(第5回)


説教日:2000年7月2日
聖書箇所:出エジプト記3章1節〜15節


 きょうは、聖書の中で、神さまの聖さがどのように示されているか、その一端をお話ししたいと思います。
 これまでお話ししましたように、神さまはこの世界とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方です。このことを示すのが、神さまの「聖さ」です。神さまが「聖い」ということは、神さまがすべてのものの造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方であることを意味しています。このことが、聖書において「聖い」ということの最も基本的な意味となっています。
 造り主である神さまの聖さは絶対的な聖さです。造り主である神さまだけが、他の何ものにも依存せず、ご自身で聖い方です。そして、神さまは、お造りになったすべてのものの聖さの源であり、聖さの土台であり、聖さの基準です。
 造られたものの聖さは、造り主である神さまに依存しています。造られたものは、神さまとの関係が本来の正常な関係にあるときに聖いと言われます。


 きょう注目したいのは、神さまの聖さは、しばしば、神さまの御名の聖さとして示されているということです。
 そのことを示す聖書の御言葉をいくつか見たいと思います。まずは、旧約の祈りと讃美の書である詩篇からいくつか見てみましょう。

聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
詩篇30篇4節、5節

主を愛する者たちよ。悪を憎め。
主は聖徒たちのいのちを守り、
悪者どもの手から、彼らを救い出される。
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。
喜びは、心の直ぐな人のために。
正しい者たち。主にあって喜べ。
その聖なる御名に感謝せよ。
詩篇97篇10節〜12節

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ。
聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
詩篇103篇1節〜5節

私たちの神、主よ。私たちをお救いください。
国々から私たちを集めてください。
あなたの聖なる御名に感謝し、
あなたの誉れを勝ち誇るために。
ほむべきかな。イスラエルの神、主。
とこしえから、とこしえまで。
すべての民が、「アーメン。」と言え。
ハレルヤ。
詩篇106篇47節、48節

 他にもありますが、これだけでいくつかの大切なことを汲み取ることができます。
 これらの個所において目立っていることは、神である主の聖なる御名は、主の民が契約の神である主に対して、主が与えてくださった恵みを告白して感謝し、賛美している中で用いられているということです。
 主の御名は、主がどのような方であるかを、私たちに対して啓示するものです。その意味で、主の御名は、私たちに対して、主ご自身を代表しています。ですから、主の御名が聖いということは、主ご自身が聖いということを意味しています。そして、「聖なる御名に感謝せよ。」ということは、聖なる神である主に感謝せよということであり、「聖なる御名をほめたたえよ。」ということは、聖なる神である主をほめたたえよということです。

 主の御名は、主がどのような方であるかを、私たちに対して示すものです。同時に、主が、私たちにとってどのような方であるかをも示しています。主は、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。しかし、私たちとは関係のないところで超然としておられる方ではありません。主は、ご自身がお造りになったすべてのものに御目を留めてくださり、その一つ一つを真実に支えてくださっておられます。
 特に、主が「神のかたち」に造られている人間に対して真実に関わってくださることは、主の契約に示されています。それで、主が私たちにとってどのような方であるかは、契約の神である主の御名に示されています。
 契約の神である主の御名は、古い契約の贖いの御業の中心である出エジプトの贖いの御業との関連で示されています。主はご自身の民をエジプトの奴隷の状態から贖い出すためにモーセをエジプトにお遣わしになるに当たって、ご自身の御名を啓示してくださいました。
 出エジプト記3章1節〜8節には、

モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。」


と記されています。
 主は、モーセに、まず、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われて、ご自身のことをお示しになりました。
 主は、ご自身の一方的な恵みによってアブラハムを召し、アブラハムと契約を結んでくださいました。それは、主が、アブラハムとアブラハムの子孫の神となってくださるという契約でした。主はアブラハムに、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。
創世記17章7節、8節

と言われました。
 そして、その契約のとおりに、主は、アブラハムの神となってくださっただけでなく、イサクの神となってくださり、ヤコブの神となってくださいました。そして、さらに、このモーセの時代に、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にご自身を現わしてくださいました。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名は、契約の神である主の真実さを表わしています。
 このことは、死人のよみがえりに関するサドカイ派の人々との論争の中で、イエス・キリストが明らかにしておられるところです。ルカの福音書20章37節、38節には、

それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このイエス・キリストの教えのポイントは、「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで」ということと、「というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」ということです。
 「死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで」ということについてですが、それは、先ほど引用しました出エジプト記3章の出来事を指しています。
 人間の目からは、モーセの時代にはアブラハムもイサクもヤコブも過去の人でした。しかし、そのモーセの時代に、神さまはご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として示されました。かつて「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であったという過去のことではなく、モーセの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるということです。そして、同じ論理で、神さまは、今この私たちの時代においても「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられます。
 その理由を述べるのが、「というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」という教えです。神さまが、今この時も、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であられるのであれば、アブラハムもイサクもヤコブも、今この時、神さまに対して生きているというのです。ただどこか知らないところに存在しているというのではなく、神である主の契約によって保証されている神さまとの愛の交わりの中に生きているというのです。
 この「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び方は、特に、神さまがアブラハムに、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

