(第100回)


説教日:2002年10月13日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 今日も、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえを用いたイエス・キリストの教えについてお話しいたします。
 先週は、16節に記されている、

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

という教えについてお話ししました。今日は、それに先立つ13節〜15節に記されている、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という教えについてお話しします。
 まず、この教えにかかわる一つの問題についてお話しします。14節には、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

というイエス・キリストの教えが記されています。これは、前にお話しした、10節に記されている、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

という教えと同じように理解しなければなりません。これは、私たちがイエス・キリストのさまざまな戒めを守ると、イエス・キリストが私たちを愛してくださるようになるということではありませんでした。それに先立つ9節に、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

と記されていますように、イエス・キリストは、私たちがイエス・キリストを愛してイエス・キリストの戒めを守るようになる前に、私たちを永遠に変わることのない完全な愛をもって愛してくださいました。そして、その愛のうちにとどまるように戒めてくださいました。
 イエス・キリストの愛のうちにとどまっている人は、自然とイエス・キリストを愛してその戒めを守ります。というのは、イエス・キリストの戒めはすべて、イエス・キリストの私たちに対する愛から出ているということを信じるからです。そして、そのイエス・キリストの戒めはすべて、12節に記されている、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という一つの戒めに集約されます。イエス・キリストの愛のうちにとどまっている人がイエス・キリストを愛することと、イエス・キリストが愛しておられる兄弟姉妹を愛することは、最も自然なことなのです。
 このように、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

というイエス・キリストの教えは、すでにイエス・キリストの永遠に変わらない完全な愛を受けているものとして、イエス・キリストの愛のうちにとどまっている人の最も自然な姿、あるいは本来の姿を述べています。
 それと同じように、14節に記されています、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

という教えも、私たちがイエス・キリストの「」となるための条件を述べているのではありません。
 むしろ、15節には、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と記されています。イエス・キリストが弟子たちを「」と呼んでくださる理由は、弟子たちがイエス・キリストの命令を守るからではなく、イエス・キリストが愛と恵みによって父なる神さまからお聞きになったことを、みな弟子たちにお知らせになったからであると言われています。
 ですから、弟子たちはイエス・キリストの愛と恵みによってイエス・キリストの「」とされているのです。そして、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

という教えは、イエス・キリストの愛と恵みによってイエス・キリストの「」とされている人の、最も自然な姿、あるいは本来の姿を述べています。


 ここでは、イエス・キリストが、弟子たちのことを「しもべ」とは呼ばないで、「」と呼んでくださったということが記されています。そして、後ほどお話ししますが、そのことは、私たちにも当てはまります。私たちはそれほどの驚きを感じないで、このイエス・キリストの教えを読んでしまうかもしれません。しかし、これは、本当は驚くべきことなのです。それは、いくつかのことから言えるのですが、今日は、その一つの点を取り上げてお話しします。
 古い契約の下にあった人々のことを見てみますと、契約の神である主の「」であったと記されている人はアブラハムとモーセです。―― 主から「」と呼ばれるということは、それほどまれなことであったのです。それなのに、私たちも栄光の主から「」と呼ばれるべき立場にあるということは、本当に驚くべきことです。
 それでは、アブラハムとモーセが契約の神である主の「」と呼ばれているということを具体的に見てみましょう。
 歴史的な順序は違いますが、まず、モーセのことを見てみましょう。モーセが契約の神である主の「」と呼ばれている個所は、出エジプト記33章11節です。そこには、

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

と記されています。
 このことが記されている状況を簡単にお話ししますと、主は力強い御手をもって、イスラエルの民を奴隷としていたエジプトをおさばきになり、イスラエルの民を奴隷の身分から贖い出してくださいました。
 そのようにして、エジプトの地を出て来たイスラエルの民は、シナイ山の麓まで導かれて来て、そこで主との契約を結ぶために宿営しました。その時、シナイ山には主の栄光のご臨在がありました。その栄光のご臨在の現われに接したイスラエルの民は、みな震え上がったと言われています。
 そこで、主はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、その契約に基づいて、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるために必要な聖所に関する戒めを与えてくださるために、モーセにシナイ山に登るように命じられました。それで、モーセはシナイ山に登りました。
 モーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、主の栄光のご臨在のあるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これが契約の神である主、ヤハウェであるとして礼拝しました。それによって、出エジプト記20章4節に記されていますが、主の契約の根本にある十戒の中の、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

という第二戒に背きました。しかも、それは、主の栄光のご臨在のあるシナイ山の麓においてです。また、この十戒の戒めはモーセを通して語られたのではなく、主が直接イスラエルの民に語られたものです。
 そのようにして、主に背いて背教してしまったイスラエルの民は、直ちに滅ぼされるべきものとなりました。しかし、モーセは、主の契約の基づいて、イスラエルの民のために繰り返し執り成しをしました。主は、まず、モーセの執り成しを受け入れてくださり、イスラエルの民を滅ぼさないで保存してくださることを約束してくださいました。そればかりでなく、次には、イスラエルの民を約束の地であるカナンに上らせてくださることも保証してくださいました。しかし、主は、そのために使いを遣わしてくださるけれども、ご自身はイスラエルの民とともに上らないと言われました。33章3節には、

