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説教日:2000年7月9日 |
黙示録においては、4章から天上のシーンが描かれていきます。それは、5章に記されている「ほふられたと見える小羊」すなわち栄光のキリストが歴史の鍵を握っておられて、歴史を神さまのみこころにしたがって導いて、創造の御業と贖いの御業を完成されることを示すためです。 そのすべてに先だって、4章には、天において、造り主である神さまにささげられている礼拝が記されています。神さまへの礼拝は、造られたものが造り主である神さまの聖さをあかしするための最も基本的な方法です。、造り主である神さまが造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることは、造られたものが造り主である神さまを礼拝することを通してあかしされます。 6節〜11節には次のように記されています。 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」 また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」 この天上の礼拝においては、神さまの御座の近くで仕えている四つの生き物が、絶え間なく、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 と叫び続けて、神さまの聖さを讚えています。 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 というのは、神さまの聖さを讚える言葉です。「聖なるかな」という言葉が三回繰り返されています。これは「三」という完全数にかかわることで、これによって、神さまの聖さが完全であることが示されていると考えられます。 それと同時に、四つの生き物たちが「昼も夜も絶え間なく叫び続けた。」と言われていますこととのつながりで言いますと、「聖なるかな」という言葉が三回繰り返されていることは、四つの生き物たちが常に新しく神さまの聖さの「現実性(リアリティ)」によって圧倒されており、そのために、絶え間なく、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 と叫び続けて、神さまの聖さを讚える他はない状態にあったことをも示しています。 そこでは、神さまは、「神であられる主」と呼ばれており、「万物の支配者」にして「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」であるとして讚えられています。 それぞれの呼び名について見てみましょう。 まず、「神であられる主」(キュリオス・ホ・セオス)は、旧約聖書で「神である主」と訳されている言葉(ヤハウェ・エローヒーム)に当たるものです。この呼び名は、先週その意味をお話ししました契約の神である主の御名である「ヤハウェ」と、天地創造の御業を遂行された神さまを表わす「エローヒーム」の組み合わせです。 これによって、ヤハウェ、すなわちご自身の契約に対して真実であられ、どのような事情の中にあってもご自身の民に対する契約を守ってくださる方は、エローヒーム、すなわち天と地を創造された神である、ということを示しています。私たちの契約の神である主、ヤハウェは、天と地をお造りになって、そのすべてを支えておられる方ですから、どのような事情の中にあっても私たちに対する契約を守ってくださり、その約束を実現してくださることがおできになります。 また、「万物の支配者」と訳された言葉(ホ・パントクラトール)は、旧約聖書において「万軍の主」と訳されている言葉(ツェバオート)や「全能者」と訳されている言葉(シャダイ)に当たり、すべてのものを治めておられる全能の主を表わしています。 先ほどの「神であられる主」と、この「万物の支配者」の組み合わせは、旧約聖書の「万軍の神、主」(ヤハウェ・エローヘー・ツェバオート)に近い意味を表わしていると考えられます。詩篇89篇5節〜10節では、 主よ。天は、あなたの奇しいわざを ほめたたえます。 また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。 まことに、雲の上では だれが主と並びえましょう。 力ある者の子らの中で だれが主に似ているでしょう。 主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。 主の回りのすべての者にまさって 恐れられている方です。 万軍の神、主。 だれが、あなたのように力がありましょう。 主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。 あなたは海の高まりを治めておられます。 その波がさかまくとき、 あなたはそれを静められます。 あなたご自身が、 ラハブを殺された者のように打ち砕き、 あなたの敵を力ある御腕によって散らされました。 と告白されています。 この詩篇では、主がご自身の契約に真実であられることが強調されています。そして、天と地のすべてのものを治めておられる「万軍の神、主」として、救いとさばきの御業を遂行されることが、讃美とともに告白されています。 最後の、「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」は、神さまが永遠の神であられることを示しています。9節では神さまのことが「永遠に生きておられる方」(直訳「永遠から永遠に生きておられる方」)と呼ばれています。 それと同時に、この「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」は、先ほどの「神であられる主」や「万物の支配者」と組み合わせて用いられていることからも分かりますように、神さまが、他のものと無関係に、ご自身だけで「永遠に生きておられる」というのではなく、ご自身がお造りになったこの世界の歴史に深く関わっていてくださる方であることを示しています。その意味では、これは、先週お話ししました、出エジプト記3章14節に記されている「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という契約の神である主の呼び名に近いものです。 ですから、この「神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」という呼び名は、神さまが天にあるものも地にあるものも含めて、すべてのものを治めておられる全能の主権者であられることと、永遠に生きておられる方として、ご自身の契約に対して真実であられ、歴史を導いて、創造の御業と贖いの御業の目的を成し遂げてくださる方であることを示しています。 このように、天上の礼拝における、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 という讃美においては、契約の神である主が、万物の造り主として造られたすべてのものと区別される方であり、「万物の支配者」として、その主権の下にあるものと区別される方であり、「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」として歴史の流れの中にあるものと区別される方であるので、聖なる方として讚えられています。 同時に、この讃美においては、神さまが、万物の造り主として、造られたすべてのものに関わってくださり、「万物の支配者」として、その主権の下にあるものを治めておられ、「昔いまし、常にいまし、後に来られる方」として、ご自身の契約にしたがって歴史を導いてくださっておられることが示されています。 