(第103回)


説教日:2002年11月3日
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1節〜16節


 きょうも、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているぶどうの木とその枝のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話しします。これまで三回にわたって、13節〜15節に記されている、

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

という教えについてお話ししてきました。きょうは、ここに記されているイエス・キリストの教えについて、これまでお話ししたことの補足をしたいと思います。
 ここには、イエス・キリストが弟子たちをご自身の「」と呼ばれたことが記されています。これまで、そのことの意味の重さを考えるために、二つのことをお話ししました。
 一つは、古い契約の下で契約の神である主の「」として扱われたと、聖書に記されているのは、アブラハムとモーセだけであるということです。主の贖いの御業の歴史の中で、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる立場にあります。モーセは、古い契約の仲保者として、主の契約の仲保者であられるイエス・キリストの「ひな型」でした。アブラハムもモーセも、古い契約の下にあるということの限界の中でではありますが、主のみこころの全体に関わる啓示を与えられた人物です。これは、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

というイエス・キリストの教えに示されていることと一致しています。
 イエス・キリストの弟子たちも、主のみこころの全体に関わる啓示を与えられたという点において、イエス・キリストから「」と呼ばれているのです。
 このことは、私たちにも当てはまります。というのは、弟子たちに知らされたことは、新しい契約の書である新約聖書に記されていて、私たちにも知らされているからです。それはいくつかの個所から知ることができますが、すでに取り上げた、エペソ人への手紙1章7節〜10節には、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されています。
 しかも、私たちには、そのことを理解し悟ることができるように導いてくださる御霊が与えられています。コリント人への手紙第一・2章7節〜12節に、

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
  「目が見たことのないもの、
  耳が聞いたことのないもの、
  そして、人の心に思い浮んだことのないもの。
  神を愛する者のために、
  神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

と記されているとおりです。
 もう一つのことは、弟子たちを「」と呼んでくださり、「」に接するように接してくださるイエス・キリストは、栄光の主であられるということです。
 ヨハネの福音書15章1節と5節に記されていますように、イエス・キリストは、

わたしは(まことの)ぶどうの木です。

と言われました。これは、ギリシャ語では、「エゴー・エイミ (ヘー・アンペロス・ヘー・アレーシネー) 」という強調の現在時制で表わされています。これによって、イエス・キリストが、神さまが出エジプトの贖いの御業を遂行されるにあたって、モーセを通して啓示してくださった、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられる、ということが示されています。
 そして、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、主、ヤハウェが、永遠に変わることなく存在される方であり、他の何ものにも依存しないでご自身で存在される方であること、その意味で、真に存在される方であられることを意味しています。この世界のすべてのものはこの方によって造られ、この方によって保たれており、この方を目的として存在しています。そして、主、ヤハウェは、そのような方として、ご自身の契約を決して変えることなく、真実にすべてのことを実現されます。
 大切なことは、このこと―― イエス・キリストがこのような契約の主、ヤハウェであられるということが、ヨハネの福音書15章1節〜16節に記されているイエス・キリストの教え全体の基礎となっているということです。それで、弟子たちは、この契約の主、ヤハウェであられるイエス・キリストから「」と呼ばれているのです。
 この二つのことは、イエス・キリストから「」と呼ばれることの意味の重さを示すものです。


 私たちを「」と呼んでくださるイエス・キリストは、
わたしは、「わたしはある。」という者である。
という御名をもって呼ばれる、契約の神である主、ヤハウェであられます。そして、この、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名は、主が古い契約のもとでなされた贖いの御業の頂点である出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、モーセに啓示されたものです。
 さらに、イエス・キリストから「」と呼ばれることは、

