(第12回)


説教日:2000年9月3日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章13節〜21節


 神さまは、この世界とその中のすべてのものの造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることに神さまの聖さがあります。
 神さまの聖さは絶対的な聖さです。神さまだけが、他の何ものにも依存せず、ご自身で聖い方です。これに対して、造られたものの聖さは、造り主である神さまに依存しています。神さまとの関係を離れて、造られたものの聖さを考えることはできません。造られたものは、神さまとの関係が本来の正常な関係にあるときに聖いのです。
 私たちの感覚では、あるものがそれ自体で聖くあるように感じられることがあります。朝の澄んだ空気に触れると、それが聖さを感じさせてくれます。それに対して、ごみの山で悪臭がするような所に行けば、そこが汚くて、汚れてるような気がします。そのような感覚は、「神のかたち」に造られている人間が、聖いものをわきまえるものとして造られていることから生まれてきています。ただ、人間は、罪を犯して神さまの御前に堕落してしまい、心が神さまから離れてしまっているために、聖さが本来は造り主である神さまとの関係にあることを見失ってしまっているのです。そのために、神さまとの関係を考えないで、それ自体で聖いものや汚れているものがあるかのように感じられてしまうのです。
 同じことは、善いことの判断でも言えます。
 この世界のすべてのものは神さまによって造られました。それで、すべてのものは神さまのものです。その限りにおいて、すべてのものは善いものです。その善さは、神さまによって造られたものとしての善さです。神さまの御手の作品として、それ自体が善いものですが、その善さは、神さまから出たもので、それぞれの限界の中でではありますが、神さまの善さを反映しています。
 ところが、人間は、罪を犯して神さまの御前に堕落してしまい、心が神さまから離れてしまっているために、神さまによって造られたもの自体の善さは認めても、その善さが神さまから出たものであることを認めることはありません。
 いずれにしましても、造られたものの聖さは、造り主である神さまとの関係における聖さです。神さまとの関係が本来の関係にあるものは、聖い状態にあります。


 ところで、「神のかたち」に造られている人間が、神さまとの本来の関係にあるときには「義である」と言われます。そうしますと、義であることと、聖いことは同じことなのでしょうか。確かに、義であることと聖いことは深く結び合っていますが、同じことではありません。
 第一に、より広く見てみますと、聖いということは、すべての造られたものに当てはまることです。神さまによって造られて、神さまのものであるものは、すべて聖いものです。これに対して、義であるということは、法的なことですので、人間のような人格的な存在で、自由な意志を与えられていて、神さまに対して法的、倫理的な責任を負っているものだけに当てはまることです。
 第二に、先週お話ししましたように、神さまの聖さは、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実、さらに、愛、恵み、いつくしみなどの属性と同じレベルに並べられるものではありません。神さまの聖さは、神さまが、それら一つ一つの属性において無限、永遠、不変な方であって、造られたすべてのものと区別される方であるということを表わしています。それで、神さまの聖さは、神さまのすべての属性の特質です。神さまは、その存在において、無限、永遠、不変の方として、聖く、その知恵において、無限、永遠、不変の方として、聖く、その力において、無限、永遠、不変の方として、聖く、 ・・・・ というように続いていきます。
 ですから、神さまの聖さは、神さまが造られたすべてのものと区別される方であることにある、と言っても、実質のないことではありません。神さまの聖さは、神さまの一つ一つの属性が無限、永遠、不変の豊かさをもっているので、神さまが造られたすべてのものと区別される方である、ということを意味しています。言い換えますと、神さまの聖さは、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実、さらに、愛、恵み、いつくしみなどの属性の無限、永遠、不変の豊かさをも示しているのです。
 このように、神さまの聖さには、無限、永遠、不変の属性の豊かな実質があります。すでに繰り返しお話ししましたように、御言葉は、神さまの聖さを示すときに、一方で、神さまが限りなく高くいます方であり、造られたすべてのものを無限に超越した方であることを示しています。それは、神さまの聖さが、その一つ一つの属性の無限の豊かさにあることによっています。
 しかし、もう一方では、神さまの聖さは、神さまが限りなく私たちに近くにいてくださり、私たちを満たしてくださる方であることにも表わされていることも示しています。それも、神さまの聖さが、その一つ一つの属性の無限の豊かさにあることによっています。
 神さまの聖さには、無限、永遠、不変の属性の豊かな実質があります。それと同じように、神さまによって造られたものが聖いということは、それらが、何らかの形で、神さまの存在、知恵、力、義、善、真実、さらに、愛、恵み、いつくしみなどの属性を映し出しているからです。その意味で、神さまによって造られたものの聖さも、神さまの御手の作品としての実質を示しています。
 造られたもの一つ一つが実に精巧で、全体的にも、見事な調和のうちに造られています。そのことのうちに、神さまの知恵、力、義、善、真実などが映し出されています。
 けれども、「神のかたち」に造られている人間以外の動物や植物、またその他の存在は人格的な存在ではありませんので、神さまの人格的な属性の豊かさを、直接的に映し出すことはできません。これらのものを素晴らしくお造りになった神さまの知恵、力、義、善、真実は、確かに、私たちの想像を越えた豊かなものである、ということが「神のかたち」に造られている人間に向けてあかしされているだけです。
 それに対して、「神のかたち」に造られている人間は、自分自身が自由な意志をもっている人格的な存在です。それで、自分の人格的な特性をもって、神さまの人格的な属性を映し出すことができます。たとえば、愛という特性について言いますと、私たち自身がお互いに愛し合うことをとおして、神さまが愛であられることを映し出すのです。人間は、天地創造の初めにそのような存在として造られました。その点で、人間は聖いものであったのです。

