(第4回)


説教日:2000年6月25日
聖書箇所:マタイの福音書18章15節〜20節


 これまで三回にわたって、「聖なるものであること」について、基本的なことをお話ししてきました。きょうは、それに加えてもう一つのことをお話ししたいと思います。
 まず、これまでお話ししたことの要点をまとめることからお話を始めたいと思います。
 聖書においては、「聖くする」ということは、基本的には、神さまのために、また、神さまに向けて「区別する」ことを意味しています。それで、「聖い」ということは、基本的には、神さまのために、また、神さまに向けて「区別されている」状態にあることを表わしています。
 このことの奥には、神さまご自身が聖なる神であられるということがあります。
 神さまが聖なる神であられるということは、神さまがこの世界とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方であることを意味しています。そして、このことが、聖書において、「聖い」ということの最も基本的な意味となっているのです。
 造り主である神さまの聖さは絶対的な聖さです。神さまは聖さそのものです。造り主である神さまだけが、他の何ものにも依存されることがなく、ご自身で聖い方です。そして、神さまは、お造りになったすべてのものの聖さの源であり、聖さの土台であり、聖さの基準です。
 造られたすべてのものは、造り主であり、絶対的に聖い、神さまとの関係において聖いとされます。造り主である神さまとの関係が、本来の関係、あるいは正常な関係にあるものは、みな聖いのです。その意味で、神さまがお造りになったものは、すべて、神さまがお造りになったものであり、神さまのものであるという点において聖いものです。
 ただ、神のかたちに造られている人間や御使いのような人格的な存在だけが、自らの自由な意志によって、造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまとの関係を損なって、汚れたものになり得ます。
 マルコの福音書7章18節〜23節に、

イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

と記されていることは、このようなことに照らして見ますとよく理解できます。
 物質的なもので、人間に最も深く接するものは食べ物です。着物のもお化粧も、人間に外側から触れるだけです。しかし、食べ物は、人間のうちに取り込まれ、消化されて吸収されます。ある意味で、それが人間の身体を造っていきます。イエス・キリストは、そのように人間と深く接する食べ物を代表として取り上げて、「すべての食物をきよいとされ」ました。そして、どのような食べ物によっても、人間がけがされることはないことをお示しになりました。
 人間は、自由な意志をもつ人格的な存在であることを本質とする「神のかたち」に造られています。それで、その本来の状態においては、神さまの御手によって造られたものであるという点において聖いものであっただけでなく、神さまとの人格的な関係においても、聖いものとして造られています。その意味で、「神のかたち」に造られている人間の聖さは、神さまとの人格的な関係における聖さです。
 神さまとの人格的な関係において聖いものであるということは、何よりも、自分の自由な意志を中心とする人格のすべてをもって神さまの「絶対的な」聖さを表わしあかしすることにあります。そして、神さまの聖さは、私たちが神さまを礼拝することにおいてあかしされます。造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべきものです。礼拝におけるこの区別が、造られたものである私たちが、神さまの「絶対的な」聖さをあかしすることの中心です。それで、神さまを礼拝することを離れては、神さまの聖さをあかしすることはできません。


 造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまった人間は、自らの罪が生み出す暗やみによって欺かれて、自分を「神」の位置に置くほどの自己中心性に縛られてしまっています。そのために、「神」をも人をも、自分の「益」のために踏みつけたり、利用したり、搾取したりする傾向をもっています。
 これによって、人間は、造り主である神さま、すなわち、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される神さまの存在を否定するようになり、神さまをそのような方として礼拝することがなくなってしまいました。
 造られたものの聖さは、造り主である神さまとの本来の正常な関係にあることにあります。同じように、汚れも、聖なる神さまとの関係の問題で、それを自らの自由な意志によって損なってしまっている状態にあります。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神さまとの本来の関係にあるものへと回復されています。それによって、聖書に言われている意味において、聖いものとなりました。すなわち、神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」ものとされているのです。

 神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」ものは、二つの面をもつものとなります。
 一つは、特別な意味で、神さまの所有とされることです。「聖いもの」は、特別な意味で、神さまの所有とされるように「区別されて」います。
 それを人間に当てはめますと、特別な意味で、主の所有の民とされて、神である主の御臨在の御許に近づけられて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされているということです。
 もう一つの面は、神さまの特別なご用のために用いられるということです。「聖いもの」は、神さまの特別なご用のために用いられるために「区別されている」のです。
 人間に当てはめますと、特別な使命を受けて、神である主の御臨在の御前から遣わされるものとなることです。
 そのように、私たちが神さまの所有の民、神の子どもとされて、神さまの御臨在の御前に出でて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるのは、まず、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いを成し遂げてくださり、その事実に基づいて働かれる御霊によって、私たちの間にご臨在してくださっているからです。先に、神さまが贖いの恵みを携えて来てくださって、私たちの間にご臨在してくださるので、私たちは神さまの御臨在の御前に立って、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることができるのです。
 また、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちの間にご臨在してくださいますので、私たちは、神さまのご臨在の御許から遣わされたものとなることができます。私たちは、神さまの御臨在の御前に立って神さまを礼拝し、神さまが聖なる方であることをあかしする祭司の国の民として、この世に遣わされています。その私たちが遣わされているところに、神さまが、イエス・キリストの御名において、すなわち、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、また、イエス・キリストの贖いの恵みをもってご臨在してくださいます。その意味で、私たちは、神さまの御臨在をこの世にもたらすものとして遣わされているのです。