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

という主の言葉が記されています。イスラエルの民はそのかたくなさのために主の御前に罪を犯し続けてしまうので、主のご臨在がイスラエルの民の間にあれば、イスラエルの民は主のさばきによって滅ぼされてしまうことになります。それで、イスラエルの民を守るために、主はイスラエルの民とともにはカナンの地に上らないと言われたのです。―― このことは、後でお話しすることに関わっていますので、心に留めておいていただきたいと思います。
 その時、モーセは、このような主のみこころに沿って、主のご臨在の現われである雲の柱が宿っている「会見の天幕」をイスラエルの宿営の外に張りました。そして、そのこととの関わりで、

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

と言われているのです。
 この時のイスラエルの民は絶望的な状況にありました。しかし、そこに一つの望みがありました。それは、そのような状態になってもなお、

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

と言われていることです。
 これは、モーセの姉のミリヤムと兄のアロンがモーセを非難した時に、主がミリヤムとアロンに語られた言葉を記す民数記12章6節〜8節に、

わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。

と記されていることと比べられます。
 ここでは、モーセは古い契約の仲保者として、単なる預言者以上の存在であることが示されています。これ以後の古い契約の下にあるイスラエルの民の歴史は、新しい契約の時代になるまで、モーセを通して据えられた基礎の上に立って展開していきます。預言者たちも、モーセを通して据えられた基礎の上に立って活動しました。主は、モーセについて、

彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。

と言われました。
 出エジプト記33章11節で、

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

と言われているのは、イスラエルの民の背教という絶望的な状況になっても、モーセはなおも、古い契約の仲保者として主の御前に立ち続けていたことが示されています。「顔と顔とを合わせて」ということは、その交わりの親しさと深さを表わしています。このように、主はモーセにご自身のみこころを示してくださいました。
 このことは、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われたことを思い起こさせます。
 忘れてはならないことは、このように、神である主のみこころを親しく示していただいたモーセは、この主との交わりの中で、イスラエルの民のために執り成しを続けたということです。主のみこころを示していただいた者として、示されたみこころにしたがって、また、主への愛と同胞イスラエルの民への愛によって、自分の分を果たしているのです。そしてそのことが受け入れられて、主はご自身がイスラエルの民とともに約束の地であるカナンに上ってくださると約束してくださいました。33章15節〜17節に、

それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」

と記されているとおりです。
 このことは一つの問題を生み出します。それは、イスラエルの民のかたくなさのために、

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。

と言われた主が、なおも、イスラエルの民とともにいてくださるということ、そして、それでもイスラエルの民が滅ぼされてはしまわないということは、一体どういうことかということです。このことが可能になるためには、その時までに、示されていた主の恵みよりもさらに優る恵み―― あの出エジプトの贖いの御業を通して示されていた恵に優る恵みとあわれみが示されなければならないはずです。
 実際に、モーセはそのような理解から、主の栄光を見せていただきたいと願いました。33章18節には、

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

と記されています。注意すべきことは、これは、11節で、

主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

と言われていて、すでに、シナイ山において、また会見の天幕において主の栄光の御前に立っているモーセが、

どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

と言ったということです。これは、その時までにモーセに示されていた恵みに優る恵みとあわれみに満ちた主の栄光を見ることを願ったということを意味しています。
 主は、再びモーセにシナイ山の頂に登るように命じられ、そこで、そのような恵みとあわれみに満ちた栄光をモーセにお示しになりました。34章5節〜7節には、

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

と記されています。
 いま、祈祷会でこのことを学んでいますので、詳しい説明は省きますが、この主の御名による宣言は、イスラエルの民の背教のまっただ中で「恵みとまことに」満ちた主の栄光を啓示するもので、古い契約の下における啓示の中での頂点の一つです。これは、すでに詳しくお話ししました、預言者イザヤが見た主の「恵みとまことに」満ちた栄光の啓示に匹敵するものです。
 このようにして啓示された「恵みとまことに」満ちた主の栄光は、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
とあかしされている、人の性質を取ってこられたイエス・キリストにおいて、確かな現実になっています。そして、このことのゆえに、古い契約の下ではアブラハムとモーセにしか当てはめられていない、契約の神である主の「」であるということが私たちに当てはめられ、私たちは栄光の主の「」と呼ばれる立場にあるのです。
 次に、アブラハムのことを見てみましょう。アブラハムのことは、歴代誌第二・20章7節に、

私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。

と記されています。また、イザヤ書41章8節にも、

  しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
  わたしが選んだヤコブ、
  わたしの友、アブラハムのすえよ。

