(第102回)


説教日:2002年10月27日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうも、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話しします。これまで二回にわたって、13節〜15節に記されている、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という教えについてお話ししてきました。
 きょうも、この教えについてのお話を続けます。まず、これまでお話ししたことを簡単にまとめておきましょう。
 ここでは、イエス・キリストが弟子たちのことを「」と呼んでくださっておられることが記されています。それは、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われていますように、イエス・キリストが、父なる神さまからお聞きになったことをみな、弟子たちにお知らせになったからです。
 このことは、新しい契約の民である私たちにも当てはまることです。そのことを示す御言葉はいくつか考えられますが、先週も取り上げましたエペソ人への手紙1章7節〜10節を見てみましょう。そこには、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されています。
 ここでは、私たちは、御子イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかっているだけでなく、父なる神さまの「みこころの奥義」を知る者としていただいていると言われています。私たちが父なる神さまの「みこころの奥義」までも知る者とされているのは、栄光のキリストが父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださっているからに他なりません。それで、私たちも、栄光のキリストから「」と呼んでいただく立場にあります。
 私たちには、人とは違ってとか、人より多くというようなことを特別なことと感じ、すべての者に与えられていることは特別なことではないと感じる傾向があります。それで、このように、私たちすべてが主から「」と呼ばれる立場にあるといっても、そのことが、それほど大したことではないかのように感じてしまいがちです。
 けれども、主から「」と呼ばれることは特別な意味をもったことです。古い契約の下では、主が「」として扱ってくださったと言われているのは、アブラハムとモーセだけです。その意味では、主が私たちを「」と呼び、「」として扱ってくださるということは、新しい契約の下にある者に与えられている特別な祝福です。
 また、それ以上に私たちが心にとめなければならないのは、私たちを「」として扱っていてくださるのは、栄光の主であるということです。
 ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えの土台は、1節と5節に記されている、

わたしは(まことの)ぶどうの木です。

というイエス・キリストの言葉です。
 これは、「エゴー・エイミ ・・・・ 」という、強調の現在時制で表わされていて、イエス・キリストが、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられることを意味しています。そして、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、主、ヤハウェが、永遠に変わることなく存在される方であり、他の何ものにも依存しないでご自身で存在される方であること、その意味で、真に存在される方であられることを意味しています。この世界のすべてのものはこの方によって造られ、この方によって保たれており、この方を目的として存在しています。私たちは、この契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストから、「」と呼ばれる立場にあるのです。


 このことは、注意深く理解しなければなりません。
 一国の王が、幼い頃から一緒に過ごし、成長して家臣になっている人のことを「友」と呼んだとします。その王は、家臣である人を友として扱っています。そうではあっても、王は王であり家臣は家臣です。その家臣は王の友であって、王ではありません。このことは、イエス・キリストと私たちの関係にも当てはまります。
 イエス・キリストが私たちを「」と呼んでくださり、「」として扱ってくださるからといって、イエス・キリストと私たちが同じ立場に立っているのではありません。このことは、14節に記されている、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

というイエス・キリストの教えにも表わされています。私たちは、イエス・キリストが私たちのことを「」と呼んでくださり、「」として扱ってくださるからということで、イエス・キリストが

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられるということを見失ってはなりません。
 イエス・キリストが私たちを「」と呼んでくださり、「」として扱ってくださることは、イエス・キリストの私たちに対する一方的な愛と恵みによっています。
 その愛と恵みは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストの恵みと愛です。それは、コロサイ人への手紙1章15節〜20節において、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と言われている御子イエス・キリストの愛と恵みです。
 先ほど引用しました、エペソ人への手紙1章10節では、父なる神さまの「みこころの奥義」は、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

であると言われていました。そして、このコロサイ人への手紙1章19節、20節では、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった

