(第10回)


説教日:2000年8月13日
聖書箇所:出エジプト記32章1節〜14節


 神さまが聖い方であることは、造り主である神さまが、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。そして、神さまが、ご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であることは、何よりも、「神のかたち」に造られた人格的な存在である私たちが、造り主である神さまを礼拝することをとおしてあかしされます。
 しかし、どのような礼拝でも、神さまの聖さをあかしする礼拝になるわけではありません。そのことにつきまして、一つの事例を取り上げてお話ししたいと思います。


 出エジプト記32章1節〜6節には、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。
 ここには、出エジプトの贖いの御業にあずかってエジプトの奴隷の身分から解放されたイスラエルの民が、主の栄光のご臨在によって聖別されたシナイの山の麓で、背教してしまった出来事が記されています。
 ここで用いられている言葉の意味がはっきりしないため、アロンの作った金の子牛が、新改訳の解釈のように、鋳物の像であったのか、それとも、木のようなもので作った像に金箔を貼り付けたものなのかはっきりしません。それがどうであれ、問題の本質には変わりがありません。
 ここでの問題は、ただ単に、イスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯したという問題ではありません。
 3節〜6節には、

そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。
 この時、アロンを中心とするイスラエルの民は金の子牛を作りました。しかし、民は「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言っています。これに応えて、アロンも「あすは主への祭りである。」と言っています。この「」という言葉は、契約の神である主の名であるヤハウェです。このことから分かりますように、彼らとしては、自分たちの契約の神である主を捨てて、背教したつもりはありませんでした。
 しかし、彼らは、エジプトにいた時に馴染んでいて、すっかり身に染み付いててしまっている、エジプト的な神の概念で、契約の神である主、ヤハウェのことを考えているのです。古代オリエントの文化圏の中では、牛を「神」としてまつることは広く見られたことでした。エジプトでは、アモン・レという「神」が雄牛で表わされ、神々の中でも中心的な位置にあるとされていたと言われています。

 イスラエルの民は、四世代(創世記15章16節)にわたってエジプトに住んでいました。この荒野の世代までには、エジプトの文化の影響を受けて、エジプト的な神の概念に馴染んでいたことは十分理解できます。そのことから、自分たちの契約の神である主、ヤハウェをエジプト的な神の概念に沿って考えてしまうということも、もっともなことだ、と言うべきでしょうか。
 しかし、これにはもう一つの面があります。それは、イスラエルの民は、この時に至るまで絶えず神である主の啓示に触れていたということです。
 エジプトの地においては、主がエジプトに下された十のさばきを通して、主の救いとさばきの御業を目の当たりにしていました。それは、十番目のさばきである過越の夜のさばきについて、主が、

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
出エジプト記12章12節、13節

と言われましたように、エジプトの神々へのさばきでもありました。これらの御業を通して、神である主がエジプトの神々と並べられる神ではないこと、すなわち、主が聖なる神であられることが、はっきりと示されました。
 また、出エジプト記13章21節、22節に、

主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

と記されていますように、エジプトを出たイスラエルの民は、神である主の御臨在を表示する「雲の柱」「火の柱」に導かれておりました。
 そして、紅海においては、神である主の救いとさばきの御業を目の当たりに経験しました。主は、海の水を分けて乾いた地を出現させてくださり、イスラエルの民がそこを通って救い出され、同じ水を元に戻されることによって、エジプトの力の集約である軍隊を滅ぼされました。このことは、契約の神である主が、創世記1章9節、10節で、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。

とあかしされている、地を海の中から出現させてくださった造り主である神さまであることを示してくださった啓示でもありました。
 さらに、出エジプト記16章13節〜15節に、

それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」

と記されており、35節で、

イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。

と記されていますように、彼らは、日ごとに、主の御手から特別な糧をいただいて養われ続けていました。
 その上、出エジプト記19章16節〜19節で、

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは民を、神を迎えるために、宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

と言われていますように、神である主が導いてくださったシナイの山には、神である主のご臨在に伴うさまざまな現象が伴っていました。それに接したイスラエルの民は、恐れのために震え上がってしまうほどでした。
 これらすべては、神である主の自己啓示としての意味をもっていました。それは、神である主が天と地の造り主であり、その御手をもってすべてのものを支えておられる方であることを示し、その意味で、この世界のいかなるものとも区別される聖なる方であることを示すものでした。
 イスラエルの民は、いつも、神である主の自己啓示に接していました。それによって、契約の神である主、ヤハウェがどのような方であるかを知ることができるように導かれていました。その導きの下で、エジプト的な神の概念を払拭してしまい、新しく与えられている啓示の光の下で、新しく神である主を知っていくべきでした。ところが、実際には、イスラエルの民は、主の啓示に接しても、主が聖なる神であられることを知ることはなかったのです。

 イスラエルの民は、日常の生活の中で漠然と神である主の自己啓示に接していたわけではありませんでした。しばしば、せっぱ詰まった状況の中に導かれて、そこで試されて、自分たちの神の概念── 自分たちがもっている神の理解がどんなに矮小化されたもので、神である主の現実とかけ離れたものであるかが明らかにされました。
 出エジプト記14章10節〜12節には、

パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

と記されています。
 また、15章22節〜26節には、

モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

と記されています。
 そして、16章1節〜5節には、

ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

と記されています。
 これらは、イスラエルの民の神である主に対する「つぶやき」を記したものですから、神である主に対するイスラエルの民の不信仰の記録です。同時に、これらの出来事においては、主はイスラエルの民の「つぶやき」を責めることはなく、それをお聞きになって応えてくださっておられます。これは、エジプトの地において身に付けてしまっていたエジプト的な神の概念を修正するようにと、主が実地体験を通して教えてくださり、導いてくださったものです。
 ですから、イスラエルの民は、地理的に、神である主がご臨在されるシナイの山に導かれて来ただけでなく、神である主の啓示の光によって、主が聖なる神であられることを知るように導かれてきたのです。

