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説教日:2000年10月29日 |
今日のテキストとして取り上げましたイザヤ書57章15節には、そのような、聖なる神さまの無限の豊かさが生み出す二つの面が示されています。そこには、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方が、 こう仰せられる。 「わたしは、高く聖なる所に住み、 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 と記されています。 言うまでもなく、前半の、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方が、 こう仰せられる。 「わたしは、高く聖なる所に住み、」 ということまでは、神さまが限りなく高くいます方であり、造られたすべてのものを無限に超越した方である、ということを示しています。 これに対しまして、後半の、 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 ということは、神さまが限りなく私たちに近くにいてくださり、私たちを満たしてくださる方である、ということを示しています。 これは、その前の14節で、 主は仰せられる。 「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。 わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」 と言われていることを受けて語られています。それで、まず、14節に記されていることから見てみましょう。 14節の初めの、「主は仰せられる。」という言葉は、一つの解釈による訳で、原文には「主」という言葉はありません。これは、これを受ける15節において、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方が、 と、主語がはっきりと、また、詳しい説明とともに述べられていることと比べますと、あまりの違いです。それで、14節の「主は仰せられる。」(直訳「そして、彼は言うであろう。」)は、主語がはっきりしないままになっていると考えられています。 続く、 盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。 わたしの民の道から、つまずきを取り除け。 の「土を盛り上げて」の「土」も原文にはない補足です。原文では同じ言葉が繰り返されていますので、この部分の直訳は、「盛り上げよ。盛り上げよ。」です。しかし、これは、補足としては間違ってはいません。これは、自然の地形を利用して、道になりそうなところに道を作ることではなく、人工的に土を盛り上げて幹線道路を作ることを述べているからです。 ここでは、自分たちの罪のために主のさばきを受けて散らされていた主の民が、主の贖いの恵みにあずかって、主のご臨在の御許に帰ってくるための道を整えるようにという声が上がるようになると言われているのです。 イザヤ書の中では、これと同じようなことが、この他に二つの個所で語られています。 一つは、40章3節、4節で、そこでは、 荒野に呼ばわる者の声がする。 「主の道を整えよ。 荒地で、私たちの神のために、 大路を平らにせよ。 すべての谷は埋め立てられ、 すべての山や丘は低くなる。 盛り上がった地は平地に、 険しい地は平野となる。 と言われています。 この場合の「荒野に呼ばわる者」もいったい誰なのか、このイザヤ書の文脈では、はっきりしません。もちろん、これは、イエス・キリストの先駆けとして主から遣わされたバプテスマのヨハネにおいて、最終的に成就したとあかしされています。マタイの福音書3章3節で、 この人[ヨハネ]は預言者イザヤによって、 「荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を用意し、 主の通られる道をまっすぐにせよ。』」 と言われたその人である。 と言われているとおりです。 もう一つは、イザヤ書62章10節で、そこでは 通れ、通れ、城門を。 この民の道を整え、 盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。 石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。 と言われています。 この場合も、誰がこのようなことを語っているのかははっきりしていません。 ちなみに、57章14節で、 盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。 と言われている中の「盛り上げよ」(サーラル)の名詞形が40章3節に出てくる「大路」(メシラー)です。そして、62章10節では、その二つの言葉が組み合わされて、 盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。 と言われています。 このことから、これら三つの個所では、同じことが語られていることが分かります。それで、その三つ中で、最初に出てくる40章3節、4節で、 荒野に呼ばわる者の声がする。 「主の道を整えよ。 荒地で、私たちの神のために、 大路を平らにせよ。 すべての谷は埋め立てられ、 すべての山や丘は低くなる。 盛り上がった地は平地に、 険しい地は平野となる。 と言われていることが、いわば大本のこととして、いちばん詳しく述べられています。そして、その後の、57章14節と62章10節では、すでに、40章3節、4節で述べられていることを踏まえて、簡潔に述べられています。 お気づきのことと思いますが、最初に出てくる40章3節、4節には、かなりの誇張された表現が出てきます。 すべての谷は埋め立てられ、 すべての山や丘は低くなる。 盛り上がった地は平地に、 険しい地は平野となる。 といのは、山を削り、谷を埋め立てて、平らな道を作るということです。そのようなことは、今日の土木技術をもってしても、なかなか困難なことです。ですから、これは、人間が自分たちの力ですることではなく、天と地をお造りになった神さまがなさってくださることである、ということが分かるようになっているのです。 