(第16回)


説教日:2000年11月19日
聖書箇所:ヨハネの福音書1章1節〜3節


 きょうも、これまでのお話に続いて、聖なるものであることの基本的な意味についてお話しします。
 神さまの聖さは、神さまが、ご自身のお造りになった、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。神さまは、存在においても、知恵、力、義、善、真実、愛、いつくしみなどの人格的な属性の一つ一つにおいても、無限に豊かな方です。また、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光も無限です。それで、神さまは、あらゆる点で限りのある、この世界のどのようなものとも比べることは出来ません。その意味で、神さまとこの世界の全てのものとの区別は、「絶対的な」区別です。
 このことと関連して、昔から、一つの疑問が出されてきました。それは、神さまとこの世界のすべてのものが「絶対的に」区別されるのであれば、神さまとこの世界の「接点」はないのではないかという疑問です。神さまがこの世界のどのようなものとも、比べることさえできないほどに区別される方であれば、神さまは、この世界のどのようなものとも接することはできないのではないかということです。
 これに対しまして、私たちは、神さまは三位一体の神であられるので、そのような問題は生じない、と考えています。もし、神さまが一位一体であり、しかも、その存在と属性の輝きである栄光において無限の、聖なる神であられるとしたら、神さまとこの世界の「接点」はなくなってしまいます。というより、後ほどお話ししますように、そもそも、この世界は存在できなかったはずです。しかし、三位一体の神さまは、栄光において無限な方として、聖なる方でありつつ、確かに、この世界と私たちにかかわってくださり、触れてくださることがおできになるのです。
 聖書は、神さまが天と地を創造されたことを示しています。それは、神さまが、この世界にかかわってくださったということであり、今もかかわってくださっていること、触れてくださることことを意味しています。同時に、聖書は、創造の御業の遂行に当たって、三位一体の神さまの、御父と御子と御霊の間に「職務上の区別」、私たちに合わせて言いますと「役割分担」があったことを示しています。
 このことにつきましては、いろいろな機会にお話ししましたが、神さまの聖さを考えるうえで欠かせないことであると思われますので、改めてお話ししたいと思います。


 ヨハネの福音書1章1節〜3節では、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。
 1節の「初めに、ことばがあった。」と、2節の「この方は、初めに神とともにおられた。」に出てくる「初めに」は、聖書全体の最初の言葉である創世記1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉を受けています。
 ヘブル語聖書の一つ一つの書の名前は、その書の最初の言葉です。それで、創世記の書名は、その最初の言葉である「初めに〔ブレーシート〕」です。
 いろいろな見方がありますが、結論的に言いますと、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、この訳が示していますように、独立した文であり、創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事全体に対する「見出し」に当たります。ですから、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、創造の御業の全体をまとめる言葉であって、創造の御業の手初めに、神さまが、天と地の「最初の形を造り出された」という意味ではありません。
 この場合の「天と地」は慣用表現で、「秩序あるこの世界のすべてのもの」を表わしています。それで、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、この宇宙の中の一つ一つのものも、その全体的なまとまりに見られる秩序と調和も、すべて、神さまの創造の御業によって存在するようになったということを、私たちに示しています。
 このような意味での天地創造の御業によって始まった「初め」は、この世界の時間の初めでもあります。時間はこの世界の時間であって、この世界がなければ時間もありません。それで、時間は天地創造の御業とともに始まっています。
 ヨハネの福音書1章1節では、その、すべてのものの「初めに」「ことばがあった。ことばは神とともにあった。」と言われているのです。1節、2節の、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

という言葉の中には、「あった」(「おられた」)ことを示す、エーンという言葉が4回出てきます。これは未完了形で、過去のある時において継続して「あった」ことを示しています。その意味で、これは、「ことば」が、この世界の「初めに」遂行された天地創造の御業によって造り出されたのではなく、天地創造の御業がなされたときには、すでに存在し続けておられたことを示しています。つまり、「ことば」は時間を越えた永遠の存在であるのです。

 続く3節では、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていて、「ことば」が天地創造の御業を遂行なさった方であることが示されています。
 ここで注目したいのは、

すべてのものは、この方によって造られた。

という言葉の、「によって」と訳されているディアという言葉です。この言葉は「実行者」を示す言葉です。それで、

すべてのものは、この方によって造られた。

というのは、「ことば」が、実際に、天地創造の御業を遂行なさった方であることを示しています。
 私たちが「使徒信条」で「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白するときには、父なる神さまが天地の造り主であると告白しています。これは、御子が天地創造の御業を遂行なさった方であるという意味で、

すべてのものは、この方によって造られた。

と言うのと、少し意味合いが違います。
 聖書においては、父なる神さまが天地の造り主であることを表わすときには、御子が天地創造の御業を遂行なさったことを示すときに用いられる、ディアという言葉が用いられることはありません。たとえば、コリント人への手紙第一・8章6節では、

