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説教日:2000年6月4日 |
この「区別されていること」の根本には、無限、永遠、不変の霊であられる神さまが、神さまによって造られたこの世界のすべてのものと、「絶対的に区別される方」であるということがあります。神さまは天地万物の造り主であられ、この世界とその中のすべてのものは、神さまによって造られたものです。そして、そのことのゆえに、神さまは礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべきであるのです。それで、神さまへの礼拝は、神さまの聖さにかかわっています。イザヤ書6章1節〜4節では、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と言われており、黙示録4章6節〜11節では、 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 と言われています。 このように、礼拝は何よりも神さまの聖さをあかしするものですから、私たちは、三位一体の神さまの聖さをたたえる「聖三位頌」を歌って礼拝を始めているわけです。 このような、神さまの絶対的な聖さは、神さまがお造りになったこの世界にも反映して映し出されています。それが、すでにお話ししました、創造の第七日のように、神さまに向けて聖別されること、すなわち、特別な意味で区別されて神さまに結びつけられることです。この絶対的に聖い造り主である神さまとの関係、結びつきが、造られたものの聖さを生み出しています。 神である主は、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民に、 イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。 出エジプト記13章1節 とお命じになりました。 「初子」はその群れの全体を代表的に表わしています。それで、植物の場合の「初子」に当たる「初物」について、ローマ人への手紙11章16節では、 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。 と言われています。 ですから、出エジプトの時代に、過越の夜にエジプトの地にある「初子」を撃たれたことは、エジプト全体に対するさばきを意味していましたし、イスラエルの民の間の「初子」を聖別することは、民族としてのイスラエル全体を聖別することを意味しています。この場合、イスラエル全体が聖別されるのですが、特別な意味において、「初子」が区別されて、代表的に聖別されています。 そして、この場合、神である主のために聖別された「初子」について「それはわたしのものである。」と言われていますように、主のために聖別されたものについては、特別な意味で、主の所有権が主張されています。 さらに、そのようにして聖別されたイスラエルは、全世界の中にあって、主の「初子」とされていました。出エジプト記4章22節、23節には、 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。」 という、エジプトの王パロに対する主の言葉が記されています。 この「初子」はいのちあるものについて言われますが、穀物について同じことを表わしているのが、「初穂」であり、先ほど触れた「初物」です。 出エジプト記23章19節では、 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。 と言われています。また、民数記15章18節〜21節では、 イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたがはいり、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。 と言われています。 このことは、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の民において成就しています。 コリント人への手紙第一・15章20節〜23節では、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 と言われています。 イエス・キリストが全体を代表する「初穂」として死者の中からよみがえられたので、イエス・キリストに属している者たちもよみがえるようになるというのです。もちろん、「初穂」であるイエス・キリストと私たちの結びつきは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって確立されています。 また、黙示録14章1節〜5節では、 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。 と言われています。 「十四万四千人」の「十四万四千」は完全数の組み合わせで、12の12倍のさらに千倍です。この人々については、「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」と言われています。これは、彼らが主の所有の民であることを示しています。このことを、同じ黙示録3章12節で 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。 と言われていることと、7章2節〜4節で、 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。 と言われていることとのつながりで見ますと、この「十四万四千人」は、この黙示録の使信が宛てられた初代教会の主の民の全体を指していると考えられます。もちろん、これと同じ祝福は、その後の主の契約の民全体に及びます。 このように、イスラエルの民は、主の宝の民として、地のすべての民から区別されています。出エジプト記19章4節〜6節では、 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われています。また、レビ記22章31節〜33節では、 あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行なえ。わたしは主である。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。 と言われています。 また、そのように主のために聖別されたイスラエルの間には、主の御臨在がありました。そのことを地上的な「模型」で表わす、主の聖所とその用具、また、そこで仕える祭司たちは、特別な意味で聖別されました。 あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。 出エジプト記28章1節〜3節 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表わすターバンを作らなければならない。これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。 出エジプト記28章40節、41節 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、最上の香料を取れ。