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説教日:2000年6月18日 |
繰り返しお話しすることですが、このことの奥には、神さまご自身が聖なる神であられるということがあります。 神さまが聖なる神であられるということは、神さまがこの世界とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方であることを意味しています。 造り主である神さまの聖さは絶対的な聖さです。神さまは聖さそのものです。造り主である神さまだけが、他の何ものにも依存されることがなく、ご自身で聖い方です。そして、神さまは、お造りになったすべてのものの聖さの源であり、聖さの土台であり、聖さの基準です。 それで、造られたすべてのものは、造り主であり、絶対的に聖い、神さまとの関係において聖いとされます。造り主である神さまとの関係が、本来の関係、あるいは正常な関係にあるものは、みな聖いのです。 その意味で、神さまがお造りになったものはすべて、本来、聖いものです。この点を、先週引用した御言葉をもって、もう一度確認しておきましょう。 テモテへの手紙第一・4章4節、5節では、 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。 と言われており、ローマ人への手紙14章14節では、 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。 と言われています。 このように、神さまがお造りになったものは、すべて、神さまがお造りになったものであり、神さまのものであるという点において聖いものです。ただ、神のかたちに造られている人間や御使いのような人格的な存在だけが、自らの自由な意志によって、造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまとの関係を損なって、汚れたものになり得ます。 人間は、自由な意志をもつ人格的な存在であることを本質とする「神のかたち」に造られています。それで、その本来の状態においては、神さまの御手によって造られたものであるという点において聖いものであっただけでなく、神さまとの人格的な関係においても、聖いものとして造られています。その意味で、「神のかたち」に造られている人間の聖さは、神さまとの人格的な関係における聖さです。 神さまとの人格的な関係において聖いものであるということは、何よりもまず、自分の自由な意志を中心とする人格のすべてをもって神さまの「絶対的な」聖さを表わしあかしすることから始まります。 存在においても、能力においても有限な人間が、神さまの「絶対的な」聖さをあかしすることは不可能なことのように思われます。しかし、神さまの聖さは、私たちが神さまを礼拝することにおいてあかしされます。造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべき立場にあります。礼拝におけるこの区別が、造られたものである私たちが、神さまの「絶対的な」聖さをあかしすることの出発点であり、到達点でもあります。それで、神さまを礼拝することを離れては、神さまの聖さをあかしすることはできません。 神のかたちに造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、汚れたものになってしまったのは、人間が自らの罪が生み出す自己中心性によって欺かれて、自らのことを「神」と同じような立場に立つものと考えるようになったことによっています。これによって、人間は、造り主である神さま、すなわち、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される神さまの存在を否定するようになり、神さまをそのような方として礼拝することがなくなってしまいました。 もちろん、罪によって堕落した人間は、自分たちが考え出した「神」を拝んでいます。しかし、人間が考える「神」は、人間の考える力の限界の中にあります。それで、そのような「神」は人間より高い存在ということで、人間と比較できる、相対的なものです。「世界の最高存在」といっても、この世界にあるものの序列の中で一番上にあるというだけのものでしかありません。神さまは、そのような序列の中にあるのではなく、この世界のすべてのものをお造りになった方です。その意味で、この世界のすべてのものと、それをお造りになった神さまとの区別は「絶対的な」区別です。 具体的な像として作られたものであれ、頭の中で考えられたものであれ、人間が考え出した「神」を「偶像」と呼びますが、偶像を作ることも、それを拝むことも、造り主である神さまの「絶対的な」聖さを否定することです。 「聖なるものであること」についてこれまでお話ししたことで、もう一つ大切なことは、神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」もの、すなわち、聖め別たれたものは、二つの面をもつものとなるということです。 一つは、特別な意味で、神さまの所有とされることです。「聖いもの」は、特別な意味で、神さまの所有とされるように「区別されて」います。 それを人間に当てはめますと、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされているということです。 そのように、私たちが神さまの所有の民、神の子どもとされて、神さまのご臨在の御前に出でて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるのは、まず、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いを成し遂げてくださり、その事実に基づいて働かれる御霊によって、私たちの間にご臨在してくださっているからです。先に、神さまが贖いの恵みを携えて来てくださって、私たちの間にご臨在してくださるので、私たちは神さまの御臨在の御前に立って、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることができるのです。 もう一つの面は、神さまの特別なご用のために用いられるということです。「聖いもの」は、神さまの特別なご用のために用いられるために「区別されている」のです。人間に当てはめますと、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるものとなることです。 先週は、どちらかというと、第一の面に焦点を合わせてお話ししましたので、今日は、もう少し、第二の面に焦点を合わせてお話ししたいと思います。 