イザヤ書40章以下では、罪を犯して主のさばきにあって散らされていた主の民の回復が預言として約束されており、慰めの使信が語られています。その慰めの使信は、主の贖いの恵みにあずかって、主のご臨在の御許に帰ってくるようになる主の民のための道を、平らで真っ直ぐな「大路」に整えよという叫びの声によって、導入されています。 そして、このことは、預言者たちを通しての警告にもかかわらず、主に罪を犯し続けて、ついに主のさばきを受けてバビロンの捕囚に遭ったイスラエルの民を、主が愛とあわれみをもって回復してくださり、バビロンの捕囚からの帰還を実現してくださったことによって、当面の成就を見ました。 しかし、その最終的な成就は、先ほどの、バプテスマのヨハネにおける成就のように、新しい契約のもとで実現しています。神である主が、ご自身に対する罪によって、死と滅びの力につながれてしまっている主の民を、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して贖い出してくださり、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださったことによって、最終的に成就しているのです。 57章14節の、 わたしの民の道から、つまずきを取り除け。 という言葉の「つまずき」は、象徴的に用いられています。これは、「盛り上げ」て作った「大路」、すなわち、主のご臨在の御前に至る平らで真っ直ぐな「大路」から、主のご臨在の御許に帰ることを妨げるすべてのものが取り除かれるということを示しています。40章3節、4節の言葉で言いますと、たとえ、そこに荒野があっても、この主のご臨在の御前に至る平らで真っ直ぐな「大路」を作ることの妨げにはならず、山があっても削られ、谷があっても埋め立てられて、この道が作られるというのです。 それは主の民の回復のために神さまが一方的な愛とあわれみによって備えてくださる、贖いの恵みによって実現することです。なぜなら、私たち自身のうちにある罪こそが、いちばんの「つまずき」であり、その他の「つまずき」のもとであるからです。そして、その罪は、ただ、神である主が一方的な愛と恵みによって成し遂げてくださる贖いの御業によってだけ、贖われるものであるからです。 そうしますと、このような、主の民の回復を伝える声によって伝えられている慰めの使信は、イザヤ書40章以下に出てくる四つの「しもべの歌」においてあかしされている「主のしもべ」の苦難を通して実現することが分かります。その第四の「しもべの歌」の中では、 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 イザヤ書53章3節〜6節 と歌われています。 この、主のしもべが主の民に代わって死の苦しみを味わってくださることによって、主の民の贖いは成し遂げられます。そして、主の民が本当の意味で回復されて、主の民に告げられている慰めの使信が現実のものになります。 このような意味をもつ57章14節を受けて、15節では、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方が、 こう仰せられる。 「わたしは、高く聖なる所に住み、 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。」 と言われています。 新改訳では、14節と15節の間にスペースがあって、二つの節が分けられています。しかし、原文では、15節の冒頭に、15節はその前で述べられていることの理由などを説明するものであることを表わす言葉(キー)があります。それで、15節は14節につながっていて、14節で述べられていることを説明するものです。 すでにお話ししましたように、14節の慰めの使信を告げる声が誰のものであるかは、はっきりしていません。けれども、この15節にいたって、すべてのことを成し遂げてくださり、主の民の慰めを実現してくださる方が、雲が切れて太陽の光がまぶしいくらいに射してくるかのように、はっきりと示されています。その方は、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方 です。 実は、この部分は、原文では、新改訳よりかなり簡潔に表現されています。 「いと高くあがめられ」は、直訳すれば、「高くまた高められている」ということで、同じようなことを表わす二つの言葉によって表わされています。そして、これとまったく同じ言葉の組み合わせは、イザヤ書の中では、もう一個所に見られます。6章1節〜3節を見ますと、そこでは、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ6つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 と言われています。1節の「高くあげられた王座」の「高くあげられた」がこの二つの言葉によって示されています。 それに続く「永遠の住まいに住み」の「住まい」は原文にありません。これは、「永遠に住まわれる」ということで、主の住まいが永遠であるということではなく、主ご自身が永遠に生きておられる方であることを示しています。 また、「その名を聖ととなえられる」の「となえられる」も原文にありません。これは、「その御名は聖い」です。 このように、ここでは、神さまご自身のことが、「いと高くあがめられ、永遠に住まわれ、その御名は聖い方」として、神さまがすべてのものをはるかに超越しておられる永遠の主権者であられること、その意味で聖なる方であることが示されています。 その主がお語りになった言葉は、 わたしは、高く聖なる所に住み、 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 ということです。 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。 という訳には問題があります。これは、「砕かれて、霊のへりくだった人とともにある(住む)。」です。実は、 砕かれて、霊のへりくだった人とともにある。