 マタイの福音書18章19節、20節には、

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

というイエス・キリストの言葉が記されています。このイエス・キリストの言葉も、そのようなことを背景として理解することができます。
ここで、イエス・キリストは、

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

と、イエス・キリストの御名において集まる者たち、すなわち、御自身の民の集いにご臨在してくださることを述べておられます。
 イエス・キリストの御名において集うということは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて集うことです。十字架の上で流されたイエス・キリストの血によって確立された新しい契約において、イエス・キリストと一体とされた者として集うことです。
 それで、これに先立って、

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ということは、私たちが考えうる最も小さな集いにおける祈りのことを述べていますが、それは、イエス・キリストの御名によって集っている者たちによる祈りです。
 さて、そのような、イエス・キリストの御名による集いにおいて、私たちが、心を一つにして祈るなら、何でも、父なる神さまが実現してくださると言われています。これに対しまして、私たちは、「こんなありがたい話はない。しかし、そんなことはあり得ないし、実際にそうではない。」と考えるのではないでしょうか。それでは、イエス・キリストは信じるに値しないことを教えられたのでしょうか。

 もちろん、そうではありません。このイエス・キリストの教えは、さらにそれに先立つ教えとのつながりで理解されなくてはなりません。
 これに先立つ15節〜18節には、

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

という、罪を犯した兄弟を悔い改めへと導き、福音の御言葉に示されているイエス・キリストの贖いの恵みによって回復する働きが語られています。
 それで、先ほどの、祈りについてのイエス・キリストの教えは、イエス・キリストの御名によって集められている教会においてなされる、罪を犯した兄弟が悔い改めへと導かれ、兄弟が福音の御言葉に示されている贖いの恵みによって回復されることを求める働きにかかわる教えです。
 ここに祈りが出てくるのは、言うまでもなく、罪を犯した兄弟を悔い改めへと導いてくださり、福音の御言葉に示されている贖いの恵みによって回復してくださるのは、贖いの恵みを携えて、私たちの間にご臨在してくださる栄光の主であるイエス・キリストであり、私たちは、そのために用いられているものであるからです。
 ですから、

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

というときの祈りは、基本的には、私たちの気ままな願いのことではなく、罪を犯した兄弟を悔い改めへと導き、福音の御言葉をもって回復するために祈る執り成しの祈りのことです。
 それは、先ほども言いましたように、イエス・キリストの御名によって集まった者たちの集いにおける祈りです。しかも、罪にとらえられてしまっている兄弟を愛して、何とか兄弟を福音の御言葉によって示されているイエス・キリストの贖いによって回復していただきたいとの願いをもって、神さまの御臨在の御前に集った神の子どもたちの祈りです。
 それで、イエス・キリストは、

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

という教えと約束をもって、そのように、兄弟を愛して兄弟のために執り成すために集う者たちの間に、御自身が御臨在してくださることを示しておられます。
 このことから、罪にとらえられてしまっている兄弟を愛して、何とか兄弟を福音の御言葉によって示されているイエス・キリストの贖いによって回復していただきたいとの願いをもって、神さまの御臨在の御前に集って執り成しの祈りをささげる神の子どもたちは、神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」ものとして、神さまの御臨在の御前に立たせていただいており、神さまの御臨在の御許からこの世に遣わされた者たちであることが分かります。
 この意味で、ここに述べられていることは、「聖なるものであること」にかかわっています。一般に、このマタイの福音書18章15節〜20節が、教会の「戒規」にかかわる教えとして、教会の聖さを保つための教えであるといわれています。それは、罪を犯している兄弟の罪を取り除くことによって聖さを保つことという点から、そういわれるのですが、そのさらに奥で、罪を犯した兄弟も含めて、そこに集うすべてのものが、神さまのために、また、神さまに向けて「区別された」ものとして、神さまの御臨在の御前に立たせていただいており、神さまの御臨在の御許からこの世に遣わされたものとして、聖め別たれているという、本来の意味での聖さが表わされあかしされるのです。

 これらのことから、この「どんな事でも ・・・・ 天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」という教えの、すべてのことをひっくるめてしまっている、大胆さというか包括性は、18節の、

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

という教えの、包括性に通じていることが分かります。── ギリシャ語の原文では、「何でも」は、「あなたがたが地上でつなぐなら」の前だけでなく「あなたがたが地上で解くなら」の前にも出てきます。
 このことを踏まえて注目したいことが二つほどあります。第一は、罪を犯している兄弟に対して、忍耐深く段階を踏まなくてはならないということです。そして、最初の段階で、

