(第2回)


説教日:2000年6月11日(聖霊降臨節)
聖書箇所:マタイの福音書28章16節〜20節


 きょうは、2000年のペンテコステに当たります。このことを念頭に置きながら、きょうも、先週に続いて、聖なるものであることについて、基本的なことを、御言葉から学びたいと思います。
 まず、先週お話ししたことの要点を復習しながら、お話を進めていきたいと思います。
「聖い」ことの反対は「汚れている」ことです。それで、一般的には、「聖い」というのは「汚れていない」ということであり、「聖める」というのは、「汚れを聖める」ということであると考えられています。これは「聖い」ということを「汚れている」こととの(対比という)関係において理解することです。
 それが誤っているということではありませんが、それは、「聖い」ことや「聖める」ということの一面でしかありません。聖書においては、「聖くする」ということは、基本的には、神さまのために、また、神さまに向けて「区別する」ことを意味しています。そして、「聖い」ということは、基本的に、神さまのために、また、神さまに向けて「区別されている」状態にあることを表わしています。


 このことの奥には、神さまご自身が聖なる神であられるということがあります。神さまが聖なる神であられるということは、神さまがこの宇宙とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。この意味で、神さまの聖さは「絶対的な」聖さです。神さまはご自身で聖い方であり、聖さそのものであり、聖さの基準であり、聖さの源です。
 これに対して、造られたものは、「絶対的に」聖い神さまとの関係においてだけ聖くあることができます。神さまとの正常な関係にあるものは、基本的に聖いものです。その意味で、神さまがお造りになったものはすべて、本来、聖いものです。テモテへの手紙第一・4章4節、5節で、

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と言われており、ローマ人への手紙14章14節で、

主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。

と言われているとおりです。
 ただ、神のかたちに造られている人間や御使いのような人格的な存在だけが、自らの自由な意志によって、神さまとの関係を損なって、汚れたものになりえます。人間は、その本来の姿においては、神さまの御手によって造られたものであるという点においてだけでなく、造り主である神さまとの人格的な関係においても、聖なるものとして造られています。その意味で、神のかたちに造られている人間の聖さは、神さまとの人格的な関係における聖さです。
 神さまとの人格的な関係において聖なるものであるということは、何よりもまず、自分の人格のすべてをもって神さまの聖さを表わしあかしすることから始まります。しかし、私たちは、存在において有限なものであり、相対的なものでしかない人間です。そのような私たちは、神さまが造り主として、すべての造られたものから「絶対的に」区別される方であること、すなわち、神さまの聖さををどのようにあかししたらいいのでしょうか。
 先週お話ししましたように、神さまの聖さは、私たちが神さまを礼拝することにおいてあかしされます。造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべき立場にあります。それで、神さまを礼拝することを離れては、神さまの聖さをあかしすることはできません。ですから、人間が神のかたちに造られたときには、造り主である神さまを礼拝するものとしての聖さをもっていたのです。

 神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、汚れたものになってしまったということの中心は、造り主である神さまが、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを否定するようになり、神さまをそのような方として礼拝することがなくなってしまったことにあります。
 罪によって堕落した人間も、自分たちが考え出した「神」を拝んでいます。しかし、人間が考える「神」は、人間の考える力の限界の中にあります。それで、そのような「神」は人間より上の存在ということで、人間と比較できる、相対的なものです。「世界の最高存在」といっても、この世界にあるものの序列の中で一番上にあるというだけのものでしかありません。神さまは、そのような序列の中にあるのではなく、この世界のすべてのものをお造りになった方です。その意味で、この世界のすべてのものと、それをお造りになった神さまとの区別は「絶対的な」区別です。
 具体的な像として作られたものであれ、頭の中で考えられたものであれ、人間が考え出した「神」を「偶像」と呼びますが、偶像を作ることも、それを拝むことも、造り主である神さまの「絶対的な」聖さを否定することです。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業によって、罪を贖われて、聖いものとされています。そのことの中心は、造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは神さまを礼拝すべきものであることを認めて、実際に神さまを礼拝することにあります。その意味で、御子イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかった主の民は、何よりも、「祭司の国」を形成しています。

 神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」もの、すなわち、聖別されたものは、二つの面をもつものとなります。
 一つは、特別な意味で、神さまの所有とされることです。「聖いもの」は、特別な意味で、神さまの所有とされるように、「区別されて」います。それを人間に当てはめますと、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられているということです。
 神さまは、すべてのものをお造りになった方ですから、すべてのものを所有しておられます。その意味で、すべてのものは、基本的に、聖いものであるのです。もちろん、神さまがすべてのものを所有しておられるということで、神さまに何かが増えるということではありません。すべてのものは、もともと、神さまから出たものです。また、神さまがそれをどこかにしまっておられるのでもありません。むしろ、神さまは、すべてのものを支えてくださっておられます。ローマ人への手紙11章36節で、