というご自身の契約をお与えになったことに関わっています。神さまは、ご自身の契約に対して真実であられ、イサクの時代には、アブラハムへの契約のゆえにイサクの神となられました。もちろん、アブラハムの神であることをお辞めになったわけではありませんから、「アブラハムの神、イサクの神」となられたわけです。それは、さらに、ヤコブの時代にも受け継がれました。そして、モーセの時代になった時にも、神さまは、ご自身の契約に対して真実であられました。アブラハムの子であるイスラエルの民を、ご自身の民として覚えてくださっていました。出エジプト記2章23節、24節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されているとおりです。

 このことに続いて、契約の神である主の御名が啓示されています。出エジプト記3章13節〜15節には、

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

と記されています。
 ここには、契約の神である主の御名がモーセを通してイスラエルの民に啓示されたことが記されています。
 その御名は、14節で「わたしは、『わたしはある。』という者である。」だと言われています。この「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という言葉全体が神である主の御名です。同じ14節で、これが「わたしはある」に圧縮されています。そして15節では、さらに「主」(ヤハウェ)という固有名詞として示されています。
 このこととの関連で、二つのことに注目しておきたいと思います。
 一つは、13節〜15節前半までは一貫して「神」という言葉が用いられていて、ご自身の御名を啓示してくださる段になって初めて、「主」(ヤハウェ)という固有名詞が示されているということです。それで、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」が「わたしはある」に圧縮され、さらに、「主」(ヤハウェ)という固有名詞で示されていると考えられます。
 「主」(ヤハウェ)は固有名詞で、私について言いますと、「清水武夫」という名前に当たります。これに対して「神」は、私について言いますと「人間」に当たります。誰かが「人間さん」と呼んでも、私を呼んだかどうか分かりません。他に人間はたくさんいるからです。しかし、本来、神はただお一人ですから、「神さま」と呼べば、それは天地万物の造り主である神さまを指しています。それで、神さまのことを「神」と呼んでもおかしくはないのです。
 注目したいもう一つのことは、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主[ヤハウェ]」という言葉です。この言葉は、原文のヘブル語では「主」(ヤハウェ)が先に出てきて、それに「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が続いています。「主」(ヤハウェ)という御名が、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として説明されているのです。

 ヘブル語旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳では、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」の「わたしはある。」という部分を「ある」ということを表わす動詞の現在分詞とそれを実体化する冠詞で表わしています。口語訳の「わたしは、有って有る者」という訳はこれに当たります。どちらもほぼ同じ意味合いを伝えています。
 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」は、神さまの存在の永遠性を伝えています。しかし、それだけを伝えるのであれば、「わたしは永遠なものである」と言えばいいのです。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という回りくどいと思われる言い方は、それ以上のことを伝えていると考えられます。それで、この言葉は、神さまが永遠に存在される方であると同時に、時間的に移り行く人間の歴史的な世界と深く関わってくださっておられるということを示していると考えられます。
 しかも、これまでお話ししましたように、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と、その圧縮された形である「わたしはある」、さらに、「主」(ヤハウェ)は同じ意味を伝えていると考えられます。そして、「主」(ヤハウェ)という御名は、「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」というように、神さまが一方的な恵みによってご自身の契約をお与えになって、それを真実に守ってくださることを示す「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という呼び名と結びつけて示されています。
 それで、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という、「主」(ヤハウェ)という御名の意味を明らかにする言葉は、神さまが移り行く人間の歴史に深く関わってくださり、人間の歴史を通して、常に変わることなく、ご自身の契約に対して真実であられる方であることを示していると考えられます。

 このように、契約の神である主の御名は、神さまが歴史を通して、常に、ご自身の契約に対して真実であられる方であることを、私たちに対して啓示してくださるものです。
 その御名が聖いということは、神さまが、天地万物の造り主として、また、造られたすべてのものと絶対的に区別される方として、ご自身の契約を守ってくださることを意味しています。

主は、御民に贖いを送り、
ご自分の契約をとこしえに定められた。
主の御名は聖であり、おそれおおい。
詩篇111篇9節

 人間は歴史の流れの中で移り変わってしまいます。しかも、イスラエルの民に典型的に見られますように、造り主である神さまに対して不真実なものです。それにもかかわらず、主は私たちに対して真実であられ、ご自身の契約を守ってくださいます。そのことは二つの面から考えられます。
 第一に、主は、常に真実であられるということです。人間的な言い方をしますと、主が真実であられることは、機械的なことではなく、主がいつも、ご自身の意志で、私たちに真実を尽くしてくださるということです。
 主の真実がどれほどのものであるかを、主の聖さとの関連で示す例として、ホセア書11章8節、9節を見てみましょう。そこには、

