![]() |
説教日:2002年10月20日 |
このように言っても、なお、私たちはそれを何でもないことのように聞いてしまうかもしれません。しかし、私たちが栄光の主であられるイエス・キリストから「友」と呼ばれるということは、大変重いことです。 そのことについて、先週は、古い契約の下にあって契約の神である主の「友」と呼ばれた人は、アブラハムとモーセだけであるということをお話ししました。そのことは、主の「友」と呼ばれることがどれほど重いことであるかを示しています。それとともに、私たちは、私たちのことを「友」と呼んでくださるイエス・キリストがどなたであるかということを考えなければなりません。 これまで繰り返しお話ししてきましたが、ヨハネの福音書15章1節に記されているように、イエス・キリストは、 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 と言われました。また、5節には、 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 と言われたと記されています。 このどちらの言葉においても、 わたしは(まことの)ぶどうの木です。 ということは、「エゴー・エイミ ・・・・」という強調の現在時制で記されています。これは、イエス・キリストが、出エジプト記3章14節に記されている、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられることを示しています。この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名は、契約の神である主が、永遠に変わることなく存在される方であり、他の何ものにも依存しないでご自身で存在される方であること、その意味で、真に存在される方であられることを意味しています。その他のすべてのものはこの方によって造られ、この方によって保たれており、この方を目的として存在しています。 イエス・キリストは、この、 わたしは、「わたしはある。」という者である。 という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられます。その栄光のご臨在の御前においては、最も聖い御使いであるケルビムもセラフィムも、その面を伏してひたすらその栄光をたたえるほかはありません。しかし、私たちは、この栄光の主から「友」と呼ばれているのです。 先週は、出エジプト記33章11節に、 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。 と記されていることに基づいて、主、ヤハウェがモーセに「友」として接してくださっていたことをお話ししました。実は、私たちは、このモーセ以上に、近くまた親しく、栄光の主のご臨在の御前に立つ者とされています。 その時のモーセのことを、もう一度振り返って見てみましょう。主の力強い御手のお働きによって、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、シナイ山の麓まで導かれて来たイスラエルの民は、そこで主との契約を結ぶために宿営しました。その時、主はシナイ山にご臨在されました。出エジプト記19章16節〜18節には、 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。 と記されています。 その後、主はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。そして、その契約に基づいて、ご自身がイスラエルの民の間にご臨在してくださるのに必要な聖所に関する戒めを与えてくださるために、モーセにシナイ山に登るように命じられました。それで、モーセはシナイ山に登りました。 モーセの帰りが遅いと感じたイスラエルの民は、主の栄光のご臨在のあるシナイ山の麓で金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝しました。それによって、主に背いて背教してしまったイスラエルの民は、直ちに滅ぼされるべきものとなりました。しかし、モーセは、主の契約に基づいて、イスラエルの民のために繰り返し執り成しをしました。主はモーセの執り成しを受け入れてくださり、イスラエルの民とともにいて約束の地まで導いてくださることを約束してくださいました。 その時、モーセは、改めて、主に栄光を見せてくださるようにお願いしました。それは、主が、かたくなな心をもって主に背き続けるであろうイスラエルの民とともにいてくださっても、なお、イスラエルの民が滅ぼされないということは、主がこれまでに示してくださった恵みに優る恵みとあわれみを示してくださらなければならないということによっています。モーセは、そのような恵みとあわれみに満ちた主の栄光を見せていただきたいと願ったのです。そのことが、出エジプト記33章18節〜23節には、 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」 と記されています。 ここでは、契約の神である主が「友」として接してくださっていたモーセであっても、この時、シナイ山の頂において示される主の栄光のご臨在に接するに当たっては、 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。 と言われています。 この「うしろを見る」ということは、ある人の後ろ姿を見ることにたとえられるような感じがしますが、そういうことではありません。これは、むしろ、太陽が西に沈んだ後に夕焼けがしているときに、その夕焼けを見ることにたとえられます。モーセは、そのような意味での栄光の主のご臨在に接したのです。それでも、これは、先週お話ししましたように、古い契約の下で与えられた契約の神である主の恵みとまことに満ちた栄光の啓示の頂点の一つです。 私たちはどうなのでしょうか。前に取り上げたことがありますが、コリント人への手紙第二・3章18節には、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。 これは、モーセがシナイ山の頂において主の栄光のご臨在に接した時のことを背景として記されています。あの時、栄光の主の「うしろ」を見たモーセについて、出エジプト記34章29節、30節には、 それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。 と記されています。 主の栄光のご臨在に接したモーセは、その栄光にあずかって栄光化されました。しかし、それは「彼の顔のはだが光を放つ」と言われていることに現われたものでした。コリント人への手紙第二・3章7節では、「モーセの顔の、やがて消え去る栄光」と言われています。そして、13節では、 モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けた と言われています。 これに対して、私たちの場合には、そのような「おおい」を掛ける必要はないと言われています。私たちは一時的で消え去るべき栄光にあずかっているのではなく、 顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 という恵みにあずかっているのです。 モーセは、古い契約の下で、主の契約の仲保者として立てられ、主の栄光のご臨在の御前に出でて、忠実にその務めを果たし、自分の身を捨ててイスラエルの民のために執り成し続けました。主もモーセに「友」として接してくださいました。しかし、そのモーセがあずかった栄光は、「やがて消え去る栄光」でした。それは、モーセが古い契約の下にあって、やがて来るべきものの「ひな型」に仕えていたからです。