(第14回)


説教日:2000年11月5日
聖書箇所:詩篇8篇1節〜9節


 今日も、これまでのお話に続いて、聖なるものであることの意味についてお話しします。初めに、今日お話しすることと関係のあることを振り返ってお話しします。
 神さまは、この世界とその中のすべてのものをお造りになりました。神さまは、この世界の造り主として、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。そのことを表わすのが、神さまの「聖さ」です。それで、神さまの「聖さ」は、神さまが、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。
 このように言いますと、神さまの聖さは、神さまを神さまによって造られたものと比べたときに初めて出てくることで、比べる相手である造られたものがないときには、神さまの聖さもないのではないか、というような疑問が出されるかもしれません。
 このことにつきましては、すでにお話ししましたが、神さまの聖さは、確かに、神さまが、この世界の造り主として、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。しかし、そのことには根拠あるいは土台となることがあるのです。それは、神さまが存在においても、その知恵、力、義、善、真実、さらに、愛と恵みなどの人格的な属性においても、無限に豊かな方であるということです。神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方であるので、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であるのです。
 神さまの聖さは「絶対的な」聖さです。あらゆる点において無限に豊かな方として、神さまはご自身で聖い方であり、聖さそのものです。神さまの外に、神さまを離れて「聖さ」の基準があって、その基準に照らして見ると、神さまが存在するものの中でいちばん聖いということではありません。神さまが、聖さの基準であり、聖さの源です。
          


 これに対しまして、造られたものは、「絶対的に」聖い神さまとの関係においてだけ聖くあることができます。神さまとの正常な関係にあるものは、聖いものです。そして、本来、神さまがお造りになったものは、すべて、神さまとの正常な関係にあるものとして造られていますから、聖いものです。テモテへの手紙第一・4章4節、5節で、

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と言われているとおりです。
 このように、神さまがお造りになったものはすべて、本来、聖いものです。その中で、「神のかたち」に造られている人間や御使いのような人格的な存在は、その本来の姿においては、神さまの御手によって造られたものであるという点において聖いだけではありません。造り主である神さまとの人格的な関係においても、聖なるものなのです。
 「神のかたち」の本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。それで、「神のかたち」に造られている人間の聖さは、自由な意志を中心とする人格のすべてをもって神さまの聖さを映し出して、あかしすることに現われてきます。
 そして、これまでお話ししましたように、神さまの聖さをあかしすることは、神さまを礼拝することから始まります。そして、神さまを礼拝することをもって完結します。言い換えますと、神さまの聖さをあかしすることのすべては、神さまを礼拝することから出ており、神さまを礼拝することを目的としているのです。造り主である神さまだけが礼拝をお受けになるべき方であり、すべての造られたものは、造り主である神さまを礼拝すべき立場にあります。このことが、造り主である神さまと神さまによって造られたものとの「絶対的な区別」をもっとも明確に表現することです。それで、神さまを礼拝することを離れては、神さまの聖さをあかしすることはできません。
 このように、神さまの聖さをあかしすることの第一歩にして、それを完結させることは、私たちが神さまを礼拝することです。けれども、神さまの聖さをあかしすることは、狭い意味での礼拝、すなわち、普通、私たちが「礼拝」と言っている礼拝式を通しての礼拝を神さまにささげるということだけで終わるのではありません。
 神さまが聖い方であることは、神さまが、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。そのことは、私たちが神さまを礼拝することを通してあかしされます。同時に、先ほども触れましたように、神さまが造られたすべてのものと絶対的に区別される方であることには、根拠あるいは裏付けがあります。それは、神さまがあらゆることにおいて、無限に豊かな方であるということです。私たちは、この意味での神さまの聖さをもあかしするものとして、「神のかたち」に造られています。
 私たちは、人生のあらゆることにおいて、愛といつくしみにおいて無限に豊かな神さまの人格的な特性を映し出すことを通して神さまの聖さをあかしするように召されています。その際に、大切なことは、私たちは、神さまを礼拝することを出発点として、また、神さまを礼拝するものとして、人生のあらゆることにおいて、神さまの人格的な特性を映し出すということです。言い換えますと、すべてのことを造り主である神さまを礼拝することの流れの中でなすのです。
          
