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説教日:2002年10月6日 |
このような契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストは、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されている教えにおいて、ご自身のことを「ぶどうの木」にたとえ、私たちをその「枝」にたとえておられます。そして、父なる神さまを「農夫」にたとえておられます。これによって、イエス・キリストと父なる神さまの関係、イエス・キリストと私たちの関係、そして、私たちと父なる神さまとの関係が示されています。 まず、イエス・キリストと父なる神さまの関係ですが、「ぶどうの木」は、ぶどうの実をならせること以外には、他に役に立ちません。ぶどうの実をならせることに「ぶどうの木」としての存在の意味があります。 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 という言葉によって、イエス・キリストはご自身が「農夫」にたとえられている父なる神さまのみこころにかなう実を結ぶ「ぶどうの木」であられることを示しておられます。 6章38節〜40節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と述べておられます。 ここでイエス・キリストは、「わたしを遣わした方のみこころ」という言葉を2回繰り返し、最後にそれが「わたしの父のみこころ」であると述べておられます。これによって、ご自身が父なる神さまから使命を託されてこの世に遣わされていることが示されています。 この場合、繰り返されている「わたしを遣わした方のみこころ」も「わたしの父のみこころ」も単数形です。これは、イエス・キリストに対する父なる神さまのみこころが全体として一つのまとまりをもっていることを意味しています。具体的な状況における父なる神さまのみこころがさまざまな形で示されたとしても、そのすべてが、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 という「一つのみこころ」に集約され、まとめられるということです。 ここでは父なる神さまが御子イエス・キリストにお委ねになった使命を全体的にまとめられています。そのイエス・キリストの言葉においては、ご自身の契約の民のことが、新改訳の「すべての者を」、「ひとりも」、「ひとりひとりを」、「みな」、「ひとりひとり」という訳語からも分かりますが、一貫して単数形で表わされていて、「ひとりひとり」に目が向けられています。このことに、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが贖いの御業を遂行されるときに、私たち一人一人をみこころのうちに覚えていて下さっていることが示されています。 このように、イエス・キリストに対する父なる神さまのみこころは、私たちをご自身との愛にある交わりのうちに生きることを本質とする永遠のいのちに生かしてくださるために必要なことをすべて成し遂げるということでした。イエス・キリストは、このような父なる神さまの「一つのみこころ」を行なうために十字架にかかって死なれました。 イエス・キリストは、十字架にかかって死なれる前の夜に、ゲツセマネの園において祈られました。そのことを記すマルコの福音書14章35節、36節には、 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 と記されています。 イエス・キリストは、ご自身が、十字架にかかられる前の夜という具体的な状況の中で わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。 と述べておられることを祈られたのです。 十字架刑は、人間が考え出した刑罰の中でも最も残酷な刑罰の一つに数えられています。しかし、イエス・キリストの場合には、十字架につけられることはそれ以上の意味をもっています。ガラテヤ人への手紙3章13節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 と記されていますように、その十字架刑の苦しみに加えて、私たちの罪に対する父なる神さまのさばきの御怒りをすべてお受けになるという、私たちの想像することのできない苦しみをお受けになることを意味していました。そのことをご存知であられるイエス・キリストは、ゲツセマネにおいて、このように祈られました。そして、この祈りにおいて与えられた父なる神さまとの交わりによって力づけられて、敢然と十字架に向かって進まれました。 そのようにして、イエス・キリストは、十字架において私たちの罪に対する刑罰をすべて私たちの身代わりとなって負ってくださり、私たちの罪を完全に清算してくださいました。そして、最後まで父なる神さまのみこころに従われたことに対する報いとして、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。すべては、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。 という父なる神さまの「一つのみこころ」を実現してくださるためです。 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の主であられるイエス・キリストは、ご自身の契約を通して約束してくださったご自身の民の贖いを実現してくださるために、今から2千年前に十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、イエス・キリストが、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 と言われたことが歴史の現実となったのです。 イエス・キリストは、このことを踏まえて、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言われました。これによって、私たちとイエス・キリストとの関係が「ぶどうの木」とその「枝」の関係のように、いのちの関係であることが示されています。「枝」は「ぶどうの木」のいのちによって生きています。「ぶどうの木」を離れてしまいますと枯れるほかはありません。そのように、私たちは「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストと結び合わされて生きるものです。 私たちは、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死なれ、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストと一つに結び合わされています。私たちは、このイエス・キリストと結び合わされている者として生きています。そのことを見える形で表示してくださるために、イエス・キリストは新しい契約の礼典である洗礼を与えてくださいました。ローマ人への手紙6章3節、4節には、 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 と記されています。 