モーセの「顔のはだが光を放った」ことも、やがて来るべきものの「ひな型」としての意味をもっていました。それは、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下にある私たちが、御霊のお働きによって、イエス・キリストの栄光の御姿と「同じかたちに姿を変えられて」いくことによって成就しています。 主は、モーセをご自身の栄光のご臨在の御前に近づけてくださることにおいて、古い契約の下にあった誰よりも近くまた親しく接してくださいました。そのことが、 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。 と言われています。しかし、私たちは、そのモーセよりはるかに近くまた親しく栄光の主のご臨在の御許に近づくことができる者とされています。 その意味では、私たちは、古い契約の下で与えられた、契約の神である主の栄光の啓示の頂点ともいうべき、シナイ山において示された主の栄光のご臨在に優る恵みとまことに満ちた主の栄光に接しています。その私たちが、栄光の主から「友」と呼んでいただいています。それによって与えられている交わりは、モーセに与えられた交わりの近さと親しさを越えています。このことを考えますと、イエス・キリストが私たちを「友」と呼んでくださっていることの重さが分かります。 このことを、さらに、絶えず主の御顔を仰いでいると言われている、御使いたちの立場とも比べてみましょう。 繰り返しになりますが、イエス・キリストが私たちのことを「友」と呼んでくださるのは、父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださっているからです。この点で、私たちは御使いたちよりもさらにイエス・キリストに近づけられ、特権ある立場に置いていただいています。ペテロの手紙第一・1章10節〜12節に、 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。 と記されているとおりです。 また、ヘブル人への手紙2章5節〜10節には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 ここにでは、神さまはご自身がお造りになり、やがて歴史の終わりに完成するこの世界を、御使いにではなく、「神のかたち」に造られている人間にお委ねになったということが述べられています。そして、そのことは、人の性質を取って来られたイエス・キリストが、ご自身の十字架の死の苦しみを通してご自身の民の贖いを成し遂げてくださったことによって、そして、栄光をお受けになったことによって実現し始めていると言われています。 それは、先ほど引用しました、エペソ人への手紙1章9節、10節において、私たちに示された神さまの「みこころの奥義」について、 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。 と言われていることが実現し始めているということに当たります。 このことは2章に記されていますが、それに先だって記されている1章1節、2節には、 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 と記されています。ここで、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。 と言われていることは、御子イエス・キリストによって、「みこころの奥義」また「神のご計画の全体」が私たちに示されているということにほかなりません。 これらのこととの関連で、エペソ人への手紙3章5節〜12節に記されていることを見てみましょう。そこには、 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。 と記されています。 ここでは、福音の宣教と、それによって生み出されたキリストのからだである教会を通して、神さまが示してくださった奥義が実現すること、そして、それによって、「天にある支配と権威」に対してのあかしがなされるということが示されています。これが、栄光の主が「友」と呼んでくださっている者たちに委ねられている栄光の務めです。 この「天にある支配と権威」とは、栄光の主に敵対して働く霊たちのことです。というのは、この「天にある支配と権威」は、1章20節、21節に、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と記されている「すべての支配、権威、権力、主権」と同じものであると考えられるからです。1章20節、21節では、栄光を受けてよみがえられたイエス・キリストが、父なる神さまの右の座に着座されたことが記されています。それは、詩篇110篇1節に、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 と記されていることの成就です。それで、 天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に ・・・・ 高く置かれました。 と言われているときの、 すべての支配、権威、権力、主権の上に ・・・・ 高く置かれました。 ということは、 わたしがあなたの敵をあなたの足台とする ということの成就です。 ですから、この「すべての支配、権威、権力、主権」は、栄光の主に敵対して働く霊たちのことです。そして、これとの関連で理解すべき、3節10節の「天にある支配と権威」も、栄光の主に敵対して働く霊たちのことです。 それで、3章10節、11節で、 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。 と言われているのは、私たちが福音の御言葉において示されているイエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、キリストのからだである教会につながれて一つとなること、そして、そのように一つとなったものとして、神さまの御前に近づいて礼拝をすることは、栄光の主に敵対して働く霊たちの働きが空しいものであったことのあかしとなるということです。なぜなら、その霊たちは、罪によってこの世を支配し、主の契約の民である私たちを神さまから遠ざけ、私たちの間にも分裂をもたらそうとして働き続けているからです。 ヨハネの福音書15章に記されているイエス・キリストの教えに沿って言いますと、私たちが、9節に記されている、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 というイエス・キリストの戒めに従って、イエス・キリストの愛のうちにとどまり、12節に記されている、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 という戒めに従って、互いに愛し合うようになることが、「天にある支配と権威」に対して、その栄光の主に敵対する働きが空しいものとされていることをあかしすることになるのです。 もちろん、これには、より積極的な面があります。私たちは、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをすべて知らせていただいて、イエス・キリストから「友」と呼んでいただいている者です。それで、その自覚をもって、イエス・キリストの愛のうちにとどまり、互いに愛し合います。それが、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という「みこころの奥義」が実現することの第一歩であり、中心であるのです。 |
![]() |
||