 先ほどのテモテへの手紙第一・4章4節、5節では、

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と言われていました。
 ここでは、その前の1節〜3節で、

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

と言われていることから分かりますように、禁欲主義的な教えを説く人々が、結婚や食べ物が悪いものであって、ひとを悪に陥れるものであるかのように見なして、それらを断つようにと教えることが問題になっています。そして、4節、5節では、その食べ物のことから始まって、神さまがお造りになったすべてのもののことに、話が広がっています。
 「神のことばと祈りとによって、聖められる」ということには、二つの面があります。一つは、神さまが御言葉をもってすべてのものをお造りくださり、それを祝福してくださっているということです。それゆえに、すべてのものは聖いのです。これは、いわば、すべてのものの聖さの客観的な面というべきことです。
 もう一つは、このことを踏まえて初めて成り立つことですが、私たちが、神さまが与えてくださった真理の御言葉に基づいて、この世界のすべてのものを造り主である神さまがお造りになり、祝福してくださったものとして、感謝とともに受け入れることです。それによって、すべてのものが造り主である神さまと結びつけられて、聖いものとされる、すなわち、聖別されるということです。
 このように、「神のかたち」に造られている人間が、この世界のすべてのものが神さまによって造られたものであり、それゆえに聖いものであるということを認めて、思いと言葉と行ないにおいてあかしすることを、預言者的な務めと呼ぶことができます。
 そのようにして、私たちは、食べることにおいても、食べ物ばかりでなく食べるということそのものをも、を造り主である神さまの祝福の現われとして、神さまへの感謝のうちに受け取ります。それによって、食べ物を神さまに結びつけ、神さまからの賜物として聖別するとともに、食べるという日常的な営みをも聖別するのです。これも、神さまの聖さを映し出すことのひとつです。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
コリント人への手紙第一・10章31節
          
 「神のかたち」に造られていて、人格的な存在である人間は、神さまを造り主としてわきまえ、自分自身を含めて、神さまに造られたものと、造り主である神さまとの絶対的な区別をわきまえて、神さまを礼拝します。また、自由な意志をもつものとして、自らの自由な意志にしたがって(自分の意志で自分から)造り主である神さまを礼拝します。
 その一方で、人間は、自らの自由な意志にしたがって、神さまに対して罪を犯し、神さまとの関係を損なって、汚れたものになりえます。そして、実際に、造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落して、汚れたものになってしまいました。
 「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したことによって、汚れたものになってしまったということの中心は、造り主である神さまが、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを否定するようになり、神さまをそのような方として礼拝することがなくなってしまったことにあります。一般的なイメージとはかなり違うかもしれませんが、それが、「汚れている」ということの本質です。そこから、さまざまな形の汚れが生み出されます。
 そのような人間の現実を描いているローマ人への手紙1章20節〜25節では、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

と言われています。
          
 先ほど、神さまによって造られたすべてのものが聖いものであるということをお話ししました。聖書は、神さまによって造られたすべてのものが、その聖さの現われとして、造り主である神さまを礼拝していると教えています。たとえば、詩篇148篇1節〜13節では、

   ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
   いと高き所で主をほめたたえよ。
   主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
   主をほめたたえよ。主の万軍よ。
   主をほめたたえよ。日よ。月よ。
   主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
   主をほめたたえよ。天の天よ。
   天の上にある水よ。
   彼らに主の名をほめたたえさせよ。
   主が命じて、彼らが造られた。
   主は彼らを、世々限りなく立てられた。
   主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
   地において主をほめたたえよ。
   海の巨獣よ。すべての淵よ。
   火よ。雹よ。雪よ。煙よ。
   みことばを行なうあらしよ。
   山々よ。すべての丘よ。
   実のなる木よ。すべての杉よ。
   獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。
   翼のある鳥よ。
   地の王たちよ。すべての国民よ。
   君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
   若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
   彼らに主の名をほめたたえさせよ。
   主の御名だけがあがめられ、
   その威光は地と天の上にあるからだ。