と言われています。これによって、父なる神さまが御子イエス・キリストによって、ご自身の「みこころの奥義」を実現しておられることが示されています。
 私たちは、父なる神さまの「みこころの奥義」を実現しておられる御子イエス・キリストの愛と恵みによって、イエス・キリストの「」としていただいて、その「みこころの奥義」を知らせていただいていますし、父なる神さまの「みこころの奥義」を実現されるイエス・キリストのお働きにあずかる者とされています。
 私たちがこのようなイエス・キリストの愛と恵みにあずかっているということとの関連で注目したいのは、ヨハネの福音書15章13節に記されている、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えです。
 これは、その前の12節に、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの戒めが記されていることから、私たちがお互いに愛し合うこととのつながりで理解すべきであるという見方があります。実際、ヨハネの手紙第一・3章16節に記されている、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

という教えは、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの戒めと同じ精神に基づく教えです。そして、その教えは「兄弟のために、いのちを捨てるべきです」という、自己犠牲の精神を最終的な形で表わしています。このことから、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えを、その前の、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という戒めとのつながりで理解することは、必ずしも無理なことではありません。私たちがイエス・キリストの戒めにしたがって互いに愛し合うに当たって、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

という教えを心にとめておきなさいということです。
 けれども、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

という教えにおいては、「」というテーマが出てきています。そして、「」というテーマはこの後にでてきます。それで、これは、その前の、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という戒めとのつながりで理解するよりは、それに続く、

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という教えとのつながりで理解すべきです。
 もちろん、1節〜16節に記されているイエス・キリストの教えは全体として一つの教えです。その意味でも、先ほどお話ししましたように、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えを、その前の、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という戒めとのつながりで理解することができないわけではありません。しかし、それは、いわば、派生的にそのように考えられることで、基本的には「」というテーマによって、それに続く教えとつながっていると考えられます。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは私たちを「」と呼んでくださいます。それは、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられ、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げられた後、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座された栄光の主であられるイエス・キリストが、私たちを」と呼んでくださり、「」として扱ってくださるということです。それは、栄光の主であられるイエス・キリストの一方的な愛と恵みによることです。そして、この栄光の主であられるイエス・キリストの一方的な愛と恵みが、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えの根底にあります。

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストは、その御名が表わす真実さをもって、契約のうちに約束してくださった贖いの御業を遂行してくださいました。私たちの罪を贖ってくださるために、人の性質を取って来てくださり、私たちの罪に対する刑罰をすべてその身に負って十字架にかかって死んでくださいました。それは、まさに、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

と教えられたことを、ご自身が、私たちのためになしてくださったということです。このようにして、イエス・キリストは、私たちをご自身の「」としてくださり、「」として扱ってくださったのです。
 これまで、15節に記されている、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

というイエス・キリストの言葉から、イエス・キリストが私たちのことを「」と呼んでくださり、「」として扱ってくださってることは、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをみな、私たちに知らせてくださっていることにある、ということをお話ししてきました。
 このイエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをみな、私たちに知らせてくださっているということは、イエス・キリストが私たちを「」としてくださり、「」として扱っていてくださることの具体的な現われです。イエス・キリストは、私たちを「」としてくださっているので、父なる神さまからお聞きになったことをみな、私たちに知らせてくださったのです。
 15節では、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という言葉に先立って、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