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

と言われているとおりです。
 ここで、「特別な意味で」主の所有の民とされているというのは、そのような一般的なこととは違った意味で、神さまが所有してくださっているということです。神さまが、所有しておられる民をご自身の御臨在の御前に近づけてくださり、ご自身の御顔を向けてくださり、ご自身との愛の交わりに生かしてくださるということです。
 神さまのために、また、神さまに向けて聖別されたものがもっている、もう一つの面は、神さまの特別なご用のために用いられるということです。「聖いもの」は、神さまの特別なご用のために用いられるために「区別されている」のです。人間に当てはめますと、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるものとなることです。
 その意味では、創世記1章26節〜28節において、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と言われていますように、天地創造の初めに「神のかたち」に造られ、「歴史形成の使命」を委ねられている人間は、初めから、神さまのために、また、神さまに向けて聖め別たれていたのです。

 注意したいことは、神さまのために、また、神さまに向けて聖別されたものには、必ず、この二つの面があるということです。ですから、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられている者たちは、必ず、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされています。また、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられていないのに、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるということはありません。
 神さまはご自身の摂理の御手によって、あらゆるものをお用いになって、ご自身のご計画を実現してゆかれます。たとえば、この世を治めている者たちについて、

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
ローマ人への手紙13章1節

と言われています。
 話がそれますが、これは、取りようによっては、権力者が自分の権力をほしいままに振るうために利用されかねない御言葉です。しかし、この御言葉においては、繰り返し、この世の「支配者」が「神のしもべ」であると言われています。つまり、その当時のローマ皇帝の権威さえも、造り主である神さまによって立てられたものであって、神さまの主権の下にあることと、それゆえに、神さまのみこころを行なわなければならない者であることを示しています。
 いずれにしましても、この世の支配者は「神のしもべ」として立てられています。しかし、この世の支配者が、必ずしも、神さまのご臨在の御前からこの世に遣わされているというわけではありません。その人が、まず、特別な意味において神さまの所有の民として聖別されていなければ、神さまのご臨在の御前から遣わされるということはないのです。
それに対して、特別な意味において神さまの所有の民として聖別されている民は、必ず、神さまのご臨在の御前から、この世に遣わされています。

 そのようなわけで、これら二つの面は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている主の民に、そのまま当てはまります。
 たとえば、ペテロの手紙第一・2章9節、10節では、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

と言われています。
 9節前半の、

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

という言葉と、10節の、

あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

という言葉は、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている者たちが、特別な意味で、主の所有の民とされており、神である主との親しい交わりの中に生かされていることを示しています。
 そして、9節後半の、

それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

という言葉は、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている者たちが、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされていることを示しています。

 また、マルコの福音書3章13節〜15節では、イエス・キリストが、新しい契約の下にある教会の「土台」となる、12弟子を任命されたときのことが、

さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

と言われています。ここにも、主のために、また、主に向けて区別されたものに当てはまる二つの面が見て取れます。
 事業中心、役割中心の発想があって、人を事業や役割とのつながりで見てしまう現代人の目には、

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

という言葉は、イエス・キリストが、弟子たちを宣教の御業に任命されたことを述べていると見えることでしょう。そして、「彼らを身近に置き」ということは、「彼らを遣わして福音を宣べさせ」るために「訓練」するためのことであると見えることでしょう。
 けれども、原文のギリシャ語では、13節〜15節には、イエス・キリストが12弟子たちを任命された目的は二つ記されています。その第一の目的が「彼らを身近に置き」(直訳・「彼らがご自身とともにあるために(任命された)」ということです。これは、それとして独立しており、その次の「また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(直訳・「彼らが宣教し、悪霊たちを追い出す権威を持つようにと遣わすために(任命された)」全体と同等の重みをもっている目的を示しています。しかも、そのことの方が最初に記されています。
 枝となる言葉を切り捨てて、中心になる言葉だけに注目しますと、彼らがイエス・キリストとともにあるようになることと、イエス・キリストが彼らをお遣わしになることが、イエス・キリストが12弟子を任命された目的です。
 結果的には、弟子たちは、イエス・キリストとともにあることによって、イエス・キリストがどのような方であるかを知るようになり、自然と、「訓練」を受けることになったでしょう。しかし、主の御前においては、弟子たちがご自身とともにあること自体が、大切なことであったのです。
 それは、イエス・キリストが弟子たちを愛してくださったことを考えれば、当然のことです。主は弟子たち自身を目的としてくださり、弟子たちとともにあることをお喜びくださるのです。決して、弟子たちをご自身の「事業」のために役立つ「手段」のようには見ておられないのです。
 このことを見失っては、主からの「訓練」を受け止めることはできません。それを「訓練」と呼ぶなら、それは、「主とともにある」ことを学ぶための「訓練」でしょう。その「訓練」を受けた者が、遣わされるのは、「主とともにある者」として遣わされるのです。

