(第8回)


説教日:2000年7月30日
聖書箇所:ヨハネの福音書4章1節〜26節


 きょうも、これまでお話ししてきました「聖なるものであること」についてのお話を続けます。いつものように、これまでお話ししてきたことで、きょうお話しすることと関係があることを簡単に振り返ってみましょう。
 神さまは、この世界とその中のすべてのものをお造りになりました。神さまは、この世界の造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。そのことを表わすのが、神さまの「聖さ」です。神さまの「聖さ」は、神さまが、この世界の造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを示しています。
 神さまの聖さは「絶対的な」聖さです。神さまはご自身で聖い方であり、聖さそのものです。神さまの外に、神さまを離れて「聖さ」の基準があって、その基準に照らして見ると、神さまが存在するものの中でいちばん聖いということではありません。神さまが、聖さの基準であり、聖さの源です。
 これに対しまして、造られたものは、「絶対的に」聖い神さまとの関係においてだけ聖くあることができます。神さまとの正常な関係にあるものは、基本的に聖いものです。
 その意味で、神さまがお造りになったものはすべて、本来、聖いものです。ただ、神のかたちに造られている人間や御使いのような人格的な存在だけが、自らの自由な意志によって、神さまとの関係を損なって、汚れたものになりえます。
 「神のかたち」に造られている人間は、その本来の姿においては、神さまの御手によって造られたものであるという点において聖いだけではありません。造り主である神さまとの人格的な関係においても、聖なるものです。
 神さまとの人格的な関係において聖なるものであることは、自分の人格のすべてをもって神さまの聖さをあかしすることから始まります。そして、神さまの聖さは、何よりも、私たちが神さまを礼拝することにおいてあかしされます。造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべき立場にあります。それで、神さまを礼拝することを離れては、神さまの聖さをあかしすることはできません。
 「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、汚れたものになってしまったということの中心は、造り主である神さまが、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを否定するようになり、神さまをそのような方として礼拝することがなくなってしまったことにあります。


 ヨハネの福音書4章23節、24節には、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

という、礼拝に関するイエス・キリストの教えが記されています。
 これは、20節にありますように、サマリヤ人の女性との対話の中で、サマリヤ人の女性が、

私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

と尋ねたことに対して、イエス・キリストがお答えになったものです。
 以前お話ししたことがありますが、このサマリヤ人の女性がイエス・キリストに投げかけた質問には、歴史的な背景があります。
 ソロモン王は、その晩年に外国から迎えた妻たちが持ち込んできた偶像に仕えるようになりました。二度にわたる主の警告にもかかわらず、それを止めることがなかったため、主の警告の通り、ソロモンの死後、イスラエルは、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。
 サマリヤは北王国の首都で、オムリによって建設されました。このオムリの子が、預言者エリヤを迫害したアハブです。その後も、北王国イスラエルの王たちは、主の御前に偶像に仕えることから始まる、さまざまな罪を犯し続けました。そして、ついに、主のさばきを招き、紀元前722年には、アッシリヤの手によって滅ぼされてしまいました。
 アッシリヤは、異なった民族をともに住まわせる「民族混交政策」を採りました。列王記第二・17章6節では、

ホセアの第9年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。

と言われています。
 もちろん、すべてのイスラエル人が移されたのではなく、残された人々もいました。
 また、24節では、

アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。

と言われています。
 他の国から入植してきた人々は、主を礼拝しながら、自分たちの国の神々にも仕えていました。
 一方、南王国ユダも、同じように、偶像に仕えることから始まるさまざまな罪を犯して、主のさばきに会い、紀元前587年には、バビロニヤによって滅ぼされてしまい、おもだった人々はバビロンに捕らえ移されました。
 バビロニヤは、それぞれの民族が独自性を保つことを許す政策を採りましたので、バビロンに捕え移されたユダヤ人たちは、ユダヤ人としての独自性を保つことができました。そして、ペルシャの時代になって、ユダヤ人たちはパレスチナに帰還して、エルサレム神殿を再建することを許されるようになりました。
 ユダヤ人がエルサレム神殿を再建し始めた時、アッシリヤ時代に入植してすでにパレスチナに住んでいた人々を中心とする人々が協力を申し出ましたが、拒絶されました。それで、彼らは神殿建設を妨害するようになりました。
 これらの人々の中から、サマリヤ人としてのアイデンティティをもった人々が出てきたのは、紀元前400年頃と思われますが、サマリアの人々が、「エルサレム神殿」に対抗して、ゲリジム山に「サマリヤ神殿」を建設してからのことであるとする見方もあります。いずれにしましても、この「サマリヤ神殿」の建設によって、ユダヤ人とサマリヤ人の亀裂は決定的に深くなったといわれています。
 この神殿は紀元前128年にユダ王国のハスモン王朝のヨハネ・ヒルカノスによって破壊されました。サマリヤの町自体も、紀元前107年頃には、徹底的に破壊されました── サマリヤの町は、後に再建されました。