と言われています。もしイエス・キリストが私たちを「しもべ」として扱っておられたのでしたら、私たちに父なる神さまからお聞きになったことをみなお知らせになることはありませんでした。でも、私たちを「」としてくださり、「」として扱ってくださっているので、父なる神さまからお聞きになったことをみなお知らせくださったのです。
 しかし、イエス・キリストが私たちを「」としてくださり、「」として扱ってくださるためには、私たちとご自身との間を隔てている罪が清算されなければなりません。それによって、イエス・キリストと私たちの関係が、本来の、契約の主とその民の関係に回復されなければなりません。それで、イエス・キリストは、私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださいました。そして、この罪の贖いによって、イエス・キリストと私たちの間に契約の主とその民の関係が回復されました。
 けれども、契約の主とその民の関係は、必ずしも、契約の主が、その民を「」としてくださり、「」として扱ってくださるような関係であることを意味してはいません。むしろ、契約の主とその民の関係は、基本的には、「主」と「しもべ」の関係です。しかも、聖書の中では、主がご自身の民のある特定の個人を親しく「わたしのしもべ」と呼んでくださった例もそれほど多くはありません。私が知るかぎりでは、アブラハム、モーセ、カレブ、ダビデ、ゼルバベル、ヨブ、そして、イザヤによって預言されている来たるべきメシヤである「主のしもべ」くらいです。当時の発想では、主、ヤハウェの「しもべ」という呼び方自体が「栄誉称号」であったのです。栄光の主から「わたしのしもべ」と呼ばれるということは、古い契約の下で考えられる枠の中では、最も近く主の御許に近づけられていることを意味していました。
 主から「わたしのしもべ」と呼ばれ、試練の中でも「主のしもべ」として扱われたヨブは、ヨブ記42章5節に記されていますように、その試練の後に、

  私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
  しかし、今、この目であなたを見ました。

と告白しています。

  今、この目であなたを見ました。

と言うほどに、主に近い者とされたということです。
 イエス・キリストは、私たちを、これよりもさらに近く親しく、ご自身との交わりにあずからせてくださるために、十字架にかかって、ご自身のいのちをお捨てになりました。それによって、私たちの罪の贖いが成し遂げられただけではなく、私たちをご自身にとっての「」としてくださっていることが示されたのです。
 繰り返しになりますが、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、イエス・キリストの十字架の死は、イエス・キリストが私たちを「」としてくださり、「」として扱ってくださっていることの現われです。
 これに対して、イエス・キリストの十字架の死は、イエス・キリストが私たちを「」としてくださるために必要なことであるので、十字架の死による罪の贖いが成し遂げられるまでは、私たちを「」として扱うことはできなかったのではないかという疑問が出てきます。
 確かに、イエス・キリストが私たちを現実に「」として扱ってくださり、親しくご自身のみこころをお知らせくださるようになるためには、十字架の死による罪の贖いが必要でした。その意味では、イエス・キリストの十字架の死は、私たちを、実質的に、ご自身の「」としてくださるための死でした。しかし、それに先立って、父なる神さまとイエス・キリストの「永遠のみこころ」のうちでは、すでに、私たちをイエス・キリストにとっての「」としてくださるということ、そのように親しくご自身との交わりの中に生かしてくださるということが定まっていました。その意味では、イエス・キリストは、初めから、私たちを「」としてくださっており、その私たちのために十字架にかかって、ご自身のいのちをお捨てになったのです。
 これらのことを踏まえて、ヨハネの福音書15章15節に記されている、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

というイエス・キリストの教えを見てみましょう。
 このイエス・キリストの教えに示されていますように、私たちがイエス・キリストの「」と呼ばれるのは、「しもべ」との対比においてです。そして、

しもべは主人のすることを知らないからです。

というように、「しもべ主人のすることを知らない」と言われています。
 この

しもべは主人のすることを知らないからです。

と言われていることについては、慎重に考えないといけないと思います。
 一般には、このことは、その当時の奴隷は主人がしようとしていることの意味や目的を教えられないで、ただ、そのつど主人から命じられたことだけをしていたということを意味していると考えられています。
 けれども、もしそういうことであるとしますと、一つの疑問がわいてきます。イエス・キリストは、

しもべは主人のすることを知らないからです。

という言葉に先立って、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。

と言われました。そこでは「もはや ・・・・ 呼びません」と言われています。しかも、原文のギリシャ語では、この「もはや ・・・・ しない」という言葉(ウーケティ)は最初に出てきて強調されています。ということは、先ほどの解釈では、この時まで、イエス・キリストは弟子たちを奴隷のように扱ってこられたということになってしまいます。そこまで言わないとしても、少なくとも、奴隷にたとえられる立場にあるように扱ってこられたということになります。ご自身がなさろうとしておられることを、弟子たちにお示しにならないで、ただそのつど、弟子たちがなすべきことだけを命じてこられたというようなことです。
 これは、福音書があかししているイエス・キリストと弟子たちの関係ではありません。たとえば、マルコの福音書4章10節〜12節には、

