(第11回)


説教日:2000年8月27日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜8節


 聖書においては、「聖い」ということの基本的な意味は「区別されている」ということです。そのことの中心にあるのは、やはり神さまです。神さまは、この世界とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。神さまは、すべてのものの造り主として、造られたすべてのものとは「絶対的に」区別される方であるので、聖い方なのです。


 『ウェストミンスター小教理問答』の問四には、一般に「神の定義」と呼ばれる問答があります。そこでは「神とは、どんなかたですか。」と問いかけられて、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」と答えられています。
 この問四を作成するに当たっては、大変な苦労があったようです。祈りとともに始められた議論が交わされては、また祈るということが繰り返されましたが、なかなか納得できる答えに到達することができませんでした。そのような中で、ある方が主の導きを求めて祈った祈りの言葉に、一同の確信が与えられたそうです。その祈りの中に、この「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」という答えに当たる言葉が含まれていたと言われています。
 とはいえ、これが完璧な「神の定義」であると言うことはできません。あくまでも、神さまの御言葉である聖書に教えられていることを、私たち人間が理解したことを述べたものの一つです。その意味では、これにも補足や修正が加えられる余地があります。また、これとは別の形で、神さまに関する御言葉の教えをまとめることもできます。

 この問四への答えでは、まず、「神は霊であられ、」と言われています。これは、すでにお話ししましたヨハネの福音書4章24節に記されています、
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
という、礼拝に関して、イエス・キリストがサマリヤの女性に教えられた教えに基づくものです。このイエス・キリストの教えにつきましては、すでにお話ししましたので、改めて取り上げることはいたしません。
 問四では、続く「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の」という言葉によって、神さまがどのような霊であられるかを述べています。
 「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の」という言葉は、「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」という部分と、「無限、永遠、不変の」という部分に分けられます。
 「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において」の「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」は、神さまだけではなく、人間や御使いたちなどの人格的な存在にも当てはまる「人格的な特性」を述べています。このような特性のことを、神さまによって造られた人格的な存在にも与えられている神さまの属性という意味で、「分かち合うことができる属性」(communicable attributes )と呼びます。
 これに対しまして、「無限、永遠、不変の」の「無限、永遠、不変」は、どのような被造物にも当てはまらない、造り主である神さまだけに当てはまる特性を述べています。それで、このような特性を、被造物があずかることができない神さまの属性という意味で、「分かち合うことができない属性」( incommunicable attributes )と呼びます。
 「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」は、神さまの人格的な特性(属性)です。神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになったことによって、そのような人格的な特性を人間にも備えてくださいました。ですから、人間の「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」は、いわば、神さまの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の写しです。
 しかし、いくら、人間の「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」は、神さまの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の写しであると言っても、それだけでは、造り主である神さまと人間の区別は曖昧なものになってしまいます。神さまも人間も「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という人格的な属性をもっており、その違いは程度の差であるだけだ、というような考え方が生まれかねません。
 それは、私たちの生まれて育った日本の社会に一般的な考え方ですので、私たちも、よほど注意していませんとそのような考え方や感じ方をもってしまいます。
 日本人に一般的な考え方では、普通の人間の限界を超えていると思われるものがありますと、それを「神」と呼ぶことは少しもおかしくありません。死んでしまった人間が、自分たちと違うものとなったということで、「神」と呼ばれることがあります。生きている人間でも名人の域に達している人は「神」と呼ばれます。何か不思議な現象が起こると「神」の働きと考えます。特異な能力を持っている動物や、特に大きくて古い木なども「神」として祀られます。
 このように、あらゆるものに「神」の要素があり、あらゆるものが「神」になりうると考える考え方を、「汎神論」と呼びます。そこでは、「神」と「神」ではないものを区別する基準があるわけではありません。その区別は曖昧で、すべては人間の「感じ方」次第です。人間がある種の畏怖を感じるものはすべて「神」とされてしまいます。
 このような考え方や感じ方のある世界では、造り主である神さまが人間に与えてくださった「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という人格的な属性において、特に優れた人、他の人々以上に優れたところをもっている人が「神」と呼ばれるようになってしまいます。── いま私たちが考えていることとの関わりで言いますと、神さまの聖さが見失われてしまっています。