よく考えてみますと、このことは何となく矛盾しているように感じられます。この黙示録の言葉を離れて、より一般的に言いますと、神さまの聖さは、神さまが造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方であることを示しています。その区別が「絶対的な」区別であるのであれば、神さまと神さまによって造られたものとの間には、何の関係もないのではないかという気がします。ところが、聖書に示されている神さまの呼び名は、一貫して、聖なる神さまが、ご自身がお造りになったものに深く関わってくださっていることを示しています。これでは、矛盾しているのではないかというような疑問が湧いてきます。 私たちには限界がありますので、この問題を完全に理解するという形で解決することはできません。それでも、神さまの聖さについて大切なことを考えるために、一つの考え方の筋道をたどりながら、お話を進めたいと思います。 私たちは、聖書の御言葉にしたがって、神さまがこの世界とその中のすべてのものをお造りになったということと、お造りになったすべてのものを真実な御手によって支えておられるということを信じています。それは、造り主である神さまが、ご自身のお造りになったこの世界に深く関わってくださっているということです。 問題は、私たちが、そのことを、人間の限られた理解力と想像力によって考えているということです。 私たちは、神さまがこの世界をお造りになったということを、何となく、「人間のようなかたちをした神さま」が、この世界に働きかけておられるというようなイメージで考えてしまいます。それ以上のことをイメージとして考えることは難しいことです。それは、あくまでも、私たちの人間としての理解力と想像力の限界によっています。 そのようなイメージを持ってはいけないということではありません。神さまは私たちの限界をご存知であられるので、ご自身を「擬人化された」表現をお用いになって示してくださっておられます。それによって、私たちは、神さまが単なる力やエネルギーではなく、生きた人格的な方であることを実感することができるのです。 その一方で、造り主である神さまが造られたものとは「絶対的に」区別される方であるということについて、私たちは、神さまと神さまがお造りになったものとの間が、無限とも思える「距離」で隔たっているという形でイメージしてしまいます。実は、それも、「絶対的な区別」に対する私たちの理解力と想像力の限界によっています。 私たちが考える「距離」の隔たりは、この世界の中にあるものに当てはまるだけであって、無限の神さまには全く当てはまりません。無限の神さまには「距離」の隔たりというようなものはないからです。 神さまが聖なる方であることは、私たちの間では、神さまを礼拝することによってあかしされます。造り主である神さまは、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方として、すべての造られたものの礼拝をお受けになるべき方です。また、造られたすべてのものは神さまに礼拝をささげるべきものです。 そうではありましても、もし、神さまが造られたすべてのものと「絶対的に」区別されるということが、私たちの理解力と想像力で考えられた「絶対的な区別」でしかないとしたら、どうなるでしょうか。もし、その「絶対的な区別」が、神さまと神さまがお造りになったものとの間が、絶対に触れ合うことができない「距離」で隔たっているということであるとしたら、聖書に教えられており、約束されている、礼拝における神さまとの新鮮で生き生きとした交わりは、実際には不可能なことになってしまいます。 私たちに分かることは、神さまは、あらゆる点で、私たち人間の理解力と想像力をはるかに越えた豊かな方であるということです。私たちの理解力と想像力をはるかに越えているから「無」であるというのではなく、私たちの理解力と想像力をはるかに越えて「豊かな方」であるのです。それで、神さまと私たちの関係も、私たちの理解力と想像力をはるかに越えた豊かな関係となっています。 神さまの「高さ」という点では、神さまは私たちの想像をはるかに越えて高い方です。その意味では、神さまと私たちの間には、私たちが想像する「空間的な隔たり」をはるかに越えた隔たりがあります。 しかし、それとまったく同時に、神さまは私たちの想像をはるかに越えて、私たちの近くにおられます。神さまは、私たちの一つ一つの呼吸を知っておられます。私たちの身体を構成する細胞の一つ一つを数えておられます。私たちの思いのすべてを、その悲しみも喜びもすべてご存知でいてくださいます。私たちがいまだ見ていない、救いの完成の後の私たちの姿をもつぶさにご存知でいてくださいます。 私たちの理解力と想像力では、矛盾するとしか思えないこの二つのことが、同時に、今このとき、私たちと神さまの関係の現実です。── 「同時に」というのは、ある時には、神さまが私たちの理解や想像をはるかに越えて高い方となられ、また、別のある時には、私たちの理解や想像をはるかに越えて、私たちの近くにいてくださるということではありません。神さまは、常に、私たちの理解や想像をはるかに越えて高い方であり、常に、私たちの理解や想像をはるかに越えて、私たちの近くにいてくださる方なのです。 その二つのことが矛盾するように見えるのは、私たちの人間としての理解力と想像力に限りがあるからです。そのために、私たちが、神さまの無限の豊かさを全体的に捕らえることができないからです。 神さまの聖さの特質は、まさにこの点にあります。神さまは、あらゆる点で、私たちの理解力と想像力をはるかに越えて豊かな方であるということのうちに、神さまの聖さの特質があります。 神さまが造り主として、すべての造られたものと「絶対的に」区別される方であるということは、ただ、神さまが私たちの理解や想像をはるかに越えて高い方である── その意味で私たちと区別される方であるというだけでなく、同時に、私たちの理解や想像をはるかに越えて私たちの近くにおられる方である── その意味でも私たちと区別される方である、ということをも意味しています。 これまでお話ししてきました、天上の礼拝における、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 という、神さまの聖さを讚える讃美は、この神さまの聖さの二つの面をあかししていました。 神さまが造り主としてすべての造られたものと「絶対的に」区別される方であるということは、神さまが私たちの理解や想像をはるかに越えて高い方であることを意味していると同時に、私たちの理解や想像をはるかに越えて私たちに近くにおられる方であるということを意味しています。 それで、神である主は、ご自身の御名が聖いことを、次のようにあかししておられます。 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方が、 こう仰せられる。 「わたしは、高く聖なる所に住み、 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。」 イザヤ書57章15節 ここには、聖なる神さまが永遠なる方として無限に高いところにおられる方であることと、心砕かれた者に限りなく近くいてくださる方であることが示されています。 |
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