(第9回)


説教日:2000年8月6日
聖書箇所:ヨハネの福音書4章21節〜24節


 先週は、ヨハネの福音書4章1節〜26節に記されているイエス・キリストとサマリヤ人の女性との対話から、霊であられる神さまを礼拝することについてお話ししました。
 23節、24節には、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この、礼拝に関するイエス・キリストの教えを理解する鍵は、「神は霊です」ということにあります。
 きょうは、神さまが霊であられることについて、もう少しお話ししたいと思います。
 


 先週お話ししましたように、イエス・キリストが「神は霊です」と言われたことは、神さまの存在の本質が霊であるということを意味しています。
 「存在の本質」ということですが、たとえば、ここに咲いている花の存在の本質は物質的であることにあります。この花が物質的でないとしたら、これはこの世界のものではない、幻想であるということになってしまいます。この花がここにあるのは、それが物質的なものであるからです。そう言えるほど、この花の存在の本質は物質的であることです。
 それと同じように、神さまが霊であられるということは、神さまが霊でなければ、もはや神さまであるとは言えないほど、神さまの存在にとって本質的なことです。
 神さまが霊であられるということを、「 ・・・・ ではない」という消極的な面から言いますと、神さまが物質的な存在ではないということを意味しています。
 物質的な存在というのは、天地創造の御業によって造り出されたこの世界とその中にある存在のことです。神さまがこの世界を物質的な世界としてお造りになりましたので、この世界は物質的な世界であるのです。
 神さまはこの物質的な世界をお造りになった方ですから、この世界のの中にあって、この世界の一部になっている方ではありません。当然、神さまは物質的な存在ではありません。けれども、神さまは確かに存在しておられます。神さまがおられなかったら、この物質的な世界も造られることがなく、何もありません。
 神さまは霊であられるので、たとえこの物質的な世界が造られなかったとしても、ご自身に何らかの欠けがあるわけではなく、永遠から永遠に存在しておられます。
 さらに、神さまが霊であられるということは、神さまが具体的な存在であって、生きた人格的な方であることを意味しています。私たちの感覚からしますと、「霊」というのは、何となくわけの分からない「もやもやとしたもの」のような気がします。しかし、それは、あくまでも私たちの感じ方のことです。私たちの感覚的でとらえられるものは、すべて物質的なものです。けれども、神さまは物質的な方ではありませんから、私たちの感覚でとらえることができません。それで、神さまが霊であられるというと、何となくとらえ所がないことのように感じられるわけです。
 しかし、霊であられる神さまは、生きておられて、ご自身のご計画にしたがって、この世界をお造りになり、今も、真実な御手をもって、お造りになったすべてのものを保っていてくださいます。神さまが霊であられるということは、神さまが生きておられて、創造的なお働きをなさる方であることを意味しています。
 このように、神さまが霊であられるということは、神さまが生きておられる人格的な方であり、ご自身のご計画にしたがってこの世界のすべてのものをお造りになって、それを真実に支えておられる方であることを意味しています。
 これらのことから、二つのことを考えることができます。
 一つは、神さまは霊であられますから、神さまがお造りになった物質的な世界と「本質的に」区別される方であるということです。この意味で、神さまが霊であられることは、神さまの聖さにかかわっています。
 もう一つは、神さまが霊であられるから、神さまはこの世界に深く関わってくださり、特に、「神のかたち」に造られている人間を、ご自身との愛にあるいのちの交わりの中に生かしてくださるということです。それで、先ほど引用しましたイエス・キリストの教えにありますように、神さまが霊であられるということが、私たちが神さまを礼拝することの基礎となっています。

 これまでお話ししましたことから、何となく分かることですが、神さまが霊であられることは、特に、御霊によって表現されています。神さまが霊であられることは、御霊の存在とお働きのうちに表現されているということです。
 そして、先ほど言いましたように、神さまが霊であられることは、神さまが物質的な特性をもつこの世界と「本質的に」区別される方であること、すなわち、神さまが聖なる神であられることを意味しています。それで、神さまが霊であられることを表現しておられる御霊は、特に、「聖霊」すなわち「聖なる御霊」として示されています。
 それとともに、神さまは霊であられるので、この世界に働きかけてくださる方です。神さまは、特に、「神のかたち」に造られている人間に深くかかわってくださり、ご自身とのいのちの交わりに生かしてくださいます。このことも、神さまの御霊によって表現されています。
 そのように、霊であられる神さまがこの世界に深くかかわってくださることを表現しておられる御霊が、特に、「聖なる御霊」として示されています。それは、御霊のお働きに関係があるように思われます。

 そのような、霊であられる神さまのお働きが、御霊のお働きによって表現されていることを示す、例をいくつか見てみましょう。
 創世記1章2節、3節では、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と言われています。天地創造の初めに、いまだ何の形も整っていない状態のこの地に、神さまの御霊がご臨在してくださっていました。そして、その御臨在の御許から発せられた「光よ。あれ。」という御言葉を初めとする創造の御言葉をもって、この世界をご自身の御臨在を表現する世界として整えてくださいました。
 イザヤ書45章18節では、神さまのことが、

天を創造した方、すなわち神、
地を形造り、これを仕上げた方、
すなわちこれを堅く立てられた方、
これを形のないものに創造せず、
人の住みかに、これを形造られた方、

と言われていて、神さまが創造の御業によってこの世界を「人の住みか」にお造りになったことが示されています。
 確かに、神さまは、この世界を「人の住みか」にお造りになって、「神のかたち」に造られている人間にお委ねになりました。しかし、それに先だって、神さまは御霊によってこの世界にご臨在してくださり、これをご自身の御臨在のある場所、すなわち「神殿」として整えてくださいました。「神のかたち」に造られている人間は、神さまがご臨在されるこの世界を「住みか」として与えられたのです。
 この世界が、造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっていることは、先週も引用しました、イザヤ書66章1節、2節の、