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

と言われています。
 ここには、父なる神さまと御子イエス・キリストのことが出てきます。しかも、父なる神さまと御子イエス・キリストが、「すべてのもの」に、どのようにかかわっておられるかが示されています。父なる神さまについては、

すべてのものはこの神から出ており

と言われています。これに対しまして、御子イエス・キリストについては、

すべてのものはこの主によって存在し

と言われています。
 新改訳ですと、この二つはかなり違いますが、ギリシャ語の原文では、一つの言葉が違うだけです。それを生かして直訳しますと、父なる神さまについて述べている部分は、

すべてのものは、この方から(ある)

で、御子イエス・キリストについて述べている部分は、

すべてのものは、この方によって(ある)

となります。(「ある」あるいは「存在する」に当たる動詞は省略されています。)どこが違うかと言いますと、父なる神さまについて述べている部分では、「起源」を表わす、エクという言葉が用いられており、御子イエス・キリストについて述べている部分では、先ほどの、「実行者」を表わすディアという言葉が用いられていることです。
 聖書においては、この点は一貫しています。それで、私たちは、すべてのものの「起源」は父なる神さまであるという意味で、「我は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白しています。そして、実際に、天地創造の御業を遂行なさって、すべてのものをお造りになったのは、御子イエス・キリストであると告白しているのです。具体的には、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころ、あるいは、ご計画にしたがって天地創造の御業を遂行され、すべてのものをお造りになったということになります。
 完全なたとえではありませんが、以前用いたたとえを使いますと、Aさんが家を建てたとします。その場合、Aさんは、その家を建てようと計画したのです。しかし、実際に家を建てたのは工務店です。この家の建築はAさん「から」出ています。その意味で、Aさんは、この家の「建築主」です。これが、父なる神さまが「天地の造り主」であるということに当たります。そして、その家は、工務店「によって」建てられました。これが、

すべてのものは、この方によって造られた。

ということに当たります。
 そのようなことが、ヨハネの福音書1章3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていることの背景にあります。

 1章1節の、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

という言葉に示されていますように、「ことば」、すなわち、御子は、無限、永遠、不変の神であられます。
 聖書は、このほか、御霊も御父と御子と区別される方でありつつ、無限、永遠、不変の神さまのみに帰せられる本質と特質をもっておられる方であることを示しています。それで、私たちは、神は唯一であるということを、神さまの「実体」あるいは「本質」はただ一つであると告白し、御父と御子と御霊が、同じ神としての本質をもちつつ、人格的に区別される方であると告白しています。これが三位一体の教理としてまとめられている御言葉の教えです。
 いずれにしましても、御子が永遠の神であられて、御父と人格的に区別される方であられるので、御父と御子の間には、永遠の愛の交わりがあります。そして、当然、その愛は、無限、永遠、不変の愛です。このことは、1章1節の、

ことばは神とともにあった。

という言葉と、2節の、

この方は、初めに神とともにおられた。

という言葉によって示されています。ここで用いられています「神とともにあった」(プロス・トン・セオン)という言葉は、「ことば」、すなわち、御子が、父なる神さまの方を向いていていることを示していて、御父と御子の間に愛の交わりがあることを示しています。1章18節では、御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていて、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛が、よりはっきりと示されています。
 先ほどお話ししましたように、これらのことは神さまご自身のうちにおけることであって、いまだ、この世界は造られていないために、存在していません。神さまはご自身において無限に豊かな方であり、愛においても永遠に完全な充足のうちにおられます。これが、これまでお話ししてきました、神さまの聖さの土台であり根拠です。
 もし、神さまが一位一体の神であったとしたら、永遠の人格は一つしかなく、神さまには永遠の愛にある交わりはないということになります。その場合、神さまには無限に豊かで永遠の愛という「性質」はあっても、それは決して十分に表現できないということになります。というのは、あらゆる点において限りのある被造物には、神さまの無限に豊かな愛を完全に受け止めることはできないからです。
 しかし、実際には、神さまの愛は、御父と御子と御霊の間において、その無限の豊かさをもって、永遠に表現されており、完全に受け止められています。
 このように、ご自身において無限に豊かであり、愛において永遠に充足しておられる神さまが、いわば、ご自身の外に向けての御業を遂行されました。それが、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業です。
 私たちは、天地創造の御業をこのように理解していますので、ご自身において無限に豊かであり、愛において永遠に充足しておられる神さまは、神さまによって造られたこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であると告白しています。

