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説教日:2000年9月17日 |
13節、14節に記されている、 この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。 というイエス・キリストの教えは、今日の私たちからしますと、明らかに、飲み水のことではなく、水をたとえとして示されているもの── 身体の渇きをいやす水ではなく、霊的な渇きをいやす水のことを教えています。 そのような教えに対して、このサマリヤ人の女性が、 先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。 と答えたのは、彼女が、イエス・キリストの教えを誤解して、イエス・キリストは身体の渇きをいやす水のことをお話しになっていると考えていたからです。 もちろん、そのことで、彼女を責めることはできません。3章1節〜10節に記されていますように、「ユダヤ人の指導者であった」と言われているニコデモでさえ、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 というイエス・キリストの教えを聞いたときに、新しく生まれることを血肉の誕生のことと受け取って、 人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。 と答えました。 ユダヤ人の指導者であるニコデモでさえそうだったのですから、サマリヤ人の女性が、イエス・キリストは身体の渇きをいやす水のことをお話しになっていると考えたのは、無理もないことでした。 その上、4章10節の、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 というイエス・キリストのお話の中で用いられている「生ける水」という言葉(フドール・ゾーン)は、新改訳欄外の注にありますように、「わき出る水」をも意味しています。それで、普通に聞けば、これを「わき出る水」と理解するほうが自然なことです。 ここでサマリヤ人の女性は、イエス・キリストの教えを自分の感じている問題に引き合わせて理解しています。神さまの御言葉を自分に当てはめて理解することは大切なことです。けれども、そこにはまた「落とし穴」もあります。 この女性にとって、真昼に「ヤコブの井戸」まで水を汲みに来ることは、ただ身体にきついばかりでなく、後ろめたさから人の目を避けることからくる心の重荷になっていたことであったと考えられます。彼女は、そのような問題をもった状態でイエス・キリストがお話ししておられることを聞いています。それで、彼女が受け止めたこと── 彼女の心に入ってきたことは、ここまで水を汲みに来なくても、別の方法で水が手に入るらしいということでした。それは、彼女にとって本当に「ありがたいお話」だったのです。 人は誰でも、自分が背負っている問題に対して、「自分なりの答え」を考えています。この時のサマリヤ人の女性にとって、その「自分なりの答え」は、真昼に「ヤコブの井戸」まで水を汲みに来なくてもよいようになることです。それで、イエス・キリストに、 先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。 と願ったわけです。 彼女の願いは、イエス・キリストの、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 という教えと、 この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。 という教えに基づいています。 イエス・キリストが言われた、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 という言葉は、サマリヤ人の女性が、まだこの段階では「神の賜物」も、それを与えてくださるイエス・キリストがどなたであるかも知らないことを示しています。しかし、イエス・キリストは、彼女にご自身がどなたであるかをお知らせになって、「生ける水」を与えようとしておられるからこそ、このようなことをお話しになったのです。 その意味では、彼女の願いは、イエス・キリストの御言葉によって引き出されています。 問題は、このサマリヤ人の女性は、イエス・キリストの教えを誤解して、その誤解から、 先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。 と願っているということです。 このようなことは、私たちが祈る時にも起こりやすいことです。サマリヤ人の女性が、イエス・キリストに、 先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。 と願ったことは、広い意味での祈りです。 私たちは、祈りについて、たとえば、ヨハネの福音書15章7節に記されています、 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。 というイエス・キリストの約束を信じています。同じことが、ヨハネの手紙第一・5章14節では、 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 と告白されています。 私たちはこのような御言葉の約束を信じていますので、御言葉に示されている神さまのみこころに従って祈ることを心がけています。 しかし、私たちも、このサマリヤ人の女性と同じような問題をもっています。イエス・キリストの御言葉を聞いて、それに基づいて祈っているつもりではあっても、実際には、それは「自分の考えている答え」であって、「自分の考えている答え」を実現してくれるように、神さまに祈り求めているだけのことがあるのです。 もちろん、「自分が考えている答え」が、御言葉に示されている神さまのみこころと一致している場合があります。私たちが御言葉をより広く、また豊に理解するに従って、私たちの考えることが、御言葉に示されている神さまのみこころと一致することが多くなっていきます。 また、そのようになることは、神さまのみこころでもあります。