主はこう仰せられる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
わたしのために、あなたがたの建てる家は、
いったいどこにあるのか。
わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
これらすべては、わたしの手が造ったもの、
これらすべてはわたしのものだ。
── 主の御告げ。──
わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。

という御言葉にも示されています。
 また、神さまの創造の御業と創造的なお働きについて歌っている詩篇104篇30節では、

あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
また、あなたは地の面を新しくされます。

と言われています。
 ここでも、霊であられる神さまが創造的なお働きをもってこの世界にかかわってくださることが、御霊のお働きとして示されています。

 神である主の贖いの御業における御霊のお働きに触れるものとして、エゼキエル書36章25節〜27節では、

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。

と言われています。
 ここでは、特に、霊であられる神さまが贖いの御業を通して、新しい創造の御業を遂行してくださることが示されています。その際に、神さまの御霊が主の契約の民に与えられると言われています。御霊は、主の契約の民の間にご臨在してくださるのです。そして、新しい創造の御業を遂行してくださいます。
 このことは、天地創造の初めに神さまの御霊が、いまだ形の整っていなかった状態のこの世界にご臨在してくださって、この世界を、ご自身がご臨在される世界、すなわち、「神殿」としての意味をもっている世界として整えてくださったことと対応しています。
 このことに基づいて、イエス・キリストは、ユダヤ人の指導者であるニコデモに、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
ヨハネの福音書3章5節

とお教えになりました。
 また、エゼキエル書47章1節〜12節では、

彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

と言われています。
 これは「視聴覚教材」である地上の神殿を用いて示されているものですが、神さまの御臨在の御許から流れ出る「いのちの水の川」の本体は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになり、私たちにいのちを与えてくださる御霊です。
 このことに基づいて、イエス・キリストは、スカルの町の外れの井戸で出会ったサマリヤの女性に、

この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
ヨハネの福音書4章13節、14節

とお教えになり、仮庵の祭りに集った人々に向かって、

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
ヨハネの福音書7章37節、38節

と言われました。これについてヨハネは、続く39節で、

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

と注釈しています。

 これらの例から分かりますように、神さまが霊であられることを表現しておられる御霊は、天地創造の初めから一貫して、この世界にご臨在してくださって、創造的なお働きをなさる方です。特に注目すべきことに、この世界ご臨在してくださる御霊のお働きには、はっきりとした目的があります。御霊はご自身がご臨在されるところを、ご自身のご臨在の場としてふさわしく整えてくださるのです。
 そして、神さまが、御霊のご臨在してくださる場所がどのような所であるかを示してくださった地上的な「模型」(「視聴覚教材」)が、地上の建物としての「神殿」です。
 このように、神さまが霊であられることを代表的に表現しておられる御霊のお働きは、この世界、特に、「神のかたち」に造られている人間の間にご臨在してくださって、それをご自身がご臨在されるのにふさわしい「神殿」としての意味をもったものに整えてくださることにあります。
 今日では、神さまが霊であられることを表現しておられる御霊は、御子イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった贖いの御業い基づいて、私たちの間にご臨在しておられます。そして、やはり、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちを新しく造り変えて、ご自身がご臨在される「神殿」として整えてくださっておられます。
 コリント人への手紙第一・6章19節、20節では、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

と言われていて、私たちそれぞれが、御霊がご臨在してくださっている「神殿」であることが示されています。
 また、コリント人への手紙第一・3章16節、17節では、

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

と言われていて、キリストのからだである教会全体が神さまの御霊がご臨在してくださっている「神殿」であることが示されています。

もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。

いう警告の言葉は、これまでお話ししてきました御霊のお働きを考えますと理解できます。
 霊であられる神さまは、私たちのうちに、また私たちの間に、ご自身の御霊をご臨在させてくださり、私たちそれぞれと、私たち全体を、御霊のご臨在される「神殿」となるように整えてくださっておられます。それは、私たちが、私たちの間にご臨在してくださっておられる神さまとのいのちの交わりの祝福にあずかっていることを意味しています。
 「神の神殿をこわす」ということは、神さまが創造の御業において始めてくださり、人間が神さまに対して罪を犯して堕落した後にも、なお、御子イエス・キリストのいのちの値を支払って回復してくださり、完成へと導いてくださっている、御霊による真の「神殿」の建設と、それに伴ういのちの祝福への道を破壊することです。
 霊であられる神さまの御霊がご臨在してくださる「神殿」は、何よりも、造り主である神さまを礼拝して神さまが聖い方であることを表わしあかしするためのものです。その意味で、神さまの「神殿」は最も聖いものです。そして、その「神殿」とは、「神のかたち」の栄光と尊厳性を回復していただいている私たち自身です。
 余談になりますが、コリント人への手紙第二・3章18節では、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われています。
 ここで言われている、私たちが御霊のお働きによって、御子イエス・キリストと同じ姿に造り変えられていくことは、
私たちが御霊によって新しく造り変えられ、神さまのご臨在される「神殿」として整えられることと同じことを別の面から述べたものです。

 礼拝について、イエス・キリストは、

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

と教えてくださいました。
 その礼拝は、霊であられる神さまの御霊が、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づく創造的なお働きによって、私たちのうちに生み出してくださいます。御霊が、私たちをご自身のご臨在される「神殿」として整えてくださいますので、私たちは「霊とまことによって礼拝」する「真の礼拝者」となることができるのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第8回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第10回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church
?