 このように、神さまのために、また、神さまに向けて聖め別たれたものは、特別な意味で、主の所有の民とされ、主の御臨在の御許に近づけられて「主とともにあり」、主との愛にあるいのちの交わりに生かされていると同時に、特別な使命を受けて、主の御臨在の御前から遣わされています。
 これを、神である主の御臨在を中心としての「方向」に注目して見てみますと、神さまの所有とされるということは、神さまの御臨在の御許に近づけられるという方向を示しています。それに対して、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるということは、その反対の方向を示しているように思われます。それでは、神さまのために、また、神さまに向けて聖め別たれたものは、別々の方向に引き裂かれてしまうのではないでしょうか。
 もちろん、そのようなことはありません。
 すでにお話ししましたように、神さまのために、また、神さまに向けて聖め別たれたものは、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられていると同時に、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされています。この二つのことは、神さまのために、また、神さまに向けて聖め別たれたものの二つの面であって、一方から他方を切り離すことはできません。
 それが、神である主の御臨在を中心にして、別々の方向に切り離されるかのように見えるのは、主の御臨在をどこかに固定されているかのように考えるからです。そのようなことは、古い契約の下で、幕屋や神殿という「模型」において示された主の御臨在にだけ当てはまることです。幕屋や神殿という「模型」は、地上のどこかに存在していました。それで、距離的に、そこに近づいたり、そこから離れたりすることがあったわけです。
 しかし、それは、神である主の御臨在の本来の姿ではありません。主のご臨在は、本来は、主の契約の民とともにあります。御子イエス・キリストを通してご自身を啓示してくださった神さまは、イエス・キリストにあって、ご自身の民に近づいてくださる神さまです。
 ヨハネの福音書1章14節で、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と言われていますように、イエス・キリストは、ご自身が人の性質をお取りになって、私たちの間に宿られました。そして、イエス・キリストが私たちとの関係においてどのような方であるかを表わす御名については、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
マタイの福音書1章22節、23節

と言われています。
 また、十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストは、贖いの御業によって聖めてくださったご自身の民を遣わしてくださるに当たって、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
マタイの福音書28章18節〜20節

と言われました。
 御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、イエス・キリストの民として聖め別たれた者たちが、神である主の御臨在の御許に近づくことができるのは、そして、「主とともにある」ことができるのは、それに先立って、神である主の御臨在がイエス・キリストの民とともにあるからです。
 イエス・キリストの民が、イエス・キリストによって、主の御臨在の御許から遣わされて行くときにも、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と言われていますように、主の御臨在が、彼らとともにあります。先ほど12弟子の任命とのかかわりでお話ししましたように、イエス・キリストの民は、「主とともにある者」として遣わされているのです。
 ですから、イエス・キリストの民が、イエス・キリストによって、主の御臨在の御許から遣わされて行きますと、彼らの遣わされて行った所が、主がご臨在される所になります。イエス・キリストの民は、神である主の御臨在とともにあるために、この世に遣わされており、この世に神である主の御臨在をもたらすために遣わされているのです。

 神さまの御臨在は、本来、ご自身の契約の民とともにあるものである、ということとの関連で注意しておきたいことがあります。
 神さまは、天地創造の初めに「神のかたち」にお造りになった人間を、ご自身がご臨在されるエデンの園に置いてくださいました。人間は、エデンの園で、神さまとの愛にあるいのちの交わりを享受していました。
 その一方で、創世記1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
創世記1章28節

と言われていますように、神さまは、祝福とともに、「神のかたち」に造られている人間に「歴史形成の使命」をお委ねになりました。
 ここに問題が生じるように思われます。
 それは、もし人間が神さまの祝福によって、また、神さまから委ねられた使命に忠実であるために、地を満たすほどに地の面に増え広がっていけば、それだけ、エデンの園から遠くなっていく人々が出てくるのではないかということです。見方を変えて言いますと、エデンの園には限りがあったはずですから、人類が神さまの祝福の下に増えていきますと、間もなく、エデンの園からはみ出す人々が出てきたのではないかということです。
 そのような事態がもたらされるのであれば、果たして、「歴史形成の使命」は、祝福とともに神さまから委ねられた使命であると言えるのでしょうか。
 この問題も、やはり、神さまの御臨在は、本来、ご自身の契約の民とともにあるものであるということを踏まえて理解すべきであると思われます。
 「神のかたち」に造られている人間が罪を犯す前には、そのような、本来の、神さまの御臨在があったはずです。ですから、エデンの園において礼典的(サクラメンタル)に示されていた神さまの御臨在にあずかっている人間が、神さまの祝福の下に、「歴史形成の使命」にしたがって、地の面に増え広がっていったとしたら、それは、神さまの御臨在がともにある者たちとして、そして、その意味で、神さまの御臨在を地の面にもたらす者たちとして、増え広がっていったはずです。それは、いわば、地の面を「エデン化」すること、すなわち、地の全面を神さまの御臨在の祝福で満たすようにすることを意味していたと考えられます。