と記されています。
 これらの個所を見ますと、アブラハムが契約の神である主の「」と呼ばれているのは、アブラハムの子孫に関する約束との関わりであることが分かります。アブラハムの子孫に関する約束については、創世記15章1節〜6節に、

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
  「アブラムよ。恐れるな。
  わたしはあなたの盾である。
  あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。
 イエス・キリストが語られた、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という教えに照らして言いますと、アブラハムは、契約の神である主が遂行される贖いの御業に関わるご計画を知らされるとともに、召されました。12章1節〜4節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

と記されています。
 アブラハムはこの召しにしたがって父の家を離れて旅立ちました。そして、先ほど引用しました15章1節〜6節に記されているように、その後に与えられた自分の子孫に関する約束を信じて、義と認められました。しかも、彼が召しを受けたのは七十五歳の時であり、アブラハムの子であるイサクが生まれたのは、百歳の時でした。召しを受けて父の家をを出てから二十五年後のことです。アブラハムは、神である主の贖いの御業に関するご計画を啓示されたときに、それを信じて受け入れそれに従いました。それによって、実際に、「地上のすべての民族」の祝福の基となりました。このことは、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

というイエス・キリストの教えを思い起こさせます。
 さらに、新約聖書のヤコブの手紙2章23節には、

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

と記されています。
 ここでは、アブラハムはその行いによって義と認められたと記されているということで、たとえばローマ人への手紙3章28節に記されている、パウロの、

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

という教えと矛盾すると言われることがあります。
 しかし、ヤコブが言っていることは、これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、イエス・キリストが、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

と教えておられることに当たります。これは、イエス・キリストの一方的な恵みによって、イエス・キリストの「」とされている人の本来のあり方を示しています。ヤコブが、

彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

と述べていることも、信仰によって義とされたアブラハムのあり方が、まさに、信仰によって義とされた人のあり方であったことを示しています。ヤコブは、

彼の信仰は彼の行ないとともに働いた

と述べていますが、パウロもガラテヤ人への手紙5章6節で、

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

と述べています。二人の言葉を合わせて言えば、私たちはイエス・キリストに対する信仰によって義とされています。そして、その信仰は「愛によって働く信仰」であり、主と兄弟姉妹たちに対する愛から出た「行ないとともに働」くものである、ということになります。
 このこととの関連で考えたいのですが、ヨハネの福音書15章14節で、イエス・キリストは、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

と言われました。この「わたしがあなたがたに命じること」は複数形です。これは、10節で、

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。

と言われたことに当たります。この場合の「わたしの戒め」も複数形で「さまざまな戒め」を指していました。そして、この「さまざまな戒め」は、12節で、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と言われている「一つの戒め」に集約されまとめられます。それと同じように、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

と言われているときのイエス・キリストが「命じることを」行なうことは、私たちが互いに愛し合うことの中で実現していきます。
 それと同時に、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

ということには、もう一つの意味合いがあります。イエス・キリストは、15節で、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われました。
 ここで、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われているときの、「父から聞いたこと」とは、一般的な情報のことではありません。12章48節〜50節には、

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでもイエス・キリストの言葉が父なる神さまから与えられた言葉であることが示されています。そして、それは、救いとさばきに関わる「ことば」であることが示されています。イエス・キリストはご自身とご自身が成し遂げようとしておられる贖いの御業についてあかしされました。その御業とあかしは父なる神さまから出たものです。そのあかしの「ことば」を信じる人は、誰でも救われます。しかし、その「ことば」を信じない人は、自分の罪のさばきを自分で受ける他はありません。
 このように、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことは、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業を中心とした救いのご計画のことです。―― アブラハムもモーセも、古い契約の下で、このことに関して主からの啓示を受けて、それにしたがって生きたのです。イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことは、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業を中心とした救いのご計画のことであるということは、15章15節で「父から聞いたこと」とイエス・キリストが言われることにも当てはまります。
 このことは、また、16節で、イエス・キリストが、

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

と言われていることとの関わりでも理解できます。イエス・キリストは弟子たちを任命されるに当たって、

父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせた

と言っておられるのです。やはり、この、「父から聞いたこと」とは、イエス・キリストご自身とイエス・キリストが成し遂げられる贖いの御業を中心とした、神さまの救いのご計画に関するみこころに他なりません。
 この、イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を中心とした、神さまの救いのご計画に関するみこころの全体は、使徒たちを通して、新しい契約の共同体である教会に伝えられています。使徒の働き20章26節、27節に記されているように、パウロはエペソの教会の長老たちに向かって、

ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

と述べています。
 私たちは、このように使徒たちから伝えられ、新約聖書に書き記されて保存されている、「神のご計画の全体を」知らせていただいています。その意味で、私たちもイエス・キリストの「」と呼ばれる立場にあります。そして、そのようなものとして、イエス・キリストから任命されて、この世に遣わされています。

 


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