エフライムよ。わたしはどうして
あなたを引き渡すことができようか。
イスラエルよ。どうして
あなたを見捨てることができようか。
どうしてわたしはあなたを
アデマのように引き渡すことができようか。
どうしてあなたをツェボイムのように
することができようか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
わたしは燃える怒りで罰しない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。
わたしは怒りをもっては来ない。


と記されています。
 ホセアの預言は、北王国イスラエルに対して語られています。ここに出てくる「エフライム」は、北王国イスラエルを代表的に指し示す言葉です。
 北王国イスラエルは常に主の御前に罪を重ねていました。南王国ユダも罪を重ねましたが、ヒゼキヤやヨシヤのような王が「宗教改革」による軌道修正をしました。しかし、北王国イスラエルには、そのようなこともありませんでした。その結果、イスラエルは、主のさばきを招いて、アッシリヤの手によって滅ぼされてしまいました。
 しかし、主は預言者ホセアを通して、ご自身に対していつも不真実でしかなかったイスラエルに対して、このように語っておられます。それは、主がご自身の契約を覚えていてくださるからに他なりません。
 ご自身に対していつも不真実でしかなかった北王国イスラエルに対する最も自然で当然の反応は、イスラエルをさばきによって滅ぼしてしまうことです。
 しかし、最後の部分では、主が人とは違っていること、すなわち神である主の聖さが述べられています。人間であれば当の昔に見捨ててしまっている北王国イスラエルに対して、人間とは違う神である主の深い御思いは変わっていないばかりか、ますます深いあわれみとなって燃えているというのです。それは、神である主が、ご自身の意志で当然の反応を越えて、イスラエルに深いあわれみを注ぎ続けてくださっておられることを意味しています。
 私たちが罪とその結果である死の力から贖い出していただいたのは、契約の神である主のこのような深いあわれみと恵みによっています。私たちが自分自身でも絶望的に感じるような罪を犯したときに、私たちを回復してくださったのも、このような主の恵みとあわれみによっています。

 第二に、人間は、たとえ真実を尽くそうとしても、自分の能力の限界のために約束したことが果たせなかったり、自分自身が移り行くものですから、約束を果たさないままにこの世を去るということもあります。けれども主は、造られたものとは絶対的に区別される方です。造られた世界の変化や厳しい事情によって、契約を守ることができなくなるというようなことはありません。
 主は、ご自身に背き続けてバビロンへの捕囚という決定的なさばきを受けたイスラエル(南王国ユダ)の民に、

イスラエルの聖なる方、これを形造った方、
主はこう仰せられる。
「これから起こる事を、
わたしに尋ねようとするのか。
わたしの子らについて、
わたしの手で造ったものについて、
わたしに命じるのか。
このわたしが地を造り、
その上に人間を創造した。
わたしはわたしの手で天を引き延べ、
その万象に命じた。
わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ、
彼の道をみな、平らにする。
彼はわたしの町を建て、
わたしの捕囚の民を解放する。
代価を払ってでもなく、
わいろによってでもない。」と
万軍の主は仰せられる。
イザヤ書45章11節〜13節

と語ってくださいました。
 ここでは、聖なる方であられる主が、すべてのものをお造りになって治めておられることが示されています。そのような方として、主は、あらゆることを働かせてご自身の契約を守ってくださり、ご自身の民を救ってくださいます。
 ここで「」と言われているのは、後にバビロンに捕囚となるイスラエルの民を帰還させるために神である主がお用いになる、ペルシャの王クロスのことです。神である主は、ご自身の契約に示された約束を果たしてくださるためには、必要であれば、この世の帝国をもお用いになります。
 その点で、古い契約のすべてを成就してくださる贖い主の誕生を告げる御使いガブリエルがマリヤに言ったように「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカの福音書1章37節)。神である主は、私たちに対する契約の約束を実現してくださるために、この世界の何ものかを動かされるというだけではありませんでした。そのためには、ご自身の御子をもお遣わしになりました。しかも、十字架の苦しみをお受けになって私たちの贖いとなってくださるために、お遣わしになりました。

 神である主は、特に、ご自身の契約に真実であられるという点で、私たち人間とは全く「区別」されます。その意味で、ご自身の御名の聖さがあかしされています。
 これら二つの面においてあかしされている契約の神である主の御名の聖さは、十字架にかかって死んでくださって、私たちを罪と死の力から贖い出してくださり、死者の中からよみがえって、私たちを神さまとのいのちの交わりに生かしてくださった御子イエス・キリストにおいて、この上なく豊かにあかしされています。
 このような、契約の神である主の御名が聖いということの意味を踏まえますと、詩篇の中で、契約の神である主の「聖なる御名に感謝せよ。」、「聖なる御名をほめたたえよ。」と、繰り返し呼びかけられていることにもうなずいて、その感謝と讃美の言葉に声を合わせることができます。

 


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