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 ということは、交差対句法(キアスムス)という表現方法によって表わされています。それは、 砕かれた人 霊のへりくだった人 へりくだった人の霊 砕かれた人の心 (AーBーBーA)という形になっています。そして、その中でさらに、 霊の へりくだった人 へりくだった人の 霊 という形も見られます。 主は、ご自身のことを、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方 と紹介しておられます。それで、 わたしは、高く聖なる所に住み、 と言われるのは、すぐに理解できます。しかし、それと当然つながっていることであるかのように、 砕かれて、霊のへりくだった人とともにある。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 と言われるのです。 あらゆるものを無限に超越しておられる方、その意味で聖い方は、また、「砕かれて、霊のへりくだった人とともにある。」、「砕かれて、霊のへりくだった人」の間にご臨在してくださるのです。 「砕かれた人」とは、罪の重荷と人生のさまざまな重荷によって押しつぶされてしまっている人々です。また、「へりくだった人」も、やはり、病気や災害などさまざまな試練によって心が砕かれた状態の人々です。これは別々の人々のことではなく、同じ人々のことです。この人々は、自分の力ではどうすることもできないことを実感しています。 ですから、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方 がこのような「砕かれて、霊のへりくだった人とともに」いてくださるのは、その人々が「殊勝である」からではありません。「謙遜」に振る舞っているから「偉い」ということで、神さまが認めてくださるということは、日本人の考え方ではありますが、ここで主が言われることとは、まったく違っています。ここで言われている「砕かれて、霊のへりくだった人」には、自分が「殊勝である」というような思いはまったくありません。まして、それを、 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名を聖ととなえられる方 が認めてくださる、というようなことは思ってもいません。 そのような人の例は、やはり、ルカの福音書18章10節〜14節に記されている、イエス・キリストのたとえに出てくる「取税人」です。そこでは、 ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 と言われています。 この取税人は、「神殿に行ったら神殿に近づかないほうが謙遜なことだから、近づかないでおこう」というような計算をしてはいません。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈りながら、内心「これでよい」と思ってもいません。罪の重荷に押しつぶされて、本当に神殿に近づけなくなってしまい、自分のうちに頼むところがなにもないので、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」ということしか言えなかったのです。ですから、自分が「義と認められて」いると思いながら家に帰ったのではありません。おそらく、主に向かってそのように祈ることができたことで、重荷を下ろせたという実感があったのでしょう。 このように、この取税人には、何もありませんでした。それでも、この取税人は神さまのご臨在の御前に近づこうとして神殿の方にやって来ました。その理由はただ一つです。神さまが聖なる方であり、その愛と恵みといつくしみにおいて、無限に豊かな方であるからです。そして、 わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれて、霊のへりくだった人とともにある。 へりくだった人の霊を生かし、 砕かれた人の心を生かすためである。 と、明確に宣言してくださっているからです。もちろん、この取税人が、この時、この主の言葉を思っていたということではないでしょう。しかし、少なくとも、この主の言葉に述べられている主の愛と恵みの無限の豊かさの一端に触れたということは確かです。 実は、この取税人が「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったときに使っている「あわれんでください」という言葉(ヒラスコマイ)は、あわれむことを表わす一般的な言葉ではありません。これは、身代わりのいけにえによって、罪に対する神さまの聖なる怒りがなだめられることを表わす言葉です。ですから、取税人が神殿に近づけないものであることを感じながらも、神殿にやって来たのは、そこに神さまの一方的な恵みによる贖いが備えられていることを信じたからにほかなりません。 このように見ますと、この取税人は、イザヤ書57章14節に記されている、 盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。 わたしの民の道から、つまずきを取り除け。 という声が示している、主のご臨在の御許に至る平らで真っ直ぐな「大路」を通って、主のご臨在の御前に立っていたのです。 そのようにして、主のご臨在の御許に至る平らで真っ直ぐな「大路」を通って、主のご臨在の御前に立つようになる者こそは「聖なるもの」です。 そこに大路があり、 その道は聖なる道と呼ばれる。 汚れた者はそこを通れない。 これは、贖われた者たちのもの。 旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。 そこには獅子もおらず、 猛獣もそこに上って来ず、 そこで出会うこともない。 ただ、贖われた者たちがそこを歩む。 主に贖われた者たちは帰って来る。 彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、 その頭にはとこしえの喜びをいただく。 楽しみと喜びがついて来、 嘆きと悲しみとは逃げ去る。 イザヤ書35章8節〜10節 |
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