことに最も豊かに表わされている栄光の主です。 ヨハネが、1章14節で、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 とあかししているのは、そのような、イエス・キリストの「恵みとまことに満ちた」栄光です。 これに対して、「人々から捨てられ、十字架につけて殺されたのは、イエス・キリストの仮のお姿であって、本当は、すべてのものもその御前にひれ伏す栄光の主である。」などという「言い訳」を加えてはならないのです。そのような「言い訳」をしてしまうのは、私たちが、御子イエス・キリストを通して示してくださった神さまの栄光を見ることができていないか、誤解しているからでしょう。 この世で栄光があるというのは、人の上に立って、自分の地位や力や富などを示すことにあります。それを見せつけられた人々は、驚嘆し、恐れ入ってしまいます。私たちにも、もしかすると、そのような発想があって、私たちの愛するイエス・キリストに、そのような意味での栄光があるのだと、主張したくなるのではないでしょうか。それでは、十字架につけられた御子イエス・キリストにおいて最も豊かに示されている神さまの栄光は、隠されてしまいます。 このことを、このサマリヤ人の女性との対話に当てはめて言いますと、どうなるでしょうか。イエス・キリストは、ここで、旅の途中で疲れ、喉が渇いてたどり着いた井戸は深くて、汲むものがなければ水は汲めないのに、汲むものがなくて困っている旅人の姿を取っておられるけれども、本当は、栄光の主であるということではありません。イエス・キリストが栄光の主であられることは、このサマリヤ人の女性の前に、旅の途中で疲れ、喉が渇いてたどり着いた井戸は深くて、汲むものがなければ水は汲めないのに、汲むものがなくて困っている旅人の姿において現れてくださったこと自体のうちに豊かに示されているのです。 弟子たちがいたのでは彼女が委縮してしまうであろうことを予測して、全員で、食料を買いに行くようにと町に送り出して、お一人でそこに座っておられるお姿には、「恵みとまことに満ちた」栄光の主の面目躍如たるものがあります。 そのようなイエス・キリストの「惨めなお姿」によって、サマリヤ人の女性は、知らないうちに支えられており、イエス・キリストとの御言葉を中心とした交わりの中へと導き入れられています。そのことを通して、イエス・キリストは、サマリヤ人の女性が「生ける水」を受け取るようになるように導いてくださっておられます。そのすべてに、「神の賜物」の「賜物」としての特質が現れています。 ですから、 あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら ということは、イエス・キリストを、そのような意味での「恵みとまことに満ちた」栄光の主であると知ることに他なりません。 先週も少し触れましたが、「生ける水」という言葉(フドール・ゾーン)は二つの意味に取れます。一つは、新改訳欄外にあります「わき出る水」あるいは(溜まっていないで)「流れる水」です。それは、肉体的な渇きをいやす水です。もう一つは、新改訳本文の「生ける水」です。それは、霊的な渇きをいやす水です。 サマリヤ人の女性は、このうちの「わき出る水」の意味に取っています。 イエス・キリストは、「わき出る水」を比喩的に用いて表わされる「生ける水」のことを語っておられます。これには、旧約聖書の背景があると考えられます。 エレミヤ書2章13節には、 わたしの民は二つの悪を行なった。 湧き水の泉であるわたしを捨てて、 多くの水ためを、 水をためることのできない、こわれた水ためを、 自分たちのために掘ったのだ。 という契約の神である主の言葉が記されています。 ここでは主がご自身のことを「湧き水の泉」と呼んでおられます。そして、それが「こわれた水ため」にたとえられている偶像と対比されています。「水ため」は人間が雨期に水を溜めておくために作るものです。しかし、それ自体は水を沸き上がらせるものではないので、雨期を過ぎればすぐに涸れてしまいます。これに対しまして、「湧き水の泉」はそこから水が涸れることなくわき出てきますので、雨期を過ぎても作物を潤し生かし続けます。 「湧き水の泉」であられる主は、ご自身が永遠に生きておられる方であり、そのうちにいのちがない偶像とはまったく違います。主はすべてのものの造り主であり、すべていのちあるものを支えておられる方です。 主が「湧き水の泉」であられることは、エレミヤ書17章13節でも、 イスラエルの望みである主よ。 あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。 「わたしから離れ去る者は、 地にその名がしるされる。 いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」 と言われています。ここでは、「いのちの水の泉」であられる主をを捨てる者は、それによって滅びを迎えることになるということが語られています。「いのちの水の泉」と訳されている言葉(マイム・ハイーム)は、先ほどの2章13節の「湧き水」と訳されている言葉と同じです。 そして、この「湧き水」が、イエス・キリストが言われる「生ける水」に当たります。その意味で、「生ける水」のいのちの源は、契約の神である主ご自身です。 