 このような考え方や感じ方に対しまして、『ウェストミンスター小教理問答』問四への答えでは、神さまが「無限、永遠、不変のかたです。」ということが述べられています。「無限、永遠、不変」は、造り主である神さまの「分かち合うことができない属性」です。これは、神さまだけに当てはまる特性(属性)です。
 もし神さまのほかに「無限、永遠、不変」な存在があるとしたら、おかしなことになってしまいます。たとえば、「無限」であるということの意味の一つは、「限り(限界)が無い」ということです。ところが、二つの存在があるということは、その二つの存在を区別する境界があるということを意味しています。ここまでが一つの存在であり、これから先は別の存在であるという境界があるということです。そうしますと、そのどちらも、その境界までの存在であり、無限な存在ではないということになります。従って、無限な存在は一つだけしかありえません。
 ですから、神さまが「無限、永遠、不変のかた」であれば、神さまのほかには「無限、永遠、不変」の存在はありえません。また、神さまは「無限、永遠、不変のかた」ですから、神さま以外の存在を「神」とすることは、神さまを神としないことです。「無限、永遠、不変のかた」である神さまと、それ以外の「神」は、人間に備えられている論理に照らしても共存することができないものなのです。

 このように、神さまは「無限、永遠、不変のかた」ですので、神さまはただおひとりです。そして、神さまが「無限、永遠、不変のかた」として、ただおひとりであるということが、神さまが他のどのようなものとも絶対的に区別されるという意味での、神さまの聖さの中心です。
 神さまは、ご自身がお選びになった契約の民イスラエルに、十戒を中心とする律法をお与えになりました。そして、十戒の第一戒においては、

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
出エジプト記20章3節

と戒められており、第二戒においては、

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
出エジプト記20章4節、5節

と戒められています。
 これは、私たちの契約の神である主が唯一の神であられることを踏まえての戒めです。これによって、ただ単に、主が唯一の神であることを教えているだけではなく、神さまとの関係のあり方がどうあるべきであるかを教えています。
 その当時のイスラエルの民は、長いことエジプトの奴隷として過ごしてきましたので、エジプトの多神教的な文化の影響を受けて、その考え方と感じ方で神である主のことを理解していました。そのような多神教的な考え方では、主、ヤハウェもいろいろな国の神々のうちの一つの神という意味で「イスラエルの神」であると考えられてしまいます。
 前回お話ししましたように、神である主の御手によってエジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民は、主のご臨在されるシナイの山の麓で、金の子牛を作って、それを自分たちの契約の神である主、ヤハウェであるとして拝んでしまいました。これは、イスラエルの民のうちに、エジプトの地で身に付けた多神教的な考え方と感じ方が根深く巣くっていたからに他なりません。
 十戒の最初の二つの戒めは、そのような多神教的な考え方と感じ方によって、契約の神である主を考えてはいけないし、そのような考え方と感じ方をもったままで主を礼拝してもいけないことを示しています。
 また、十戒を中心とする神である主の律法の全体を集約する「第一の戒め」を記す申命記6章4節、5節では、