 このように、聖さには実質的な面があります。
 それを「神のかたち」に造られている人間に当てはめて言いますと、自由な意志をもつ人格的な存在である人間が、全体として、聖いものとして造られているということです。人間の聖さも、存在、知恵、力、義、善、真実、さらに、愛、恵み、いつくしみなどと並べられる、人間の人格的な特質のうちの一つではなく、そのような特質をもっている人間そのものが(全体として)聖いのです。
 神さまは、その一つ一つの属性において、無限、永遠、不変の方ですから、すべての造られたものと区別される聖い方です。このことに合わせて言いますと、人間は、存在において、造り主である神さまを映し出しているから、聖く、知恵において、神さまを映し出しているから、聖く、力において、神さまを映し出しているから、聖く ・・・・ さらに、愛において、神さまを映し出しているから、聖い、というようになっていきます。
 そして、これが、天地創造の初めに「神のかたち」に造られたときの人間の本来の姿です。
 レビ記19章2節では、

あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

と言われています。
 この戒めは、神さまの聖さが、「神のかたち」に造られていて、神さまとの交わりにある人間において映し出されるものであることを踏まえています。「神のかたち」に造られている人間は本来そのようなものであるので、その本来の姿でありなさいというのが、この戒めの主旨です。

 しかし、実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまいました。そのために、神さまの人格的な属性を映し出すものとしての聖さを失ってしまいました。「神のかたち」に造られている人間は、神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、聖さを失ってしまったのですが、それは、何もないものになったということではありません。それどころか、「神のかたち」に造られている人間の本性が腐敗し汚れてしまったのです。
 この、「汚れ」について、一つのことを注意しておきたいと思います。それは、汚れは、私たちの外から私たちの中に入り込んできたものではないということです。
 サタンやそれに倣う悪霊たちが造り主である神さまの御前に高ぶって、神さまに対して罪を犯して堕落したこと、また、「神のかたち」に造られている人間が、同じように神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、この世界に「汚れたもの」が存在するようになりました。
 ですから、神さまが汚れや、汚れたものをお造りになったのではありません。汚れは、人間や御使いのように人格的な存在に造られたものが、自らの自由な意志によって造り主である神さまに背き、神さまの絶対的な聖さを否定するようになってしまったことによって生み出されたものです。人間の汚れは、神さまがお造りになった「もの」(実体)ではなく、自由な意志を中心とする本性が罪によって腐敗してしまっている「状態」のことです。
 「腐った魚」を考えてみますと、実際にあるのは魚です。魚は、本来は、生きているものであって、腐ってはいません。その魚が死んでしまったために、腐った状態になったのです。その魚とは別に「腐敗」という「もの」(実体)があるのではありません。その魚を焼却したら「腐敗」が残るというようなことはありません。腐敗は魚とは別の、魚に付いている「もの」(実体)ではありません。
 それと同じように、「汚れ」は人間の自由な意志を中心とする人間の本性が「腐敗」した状態にあることを指しています。汚れは外から人間についた「もの」ではありません。人間の外から人間に付いたものであれば、洗い落とすことができます。しかし、人間の本性の汚れは、洗い落とすことができません。マルコの福音書7章18節〜23節に、

イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

と記されているイエス・キリストの教えは、そのようなことを教えています。

 腐った魚から「腐敗」を取り除くことはできないのと同じように、腐敗した人間の本性から「腐敗」を取り除くことはできません。魚の腐った状態をなくすためには、腐った魚そのもの処分してしまうほかはありません。それと同じように、人間の本性の腐敗をなくすためには、その存在そのものを清算してしまうほかありません。そして、神さまが創造の御業と同じ御業で、その人をまったく新しく造り変えてくださらなければなりません。
 イエス・キリストが、

まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
ヨハネの福音書3章3節

とお教えになったのは、このようなことを意味しています。そして、神さまは、御子イエス・キリストをとおして、まさにそのことをしてくださいました。
 その際に、魚であれば、ただそれを捨ててしまえばいいのですが、「神のかたち」に造られていて、自由な意志を持っている人間は、造り主である神さまに対して、法的、倫理的な責任を負っています。本性の腐敗によって自らが生み出したさまざまな罪が完全に清算されなくてはなりません。
 そのためには、神さまが、私たちのすべての罪を公正にさばいてくださらなくてはなりません。事実、神さまは、十字架にかかられた御子イエス・キリストの上に、私たちの罪に対する刑罰を下して、私たちの罪を完全に清算してくださいました。そして、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださって、私たちをその復活のいのちで生かしてくださいました。
 私たちは、御子イエス・キリストを信じる信仰によって、この贖いの御業にあずかっています。それは、罪によって本性が腐敗していた自分に死んで、イエス・キリストの復活のいのちを注ぎ込まれて、まったく新しく造り直されたと言うべきことです。パウロは、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
ローマ人への手紙6章4節、5節

と教えています。また、

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
ガラテヤ人への手紙2章20節

と告白しています。

 ペテロは、ペテロの手紙第一・1章14節〜19節で、

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

と教えています。
 これまでお話ししてきたこととの関わりでいくつかのことに注目したいと思います。第一に、16節の、

それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

という言葉は、先ほど触れました、レビ記19章2節の、

あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

という戒めを引用しています。その意味で、このペテロの戒めは、私たちが、神さまの聖さを、私たちの地上の歩みにおいて映し出すことを求めるものです。
 第二に、私たちが、神さまの聖さを私たちの地上の歩みにおいて映し出すようになるためには、18節、19節で、

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

と言われていますように、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずかっていなくてはならないことが示されています。古い私たちがイエス・キリストとともに十字架につけられて死んで、イエス・キリストにある新しい人によみがえっていなくてはならないのです。
 第三に、14節では「従順な子どもとなり」と言われています。これは、命令形で訳されていますが、原文は命令ではなく、「従順な子どもとして」という事実を述べています。また、17節では「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら」と言われています。この「父と呼んでいるのなら」は、確かな現実を示しています。それで、「あなたがたは、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのですから」としたほうが分かりやすいと思われます。
 いずれにしましても、ここでは、私たちが、すでに、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにによる贖いの御業にあずかって、神の子どもとされていることが踏まえられています。当然、それに先だって、神さまとの法的な関係が「義」であるとされています。
 古い契約の下で、

あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

と言われているのは、主とそのしもべの関係を示しています。それも、この世の主従の関係をはるかに越えて親しい関係です。しかし、御子イエス・キリストの血による新しい契約にあっては、父と子の関係で表わされるほどの近さと親しさが生み出されています。
 私たちは。御子イエス・キリストの血による贖いの御業を通して生み出されたそのような親しい交わりにおいて、神の子どもとして、地上の歩みにおいて、神さまの聖さを映し出すようにと招かれています。それによって、私たち自身が、神さまの聖さの実質を体現している御子イエス・キリストに似た者として育てられて、神の子どもの実質をもつようになるためです。
 お気づきのように、私たちが御子イエス・キリストのかたちに造り変えられることを「聖化」と呼びます。それは、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きです。御霊が、私たちのうちに「神のかたち」の本来の聖さの実質を回復してくださり、さらに、完成してくださるのです。

 


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