 先ほど言いましたように、古い契約の幕屋や神殿という「模型」において示された主の御臨在は、地上のどこかに固定されていました。しかし、その「模型」は、「模型」として、神である主が備えてくださっている罪の贖いの恵みと、それによってもたらされる、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりの祝福をあかししていました。そのすべては、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して成就し、実現しています。
 初めにも言いましたが、きょうは、2000年のペンテコステです。使徒の働き2章33節で、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と言われていますように、今から2000年ほど前に、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げ、死者の中からよみがえられて、父なる神さまの右の座に上げられた栄光の主であるイエス・キリストが、ご自身の血による新しい契約の民の間に御霊を注いでくださいました。その時以来、御霊は、栄光の主であるイエス・キリストの御霊として、新しい契約の民の間に宿ってくださっています。
 それは、言い換えますと、栄光の主であるイエス・キリストが、御霊によって、新しい契約の民である私たちの間に宿ってくださっているということです。これによって、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というイエス・キリストの約束の言葉が、私たちの間に実現しています。
 それで、コリント人への手紙第一・3章16節、17節で、

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

と言われています。
 ここで「神殿」と訳されている言葉(ナオス)は、神殿の建物の全体を表わすのではなく、神である主がご臨在される場所である「聖所」を示す言葉です。
 また、エペソ人への手紙2章20節〜22節で、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。
と言われています。
 ここでも、「主にある聖なる宮」の「」と訳されている言葉(ナオス)は、神である主がご臨在される場所である「聖所」を示す言葉です。
 これら二つの個所は、新しい契約の共同体である教会のことを述べています。これに対しまして、コリント人への手紙第一・6章19節では、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

と言われています。
 この「あなたがたのからだは」の「からだ」は、単数形で、私たちそれぞれのからだを指しています。また、「聖霊の宮」の「」という言葉は、先ほどの、コリント人への手紙第一・3章16節、17節に出てくる「神殿」や、エペソ人への手紙2章21節に出てくる「」と同じ言葉(ナオス)で、神である主がご臨在される場所である「聖所」を示しています。ここでは、私たちそれぞれも、神さまの御霊が宿っておられる神殿であると言われています。
 主イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちが「神の御霊が ・・・・ 宿っておられる」「神の神殿」であるということは、神さまが常に私たちの間にご臨在してくださっておられることを意味しています。
 先ほどお話ししましたように、イエス・キリストが12弟子を任命されたことの第一の目的は、弟子たちがご自身とともにあるようにしてくださったことでした。そのことは、栄光の主であるイエス・キリストが御霊によって私たちの間、「使徒と預言者という土台の上に建てられて」いるキリストのからだである教会と私たちそれぞれのうちに宿ってくださることによって、私たちの現実となりました。
 主イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちが「神の御霊が ・・・・ 宿っておられる」「神の神殿」であるということは、また、私たちが、常に、また、どこででも── すなわち、自由に、神さまを礼拝するものとされていることを意味しています。

 イエス・キリストは、このことを見据えておられたので、地上のどこかに固定された神さまの御臨在の場所である神殿を考えていたサマリヤの女性が、、

私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。
ヨハネの福音書4章20節

と、礼拝すべき場所は、サマリヤ神殿のあったゲリジム山であるか、それとも、エルサレム神殿のあるシオンの丘であるかと問いかけた時に、

わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章21節〜24節

とお答えになりました。
 御子イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちは、新しい契約の中に備えられている贖いの恵みにあずかって、「神の御霊が ・・・・ 宿っておられる」「神の神殿」とされています。それによって、私たちは、私たちの間にご臨在してくださる「神の御霊」によって、常に、また、どこででも、自由に、神さまを礼拝することができる者とされています。
 このように、「神の御霊」が御子イエス・キリストの血による新しい契約の民とされている私たちの間にご臨在してくださっているので、私たちは、常に、また、どこででも、神さまのご臨在の御前に立つことができます。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
ヘブル人への手紙10章19節

 私たちは、さらに、私たちの間にご臨在してくださっている「神の御霊」によって、造り主である神さまのみを礼拝する者とされています。そして、その礼拝を通して、神さまの聖さをあかしする、「祭司の国」とされています。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
ヘブル人への手紙10章21節、22節

 


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