なぜなら、私たちの考えることが御言葉に示されている神さまのみこころと一致するようになるのは、より広い視点から見ますと、私たちが御子イエス・キリストに似た者として成長していく過程で起こることだからです。私たちが御子イエス・キリストに似た者として成長することは、私たちに対する神さまのいちばん大きなみこころです。 そのような面があることは確かですが、その一方で、私たちは、しばしば、「自分が考えている答え」がいちばんよいものであると感じます。それで、それがいちばんよいものであるから、当然、神さまのみこころでもあるはずだ、というような考え方をしてしまいます。 けれども、私たちは、 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、 わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 ── 主の御告げ。── 天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 イザヤ書55章8節、9節 という神である主の御言葉を、心に銘記しておかなくてはなりません。 ただし、これは、私たちの祈りが無意味なものであることを意味してはいません。むしろ、この御言葉は、神さまの御言葉の確かさを私たちに保証するものです。これに続く10節〜11節で、 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、 必ず地を潤し、 それに物を生えさせ、芽を出させ、 種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 むなしく、わたしのところに帰っては来ない。 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる。 と言われているとおりです。 私たちの目にどのように映っても、神さまの御言葉は必ず、実現するようになるということです。その意味では、これは、御言葉に示されている神である主のみこころに従って祈る祈りの確かさを裏付けるものでもあります。 これを、この時のサマリヤ人の女性に当てはめますと、イエス・キリストは、彼女に「生ける水」を与えようとしておられます。そのみこころは、必ず成し遂げられるようになります。イエス・キリストは彼女が、ご自身がどなたであるかを知るようになり、イエス・キリストから「生ける水」を受け取るようになるよう、導いてくださっています。 そのことはそうなのですが、この時、サマリヤ人の女性は、 この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。 というイエス・キリストの教えを、自分の問題に対する「自分が考えている答え」に合わせて、 先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。 というような願いをしました。 けれどもイエス・キリストは、サマリヤ人の女性がが考えているよりもはるかに深いところから彼女の問題を取り扱って、彼女を解放しようとしておられます。イエス・キリストは、彼女が考えているよりもはるかに深いところにある問題の根をご存知で、その根本的なところから、彼女の問題を解決しようとしておられます。 列王記第一・17章16節には、 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。 と記されています。それを流用して言いますと、かりに、サマリヤ人の女性が求めている「自分の答え」が実現して、「いくら汲んでも尽きることがない水が湧き出る壺」を手に入れたとしたらどうでしょうか。 確かに、彼女は「解放された」と感じることでしょう。しかし、それは、「これで、水を汲む時に、人に会わなくてすむ」というような解放でしょう。もちろん、それでは、彼女自身の生き方は変わりません。むしろ、その時の生き方を助長しただけでしょう。 イエス・キリストは、サマリヤ人の女性が考えているよりもはるかに深いところにある問題の根をご存知で、その根本的なところから、彼女の問題を解決しようとしておられますが、彼女の問題を糾弾して、彼女に自分の生き方を変えるように迫ってはおられません。彼女は自分の力で、自分自身を変えることができないからです。 この女性が自分の生き方を変えることができるようになるためには、彼女自身が新しく造り変えられる必要があります。そして、イエス・キリストは、そのために来てくださいました。イエス・キリストは、彼女を含めて、私たちをまったく新しく造り変えてくださるために人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、死者の中からよみがえって、私たちのために復活のいのちを獲得してくださいました。 結論的に言いますと、イエス・キリストが彼女に与えようとしておられる「生ける水」は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを新しく造り変えて、新しく生かしてくださる御霊のことです。 そのことは、ここでイエス・キリストがサマリヤ人の女性に教えられたことと同じことを述べる、ヨハネの福音書7章37節〜39節の御言葉から分かります。そこでは、 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 と言われています。 イエス・キリストは、 私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 と言ってサマリヤ人の女性の現実を明らかにしておられます。これは、彼女の罪を糾弾する言葉ではないのでしょうか。 確かに、これは、サマリヤ人の女性が真昼に「ヤコブの井戸」まで水を汲みに来なければならないことの奥にある罪の問題に迫ることです。しかし、イエス・キリストとサマリヤ人の女性の間で、この問題が伏せられたままでは、本当の解決はありえません。彼女が、イエス・キリストが与えようとしておられる「生ける水」を受け取るためには、この自分自身の罪の問題と向き合わなければなりません。 