 さらに、シナイの山では、神である主の栄光のご臨在に接しました。出エジプト記19章16節〜19節に記されていることを、後に、エジプトを出たイスラエルの民の第二世代に、モーセが回想として語っていることを記している申命記5章22節〜27節では、

これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」

と記されています。
 24節と26節に記されていますように、その時、イスラエルの民は、シナイの山で主のご臨在に伴う現象に接し、主の御声を聞いて、

私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。 ・・・・ いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。

と告白しています。それは、イスラエルの民にとっては、骨身に染みる体験であったのです。
 しかも、その時、主の御声が語ってくださった内容は、これに先立つ4節〜21節に記されていますように、十の戒めの言葉、すなわち十戒でした。その第一と第二の戒めは、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7節〜10節
という戒めです。
 22節で、

これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。

と言われていますように、イスラエルの民は、これらの戒めを語られる主の御声を、じかに聞きました。
 それにもかかわらず、イスラエルの民は、神である主がご臨在されるシナイの山の麓で背教してしまい、金の子牛を作って、それを、自分たちをエジプトから導き上った契約の神である主、ヤハウェであるとして拝んでしまいました。

 イスラエルの民が、神である主がご臨在されるシナイの山の麓において、金の子牛を作って、それを自分たちをエジプトの地から連れ上った契約の神である主であるとして拝んだことは、その時までに与えられた主の自己啓示に触れながら、自分たちがエジプトで身に付けた神の概念をまったく変えていなかったことを示しています。
 ですから、たとえば、紅海での出来事のことが、

こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。
出エジプト記14章30節、31節

と記されていますが、イスラエルの民は、主を、エジプトの神々と並べて比べることはできない、聖なる方として信じてはいなかったわけです。エジプトの神々と比較したときに、それらよりはるかに力のある神というような理解の仕方であったのでしょう。
 偶像を作り、それを礼拝することには、それがどのような偶像であっても、共通する発想と考え方があります。それは、「神」は人間の願いや欲望を満たしてくれるものであるという発想です。そして、「神」が自分たちの願いや欲望を満たしてくれる限りにおいて、「神」を礼拝するという考え方です。偶像礼拝者にとって、「神」は、あくまでも、自分たちが飛躍するための手段であり、「踏み台」です。言い換えますと、「神」が自分たちの思いに神が従うべきなのです。そして、礼拝や奉仕は、「神」が自分たちの願いをかなえてくれるように、「神」を動かすためのものです。
 そのような発想と考え方のあるところでは、神さまの一番深いみこころ── そして、どんなときにも変わることがなく、すべてのことを貫いているみこころは、自分たちに対する愛と恵みであるという、神さまに対する根本的な信頼はありません。それで、どのような時にも神さまを信頼して待つのではなく、いつも神さまを試すような状態になったり、不安に駆られてつぶやき続けるわけです。
 紅海において神である主の大いなる御業を見て、主を信じたと言われているイスラエルの民が、マラにおいては、ちゃんとした飲み水がないということでつぶやき、次に、シンの荒野において、食べるものに困り始めるとつぶやくということを繰り返しています。それは、イスラエルの民の中に、このような偶像礼拝者の発想と考え方が深く染みついていたことを意味しています。
 したがって、イスラエルの民は、ただその時、シナイの山の麓で、一時的に偶像礼拝をしたというだけでなく、さまざまな機会に、彼らがそれまでもっていたエジプト的な神の概念を打ち砕く御業をもって、ご自身を示してくださった主を受け入れていなかったことを意味しています。
 この時のイスラエルの民は、自分たちなりに契約の神である主を信じたつもりでいます。しかし、彼らのうちには、エジプト的な神の概念と考え方が、どっかりと据わっていて、それがイスラエルの民の礼拝を支配し、歪めてしまっていました。このような礼拝は、決して神さまの聖さを表わす礼拝にはなりません。

 このことを取り上げるのは、イスラエルの民の愚かさを責めるためではありません。というのは、これは、イスラエルの民だけの問題ではなく、造り主である神さまの御前に罪を犯して堕落している人間の現実だからです。そして、そのような偶像礼拝者の発想と考え方が、御子イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちのうちにも残っていて、神さまの聖さをあかしするはずの礼拝を、自分たちの発想に合う礼拝に歪めてしまう可能性があるからです。
 罪によって本性が腐敗しているために、心が霊的な暗やみに閉ざされている状態の人間は、外側からどんなに不思議で驚くべき御業を示されても、それによって、恐怖を感じたり、驚きに満たされたり、天にも昇るような興奮を経験したりはしますが、真の意味で、天地の造り主である神さまの聖さを認めて、神さまを礼拝することができません。そのことは、出エジプトの贖いの御業にあずかって、主の栄光の現われに接していながら、金の子牛を作って、それを礼拝したイスラエルの民の事例が如実に物語っています。
 人は、御子イエス・キリストが十字架にかかって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、新しく造り変えられることによって初めて、そのような偶像礼拝者の発想や考え方から解放され、神さまの聖さをわきまえて、神さまを礼拝することができるようになります。
 そして、実際に、私たちを御子イエス・キリストの贖いにあずからせて、新しく造り変えてくださるのは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。
 それは、預言者エゼキエルをとおして、

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
エゼキエル書36章25節〜27節

と約束されていたことです。
 また、パウロも、

ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
コリント人への手紙第一・12章2節、3節

とあかししています。
 このことからも、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章23節、24節

というイエス・キリストの教えに示されている「霊とまことによって礼拝」する「真の礼拝者たち」は、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって生み出されることが分かります。

 


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