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説教日:2000年11月12日 |
次に、働きにおける、神さまとこの世界のすべてのものの区別ですが、これは、神さまはこの世界のすべてのものの造り主であり、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであるということです。 神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方です。それで、神さまは永遠に充足しておられます。ですから、神さまがこの世界とその中のすべてのものをお造りになったのは、神さまの側に何らかの欠けや必要があり、その欠けを補ったり必要を満たしたりするためではありません。むしろ、神さまは、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを、ご自身の豊かさによって満たしてくださっておられます。そして、すべてのものを、それぞれの特性にしたがって、真実に支え続けておられます。それで、造られたすべてのものは、きょうも、それぞれの特性を発揮しながら、それぞれの営みを続けています。 神さまがこの世界のすべてのものの造り主であり、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであり、神さまによって支えられているということは、そこに、造り主と被造物の区別があるということを意味しています。そして、当然のことですが、この区別をなくすことも、曖昧にすることもできません。その意味で、この区別は、「絶対的な」区別です。神さまの聖さはこのことも表わしています。 それとともに、神さまがこの世界のすべてのものの造り主であり、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであるということは、神さまとこの世界のすべてのものの間に、造り主と造られたものという関係があることを意味しています。その関係は、神さまの創造の御業によって確立され、創造の御業から始まっています。 神さまによって造られたこの世界のすべてのものは、神さまとの関係にあって存在しています。神さまが、私たち人間を含めて、この世界のすべてのものをお造りになって、愛といつくしみの御手をもって、真実に支え続けてくださっています。そのおかげで、私たちは今ここに存在しています。ですから、私たち人間を含めて、この世界のすべてのものにとって、いちばん深くて大切な意味をもっている関係は、造り主である神さまとの関係です。 この神さまと人間の関係についてですが、先ほどお話ししましたように、神さまがこの世界とその中のすべてのものをお造りになったのは、神さまの側に何らかの欠けや必要があり、その欠けを補ったり必要を満たしたりするためのことではありません。しかし、実際には、「神」が自分たちの必要を満たすために人間を造ったというような考え方は、聖書が記された古代オリエントの社会にありました。これは、「神」と人間がこの世界に共存していて、持ちつ持たれつの関係にあるという考え方です。そのような考え方は、今日に至るまで、世界の至る所において見られる考え方です。もちろん、私たちの住んでいる日本の社会においても、ごく一般的に見られます。人間が常日ごろ「神」のお世話をしていると、「神」は、まさかの時に、人間を助けてくれるというようなことです。 このような考え方では、神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものとの間の「絶対的な」区別が否定されてしまいます。神さまとこの世界のすべてのものの違いは相対的なもので、神さまの方がこの世界のすべてのものより大きく、より力があり、より知恵があり、より上の方にある存在であると考えられてしまいます。 これは、神さまと神さまによって造られたものを比べることができるものとすることです。本当は、先ほどお話ししましたように、あらゆる点において無限に豊かな神さまは、神さまがお造りになったどのようなものとも、決して比べることができない方です。それで、私たちは、神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとの間には「絶対的な」区別があると告白しています。 ですから、「神」と人間がこの世界に共存していて、持ちつ持たれつの関係にあるという考え方によっては、神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとの間の「絶対的な」区別が否定されてしまい、それによって、神さまの聖さが見失われてしまいます。 もちろん、聖書の教えはそのような考え方をはっきりと退けています。使徒の働き17章24節〜29節に記されていますように、パウロは、アテネの人々に、 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。 と教えています。 むしろ、神さまは、ご自身の無限の豊かさをもってこの世界をお造りになり、ご自身の豊かさをもって、造られたものを満たしてくださるのです。