 このように見ますと、天地創造の御業は、ご自身において無限に豊かな方であり、愛において永遠に充足しておられる神さまが、ご自身の豊かさをこの世界に映し出してくださることであることが分かります。その意味で、この造られた世界は、神さまの豊かさをもって満たされている世界です。
 もちろん、バケツで、尽きることなくあふれ出てくる泉の水をすべて汲み取ってしまうことができないように、この世界が、私たちの目にどんなに広大な世界と見えるとしても、神さまの無限の豊かさをすべて汲み取ってしまうことはできません。そうではあっても、泉からわき出る水の注ぎ口の下に置かれたバケツが、いつも泉の水でいっぱいになるように、この世界は神さまの豊かさによって満たされています。
 私たちは、この世界がとても豊かな世界であると感じています。実際にこの宇宙の広がりや、その中で起こっていることの壮大さばかりでなく、この地球の中にあるものの豊かさをも、私たちはまだ十分知ってはいません。このような、この世界の豊かさに触れている人間は、ふと、「神」もこのように豊かな世界の豊かさに包まれて存在していると考えてしまいます。あるいは、このような豊かな世界そのものが「神」である、と考える人々もいます。それが、先週お話ししました、神さまとこの世界の「絶対的な」区別を否定する、その意味で、神さまの聖さを否定する、汎神論的な世界観、あるいは、汎神論的な発想です。
 ですから、汎神論的な世界観が生まれてくる背景には、二つのことがあります。一つは、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまったことです。それによって、神さまとの交わりを絶たれてしまいましたので、人間は、神さまの聖さをわきまえることができなくなってしまいました。神さまの聖さは、神さまのご臨在の御前において、神さまを礼拝することをとおして初めて、現実的なこととしてわきまえることができます。
 それでも、人間は造り主である神さまに向くものとして、「神のかたち」に造られており、その心のもっとも深いところで「神」を求めています。それで、どうしても自分の間尺に合う「神」を生み出してしまいます。そして、それを「神」として拝むことによって、自分自身の内側からの要求に応えています。ローマ人への手紙1章21節〜23節で、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と言われているとおりです。
 そのような、人間の間尺に合う「神」は、この世界の豊かさに包まれていると考えられたり、この豊かな世界が「神」であると考えられたりするわけです。
 もう一つのことは、言うまでもなく、造り主である神さまが、ご自身の無限の知恵と力と愛といつくしみの豊かさをもってこの世界をお造りになり、今も、その豊かさをもってこの世界を満たしていてくださるということです。
 その豊かさに触れている人間は、罪を犯して造り主である神さまご自身を見失っているために、神さまの無限の豊かさをわきまえることができず、「神」もこの世界の豊かさに包まれているとか、豊かなこの世界そのものを「神」のように見なしてしまっているのです。
 しかし、先ほどの、泉の水の注ぎ口の下に置かれたバケツの例をもう一度取り上げてみましょう。そのバケツを一つの世界として見ますと、その世界は泉の水でいつもあふれています。その意味では、そのバケツの中は、涸れた世界ではなく、豊かな世界です。しかし、それは、尽きることなくわき出る泉の豊かさとは違います。バケツの中の世界は、尽きることなく水がわき出る泉の豊かさに依存しています。この世界の豊かさは、そのバケツの豊かさにたとえられます。この世界は本当に豊かな世界です。しかし、その豊かさは、造り主である神さまの無限の豊かさに依存しています。
 そのことは、私たちが、御言葉に基づいて造り主である神さまの無限の豊かさを知り、神さまを聖なる方としてわきまえることがなければ、理解することができません。
 まず、神さまが無限に豊かな方であり、その意味で、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される、聖なる方であるということをわきまえなくてはなりません。それによって初めて、私たちにとって、この世界がどんなに豊かなものであっても、それは、神さまの無限の豊かさの中から与えられている豊かさであること、その意味で、この豊かな世界が「神」なのではないことが分かります。