ヨハネの福音書17章17節、18節で、イエス・キリストが、 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。 と祈られたことは、基本的には、イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜に、イエス・キリストとともに過越の食卓に着いていた最初の弟子たち、すなわち、教会の土台となる使徒たちのことです。それは、また、派生的に、その使途たちのあかしを通してイエス・キリストを信じるようになる、イエス・キリストの民にも当てはまります。ここでは、イエス・キリストの民が、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまのために、また、神さまに向けて「区別されたもの」となって、特別な使命を与えられて、この世に遣わされていることを示しています。当然、その使命は、この世において、神である主の御臨在の御前にたって、神さまを礼拝することを中心としています。 このことを踏まえて、ヨハネの福音書17章15節で、イエス・キリストが、 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。 と祈っておられる中に出てくる「悪い者」、すなわち、サタンのことに注目して見ましょう。 聖書の中には、サタンの堕落に直接触れた記事はありません。しかし、サタンの堕落を彷彿させる記事はあります。それは、イザヤ書14章12節〜15節に記されているバビロンの王の堕落と、エゼキエル書28章12節〜19節に記されているツロの王の堕落です。 イザヤ書14章12節〜15節には、 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 しかし、あなたはよみに落とされ、 穴の底に落とされる。 と記されています。 また、エゼキエル書28章12節〜17節には、 あなたは全きものの典型であった。 知恵に満ち、美の極みであった。 あなたは神の園、エデンにいて、 あらゆる宝石があなたをおおっていた。 赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、 緑柱石、しまめのう、碧玉、 サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。 あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、 これらはあなたが造られた日に整えられていた。 わたしはあなたを 油そそがれた守護者ケルブとともに、 神の聖なる山に置いた。 あなたは火の石の間を歩いていた。 あなたの行ないは、 あなたが造られた日から あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。 ・・・・・・ あなたの心は自分の美しさに高ぶり、 その輝きのために自分の知恵を腐らせた。 と記されています。 これはバビロンの王とツロの王の堕落のことを記すものですが、それが、サタンの堕落を典型的な形で映し出すものであったと考えられます。 このことから、サタンは、非常に優れた御使いとして造られたのに、自らに与えられた栄光の意味を取り違えて神さまの御前に高ぶり、自分が神のようになろうとすることによって神さまの聖さを冒して堕落したと考えられます。 自らが神のようになろうとしているということは、自分と神さまとの違いを相対的なもの、比較できるものと考えてしまっているからです。神さまに対して罪を犯して堕落しているサタンは、自らの罪が生み出す暗やみによって欺かれてしまっています。そのために、自分と造り主である神さまの間にある絶対的な区別、すなわち、神さまの聖さが見えなくなってしまっているのです。それで、サタンは、ますます、神さまを自分の単なるライバルのように見なして、神さまに対する嫉妬心を燃やしていると考えられます。これは、サタンのうちに、罪の悪循環を生み出します。 自ら神のようになろうとするサタンは、「高ぶり」という道徳的な罪を犯しているというより前に、あるいは、「高ぶり」という道徳的な罪を犯していることの奥で、造り主である神さまの聖さを冒しているのです。サタンが汚れたものであることの本質は、このような意味で、神さまが造られたすべてのものと絶対的に区別される方であること、すなわち、神さまの聖さを、否定していることにあります。 弟子たちを初めとする、イエス・キリストの民が遣わされているこの世は、罪が生み出す錯覚によって、神さまを自分たちと同じような次元の存在であると考えています。自らの罪が生み出す自己中心性によって、自分の都合通りに神や人を動かそうとすることは、自分が神の位置に立とうとするサタンに倣うことです。 イエス・キリストが、 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。 と祈っておられるのは、ご自身がお遣わしになる弟子たちが、サタンのこのような働きから守られるようにと執り成してくださったものです。 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって贖い出されたイエス・キリストの民は、罪をきよめられ、罪が生み出す自己中心性的な錯覚から解放されています。そして、神さまが天地の造り主として、すべての造られたものから絶対的に区別される方であること、すなわち、神さまの聖さをわきまえるものとされています。 それで、主の契約の民は、この世の中にあって、神さまの聖さをあかしする使命、すなわち、神さまがすべての造られたものから絶対的に区別される方であることあかしする使命を負っています。そして、神さまがすべての造られたものから絶対的に区別される方であることは、神さまを礼拝することにおいてあかしされます。 ヨハネの福音書17章17節で、イエス・キリストが、 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。 と祈られ、さらに、19節で、 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。 と祈られたときの、「真理」とは、福音の真理のことです。その「真理」は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、イエス・キリストの民のための贖いの御業が成し遂げられていることを、あかしする福音の御言葉のことです。 