詩篇36篇5節〜9節では、 主よ。あなたの恵みは天にあり、 あなたの真実は雲にまで及びます。 あなたの義は高くそびえる山のようで、 あなたのさばきは深い海のようです。 あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。 人の子らは御翼の陰に身を避けます。 彼らはあなたの家の豊かさを 心ゆくまで飲むでしょう。 あなたの楽しみの流れを、 あなたは彼らに飲ませなさいます。 いのちの泉はあなたにあり、 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。 と歌われています。 このように見てみますと、私たちが神さまの聖さをあかしするためには、私たちが御言葉に基づいて、神さまとこの世界のことを理解していなければならないことが分かります。一言で言いますと、聖書的な世界観をもっていなければならないということです。 これまで繰り返しお話ししてきましたが、私たちが神さまの聖さをあかしすることの第一歩にして、それを完結させることは、造り主である神さまを礼拝することです。造り主である神さまだけが造られたすべてのものの礼拝をお受けになるべき方であり、造られたすべてのものは、造り主である神さまに礼拝をささげるべきものです。そこに、神さまと神さまによって造られたものの間にある「絶対的な」区別が告白され、神さまの聖さがあかしされます。 しかし、「神」が自分たちの必要を満たすために人間を造り、「神」と人間がこの世界に共存していて、持ちつ持たれつの関係にあるというような考えを持っている人々も、その「神」を礼拝します。自分たちと同じようにこの世界に住んでいて、自分たちよりは大きく、力があり、知恵もある存在であるということで礼拝し、願い事をするのです。 このような考え方は、私たちの生まれて育った文化の中でごく一般的なものです。私たちはそのような考え方になじんできました。それで、よほど注意していませんと、私たちの中にも、これと同じような考え方が入り込んできてしまいます。そうなりますと、私たちの礼拝が、本来は、神さまの聖さをあかしするものであるはずなのに、逆に、神さまの聖さを否定するものになってしまいかねません。 ですから、今ここで、私たちがささげている礼拝が、神さまの聖さをあかしする礼拝となるためには、私たちひとりひとりが、造り主である神さまが、あらゆる点において無限に豊かな方であることを知らなければなりません。そして、私たちも含めて、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される、聖なる方であることをわきまえて礼拝しなければなりません。 しかし、その「わきまえ」は、単なる知識とは違います。実際に、聖なる神さまの御前に出でて、神さまの御前にひれ伏すことの中で初めてわきまえることができるものです。 私たち人間が造り主である神さまを見失ってしまい、自分の間尺に合う「神」を考え出してしまったのは、人間が神さまの御前に罪を犯して堕落してしまったからです。それによって、神さまの御臨在の御前から退けられてしまっているために、神さまの聖さに対するわきまえも失われてしまっているのです。それで、私たちが、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまの聖さをわきまえて、神さまを礼拝することができるためには、私たちの罪が贖われて、私たちが造り主である神さまの御許に帰っていなければなりません。 御子イエス・キリストは、そのような私たちの罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちを神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝するものとしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。ですから、私たちが、神さまと神さまがお造りになったものとの間にある「絶対的な」区別をわきまえて、神さまの聖さをあかしするものとして礼拝することができるためには、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかっていなければなりません。イエス・キリストが、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ヨハネの福音書14章6節 と言われるとおりです。 このように、神さまを礼拝するということであっても、私たちが御言葉に基づいて、神さまと自分たちのことを理解していなければなりません。そのような「世界観」の大切さということから、私たちの時代にその影を落としているひとつの発想のことに簡単に触れておきたいと思います。 ベトナム戦争の後、アメリカの社会においては、それまでの合理主義的で分析的な科学や科学技術至上主義的な考え方に疑問が出されるようになりました。 「合理主義的」というのは、先程もお話ししましたような限界がある人間にとって合理的であると考えられることですから、当然そこには限界があります。その限界が見失われてしまったところに、科学や科学技術至上主義が生まれてきたわけです。