しかし、罪を糾弾されて立つ瀬がなくなって、孤立無援の状態で、自分の罪の現実に向き合うのではありません。イエス・キリストが一緒にいてくださって、その支えの中で、自分の現実に向き合うのです。 先週お話ししましたように、イエス・キリストは、旅の疲れで渇いているのに、水を汲んで飲むこともできないで、彼女に助けを求めている旅人として、彼女と出会われました。そのために、彼女は、心を開いてイエス・キリストと語り合うことができるようになりました。このイエス・キリストの支えの中で自分のつみの現実を見つめ、自分がイエス・キリストがくださる「生ける水」を受け取らなくてはならない者であることに気がつくようになっていきます。 サマリヤ人の女性の方も、このことで、自分が糾弾されているとは感じていないようです。むしろ、このことから、イエス・キリストご自身に目を向けるようになり、 先生。あなたは預言者だと思います。 と言っています。 それまで、彼女の目は、自分と自分の問題に向いていました。そして、自分と自分の問題を中心にして、イエス・キリストとイエス・キリストの教えを見ていました。それが、この時から、彼女の目は、イエス・キリストに向いています。これによって、イエス・キリストを中心として、自分と自分の問題を見つめることができるようになったのです。 この、サマリヤ人の女性のうちに起こっている「転換」こそが、彼女が、イエス・キリストがどなたであるかを知るようになって、イエス・キリストから「生ける水」を受け取るようになることへの「入口」です。 彼女は、続いて、 私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。 と言って、歴史的に、ユダヤ人とサマリヤ人の間の亀裂を決定的に深めたと考えられるサマリヤ神殿とエルサレム神殿の問題を問いかけています。 これは、話をそらすための質問のように見えますが、そうではありません。むしろ、彼女の目がイエス・キリストに向けられていることの現われです。もしイエス・キリストが彼女の考えているように「預言者」であれば── 実際には、預言者の主である方ですが、そして、イエス・キリストがユダヤ人であり、彼女はサマリヤ人であれば、この問題は避けて通れません。この問題に対する答え次第で、彼女はイエス・キリストに心を閉ざしてしまうこともありえました。 もし、イエス・キリストが、エルサレム神殿が本物で、サマリヤ神殿は偽物であると言われたとしたら、このサマリヤ人の女性も、民族主義的な反感に動かされて、心を閉ざしていたかもしれません。実際には、イエス・キリストは、21節にありますように、 あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 とお答えになりました。もちろん、それは、彼女に合わせて真理を曲げてしまわれたのではありません。イエス・キリストの贖いの御業によって現実のものとなる福音の真理が、民族的な壁を打ち砕いているのです。 いわば、彼女は、この問題を通して、イエス・キリストがどのような方であるかを探っているのです。 このように、サマリヤ人の女性は、 私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 という一見、自分を糾弾しているようにも見えるイエス・キリストの言葉を聞いてから、イエス・キリストご自身に自分の目を向けて、イエス・キリストがどなたであるかを知ろうとしています。 これは、彼女が、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 というイエス・キリストの教えの中心である、イエス・キリストがどなたであるかを知るようになるよう、導かれていることを意味しています。 このことから、サマリヤ人の女性の中に、イエス・キリストに対する期待── この方は、もしかしたら、自分が犯した罪の結果はまり込んでしまって、抜け出せないでいる問題のすべてから、自分を救い出してくださる方かもしれないという期待が芽生えていることを読み取ることは、決して、読み込み過ぎではないでしょう。 事実、後に、彼女は町の人々に、イエス・キリストをあかしするようになります。その時、29節にありますように、 来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。 と言っています。「私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。」の「私のしたこと」とは、イエス・キリストが彼女に向かって明らかにされたことです。それは、「私のしたこと」と言うだけで、町の人々にはすぐに分かって、改めて説明する必要もないことでした。 この時、彼女は、もはや、自分の恥を隠して、こっそりと出入りする人ではなくなっています。 イエス・キリストが、彼女にとっては厳しいと見える現実をあえて明らかにされることがなかったら、彼女の中にイエス・キリストに対するこのような期待は生まれてこなかったことでしょう。そして、イエス・キリストがどなたであるかを知ることもできなかったことでしょう。 ですから、イエス・キリストが、彼女にとっては厳しいと見える現実をあえて明らかにされたことは、ご自身がどなたであるかをサマリヤ人の女性に示してくださり、御霊によって彼女をまったく新しく造り変えて、新しく生かしてくださるために必要なことでした。 このようにして、イエス・キリストは、サマリヤ人の女性の「自分が考えている答え」をはるかに越えた形で、 もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 という言葉に秘められている「約束」を彼女の上に実現してくださったのです。 イエス・キリストは、この「約束」を、私たち、ご自身を信じるすべての者の上に実現して、「生ける水」を与えてくださいます。 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。 ルカの福音書11章13節 |
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