液体の没薬五百シェケル、かおりの強い肉桂をその半分── 二百五十シェケル── 、におい菖蒲二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン。あなたはこれらをもって聖なるそそぎの油を、調合法にしたがって、混ぜ合わせの香油を作る。これが聖なるそそぎの油となる。この油を次のものにそそぐ。会見の天幕、あかしの箱、机とそのいろいろな器具、燭台とそのいろいろな器具、香の壇、全焼のいけにえのための祭壇とそのいろいろな器具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別するなら、それは、最も聖なるものとなる。これらに触れるものもすべて聖なるものとなる。あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。 これはあなたがたの代々にわたって、わたしのための聖なるそそぎの油となる。これをだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。」 出エジプト記30章22節〜33節 そして、神である主のために聖別されたものは、特別な意味で、主がご自身の所有権を主張されますので、その区別を損なう者に対して、汚れたものに下されるべきさばきを下されます。先ほどの、「聖なるそそぎの油」に関する規定がその例です。また、安息日を聖別することもその例です。 主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」 出エジプト記32章12節〜14節 この安息日の規定は、神さまが創造の第七日を祝福して聖別してくださったことを反映しています。すでにお話ししましたように、創造の第七日には、造り主である神さまが他の御業はなさらないで、もっぱら「神のかたち」に造られている人間を中心とするこの世界に心を注いでくださり、御顔を向けてくださるのです。 そして、その創造の第七日全体が、「神のかたち」に造られている人間が歴史を造る時となっています。このように、創造の第七日全体が神さまのために聖別されていますので、そして、神さまが特別な意味で所有権をもってくださり、それにふさわしく祝福し治めてくださるので、歴史は、本来、発展し実を結ぶ、実りのあるものであるのです。 このように、創造の第七日、すなわち、「神のかたち」に造られている人間が造る歴史全体が神さまのために聖別されていますので、その歴史の中にある日々の中で、七日のうちの一日を聖別するように求められています。これは、イスラエルの民全体が、諸国の中にあって、主のための「初子」として聖別されていることを、イスラエルの中の「初子」を聖別することによって示したことや、イスラエル(全体)が祭司の国として召されているので、イスラエルの中の祭司が特に聖別されたことと符合しています。 ですから、私たちが、七日のうち一日を聖別することは、私たちに与えられている時間全体、より広くは、歴史の全体が、造り主である神さまによって聖別されているものであることと、その本来の意味が御子イエス・キリストの贖いの御業によって回復されていることをあかしすることです。 また、イエス・キリストがよみがえられた週の初めの日を聖別することは、イエス・キリストの贖いの御業によって主の安息が原理的に成就していることをあかししています。 すでにお話ししましたように、この日を、造り主であり、契約の神である主に対する礼拝に当てることは、神さまの聖さを表わすことにかかわっており、この日を聖別することの核心にあることです。 これまでのお話から分かりますが、そのように、特別な意味で神さまに向けて、あるいは、神さまのために「区別される」ことには、二つの面があると考えられます。 一つは、特別な意味で、神である主の御臨在の御許に近づけられて、主の所有の民とされるということです。出エジプトの贖いの御業を通して、神である主は、イスラエルの民を聖別してくださり、ご自身の宝の民として所有してくださいました。それは、後に備えられる御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、主の民が、主の宝の民として、御臨在の御許に近づけられて、主のものとなることを、地上的な模型で示すものでした。 そのことを預言的に示している例として、エゼキエル書37章24節〜28節を見てみましょう。そこでは、 わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。 と言われています。エゼキエルの時代には、ダビデ王は過去の人でしたから、ここで言われている「わたしのしもべダビデ」は、ダビデの子として来られる贖い主のことです。 この預言は、ダビデの子として、また、よい羊飼いとして来られて、ご自身の血によって新しい契約を確立してくださった御子イエス・キリストにおいて成就しています。そのことは、黙示録7章9節〜17節に示されています。 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。 「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」 * 特別な意味で神さまに向けて、あるいは、神さまのために「区別される」ことにかかわるもう一つの面は、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるものとなることです。 きょうのテキストとして取り上げました、イザヤ書6章1節〜8節では、栄光の主の御臨在に接した預言者イザヤは、5節にありますように、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と言って、滅びの予感とともに自らの罪を自覚しました。 これに対して、6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されていますように、セラフィムのひとりが、祭壇から取った「燃えさかる炭」をイザヤの口に触れて、イザヤの罪が贖われたことを告げました。イザヤは聖められて、主の栄光の御臨在の御前に立つものとされたのです。 その時、イザヤは、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」という主の御声を聞きました。それで、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言って応答しました。その結果、イザヤは、主の栄光の御臨在の御許から、預言者として遣わされました。 また、ペテロの手紙第一・2章9節では、まず、 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。 と、先ほど引用しました、出エジプト記19章4節〜6節が新しい契約の下で成就して、私たちが、主の御臨在の御前に立つ主の所有の民とされていることを記した後、 それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 と記しています。私たちすべてが、御子イエス・キリストの贖いの御業によって聖め別たれた者として、このような使命を受けて、主の御臨在の御前から遣わされているのです。
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