それで、そのようなものに対する疑問が生まれてくるのはもっともなことなのです。 また、「分析的」というのは、部分は全体を構成しているのであるから、部分的なものを詳しく調べていけば、全体がより良く見えるようになるはずだという信念のもとで、物事を細分化して見る見方です。その結果、細分化してしまったもの同士の脈絡が見えなくなってしまい、全体が見失われてしまうようになりました。そして、人も物も「孤立化」あるいは「アトム化」してしまったように感じられるようになりました。それに対しまして、物事を全体の相のもとで見つめ直す動きが出てきているわけです。 ですから、これらの疑問と反省には大切なものが含まれています。そこから、人間があらゆる点において限界があるものであり、あらゆる点において無限に豊かな方である神さまとは「絶対的に」区別されるものであるということを自覚すること、すなわち、絶対者の御前において、自らの限界を自覚し、自分たちと自分たちの考えが相対的なものであることを自覚することに進むこともできるのです。 しかし、実際には、そのような方向には進みませんでした。そこに生まれてきたのは、東洋的な神秘主義に対する興味です。そして、それとマッチする、汎神論的な世界観の台頭です。汎神論的な世界観は、神さまと神さまによって造られたこの世界の「絶対的な」区別を否定します。物事を全体的に見るという合言葉のもとに、「神」もこの世界もひっくるめて一つの全体であるかのように見てしまうのです。 私はちょうどそのような時期に、アメリカの大学にいましたので、そのような霊的な雰囲気を肌で感じることができました。そのような霊的な雰囲気は「ニューエイジ・ムーヴメント」と呼ばれるようになりました。これが、今日では、全世界を覆う時代の霊的な雰囲気を造り出しています。 「ムーヴメント」と言えば「運動」ですが、どこかに運動の中心母体があって組織を作っているのではありません。ただ、このような霊的な雰囲気のもとに、科学、心理学、芸術、ビジネスなどさまざまな分野において、新しい動きが生まれてきたのです。環境保護をうたう団体にも「ニューエイジ」的な世界観の上に成り立っているものがあります。また、ひところマスコミが盛んに取り上げていた、UFOとの交信や超能力などもこのような霊的な雰囲気の中で生まれてきたものです。さらには、ビジネスの世界の「能力開発」や「自己啓発」などもこの影響を受けています。また、漫画、ゲーム、アニメ、映画などにも、「ニューエイジ」的な世界観が反映しているものがたくさんあります。 それは、当然、宗教的な面にも現われていまして、世界のあちこちに、さまざまなカルト的な教団が生まれてきています。ご承知のように、日本においても、さまざまな、カルト的な教団が生み出されていて、社会的な問題を引き起こしています。また、キリスト教も例外ではなく、「ニューエイジ」の影響の下にある教会やクリスチャンがかなりあると思われます。 このような霊的な雰囲気のもとに生まれて育っている若者たちは、「ニューエイジ」的な世界観を反映している漫画、ゲーム、アニメ、映画などを通して、そのようなものに対する親和性を身に付けています。そのために、よりいっそう「ニューエイジ」のの影響を受けやすいと思われます。「宇宙のエネルギー」を取り込む儀式とか、霊たちとの交信とか、超能力というようなものが若者たちの心を捉えるようになっているのもそのような事情によるのでしょう。 これらの現象が生まれてくる背景には、一つの「世界観」があります。それは、これまで何度か触れました汎神論的な世界観です。そこでは、神さまとこの世界の「絶対的な」区別は否定されています。神と人間の違いは、いわば、程度の差であると考えられています。さらに、そこに東洋的な輪廻転生という発想や、科学的な装いをもった進化論的な発想が入り込んできまして、人間は「神的な存在」に向かっての進化の途上にあって、やがて「神的な存在」になって行くと信じられています。そして、人間がそのようになる時代こそ、「ニューエイジ」であるわけです。 あるいは、別の行き方として、そのように自然と「進化」していくというのではなく、人間は、UFOや霊たちなど異質なものとの交信・交流や、超能力の開発や、宇宙エネルギーを取り入れることなどによって、「神的な存在」になれるとか、輪廻の階段を上れるとか主張されています。また、逆に過去のカルマによってそれを下るというような考え方が生まれてきています。そこから、オカルト・ブームのような現象が生まれてきていますし、組織やグルの言う通りにして、その「進化」の階段を上って行くというようなカルト教団が生まれてきています。 そのキリスト教的な現われのことですが、詳しくお話しする余裕がありませんので、あくまでも、一つの傾向ということでお話しするのですが、いわゆる「異言」を語ったり、奇跡的なことが自分たちの間で起こっているということによって、自分たちが「より聖められて、より神さまに近づいているクリスチャン」、ニューエイジ的な発想で言いますと「一段と進んだクリスチャン」になっていると感じたり、主張したりしているところに見られる傾向です。ただし、そのような立場に立っている教会が、すべてニューエイジ的な傾向をもっているとか、カルト的な傾向をもっていると断定できるわけではありません。 