 ヨハネの福音書4章20節で、サマリヤ人の女性が、

私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

と言うときの「この山」は、ゲリジム山のことです。
 サマリヤ人の女性は、イエス・キリストに、主を礼拝する場所としてふさわしいのは、サマリヤ神殿があったゲリジム山なのか、それとも、エルサレム神殿があるシオンの丘であるのかと、いわば「本山」に関する質問をしたのです。
 この質問は、申命記12章1節〜5節に、

これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

と言われており、10節〜14節で、

あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。

と言われていますように、契約の神である主が、ご自身の民のために礼拝する場所をお選びになっておられる、ということをその背景にもっています。
 同時に、このサマリヤ人の女性には、話の方向をずらそうというような思いもあったかもしれません。この「本山」に関する質問は、先ほどお話ししましたような歴史的ないきさつからしますと、ユダヤ人とサマリヤ人の間の反目を集約する問題です。
 もしイエス・キリストが、礼拝すべき場所はエルサレム神殿のあるシオンの丘である、とお答えになっていたら、この女性は、「やはり、あんたはユダヤ人なのね。」と言って、イエス・キリストに心を閉ざしていたかもしれません。というのは、この女性が、

私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

という質問をするようになったのは、イエス・キリストが、この女性がこれまで夫を五人も変えてきて、いまは、結婚しないで別の男と住んでいることを言い当てたことを受けてのことだからです。
 しかし、このサマリヤ人の女性は、彼女が考えてもいなかったばかりか、その当時のユダヤ人やサマリヤ人の誰もが思いもよらなかった教え── さらに言いますと、イエス・キリストの弟子たちでさえ知らなかった教えに、しかもたった一人で接することになります。それが、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

というイエス・キリストの教えです。
 これは、サマリヤの女性の質問そのものを根底から覆す教えです。その当時のユダヤ人とサマリヤ人からしますと、神さまの御言葉に基づいて、主の御名のために建てられたとされる神殿は、ゲリジム山かシオンの丘しかありません。それで、そのどちらかが本物であるということになります。
 しかし、イエス・キリストは、神である主を礼拝すべき場所は、ゲリジム山であれシオンの丘であれ、そのような地上のどこか特定の場所に固定されてはいないということをお話しになりました。

 それでは、先ほど引用しました申命記に記されている戒めはどうなってしまうのでしょうか。それに対する答えは、この女性には語られてはいません。しかし、私たちとしましては、二つの面からそれを考えることができます。
 一つは、より広い旧約聖書の教えです。先週取り上げました詩篇139篇7節〜10節では、

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、
そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。

と言われています。
 神さまはこの世界をお造りになった方です。それで、神さまの御霊は、この世界のどこにでも、ご自身がよしとされる所にご臨在されます。そして、私たちを神さまとの交わりの中に生かしてくださいます。
 同じことを、少し違った面から述べているのが、イザヤ書66章1節、2節の、

主はこう仰せられる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
わたしのために、あなたがたの建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造ったもの、
これらすべてはわたしのものだ。
── 主の御告げ。──
わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。」

という主の御言葉です。
 先ほどの詩篇139篇7節〜10節では、天と地をお造りになった神である主は、この世界のどこにでもご臨在されると言われていました。このイザヤ書66章1節、2節では、天と地をお造りになった神である主は、天と地を一つの全体として見て、その全体にご臨在しておられるということが語られています。この二つのことは、常に真実です。それは、神さまがこの世界の造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であり、この世界を無限に超越した方であるからです。
 ですから、神さまがご臨在される場所は、この世界の特定の場所に限定されてはいません。神さまがお造りになったこの世界のどこにおいても、神さまのご臨在の御前に立って神さまを礼拝することはできます。

 もう一つのことは、それでは、先ほど引用しました申命記の戒めはどう考えたらいいのか、ということです。
 古い契約の下で、神である主がご自身の御名を置いてくださる場所として特定の場所をお選びになったのは、そこに建てられる神殿を「視聴覚教材」として用いてくださるためです。それによって、神さまは、罪を犯して堕落してしまっている人間は、そのままでは、聖なる神さまのご臨在の御前に立つことはできないということと、神である主のご臨在の御前に近づくためには、神さまが備えてくださる贖いの恵みにあずかって、罪を聖められていなくてはならないことを教えてくださいました。
 そのことを教える「視聴覚教材」は、ただ、主の御言葉にしたがって建てられた神殿しかありません。神さまに対して罪を犯して堕落してしまっている人間が考える神殿は、人間に都合が良いものになってしまっています。それらは、人間の罪の現実を曖昧にしているうえに、贖いの必要性も示してはいません。先ほど引用しました申命記12章2節、3節で、異邦の民の神殿と偶像をことごとく砕いてしまわなければならないと命じられているのは、それが、神である主の聖さを損なうものであるとともに、神さまが備えてくださる贖いの恵みを見失わせてしまうものであるからです。
 古い契約の下で建てられた神殿が「視聴覚教材」として示していることのすべては、人の性質を取って来てくださって、十字架の上で私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださり、三日目に死者の中からよみがえってくださった、御子イエス・キリストにおいて、すべて成就しています。ヘブル人への手紙10章19節〜22節で、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と言われているとおりです。
 ですから、ヨハネの福音書2章19節、22節に、

イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

と記されていますように、イエス・キリストは、ご自身のからだを、シオンの丘に建てられているエルサレム神殿の「本体」であることを教えておられます。
 人の性質を取って来てくださって、十字架にかかって私たちの贖いとなってくださった御子イエス・キリストは、ご自身が神さまの聖さをあかししておられます。それとともに、私たちが神さまの聖さをあかしする礼拝を私たちのうちに生み出してくださる贖い主です。


しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

というイエス・キリストの教えにおいては、「霊とまことによって」ということが繰り返されています。
 この「霊とまことによって」の「」は御霊のことではなく、私たちの「」のことであると考えられます。それで、「 ・・・・ によって」というのは、私たちが、形式的な礼拝ではなく、真剣に真実に心からの礼拝すべきことを示している、という見方があります。そして、それが主観的な姿勢であるとすれば、「まこと」(アレーセイア)は、「真理」のことですから、神さまの御言葉に示されている真理に基づく客観的な確かさを示しているということになります。
 しかし、礼拝が真剣で真実なものでなければならないということは、その当時の人々が知っていたことであったはずです。私たちが勝手に、ユダヤ人たちは「形式的な礼拝」しかしていなかったと決めつけることはできません。
 また、「霊とまことによって」礼拝すべきことには、「神は霊ですから」という理由がついていますから、その点が考慮されなくてはなりません。
 「神は霊です」という言葉は、神さまの存在の本質的な特性を示しています。それは、消極的には、神さまには物質的な要素がないことを示しています。
 それとともに、「神は霊です」ということは、積極的に、神さまが御霊によって創造的なお働きをなさる方であることを示しています。創世記1章2節、3節では、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と言われていて、天地創造の初めに、まだこの世界が「形がなく、何もなかった」時にすでに、神さまの御霊がこの世界にご臨在しておられて、そのご臨在の御許から発せられる「光よ。あれ。」から始まる一連の御言葉をもって、創造の御業を展開しておられます。
 また、イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

と言われましたように、神さまの新しい創造のお働きも、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。
 さらに、イエス・キリストがメシヤとしてのお働きを遂行されたもの、御霊に満たされてのことでした。ヨハネの福音書3章34節で、

神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

と言われているとおりです。
 ヨハネの福音書16章13節、14節には、

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。私たちは、御霊によって、真理の御言葉を理解し悟ります。
 また、コリント人への手紙第一・12章3節に、

神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

と言われていますように、私たちが、イエス・キリストを神さまから遣わされた贖い主として信じ、新しい契約の主として告白することによって、神さまに栄光を帰することができるのは、御霊のお働きによることです。
 ヨハネの福音書6章63節には、

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでは、まず、神さまの御霊は私たちにいのちを与えてくださる方であることが示されています。そして、イエス・キリストが話しておられる御言葉は、私たちにいのちを与えてくださる神さまの御霊によるものであり、それゆえに、私たちを生かす御言葉であるということが語られています。
 ですから、イエス・キリストの、

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

という教えの「神は霊ですから」ということは、礼拝においては、まず、このような、創造的なお働きをなさる神さまの御霊がご臨在してくださることが「大前提」となっています。そして、この御霊が、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちにいのちを与えてくださることによってはじめて、私たちは、「霊とまことによって」神さまを礼拝することができます。
 ですから、私たちの礼拝は、神である主が御霊によって私たちの間にご臨在してくださり、さまざまなお働きをもって支えてくださることによって、「霊とまことによって」神さまを礼拝する礼拝となります。

 以前お話ししたことがありますが、このような、いわば「革命的な」教えが、たった一人のサマリヤの女性に、しかも、これまで夫を五人も変えてきて、いまは、結婚しないで別の男と住んでいる女性に語られたということに、改めて、驚きを感じないではいられません。
 それは、イエス・キリストがこの女性を、本当の意味で愛してくださったことを意味しています。
 また、

真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

というイエス・キリストの言葉は、ただ単に、一般的な「真理」を述べているのではありません。
 確かに、この教えは、いつの時代の誰に対しても当てはまる真理ですが、誰よりも、まず、この女性に向けて語られたものです。それは、イエス・キリストが、この女性を「真の礼拝者」として新しく造り変え、「真の礼拝者」として整えていってくださっていることを意味しています。

 


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