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」

と記されています、これは、イエス・キリストの公生涯の早い時期に語られた「神の国のたとえ」についての記事です。ここで、イエス・キリストは、弟子たちに向かって、

あなたがたには、神の国の奥義が知らされている

と述べておられます。イエス・キリストは、初めから、弟子たちを、「神の国の奥義が知らされている」者として扱っておられるのです。
 また、同じマルコの福音書8章29節〜31節には、

するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

と記されています。
 イエス・キリストは弟子たちの「キリスト告白」を受けて、父なる神さまのみこころの中心であり、父なる神さまのみこころ全体を理解する鍵である、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりについて教え始められました。そして、その時から、繰り返し、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりについてお教えになりました。
 このように、イエス・キリストは、初めから弟子たちを、その当時の奴隷が主人のすることの意味や目的を知らされないままに、ただ命じられることだけをすればよいとされていたことになぞらえられる形では扱っておられませんでした。それで、イエス・キリストが、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

と言われたのは、弟子たちがこの時まで、その当時の奴隷にたとえられるような立場にあったけれども、これからは違うということを意味しているのではないと考えられます。
 そうしますと、その、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

というイエス・キリストの教えをどのように理解したらいいのでしょうか。
 それは、これまでお話ししてきたことからお分かりになると思います。
 イエス・キリストが「もはや ・・・・ しない」と言われたのは、その時までの弟子たちへの接し方と、これからの接し方が変わるということではありません。先ほどお話ししましたように、イエス・キリストは初めから弟子たちを「神の国の奥義が知らされている」者として扱っておられました。ですから、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われたのは、この時に至るまで、父なる神さまからお聞きになったことをみな、弟子たちに知らせてこられたということを踏まえてのことです。もちろん、それは、一度に全部を知らせてくださったということではなく、弟子たちの理解の程度に合わせて、その都度、知らせるべきことを「包み隠さず」知らせてこられたということです。(この場合の「知らせた」の不定過去形は、それが一度にすべてなされたという、一回的なことではなく、それが完全になされたということを意味していると考えられます。)
 それでは、イエス・キリストが、

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

と言われたことの、「もはや ・・・・ しない」ということをどのように考えたらいいのかということになりますが、それは、古い契約の下にあった主の契約の民のあり方との比較で考えられるべきだと思われます。つまり、贖いの御業の歴史における転換を示しているということです。主がご自身の契約の民を「しもべ」とお呼びになる時代は終わりを告げて、イエス・キリストの弟子たちにおいて、主がご自身の契約の民を「」と呼んでくださるという、新しい契約の時代が現実のものになっているということです。
 古い契約の下にあっては、主から親しく「わたしのしもべ」と呼ばれた人はそれほど多くありませんでした。「」と呼ばれたのは、アブラハムとモーセだけでした。しかし、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストが、ご自身の民のために十字架にかかっていのちを捨ててくだいました。イエス・キリストは、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

と言われて、このことの意味を教えてくださいました。イエス・キリストは、この上なくはっきりと、また、決定的に、私たちを「」としてくださっていることを示してくださったのです。そして、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

と言われていますように、イエス・キリストは、父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださっています。
 それは、先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章7節〜10節に記されていますように、私たちが、父なる神さまの「みこころの奥義」を知る者としていただいていることによって、私たちの現実になっています。
 私たちは、このような父なる神さまの「みこころの奥義」を知らされているだけでなく、その実現に参与する者とされています。その実現の第一歩が、イエス・キリストの、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

という戒めにしたがって、私たちが互いに愛し合うことにあります。
 それとともに、私たちは、主イエス・キリストが教えてくださったように、なによりもまず、

  天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
     地でも行なわれますように。

と祈ります。これは、栄光の主から「」と呼ばれ、父なる神さまの「みこころの奥義」を知らせていただいている者の祈りです。

 


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