(第7回)


説教日:2000年7月23日
聖書箇所:詩篇139篇1節〜24節


 神さまは、この世界のすべてのものをお造りになった方です。それで、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものから「絶対的に」区別される方です。神さまが造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを示すのが、神さまの聖さです。
 前回は、神さまが、ご自身がお造りになったすべてのものから「絶対的に」区別される方であることは、私たちの理解力と想像力をはるかに越えた豊かなものであることをお話ししました。そして、それが私たちの理解力と想像力をはるかに越えたことであるために、私たちには矛盾すると見えることがある、ということもお話ししました。きょうは、そのことを補足するお話をしたいと思います。


 神さまの「聖さ」は、神さまが、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。その区別が「絶対的な」区別であれば、神さまと神さまによって造られたものとの間には、何の関係もないのではないかという気がします。ところが、聖書に示されている神さまのさまざまな御名は、一貫して、聖なる神さまが、ご自身がお造りになったもの、特に「神のかたち」に造られている人間に深く関わってくださっていることを示しています。
 これでは矛盾しているのではないか、というような疑問が湧いてきます。しかし、これが矛盾であるように感じられるのは、私たちが、このことを、人間の限られた理解力と想像力によって考えているからです。
 私たちは、あるものが存在するということを、どうしても、空間の広がりの中のある所にある(ある所に位置している)という形でイメージしてしまいます。そのために、造り主である神さまが、造られたものとは「絶対的に」区別される方であるということも、神さまと神さまがお造りになったものとの間が、無限とも思える「距離」で隔たっているという形でイメージしてしまいます。
 けれども、私たちが考える、あるものの「位置」とか、あるものと他のものとの間の隔たりは、この世界の中にある、限りのあるものに当てはまるだけであって、無限の神さまには全く当てはまりません。無限の神さまには私たちが考える空間的な「位置」や、あるものとの間の「距離」の隔たりというようなものはありません。
 詩篇139篇7節〜12節では、

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、
そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
たとい私が
「おお、やみよ。私をおおえ。
私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
あなたにとっては、やみも暗くなく
夜は昼のように明るいのです。
暗やみも光も同じことです。

と言われています。
 ここでは、神さまの「遍在」、すなわち、神さまがこの世界のどこにでもおられるということが示されています。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、
そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。

ということは、今日の発想で言いますと、現実には不可能なことですが、かりに私たちが150億光年の彼方といわれる宇宙の果てに行ったとしても、そこに神さまはおられるということでしょう。私たちが宇宙の果てに行く時には移動します。しかし、神さまは移動されることはなく、常にこの世界のどこにでもおられます。
 私たちに分かるのは、神さまにとっては、この広大な宇宙も広すぎることはなく、この宇宙の最小単位であると考えられているクォークやレプトンのような素粒子も、小さすぎることはないということです。神さまは、宇宙全体と素粒子の違いを完全に知っておられますが、先ほどの詩篇の記者の「あなたにとっては ・・・・ 暗やみも光も同じことです。」という言葉に合わせて言いますと、宇宙全体の広大さも素粒子の微小さも「同じことです」ということになります。
 けれども、そのように言っても、それで、神さまの「高さ」をすべて言い表わしているわけではありません。神さまの「高さ」は、このように言っている、私たちの理解と想像をも、はるかに越えています。その意味では、神さまと私たちの間には、私たちが想像する「空間的な隔たり」をはるかに越えた隔たりがあります。

 しかし、それと同時に、神さまは私たちの理解と想像をはるかに越えて、私たちの近くにおられます。
 先ほどの詩篇139篇1節〜6節では、

主よ。あなたは私を探り、
私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、
立つのも知っておられ、
私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、
なんと主よ、
あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、
御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとって
あまりにも不思議、
あまりにも高くて、及びもつきません。

と言われており、14節〜18節では、

私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのは
なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、
それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。

と言われています。
 ここでは、私たちの契約の神である主が、私たちの理解力と想像力の限界をはるかに越えて、私たちに近くいてくださり、私たちのことを事細かに知ってくださっていることが告白されています。
 また、最初に引用しました、7節〜12節の御言葉におきましても、9節、10節で、

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。

と言われていますように、ただ単に、神さまがこの世界のどこにでもおられるということを述べているだけではありません。神さまが、私たちとは無関係に、宇宙の彼方にもおられるというのでなく、宇宙の彼方においても、私たちの契約の神である主としていてくださるというのです。私たちが宇宙の果てに行くことがあるとしても、神さまは、そこでも私たちとともにいてくださり、私たちに御顔を向けてくださり、ご自身との愛の交わりに生かしてくださいます。
 私たちはあらゆる点で限りのあるものです。私はいまここにいますので、この小さな部屋の後ろにはいません。しかし、無限の神さまは、いまここに私たちとともにいてくださるとともに、この時、御子イエス・キリストの御名によってご自身を礼拝しているあらゆる群れとともにいてくださって、その礼拝を受け入れてくださっておられます。
 確かに、6節の、