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

というイエス・キリストの言葉が示していますように、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをすべて、知らされているということを意味しています。
 この二つのことは深くつながっています。
 このことに関連して、一つの問題を考えたいと思います。それは、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをすべて私たちに知らせてくださったというとき、イエス・キリストは父なる神さまから何かをお聞きになったのですが、それがどういう意味かということです。それは、三位一体の第二位格であられる御子が、無限、永遠、不変の神として、何かを御父からお聞きになったという意味ではなく、ご自身の民を罪と死の力から贖い出すために人の性質を取って来てくださったイエス・キリストが、父なる神さまから何かをお聞きになったという意味です。
 どういうことかと言いますと、三位一体の第二位格であられるという点では、御子イエス・キリストは無限、永遠、不変の神として、永遠にすべてのことを知っておられます。その意味では、父なる神さまから何かをお聞きになって新しく知るということはありません。また、そのような永遠の神の御子としての無限、永遠、不変の知識をすべて私たちに知らせてくださるというようなことはありえません。かりに、知らされたとしても、どのような被造物もそれを受け止めることはできません。ここで、イエス・キリストが「父から聞いたこと」とは、それとは別のことです。
 人間的な言い方になりますが、三位一体の神さまは、ご自身の民のために贖いの御業を遂行されるにあたって、御父、御子、御霊の間で「役割分担」をされました。父なる神さまは神さまを代表する立場に立たれて、贖いの御業のご計画をお立てになりました。御子は父なる神さまのご計画にしたがって贖いの御業を遂行される役割を担われました。それで、人の性質を取って来てくださって、私たちの罪と咎をご自身の身に負われて、十字架にかかって死んでくださいました。そして御霊は、御子が成し遂げられた贖いを主の民である私たちに当てはめてくださる役割を担っておられます。
 このように、三位一体の神さまが「役割分担」をなさって、主の民の贖いを成し遂げてくださっています。そのことの中で、御子イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことがあるのです。それが、イエス・キリストが「父から聞いたこと」と言っておられることです。それで、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったこととは、イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって遂行なさる贖いの御業に関することに他なりません。
 そして、このことから、イエス・キリストが父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださったということは、先ほど引用しました、エペソ人への手紙1章7節〜10節に記されている、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

ということに当たるわけです。
 神さまは私たちを「御子の血による贖い、すなわち罪の赦し」にあずからせてくださっただけではありません。さらに、

この恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

と言われています。そして、その父なる神さまの「みこころの奥義」は、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

であると言われています。
 このように、御子イエス・キリストは、父なる神さまからお聞きになったことをすべて―― 父なる神さまの「みこころの奥義」に至までも包み隠さず私たちに知らせてくださいました。そのイエス・キリストは、神さまが古い契約のもとでなされた贖いの御業の頂点である出エジプトの贖いの御業を遂行されるに当たって、モーセに啓示された、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられます。このことも、イエス・キリストは、父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださったということにつながっています。これはもう説明するまでもないことですが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」は、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる契約の神である主、ヤハウェであられるイエス・キリストが遂行された贖いの御業を通して実現するものであるということです。そして、そのことは、すでに、原理的な形においてではありますが、歴史の現実となっています。
 コロサイ人への手紙1章15節〜17節には、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。ここでは、御子イエス・キリストが、「造られたすべてのもの」の存在の根拠であり、根源であり、目的であることが示されています。これは、まさに、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名が表わしていることの実体を示しています。
 そして、これに続く18節〜20節には、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 ここでは、御子イエス・キリストの

十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった

と言われており、さらに、

地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださった

と言われています。
 これは、先ほどのエペソ人への手紙1章10節で、父なる神さまの「みこころの奥義」が、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

にあると言われていることが実現しているということを意味しています。御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業によって、私たち主の契約の民の罪が贖われて、私たちと主との愛にある交わりが回復されているだけではありません。「地にあるものも天にあるものも」神さまとの本来の関係に回復されているのです。御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業は、神さまの天地創造の御業によって造り出されたこの世界の本来の姿を回復し、さらに完成させるものであるのです。
 このこととの関連で大切なことは、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業が万物の和解と回復をもたらしていることを述べている18節〜20節は、18節の、

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

という言葉から始まっているということです。
 ご自身の死をもって贖いの御業を成し遂げられ、万物を造り主である神さまと和解させてくださり、本来の姿に回復してくださった御子イエス・キリストは、何よりも、「そのからだである教会のかしら」であると言われています。このことによって、万物の和解と回復の中心に、キリストのからだである教会の存在があることが示されています。そして、そのキリストのからだである教会は、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって成立していることが示されています。キリストのからだとしての教会の存在の根拠は、イエス・キリストのよみがえりにあります。そして、イエス・キリストのよみがえりに基づいてキリストのからだである教会が生み出されたことが、万物の和解と回復の実現と、完成への第一歩であり中心なのです。
 同じことは、エペソ人への手紙1章20節〜23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 これは、10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われている父なる神さまの「みこころの奥義」が、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりとともに実現しているということを示すものです。
 すでにお話ししましたように、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われているときの、「一つに集められる」と訳されている言葉(アナケファライオオーの受動態)は、「一つのかしら(ケファレー)の下にまとめられる」ことを表わします。ただ寄せ集められるのではなく、あらゆるものがイエス・キリストをかしらとして一つに集められるのです。
 先ほど引用しました20節〜23節に記されていることは、この父なる神さまの「みこころの奥義」が、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりとともに実現しているということを示しています。
 すでにお話ししたことを繰り返すことにもなりますが、いくつかのことを注釈しておきたいと思います。
 まず、20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われているときの「すべての支配、権威、権力、主権」は、契約の神である主、ヤハウェに敵対して働いている暗やみの力を指しています。ここでは、イエス・キリストがご自身の十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げられてから死者の中からよみがえられて、父なる神さまの右の座に着座されたことが記されています。それは詩篇110篇1節の、