このような「生ける水」は、さらに、エゼキエル書47章1節〜12節に記されている、終わりの日に出現する主の神殿の聖所から流れ出る水として示されています。12節では、 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。 と言われています。 これは、新約聖書の黙示録22章1節、2節に、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 と記されていることにおいて成就しています。これは、終わりの日の、栄光のキリストの再臨とともに実現する新しい天と新しい地の中心である「神と小羊との御座」から流れ出る「いのちの水の川」です。 さらに、サマリヤ人が『サマリヤ五書』と呼ばれる「モーセ五書」だけを正典として受け入れていたことを考えますと、イエス・キリストがサマリヤ人の女性に語られた「生ける水」のより近い背景として、出エジプト記17章3節〜7節に記されていることが考えられます。そこには、 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。 と記されています。 荒野を旅をしていたイスラエルの民がレフィディムに来た時、「そこには民の飲む水がなかった。」ので、民は、自分たちをここに導いたモーセを殺すほどになりました。 彼らは、エジプトの奴隷の状態から解放されたときに、エジプトに下された十のさばきを通して、また、紅海を乾いた地のように渡った出来事を通して、主の御臨在が彼らとともにあることを、経験してきました。また、その時まで、彼らを守って導いてきた、神である主の御臨在を表わす「雲の柱」が、彼らとともにありました。それなのに、彼らは、主を信じて、主が自分たちとともにおられることを自分たちの状況に当てはめる代わりに、目に見える指導者であるモーセに怒りをぶっつけて、モーセを殺そうとしました。 しかし、神である主は、このイスラエルの不信仰を機会として、主の贖いの恵みをあかししてくださいました。 主は、モーセに、 民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。 と言われました。「あなたがナイルを打ったあの杖」は、主のさばきを執行する杖です。ですから、そこで、主のさばきが執行されようとしています。当然、そのさばきを受けるべき者は、主を信じようとしないイスラエルの民です。 ところが、主は「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。」と言われました。主ご自身が、モーセの前にあるその岩の上にお立ちになるというのです。そして、主のさばきを表わす「ナイルを打ったあの杖」で、その岩を打つように命じられたのです。 その「さばきの一撃」を受けるのは、不信仰のためにモーセを殺そうとしたイスラエルの民ではなく、その岩の上に立たれる主ご自身です。その主の言葉のとおりに、モーセは「ナイルを打ったあの杖」で、その「岩」── その「岩」の上に立ちたもうた主を打ちました。すると、その打たれた「岩」から水が出ましたので、民はその水を飲み、渇いて滅んでしまうことから救われました。 エジプトの地で、また、紅海で見た神である主の栄光は、イスラエルの民にとっては、目を見張るような圧倒的なものでした。それらの御業に現れた主の栄光を見てもなお、イスラエルの民の不信仰は消えることはありませんでした。そのような不信仰に対しては、もうどうすることもできないと言うべきでしょう。しかし、それでもなお、神である主は贖いの恵みの道を残しておいてくださいました。それは、ご自身がご自身の契約の民の罪へのさばきを負ってくださるということでした。そして、ご自身の打ち傷によって、ご自身の民を救ってくださるというのです。 このことを通してあかしされている契約の神である主の栄光は、まさに「恵みとまことに満ちた」栄光です。 このことを受けて、コリント人への手紙第一・10章1節〜4節では、 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。 と言われています。 ここで「その岩とはキリストです」と言われていますように、あの荒野の「岩」── その「岩」の上に立って、イスラエルの民が受けるべき「さばきの一撃」を、ご自身がお受けになった主の本体は、私たちの罪の身代わりになって十字架にかかってくださったイエス・キリストです。 イエス・キリストがサマリヤ人の女性に、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら と言われた、その方は、あの荒野の「岩」の上に立って、ご自身のの民が受けるべき「さばきの一撃」を、自らお受けになった主の本体であるイエス・キリストです。 また、コリント人への手紙第一・10章4節ではイスラエルの民は「御霊の飲み物」を飲んだと言われています。この「御霊の飲み物」の本体が、イエス・キリストが そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 と言われて、サマリヤ人の女性にお与えになろうとしている「生ける水」です。それは、十字架にかかってご自身の民の身代わりとなって「さばきの一撃」をお受けになったイエス・キリストが与えてくださる御霊です。 |
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