 あらゆる点において無限に豊かであって、無限の栄光のうちにおられ、愛においても永遠に充足しておられる神さまは、ご自身の豊かさをもって、天地創造の御業を遂行されました。その際に、先ほどお話ししましたように、御父と御子の間に、一種の「役割分担」がなされました。当然、御霊もご自身の「役割」をお引き受けになっておられます。
 父なる神さまは、あらゆる点において無限に豊かである神さまの、無限の栄光と聖さを代表し、表現しておられます。言い換えますと、父なる神さまは、神さまによって造られたこの世界と「絶対的に」区別される神さまを代表しておられます。それで、父なる神さまが天地創造の御業の(永遠の)ご計画をお立てになっておられます。
 御子は、父なる神さまのみこころにしたがって、創造の御業を遂行される方としての「役割」を担っておられます。そして、御霊は、御子が遂行してくださった御業を、この世界の一つ一つのものに対して実現してくださる方としての「役割」を担っておられます。
 この「役割分担」は、天地創造の御業においてばかりでなく、私たちの罪のための贖いの御業においても見られるものです。父なる神さまが私たちの贖いのためのご計画を立ててくださり、御子が、今から二千年前に人の性質を取って来てくださって、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださって、私たちのための贖いの御業を遂行してくださいました。そして、御霊は、御子が成し遂げられた贖いを私たちに当てはめて、私たちの現実としてくださっておられます。
 大切なことは、このような「役割分担」は、御父と御子と御霊にいます三位一体の神さまの、お互いの交わりのために必要なことではないということです。これは、あくまでも、神さまが、お造りになるこの世界にかかわってくださるために必要な「役割分担」です。
 それでは、なぜ、このような「役割分担」が必要であるかということですが、一言で言いますと、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であり、無限の栄光に満ちた、聖なる方であるからです。
 さきほどお話ししましたように、父なる神さまは、その存在と一つ一つの属性において無限に豊かであり、無限の栄光に満ちておられる、聖なる神さまを代表しておられます。無限の栄光に満ちておられる神さまは、直接、この世界を造ることができません。
 以前用いたたとえを用いますと、地球の生き物にとって、太陽の熱と光はなくてはならないものです。しかし、もし太陽と地球の距離がなくなって、地球が太陽に、直に触れるようになるとしたらどうなるでしょうか。地球は太陽の熱で焼かれて溶けてしまいます。
 この世界が無限の栄光に満ちておられる、聖なる神さまに直に触れることは、地球が太陽に直に触れるどころのことではありません。どのような被造物であっても、神さまの無限の栄光に直に触れるようなことはできません。それは、紙切れは太陽に直に触れるはるかに前に、燃えてなくなってしまいますので、紙切れが太陽に直に触れることがあり得ないのと同じです。
 テモテへの手紙第一・6章15節、16節においては、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と言われています。
 あらゆる点において無限に豊かで、無限の栄光に満ちておられる神さまが、直接この世界をお造りになれば、この世界は造り出された途端に、その無限の栄光の御前で焼き尽くされてしまいます。それで、御子が、神としての無限の栄光を、いわば「お隠しになって」この世界の「すべてのもの」をお造りになったのです。
 お気づきのように、神さまによって造られたこの世界が、あらゆる点において無限に豊かであり、それゆえに、無限の栄光に満ちた神さまに、直に触れるということは、神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものの「絶対的な」区別を踏み越えることです。それは、神さまの聖さを犯すことです。
 そのようなことは、紙切れが太陽に直に触れるというようなことであって、決してできないことです。そのようなことをしようとする者は、神さまの栄光の御前に滅ぼされてしまいます。それが、終わりの日になされる「最後のさばき」の本質です。すべて、神さまの御前に罪を犯して堕落している者は、最終的には、この神さまの聖さを犯している者として、さばきを受けることになります。神さまは、それによってご自身の聖さをお守りになります。

私たちの神は焼き尽くす火です。
ヘブル人への手紙12章29節

 神さまは、ご自身の無限の豊かさをもって、この世界をお造りになり、お造りになった世界を満たしてくださっておられます。しかし、それによって、神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものとの「絶対的な」区別が曖昧になったりすることは決してありません。なぜなら、神さまは、御子によってこの世界のすべてのものをお造りになったからです。
 神さまは、御子によって、このような天地創造の御業を遂行してくださいました。それで、この世界は、神さまの無限の豊かさの中から満たしていただいています。しかも、神さまの聖さを犯すことなく、むしろ、むしろ神さまの聖さをあかしする世界であることができます。
 また、神さまは、御子イエス・キリストによって、私たちの罪のための贖いの御業を遂行してくださいました。それで、私たちは、御子イエス・キリストにあって、神さまの聖さを犯すことなく、神さまのご臨在の御前に近づくことができます。
 言い換えますと、神さまは、御子にあってこの世界のすべてのものに接してくださることによって、ご自身の無限の栄光と聖さを保っておられます。ですから、私たちも、御子にあって、神さまの聖さを表わし、あかしすることができるのです。私たちは、御子イエス・キリストにあって、神さまのご臨在の御前に近づき、神さまを礼拝することによって、神さまの無限の栄光と聖さを表わし、あかしするのです。
 このようにして、神さまの無限の栄光と聖さをわきまえて、御子イエス・キリストにあって神さまを礼拝することによって、この豊かな世界を「神」であると見なしたり、「神」もこの世界の豊かさに包まれているというような思い違いをしたりする危険を避けることができます。その上で、神さまがご自身の無限の豊かさの中から満たしてくださっているこの世界の豊かさを、神さまへの感謝と讃美をもって、心から享受することができます。

 


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