ここで注目したいのは、私たちは、私たちと一つとなってくださって十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストとともに死んでおり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストとともによみがえって、新しいいのちに生かされているということです。それは、私たちが肉体的に死んだ後に天国に行くというように、私たちの死後のことを述べているのではありません。もちろん、私たちはイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっていますので、死んだ後には、イエス・キリストのご臨在の御許に行くことになります。それは神さまが御言葉を通して約束してくださっていることです。しかし、このローマ人への手紙6章3節、4節が教えているのは、4節の、 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 という言葉に示されているように、今ここにいる私たちはイエス・キリストとともに死んでしまったものであり、イエス・キリストとともによみがえって新しいいのちに生きているものであるということです。 このように、イエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっている人は、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。これを、ヨハネの福音書15節5節で、イエス・キリストが、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 と言われたことに沿って言いますと、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっているということは、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「枝」として、「ぶどうの木」のいのちによって生かされているということに当たります。そして、 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 というイエス・キリストの言葉が示しているように、私たちが「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「枝」であれば、「実」を結ぶことは当然のことであり、最も自然なことなのです。 このことは、初めにお話しした、イエス・キリストが「まことのぶどうの木」として父なる神さまのみこころにかなった実を結ばれるということと関連づけて理解されます。 「枝」が「ぶどうの木」につながっているなら、その「枝」は自然と実を結びます。さらに、「枝」がどのような実を結ぶかは、「ぶどうの木」がどのような木であるかによって決まります。イエス・キリストは、まず、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 と言われました。そして、そのことを踏まえて、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言われました。イエス・キリストは「まことのぶどうの木」として父なる神さまのみこころにかなった実を結ばれます。私たちがその「枝」であるということは、イエス・キリストが私たちを通して父なる神さまのみこころにかなう実を結んでくださるということを意味しています。 このように、私たちが「実」を結ぶのは、「ぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている「枝」として「実」を結ぶことです。それは、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストが、私たちを通してご自身の「実」を結んでくださるということです。そうしますと、私たちが結ぶ「実」は、イエス・キリストが、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と言われたことに示されている父なる神さまのみこころを行なうことに深く関わっています。 もちろん、私たちはイエス・キリストのように贖いの御業を遂行することはできません。それは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の主であられて、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストが、ご自身の契約の民である私たちのために、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださったことです。その御業は完成しています。それには、何も付け加えるべきことはありませんし、何も付け加えてはならないのです。 私たちが「実」を結ぶために大切なことは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストに結び合わされている者として、イエス・キリストのうちにとどまることです。これが、私たちが「実」を結ぶことの出発点です。私たちが何をするとしても、すべて、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストのうちにとどまっているという状態にあってしなければなりません。4節に記されているように、イエス・キリストは、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 と述べておられます。 もちろん、前にお話ししましたように、すべての人は創造の御業によって「神のかたち」に造られており、使命を授けられてこの神さまがお造りになった世界に置かれています。創世記1章27節、28節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されているとおりです。 その意味で、人類全体が、神さまの御前に「ぶどうの木」のように実を結ぶべきものとして存在しています。それで、聖書の中には、世の終わりのさばきの時のことが、しばしば、刈り入れの時として示されています。このように、すべての人は、造り主である神さまの御前に何らかの実を結ぶのです。私たちも例外ではありません。かりに私たちがイエス・キリストにとどまっていなくても、私たちは何らかの実を結びます。ここで、イエス・キリストが、 枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 と言っておられる「実」は、父なる神さまのみこころにかなった「実」のことです。 私たちが父なる神さまのみこころにかなった「実」を結ぶようになるためには、私たちがイエス・キリストのうちにとどまっていなければなりません。しかし、私たちがイエス・キリストのうちにとどまるためには、それに先立って、私たちがイエス・キリストを信じて、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっていなければなりません。 実は、私たちがイエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって永遠のいのちをもつようになることが、私たちにおいて結ばれる最初にして最も基本的な「実」なのです。なぜなら、それは、イエス・キリストが、 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。 