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。 というイエス・キリストの祈りの言葉では、弟子たちを初めとするイエス・キリストの民の場合にだけ、「真理によって」聖め別たれると言われていて、イエス・キリストご自身の場合には、「真理によって」聖め別たれるとは言われていません。そのことも、「真理」が、イエス・キリストが御自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった贖いの御業をあかしする福音の御言葉であることを示しています。 最初にお話ししましたとおり、 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。 ということは、イエス・キリストがご自身を罪から聖めるということではありません。むしろ、これは、古い契約の下で、来たるべき贖い主によって成し遂げられる罪の贖いを指し示す「ひな型」として備えられた動物の血による贖いを通して示されていたことであると考えられます。 たとえば、古い契約の下での動物の血による贖いの「原点」とも言うべき「過越の小羊」のことを記す、出エジプト記12章3節〜8節には、 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 と記されています。そして、12節、13節では、 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。 と言われています。 この過越の小羊は、出エジプトの際の贖いのために、前もって、取っておかれました。これが、その言葉はありませんが、主の特別なご用のために「聖め別つ」ことです。 また、イエス・キリストは、 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。 と言われました。この「彼らのため」ということは、たとえば、マルコの福音書10章44節、45節で、イエス・キリストが、 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と言われたときの「多くの人のため」や、ヨハネの手紙第一・3章16節で、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と言われているときの「私たちのため」に当たります。 ですから、イエス・キリストが、 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。 と言われたのは、私たちの罪のために贖いとなって十字架にかかって死んでくださるために、ご自身を、罪の贖いのための供え物として聖め別たれたことを意味しています。 それに続く、 彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。 ということは、イエス・キリストの場合と違って、自分自身や誰かほかの人のための罪の贖いを成し遂げるためのことではありません。 むしろ、弟子たちを初めとする私たちが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神である主の所有の民とされ、主の御臨在の御前で主との愛にあるいのちの交わりに生かされるようになるために「聖め別たれること」です。これが「聖め別たれること」の第一の面です。 さらに、今日、焦点を合わせてお話ししている「聖め別たれること」のもう一つの面にかかわることですが、弟子たちを初めとする私たちが、神である主の特別な使命を委ねられているものとして、主の御臨在の御許からこの世に使わされたものとなるための「聖め別たれること」です。 その使命は、この世において、造り主である神さまを礼拝することを通して、神さまの聖さをあかしすることを中心としています。そして、さらに、そのように神さまを礼拝することを通して神さまの聖さをあかしすることを中心として、実際の生活の中に広がっています。 たとえば、ペテロの手紙第一・2章9節後半の言葉で言えば、私たちを やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを ・・・・ 宣べ伝える ことです、 また、マルコの福音書10章44節、45節の、 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 という言葉に沿って言えば、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、罪の自己中心性から解放されたものとして、兄弟に仕えるようになることです。 さらに、ヨハネの手紙第一・3章16節〜18節の、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 ・・・・ 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 という言葉に沿って言えば、同じく、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、罪の自己中心性から解放されたものとして、「兄弟のためにいのちを捨てる」ようになること── 罪の自己中心性を捨てて、「行ないと真実をもって」兄弟を愛し、兄弟に仕えるようになることです。 これらのことは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっている神の子どもたちが、自分を神のようにしようとする罪の自己中心性から解放されて、愛のうちに生かされていることの現われです。 これらのことは、ただ単に、神の子どもたちが道徳的に「良い人」になったということで終わるものではありません。より深いところで、神さまの聖さをあかしすることにつながっています。というのは、サタンと、それに倣う人間は、自らの罪の自己中心性に縛られて、自分を神のようにして、すべてのものの上に立とうとします。それによって、神さまが造り主として、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であること、すなわち、神さまの聖さを真っ向から否定します。それに対して、これらのことは、その正反対の方向に歩み始めることだからです。 その意味で、神さまの聖さをあかしすることは、造り主である神さまを礼拝することを中心としていますが、さらに、愛のうちを歩むことへと広がっていきます。
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