そのような知識は私にとって
あまりにも不思議、
あまりにも高くて、及びもつきません。

という告白や、14節の、

あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。

という告白に示されていますように、私たちの契約の神である主が私たちとともにいてくださることは、私たちの理解力と想像力をはるかに越えていて、私たちにとっては、「恐ろしいほど」の現実です。
 14節は訳すうえで難しいところがあります。新国際訳(NIV)では、ヘブル語本文のように「」を主語として、

私は、恐ろしいほどに、
素晴らしく造られています。

と訳されています。どちらの訳でも、私たちに対して神である主の恐ろしいほどにくすしい御手のお働きが及んでいるという点は同じです。

 この世界とその中のすべてのものの造り主であり、無限、永遠、不変の神さまは、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。その意味で神さまは聖なる神です。そのことを、あらゆる点において有限な私たちの理解力と想像力で考えますなら、神さまはこの世界から「絶対的に」超越し隔絶された方であると考えたくなります。
 けれども、そのように考えるのも、神さまの無限の豊かさに、そして、神さまがご自身のお造りになったこの世界、特に、「神のかたち」に造られている人間にかかわってくださる関係の豊かさに、有限な私たちの理解力と想像力がついてゆけないからです。
 この詩篇139篇に示されていますように、神さまは、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であり、この世界を無限に越えた方であるからこそ、真の意味で私たちとともにいてくださることがおできになります。
 どのように、私たちとともにいてくださるかと言いますと、存在においては、たとえ私たちが宇宙の果てに行くことがあっても、そこで、神である主は私たちとともにいてくださって、私たちに御顔を向けてくださり、私たちをご自身との交わりに生かしてくださいます。
 また、知恵と知識においても無限、永遠、不変であられ、私たちを無限に越えておられるので、16節で、

あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。

と言われていますように、私たち一人一人の生涯の全体を見通しておられますし、その一つ一つの歩みをつぶさに知っていてくださっておられます。

 さらに、このようなことを歌う詩篇としては場違いのように感じられますが、19節〜22節では、

神よ。どうか悪者を殺してください。
血を流す者どもよ。私から離れて行け。
彼らはあなたに悪口を言い、
あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
主よ。
私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。
私は、あなたに立ち向かう者を
忌みきらわないでしょうか。
私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。
彼らは私の敵となりました。

と言われています。
 このような言葉に私たちは戸惑うかもしれませんが、これは、神さまが私たちのすべてをつぶさに知っていてくださっていることの、意味の広がりを示しています。神さまは、私たちが暗やみの力と罪の棘が猛威を振るっているこの世にあって、厳しい霊的な戦いの中で痛んでいることをつぶさに知っていてくださるのです。神である主は、霊的な戦いの厳しい状況の中で、私たちとともにいてくださり、私たちの歩みと思いの一つ一つを知ってくださり、私たちを整えてくださいます。23節、24節で、

神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。

と言われているとおりです。
 神さまは、私たち一人一人のことをつぶさに知っておられます。そうであれば、「みだりに御名を口にし」て、神さまの聖さを傷つける「悪者」の思いと言葉と行ないの一つ一つをも、つぶさに知っておられるわけです。
 御子イエス・キリストにある無限の愛と恵みによって、神さまの契約の民としていただいている私たちにとっては、神さまが、私たち一人一人の思いのすべてを知っていてくださることは、恐ろしいほどに素晴らしい御手のお働きに触れることにつながっていきます。しかし、そのことは、「みだりに御名を口にし」て、神さまの聖さを傷つける「悪者」にとっては、戦慄するような恐ろしいことです。

 このように、神さまが造られたものとは「絶対的に」区別される聖なる方であることは、私たちには、その全容をとらえきることはできませんが、私たちにとって実に豊かな意味をもっています。このことと、すでにお話ししてきました、神さまが造られたものとは「絶対的に」区別される聖なる方であることは、何よりも、私たちが神さまを礼拝することによってあかしされるということを合わせて考えてみますと、神さまが聖なる方であることが私たちにとって豊かな意味をもっているということは、何よりも、私たちの礼拝において表われてきます。
 それは、前回取り上げました黙示録4章に記されている「天上の礼拝」において見られるところですが、きょうは、これまでお話ししたこととのかかわりで、「天上の礼拝」とは対極にあるともいうべき、一人の方の礼拝のことをお話ししたいと思います。
 ご存知の方も多いかと思いますが、『わが涙よわが歌となれ』という本に記されている、原崎百子さんの「わが礼拝」という詩に記されているものです。原崎百子さんは、肺ガンの中でも最も悪性のガンに冒されて、とても苦しい闘病の後、1978年8月10日に主の御許に召されました。その11日ほど前の7月30日が、今年と同じように、主の日に当たりました。その日が、原崎百子さんが教会で礼拝をささげる最後の機会となりました。その日の日記に、