と言われたこと、すなわち父なる神さまの「一つのみこころ」が私たちの現実になっていることを意味しているからです。また、ヨハネの福音書6章28節、29節には、 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 と記されています。 このように、私たちが、イエス・キリストを、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の主であられると信じ、イエス・キリストが、ご自身の契約の民である私たちのために、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、永遠のいのちをもつようになることが、私たちを通して結ばれる父なる神さまのみこころにかなう「実」のうちで、最初にして最も基本的な「実」です。 15章16節には、 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここでも「実」を結ぶことが語られていますが、ここで言われている「実」は、 それは、あなたがたが行って実を結び、 と言われていますように、イエス・キリストから遣わされて行く者が結ぶ実であると考えられます。それは、何よりも、イエス・キリストが遣わしてくださった私たちのあかしに触れて、契約の神である主であられるイエス・キリストを信じて、その贖いの御業にあずかって、永遠のいのちをもつようになる人々のことです。 これを私たちに当てはめますと、私たちは、イエス・キリストから遣わされて、私たちに福音の御言葉を述べ伝えてくださった方々のお働きを通して、イエス・キリストが結んでくださった「実」であるということになります。言い換えますと、私たちが、ご自身の契約の民の贖いのために、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じて永遠のいのちをもつようになることは、私たちにおいて父なる神さまのみこころにかなう「実」が結ばれているということでもあります。それが、私たちが父なる神さまの御前に結ぶ最初にして最も基本的な「実」です。この点において「実」が結ばれていなければ、父なる神さまのみこころにかなった「実」が結ばれるということはあり得ません。 これに対しまして、このようにして私たちが永遠のいのちをもつようになったという形で結ばれた「実」は、私たちが結んだ「実」なのか、それとも私たちに福音の御言葉を伝えてくださった方々が結んだ「実」なのか分からないと言われるかもしれません。しかし、そのような問いは意味がありません。というのは、突き詰めていきますと、この「実」は、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストが結んでくださったものです。イエス・キリストが、その方々のあかしを通して私たちのうちにご自身に対する信仰を起こしてくださり、私たちが永遠のいのちをもつようにしてくださったという形で「実」が結ばれたのです。 この「実」はイエス・キリストを信じて永遠のいのちをもつようになった私たち自身ですが、私たちがイエス・キリストを信じたという点から言えば、私たちが結ぶ最初にして最も基本的な「実」であるということになります。同時に、私たちに福音の御言葉を伝えてくださった方々のあかしが用いられているという点から言えば、その方々を通して結ばれた「実」であるということになります。 このことを踏まえて、イエス・キリストが言われた、 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 という教えを見てみましょう。これは、出エジプトの時代に、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェがモーセを遣わしてくださったように、私たちを遣わしてくださることに当たります。 これに対して、契約の主、ヤハウェがモーセを遣わしてくださったことは特別なことで、私たちがイエス・キリストから遣わされることをそれに比べるのは無理だという意見が出るかもしれません。確かに、モーセは古い契約の仲保者として召されているという点で、そのように言える面があります。しかし、20章21節には、十字架にかかってご自身の民の贖いを成し遂げて、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、弟子たちに、 平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。 と言われたことが記されています。私たちも派生的な形でこれにあずかっています。私たちが、イエス・キリストから任命されて、この世に遣わされていることは、契約の主、ヤハウェがモーセを遣わしてくださったことどころか、それを越えて、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことになぞらえられているのです。 いずれにしましても、イエス・キリストが、 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 と言われたことは、いくつかのことを意味しています。 第一に、私たちがイエス・キリストに選ばれて任命されているのは、私たちが父なる神さまのみこころにかなう「実」を結ぶためであるということです。そして、その最初にして最も基本的な「実」は、すでにお話ししましたように、私たちがイエス・キリストを信じて、永遠のいのちをもつようになるということにあります。 第二に、私たちがイエス・キリストから選ばれたのは、イエス・キリストの一方的な恵みによることであって、私たちの資質やよさにはよっていないということです。 私たちは自分自身と自分が歩んできた道のりを見ますと、暗たんたる思いに駆られます。とても主に任命していただくのにはふさわしくない者であると感じるほかはありません。しかし、私たちの主イエス・キリストは、 わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。 と言われます。主は、私たちのことを十分にご存知であられてわざわざ私たちを選び、私たちを任命して下さったというのです。その責任は主が取ってくださると言ってくださっているのです。 第三に、出エジプト記3章12節に記されているように、契約の主、ヤハウェがモーセを遣わしてくださった時に、 わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。 と約束してくださいました。 それと同じように、イエス・キリストが私たちを選んで任命してくださったということは、「まことのぶどうの木」であられるイエス・キリストが私たちとともにいてくださって、私たちを通して父なる神さまのみこころにかなう「実」を結んでくださるということを意味しています。マタイの福音書28章18節〜20節に、 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と記されているとおりです。 私たちは、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストが私たちとともにいてくださって、私たちを通して父なる神さまのみこころにかなう「実」を結んでくださるということを信じ、イエス・キリストのうちにとどまり続けて、あかしの生活を続けたいと思います。 |
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