と歌われています。また、黙示録4章と5章には天における礼拝が記されていますが、5章11節〜13節では、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

と言われています。
          
 このように、神さまによって造られたすべてのものは、造り主である神さまを礼拝しています。もちろん、その中の多くのものは人格的な存在ではありませんから、その礼拝も人格的なものではありません。その中で、「神のかたち」に造られている人間は、自由な意志をもつ人格的な存在として、人格的な礼拝をささげています。神さまを造り主としてわきまえ、神さまと造られたものとの絶対的な区別をわきまえて、神さまに栄光を帰する礼拝をささげます。
 すでに詳しくお話ししたことですが、イエス・キリストはサマリヤ人の女性に、

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書4章24節

と教えてくださいました。
 この「霊とまことによって」の「まこと」は「真理」のことです。「真理によって」礼拝することの中心に、造り主である神さまと神さまによって造られたものとの絶対的な区別をわきまえることがあるということは、先ほど引用しました、ローマ人への手紙1章25節で、

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

と言われていたことと対比して見るとよく分かります。
 もう一つの「霊と ・・・・ によって」の「」は、私たちの「」のことですが、この場合は、御霊の創造的なお働きにあずかって、新しく造り変えられている「」です。御霊は、イエス・キリストが十字架の上で死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことによって成し遂げられた罪の贖いに基づいてお働きになって、私たちの罪を聖めてくださり、私たちをまったく新しく造り変えてくださいます。そのように、御霊によって、心の奥底から新しく造り変えていただいて初めて、私たちは、「真理」を悟り、「霊とまことによって」神さまを礼拝することができます。
          
 そればかりではありません。先ほども引用しました、詩篇148篇1節〜10節で、

   ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
   いと高き所で主をほめたたえよ。
   主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
   主をほめたたえよ。主の万軍よ。
   主をほめたたえよ。日よ。月よ。
   主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
   主をほめたたえよ。天の天よ。
   天の上にある水よ。
   彼らに主の名をほめたたえさせよ。
   主が命じて、彼らが造られた。
   主は彼らを、世々限りなく立てられた。
   主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
   地において主をほめたたえよ。
   海の巨獣よ。すべての淵よ。
   火よ。雹よ。雪よ。煙よ。
   みことばを行なうあらしよ。
   山々よ。すべての丘よ。
   実のなる木よ。すべての杉よ。
   獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。
   翼のある鳥よ。

と言われているのは、神さまによって造られたすべてのものが神さまを礼拝しているということだけでなく、人間が、造られたすべてのものに向かって、造り主である神さまを礼拝するように、呼びかけていることを示しています。
 その意味で、「神のかたち」に造られている人間は、造られたすべてのものに及ぶ礼拝を導く存在です。また、人間の礼拝は、造られたすべてのものの礼拝の中心に位置づけられます。このことを、私たちは、「神のかたち」に造られている人間は、造られたすべてのものに対して、祭司的な務めを果たすものであるというように告白しています。
 このことは、詩篇8篇3節〜8節において、

   あなたの指のわざである天を見、
   あなたが整えられた月や星を見ますのに、
   人とは、何者なのでしょう。
   あなたがこれを心に留められるとは。
   人の子とは、何者なのでしょう。
   あなたがこれを顧みられるとは。
   あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
   これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
   あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
   万物を彼の足の下に置かれました。
   すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
   空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と歌われていることを別の面から見たものです。
 この詩篇8篇3節〜8節では、「神のかたち」に造られている人間が、神である主の「御手の多くのわざ」を治め、「万物を」支配する権威と使命を授けられていることが語られています。このことを、私たちは、「神のかたち」に造られている人間は、造られたすべてのものに対して、王的な務めを果たすものであるというように告白しています。
 この王的な勤めは、先ほどの祭司的な努め、さらには、初めにお話しした、預言者的な務めとセットになっていて、切り離すことはできません。それで、これを、先ほどの詩篇148篇1節〜10節とのつながりで見ますと、「神のかたち」に造られている人間が、神である主の「御手の多くのわざ」を治め、「万物を」支配することは、基本的には、すべてのものを造り主である神さまへの礼拝に導き入れることにあることが分かります。
 お気づきのことと思いますが、「神のかたち」に造られている人間にとっては、このような意味での、王的な務めと祭司的な務めと預言者的な務めを果たすことが、神さまの聖さを映し出すことになります。それが聖い生き方の基本です。
          