行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

と言われていますように、兄弟の名誉を守ることに細心の注意が払われているということです。
 最終段階の、「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。」ということは、「教会の皆さんに言いなさい」という意味ではなく、私たちの状況に当てはめて言いますと、イエス・キリストの羊の群れを牧するものとして、イエス・キリストの御名によって立てられている「長老たちの会議」のことを指しています。「長老たちの会議」では、罪を犯した兄弟の名誉が守られなくてはならないことは言うまでもありません。
 もちろん、罪の性質によっては、初めから「教会に告げる」ということが必要になります。
 たとえば、ある兄弟が教理的に誤った教えを教会に持ち込んできたという場合には、特に、その教えに対する判断が難しい場合には、そうしなくてはならないでしょう。
 また、その罪から生じたことがすでに社会的なスキャンダルのようなものになってしまっている場合には、オープンな形を採らなくてはならない場合が出てきます。それによって、私たちが、安易にうわさに動かされてスキャンダルに巻き込まれないで、神さまの御臨在がともにあるものとして遣わされ、神さまの御臨在の御前に立って、兄弟のために執り成しの祈りをする者としての思慮と分別をもって対処していることがあかしされる必要があります。

 おそらくいちばん大きな問題でしょうが、最初の段階で、

行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

と言われていることに、恐れを覚える場合が出てくるかもしれません。兄弟の罪が重大なものであるときに、そのように「ふたりだけのところで」ということで済ませてしまってよいのであろうか、というような疑問が出てくることでしょう。そして、不安になって、一気に、「教会に告げなさい。」という段階にとんでしまうことがあるかもしれません。
 しかし、どのような罪であっても、それが教理的な誤りの問題や、問題がスキャンダルとなっていて、別の配慮が必要であれば別ですが、そうでなければ、ここでイエス・キリストが示してくださっている段階を踏んでいいのですし、踏んだ方がいいのです。
 その場合に、私たちを支えてくれるのは、

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

というイエス・キリストの約束が、その最初の段階、すなわち、罪を犯した兄弟と二人だけのときから、私たちの間に実現しているということです。
 この点で、先ほどの「すべてのことをひっくるめてしまっている、大胆さというか包括性」が生きてきます。
 その兄弟が、主の御臨在の御前に罪を認めて悔い改めたとき、そして、そのことから、イエス・キリストの贖いの恵みによって兄弟の罪が聖められ、兄弟が回復されるようにと、その二人か心を合わせて祈るときに、贖い主であるイエス・キリストがそこに御臨在してくださって、その祈りを聞いてくださるのです。どのような罪でも、イエス・キリストの完全な贖いに基づいて聖めてくださいます。そして、実際的な回復への道を歩むうえでの支えと導きを与えてくださいます。── そのためには、その二人だけの祈りは、継続してなされていかなければならないでしょう。
 そのことが、確かに福音の御言葉にのっとってなされたことであれば、それ以上のものはありません。そこに、牧師や長老が居合わせないということは、それほどの問題ではありません。その二人は、

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

というイエス・キリストの言葉を、二人だけの段階であっても、大胆に信じてよいのです。(注)


【注】
 教会政治の上では、このイエス・キリストの言葉に示されていることを「鍵の権能」と呼びます。そして、この「鍵の権能」は長老たちによって構成される教会会議に属する権威であると考えられています。
 それは、ここで述べられていることでは、最終的な段階において、

それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と言われていること、すなわち、これらの手続きを取っても明確な罪を悔い改めようとしない兄弟を、新しい契約の外にある状態にあると宣言することが、教会会議の権限であることを指しています。
 さらに、福音の御言葉の宣教を通してイエス・キリストを救い主として信じた人の告白を判定し、その人に洗礼を施して、新しい契約の共同体である教会に迎え入れることを決定するのも、教会会議の権限です。
 そのことは、聖書的なこととして、認められなくてはなりません。しかし、そのイエス・キリストの言葉は、そのような最終的な段階においてなされることだけに当てはめられるもので、それ以前の段階におけることには当てはまらない、と考えるだけの根拠はありません。
 最終的な判断が必要な場合は、教会会議においてなされるべきですし、初めから教会会議において判断しなくてはならないこともあります。
 しかし、最初の段階のことについて、わざわざ、「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と言われています。これは、単に、兄弟と和解したことだけを言っているとは考えられません。もし兄弟と和解したことだけであるとしますと、それでは、18章15節〜17節で取り上げられている罪は、兄弟が自分に対して犯した罪のことだけであるということになりますが、ここにそのような限定があるとは思えません。それで、「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」という言葉が個人的な響きがするのは、それが「ふたりだけのところで」のことであることによっているのであって、それにもかかわらず、それは教会的な性格をもったことであると考えられます。
 そのように、18章15節〜17節に記されていることは、その最初の段階から教会的なことであると考えられます。それで、その最初の段階で兄弟が罪を悔い改め、イエス・キリストの恵みによって回復されたときに、すでに、その兄弟が新しい契約の共同体である教会のうちにあることを「宣言」されているのに等しいことがあるのと考えられます。

 


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