日本ではどうか分かりませんが、欧米には「悪魔(崇拝)主義者」を自任する人々もいます。聖書が教えている、造り主である神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものとの間の「絶対的な」区別を最初に否定し、今なお一貫して否定しているのは、造り主である神さまの御前に高ぶって、堕落してしまった悪魔です。そして、悪魔は、今なお、自分が神のようになろうとしていますし、人間も神のようになれるという思いを人間の中に吹き込み続けています。そのように、神さまの聖さを否定していることに、悪魔が汚れた霊であることの特質があります。 このような「ニューエイジ」的な発想の危険は、まず第一に、造り主である神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとの「絶対的な」区別が否定されてしまうことにあります。それによって、神さまの聖さが見失われてしまいます。これは、神さまのご栄光そのものにかかわる重大な問題です。 第二に、そこでは、人間が「神的な存在」になることを約束しています。しかし、実際には、その影響の下にある人々をマインドコントロールによってロボット化してしまいます。自分で考えて組織やグルを批判することが許されないばかりか、それができなくなります。その結果、ますます、組織やグルに依存してしまうのです。 これでは、自由な意志をもつ人格的な存在であることを本質とする「神のかたち」に造られている人間の尊厳性の破壊でしかありません。それは、「神のかたち」に造られている人間の聖さの土台を破壊することです。 日本人は、このようなものに引き込まれやすい体質を持っています。それにはいくつかの理由が考えられます。 まず第一のこととして、日本の文化が、長いこと、汎神論的な発想によって色付けられてきているということが考えられます。日本人の一般的な発想では、さまざまな「神」が人間と持ちつ持たれつの関係で共存していると考えられています。それで、造り主である神さまと神さまによって造られたものとの間に「絶対的な」区別があるというような発想は、なかなかピンとこないものです。 また、そのような、汎神論的な発想のもとにあったために、絶対者の前に自分たちを相対化するという発想がほとんど生み出されてきませんでした。また、絶対者の前に自分たちを相対化するという訓練がなされてきませんでした。そのため、逆に、相対的なものでしかないものを、あまりにもあっさりと絶対化して、それに縛られてしまうということも起こってしまいます。本当の絶対者を知っている者だけが、相対的なものを絶対化する危険と誘惑を避けることができます。 さらに、戦後の教育においても、学校教育は、日本の工業化を目指した経済界の要請にしたがって、会社に役に立つ人間や組織に忠実な人間の養成が図られてきました。そのために、批判的な精神を養うことがおろそかになってしまっていたのです。その結果、無批判に人や組織に依存してしまう体質が生み出されてしまいました。 聖書は、造り主である神さまだけが神であられることと、この世界に存在しているすべてのものは、神さまによって造られたものであることを教えています。そして、そのことを踏まえて、神さまと神さまによって造られたものとの間にある「絶対的な」区別を示し、神さまの聖さを教えています。 私たちは、このような御言葉の教えの上に立って、神さまの聖さをわきまえることによって初めて、私たちが、神として礼拝し、信頼しなければならないのは、造り主である神さまだけであることが理解できます。また、そのことの上に立って、人間の目にどのように偉大なものに見えても、被造物を神格化することが、造り主である神さまを神とすることに反することであることが理解できます。 そして、そのことの上に立って初めて、被造物を神格化して、それに縛られることが、造り主である神さまを神さまとして礼拝するように造られている人間の尊厳性を、根本から損なうことであることが理解できるようになります。 よく、「神を信じることは自分を狭くすることであり、縛られることだ。」と言われます。 確かに、神さま以外のものを神格化する人は、必ず、自分が神格化したものによって縛られてしまいます。しかし、造り主である神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものとの「絶対的な」区別をわきまえて、神さまだけを聖なる方として礼拝することは、この世界のいかなるものも神格化しないということの初めであり、土台です。 また、人間を「神のかたち」にお造りになって、「神のかたち」としての人格的な自由を与えてくださった神さまだけが、私たちを真の意味で自由なものとしてくださいます。私たちは、神さまの愛と恵みの無限の豊かさの中でだけ、真の意味で自由であることができます。 ですから、造り主である神さまを聖なる方として礼拝することは、私たちの「神のかたち」としての尊厳性の第一の現われであり、私たちの神の子どもとしての自由の出発点でもあります。
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