礼拝。歩いて行かれない。歌えない。唱えられない。そういう私の礼拝を、本気、本当の礼拝として捧げることを考える。

と記してから、「わが礼拝」という詩を記しておられます。

わがうめきよ わが讃美の歌となれ
わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ
わが涙よ わが歌となれ
 主をほめまつるわが歌となれ
わが病む肉体から発する
  すべての吐息よ
      呼吸困難よ
      咳よ
  主を讃美せよ
わが熱よ 汗よ わが息よ
 最後まで 主をほめたたえてあれ
 
 冷静に見る人からは、どうしてこれが礼拝になるのかと問われるかもしれません。これは、詩的な言葉の技巧ではないかと問われるかもしれません。それに対して、私が原崎百子さんに代わって十分に答えられるわけではありませんが、それは、次のようなことでしょう。
 私たちの理解力と想像力をはるかに越えて高くいます聖なる神さまは、また、私たちの理解力と想像力をはるかに越えて、私たちの近くにいてくださる契約の神である主です。
 主が私たちの理解力と想像力をはるかに越えて、私たちの近くにいてくださることは、私たちと同じ人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストにあって、この上なく豊かに実現しています。イエス・キリストは、私たちのあらゆる痛みと苦しみをご自身のこととして知ってくださるために、この世にあって、誰よりも厳しい試練を、いくつも経験されました。そして、私たちの罪に対する神さまのさばきを私たちに代わってその身に負ってくださるまでに、私たちと一つになってくださいました。
 詩篇の記者が、

あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、
なんと主よ、
あなたはそれをことごとく知っておられます。

と告白したことは、御子イエス・キリストにあって、最も深く豊かな意味で、私たちの現実となっています。
 神さまは、御子イエス・キリストにあって、私たちの呼吸の一つ一つを知ってくださっておられますし、その一つ一つを支えてくださっておられます。まして、私たちのうちから出るうめきの一つ一つや、私たちが流すすべての涙は、つぶさに知ってくださっておられます。
 そうであるからこそ、救いの完成の日のことを記す黙示録7章17節と21章3節、4節では、

また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。

と言われているのです。神さまの知らなかった私たちの涙があって、それをぬぐい去ってくださるというようなことは考えられません。また、私たちとしましても、神さまが、イエス・キリストにあって、私たちの流す涙の一つ一つをつぶさに知ってくださっているからこそ、それを「すっかり」ぬぐい取っていただいたと実感できるのです。
 造られたすべてのものと「絶対的に」区別される聖なる神さまは、このような方ですから、私たちが、御子イエス・キリストにある神の子どもとして、痛みと苦しみの中から絞り出すうめきや、悲しみの中で流す涙を、つぶさに知っていてくださいます。そして、その一つ一つを讃美としてささげようとする思い、苦しい一息一息を信仰の告白としたいという思いのすべてを、私たちがそのように申し上げる前から、十分にくみ取ってくださいます。その讃美をご自身への讃美としてお聞きくださり、そのすべてを、ご自身への礼拝として受け入れてくださいます。
 造られたすべてのものと「絶対的に」区別される聖なる神さまは、このような方ですから、私たちは、御子イエス・キリストにあって、私たちの一つ一つの呼吸を意識することを初めとして、あらゆることを通して、聖なる神さまに礼拝をささげることができます。
 そして、私たちは、このことを知ることによって、私たちの呼吸の一つ一つから始まって、思いの一つ一つ、言葉の一つ一つ、行ないの一つ一つが、御子イエス・キリストにあって、その贖いの恵みに包んでいただいて、聖なる神さまに対する礼拝となっていくように整えていただきたいと、切に願わせられます。先ほども引用しました詩篇139篇23節、24節で、

神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。

と祈られているとおりです。
 私たちの礼拝は、そのようなことから積み上げられて、神の子どもたちの集いにおける「公的な礼拝」としてささげられます。そして、これがさらに、黙示録4章に記されているような「天上の礼拝」へと連なっていくのです。
 このすべては、神さまが造られたものとは「絶対的に」区別される聖なる方であることが、私たち、御子イエス・キリストにある神の子どもたちにとって実に豊かな意味をもっていることの現われです。

 


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