  主は、私の主に仰せられる。
  「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
  わたしの右の座に着いていよ。」

という御言葉の成就です。それで、エペソ人への手紙1章21節に出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、契約の神である主、ヤハウェに敵対して働いている暗やみの力を指していると考えられます。栄光のキリストが着座された父なる神さまの右の座は、「すべての支配、権威、権力、主権」よりはるかに高い栄光の御座で、そこに着座しておられる栄光のキリストは、「すべての支配、権威、権力、主権」をその「足台」としておられます。
 続く22節前半で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ[られました。]

と言われています。これは、詩篇8篇5節、6節に、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることの成就です。
 この詩篇8篇5節、6節に記されていることは、天地創造の御業の初めに神さまが人を「神のかたち」にお造りになって、創世記1章28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という「歴史と文化を造る使命」を授けられたことを踏まえています。そのことが詩篇8篇5節、6節に記されているということは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後においても、なお、この「歴史と文化を造る使命」を委ねられていることを示しています。
 エペソ人への手紙1章22節前半で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ[られました。]

と言われているのは、ご自身の十字架の死をもって贖いの御業を成し遂げられて、栄光を受けてよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストによって、天地創造の御業の初めに「神のかたち」に造られた人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」が成就されていることを示すものです。
 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という「歴史と文化を造る使命」が授けられたことによって、「神のかたち」に造られている人間と神さまがお造りになったすべてのものとの一体性が確立されています。これによって、人間は造られたすべてのものの「かしら」としての立場に立つことになりました。逆に言いますと、これによって、造られたすべてのものは「かしら」としての人間との一体性の中に置かれたのです。
 そのために、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったときに、人間だけが死の力にとらえられたのではありません。造られたすべてのものが虚無に服することになりました。そのことは、創世記3章17節に記されている、

  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」

という神である主のさばきの言葉に反映しています。
 また、ローマ人への手紙8章19節〜22節においては、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われています。
 ここでは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって神の子どもたちの罪が贖われて、「神のかたち」の本来の栄光と尊厳が回復されることによって、被造物全体が、それまで服していた「虚無」から解放されて、神の子どもたちとの一体性において与えられる「栄光の自由」の中に入れられると言われています。そして、そのために、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と言われています。
 エペソ人への手紙1章22節前半で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ[られました。]

と言われているのは、まさにこのことが、栄光を受けてよみがえって父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストにおいて実現していることを意味しています。
 そして、これに続く22節後半と、23節では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。
 ご自身の十字架の死によって贖いの御業を成し遂げられた後、栄光のうちによみがえって父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」を成就しておられます。その意味で「いっさいのものの上に立つかしら」と呼ばれています。イエス・キリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であられるなら、「いっさいのもの」がキリストのからだであるのかというと、そうではありません。23節で、教会がキリストのからだであると言われています。教会がキリストのからだと言われているのは、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです

と言われていますように、栄光のキリストが特別な意味でそこにご臨在しておられるからです。―― この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、栄光のキリストのことです。
 これらのことから分かりますように、いま父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストは、「いっさいのものの上に立つかしら」として、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現しておられます。すでにお話ししましたように、「一つに集められること」とは、一つのかしらの下に集められるということを意味していました。
 そして、このことの中心に、神さまが、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われている、栄光のキリストのからだである教会の存在があります。私たちが、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかって、栄光のキリストのからだである教会として一つに集められることが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩であるのです。
 被造物全体が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」という望みをもって「今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをして」います。そして「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んで」います。それは、私たちが栄光のキリストのからだである教会として一つに集められることに被造物全体の回復の望みの中心があるということです。
 イエス・キリストは、私たちを「」としてくださって、父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださいました。それは、御言葉の啓示の全体の光で見ますと、父なる神さまの「みこころの奥義」と言われている、全被造物の回復にかかわる贖いの御業の意味についての啓示を含んでいます。
 イエス・キリストは、ただ、父なる神さまの「みこころの奥義」に至まで、父なる神さまからお聞きになったことをすべて、私たちに知らせてくださっただけではありません。私たちをご自身の栄光のからだに結び合わせてくださって、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現に参与させてくださっています。私たちが、キリストのからだである教会につながれて、御霊によってご臨在してくださる栄光のキリストのお導きのもとに父なる神さまを礼拝していることは、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現していることの、何よりのあかしです。そして、私たちが、

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

というイエス・キリストの戒めにしたがって、互いに愛し合うことによって、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現がより豊にあかしされることになります。

 


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