 さらに、

   あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
   これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
   あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
   万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることは、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることを受けています。
 しばしば、キリスト教は、人間が神からこの世界の支配権を受けていると教えて、自然破壊の元凶になってきたと言われています。西洋の歴史の中にそのような面があったことは認められなくてはなりません。けれども、それは、そのように批判している人々の上にも、返ってくる批判です。自分たちの環境を汚染させているだけでなく、アジアの国々で森林伐採などによって自然を破壊してしまったと避難されているのは、ほかならぬ私たちの国です。
 さらに、聖書は、人間が自然を破壊することに「お墨付き」を与えてはいません。聖書は、今お話ししましたように、また、これまでもいろいろな機会にお話ししてきましたように、神さまが、「神のかたち」にお造りになった人間にすべてのものを支配する使命をお委ねになったのは、人間が「神のかたち」として、造られたものの限界においてではありますが、造り主である神さまの愛と恵みの無限の豊かさを映し出しながら、すべてのものを治めるようになるためです。神さまの「御手の多くのわざ」を神さまの御手の作品として大切にし、いつくしみ、それぞれのものを造り主である神さまの栄光を現わすものとして整えていくことが、その使命の中心です。そして、そのことのために、「神のかたち」に造られている人間にはさまざまな能力が与えられています。
 「神のかたち」に造られている人間は、本来、神さまと神さまがお造りになったものとの絶対的な区別をわきまえて、造り主である神さまを礼拝するものとして、そのような使命を果たしていくものでした。また、その使命を果たす中で、愛といつくしみにおいて無限に豊かな神さまを映し出し、神さまの聖さをあかしするものであったのです。
 しかし、実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して神さまの御前に堕落してしまいました。そのために、造り主である神さまと神さまによって造られたものの絶対的な区別をわきまえることもなく、神さまを礼拝することもしなくなってしまいました。そのようにして、神さまの聖さへのわきまえと恐れを失ってしまった人間は、自分を神の位置に祭り上げて、本来神さまから委ねられている神さまの「御手の多くのわざ」を、自分の欲望にしたがって搾取してしまうようになりました。その結果のひとつが、さまざまな自然破壊であり、環境の汚染です。
 それによって、神さまがお造りになったこの世界と、その中にあるものを搾取し、破壊してしまっただけではありません。自分たち自身の「神のかたち」の栄光と尊厳性を破壊してしまい、お互いを搾取しようとするものになってしまいました。さらに、それによって、愛といつくしみにおいて無限に豊かな神さまの聖さを映し出すという、「神のかたち」に造られている人間の聖さも尊厳性も失ってしまいました。
 御子イエス・キリストは十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、私たちを、やがて来るべき、造り主である神さまの御前におけるさばきがもたらす死と滅びから救い出してくださっただけではありません。今、人間をそのように内側から破壊している罪と死の力から解き放ってくださいました。
 また、御子イエス・キリストは、死者の中からよみがえってくださって、御霊によって、私たちを内側から、まったく新しく造り変えてくださいました。それによって、私たちのうちに、「神のかたち」の本来の栄光と尊厳性が回復されています。このことは、私たちが造り主である神さまを、神さまの聖さをわきまえて礼拝することと、神さまを礼拝するものとして、お互いに仕え合い、神さまがお造りになったものをいつくしむことに現われてきます。
 このようにして、私たちが神さまの聖さをわきまえて神さまを礼拝することは、その広がりにおいて、すべての造られたものに及ぶ礼拝の中心にあります。私たちは、この礼拝の中で、王的、祭司的、預言者的な務めを果たすものとして、神さまがお造りになったこの世界と、この世界の歴史を聖別する務めを、神さまから受けているのです。

 


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