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

と戒められています。
 これらの戒めは、私たちのように、多神教的であるとともに、汎神論的である文化の中に生まれて育ってきた者にそのまま当てはまる戒めです。

 次に、「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」というときの、「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」と「無限、永遠、不変」の関係を考えてみましょう。
 すでにお話ししましたように、「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」は、分かち合うことができる人格的な属性として、人間や御使いたちのように、造られた人格的な存在にも当てはまる属性です。これに対しまして、「無限、永遠、不変」は、分かち合うことができない属性として、神さまだけに当てはまる属性です。
 これら二つに分類される属性の関係は、神さまは、その人格的な属性の一つ一つにおいて、「無限、永遠、不変のかた」である、という形で理解されます。具体的に言いますと、神さまは、「その存在において、無限、永遠、不変のかたです。」、「その知恵において、無限、永遠、不変のかたです。」、「その力において、無限、永遠、不変のかたです。」、「その聖において、無限、永遠、不変のかたです。」、「その義において、無限、永遠、不変のかたです。」、「その善において、無限、永遠、不変のかたです。」、そして、「その真実において、無限、永遠、不変のかたです。」ということになります。
 「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」という神さまの人格的な属性は、人間や御使いたちのように、造られた人格的な存在にも与えられています。けれども、人間や御使いたちは、その人格的な属性(特性)の一つ一つにおいて、有限であり、時間的であり、変化するものです。それに対して、神さまは、その人格的な属性の一つ一つにおいて「無限、永遠、不変のかた」です。その点で、神さまは、人間や御使いたちとは絶対的に区別される方であるのです。
 言うまでもないことですが、神さまがお造りになったものの中で、人格的な存在ではないものには、「知恵、力、聖、義、善、真実」という人格的な属性(特性)はありません。それで、神さまとの区別は、その「存在」において、絶対的に区別されます。神さまが「無限、永遠、不変のかた」であるのに対して、造られたものの存在は、有限であり、時間的であり、変化するものであるからです。
 このように、神さまは、「 無限、永遠、不変のかた」であるという点で、造られたすべてのものと絶対的に区別される方です。このことは、神さまの聖さは、神さまが「 無限、永遠、不変のかた」であることにある、ということを意味しています。

 そうしますと、『ウェストミンスター小教理問答』問四に対する答えで「神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」と言われていることには、多少の補足的な説明をしなければならないという気がします。
 「神は ・・・・ その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。」というとき、「聖」すなわち「聖さ」が、「知恵、力、義、善、真実」などの人格的な属性と並べられています。
 おそらく、この場合には、「聖さ」を、「義、善、真実」と同じように、道徳的な属性と理解してのことではないかと思われます。確かに、「聖さ」にはそのような道徳的な特性があって、「汚れ」と対比されます。けれども、神さまの「聖さ」はそれ以上のものです。
 先ほど、神さまは、その人格的な属性の一つ一つにおいて、「無限、永遠、不変のかた」であると言いました。それは、たとえば、「知恵」という人格的な属性について言えば、神さまは「その知恵において、無限、永遠、不変のかたです。」ということになります。これは、神さまは「その知恵において、無限、永遠、不変のかたです」から、「その知恵において」すべての造られたものと絶対的に区別される方です、ということを意味しています。言い換えますと、神さまは「その知恵において」聖い方です、ということです。
 同じように、神さまは「その存在において」聖い方です。「その力において」聖い方です。「その義において」聖い方です。「その善において」聖い方です。「その真実において」聖い方です。さらに言いますと、一般には「善」という属性に含められると考えられていますが、愛、あわれみ、いつくしみ、恵みなどの人格的な特性においても、神さまは「無限、永遠、不変のかた」です。それで、神さまは、愛においても、あわれみにおいても、いつくしみにおいても、また、恵みにおいても聖い方です。
 このことから、神さまの聖さは、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実などの属性と並べて数えられる属性の一つではないと思われます。神さまの聖さは、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実、さらには、愛、あわれみ、いつくしみ、恵みなど、神さまのすべてに関わる特性です。ですから、神さまの聖さは、神さまご自身を表わすものです。

 このような神さまの聖さと同じように考えられるのが、神さまの栄光です。神さまの栄光は、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実、さらには、愛、あわれみ、いつくしみ、恵みなど、神さまのすべての属性の輝きです。
 それで、聖書の中では、しばしば、神さまの聖さと栄光が結びつけられています。たとえば、イザヤ書6章3節に記されているセラフィムの讃美では、

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
その栄光は全地に満つ。

と歌われています。
 また、神さまの聖さと神さまの栄光が同じことを別の面から表わしていると考えられる場合があります。たとえば、終末の日のさばきを預言として記しているエゼキエル書39章6節、7節では、

わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ。彼らは、わたしが主であることを知ろう。わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。

と言われています。そして、21節、22節では、同じことが、別の面から述べられて、

わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。

と言われています。
 いずれにしましても、神さまの聖さは、神さまご自身を表わすものです。その意味で、私たちは、神さまを礼拝することによって、神さまの聖さをあかしするのですが、それは、神さまを神さまとしてあがめることに他なりません。

 


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