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説教日:2000年11月26日 |
人間は、造り主である神さまに全面的に支えられています。そればかりか、神さまがお造りになったこの世界のさまざまなものに依存しています。また、世間では、誰かが豊かであると言いますと、しばしば、その人が多くのお金やものをもっているということを意味しています。しかし、お金やものはその人自身ではありませんから、その人の豊かさは、自分がもっているものに依存している豊かさです。 神さまは、これとはまったく違います。 神さまは無限、永遠、不変の方として存在しておられます。神さまの存在が無限、永遠、不変であるばかりでなく、その知恵、力、義、善、真実、愛、いつくしみなどの人格的な属性の一つ一つも無限、永遠、不変です。それで、神さまはあらゆる点において無限に豊かな方です。 また、三位一体の御父、御子、御霊は、その存在においても、知恵、力、義、善、真実、愛、いつくしみなどの人格的な属性の一つ一つにおいても、無限であり、永遠であり、不変です。ですから、御父と御子と御霊の間には、永遠にして無限の愛の交わりがあります。神さまは、愛においてもまったく充足しておられます。 神さまが無限に豊かな方であるということは、神さまが、ご自身の外に豊かなものを無限にもっておられるという意味ではありません。神さまがこの広大な宇宙をお造りになって、ご自身のものとして所有しておられるからといって、神さまの無限の豊かさが増すわけではありません。また、神さまがご自身の御力によってこの広大な宇宙をお造りになったことによって、また、すべてのものを支え続けておられることによって、神さまご自身のうちから何かが出ていって、なくなってしまうということもありません。神さまご自身は、常に、あらゆる点において無限に豊かな方なのです。神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方として、何ものにも依存されることがなく、ご自身において完全に充足しておられます。それを、神さまの「自己充足性」と言います。 このように、あらゆる点において無限に豊かな方であり、愛においても、御父、御子、御霊の完全な愛の交わりにおいて永遠に充足しておられる神さまが、天地創造の御業によって、この世界とその中のすべてのものをお造りになりました。ですから、天地創造の御業は、神さまがご自身の必要や欠けを満たすためになさった御業ではありません。 パウロがアテネの人々に、 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 使徒の働き17章24節、25節 と語っているとおりです。 以前お話ししたことですが、聖書が記された古代オリエントの文化圏においては、人間は神々の必要を満たすために造られたという発想がありました。それは、この日本の社会にも一般的な発想です。常日ごろ人間が「神」のお世話をしていると、まさかの時には「神」が人間を助けてくれるという発想です。そこでは、「神」と人間が持ちつ持たれつの関係でこの世界に共存していると考えられています。 その様子を、イザヤは次のように述べています。 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。 イザヤ書44章9節〜17節 確かに、偶像にはこのようなむなしさがあります。もし、その偶像が、単なる棒切れのようなものに簡単な細工が施されているものであれば、人々は見向きもしないでしょう。しかし、それが、何人もの名工が年月をかけて作ったものであれば、どうでしょうか。その偶像としての本質には変わりがないはずです。人間が作ったものは、人の目にどんなに華麗で壮大なものに写っても、偶像であることには変わりがありません。しかし、現実には、そのような、いわば、見かけの違いだけで、人の目には、がぜん「ありがたいもの」として写ってしまいます。 そこに、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているために、神さまの聖さをわきまえることができなくなってしまっている人間の愚かさがあります。イザヤが、先ほどの引用に続く18節で、 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。 と述べているとおりです。 神さまは、ご自身において無限に豊かな方であり、愛において永遠に充足しておられる聖なる方です。天地創造の御業は、神さまが、ご自身の豊かさを、いわば、ご自身の外に向けて表現してくださった御業です。 その意味で、この造られた世界は、神さまの豊かさの中から満たされている世界です。 先週用いたたとえを再び用いますと、尽きることなくあふれ出てくる泉の水を、バケツで、すべて汲み取ってしまうことはできません。あらゆる点において無限に豊かな神さまを尽きることなく水をわき上がらせる泉にたとえますと、この世界は一個のバケツのようなものです。この世界が、私たちにとってどんなに広大な世界であっても、神さまの無限の豊かさをすべて汲み取ってしまうことはできません。 そうではあっても、泉からわき出る水の注ぎ口の下に置かれたバケツが、いつも泉の水でいっぱいになるように、この世界は神さまの豊かさによって満たされています。 実際、人間は、この世界の豊かさに触れています。それは、私たちの思いをはるかに越えた豊かさです。それで、人間は、「神」もこのように豊かな世界の豊かさに包まれて存在していると考えたり、このような豊かな世界そのものが「神」であると考えたりしてしまいます。そこから、神さまとこの世界の「絶対的な」区別を否定する、その意味で、神さまの聖さを否定する、汎神論的な世界観や発想が生み出されてしまいます。 人間が汎神論的な世界観や発想を生み出してしまうのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落しているために、「神のかたち」の本性が腐敗してしまっているからです。 先週お話ししましたように、そのことから二つのことが出てきます。 一つは、人間は、罪を犯して堕落してしまって、神さまの御前から退けられていますが、もともと「神のかたち」として神さまに向くものに造られているために、どうしても「神」を求めてしまいます。それは、「神のかたち」に造られている人間としての本性からの要求で、子どもが親を求めるのと同じように根本的な要求です。 そのために、先ほどのような偶像を作ってでも、その心の奥底からの要求を満たそうとしてしまいます。そして、そのために作られる偶像を、より壮大で華麗なものに作れば作るほど、自分たちの心の奥底からの要求が、よりよく満たされるのではないかと考えてしまいます。そして、実際に、自分たちの心の奥底からの要求が満たされていると錯覚してしまうことも多いのです。 もう一つのことは、造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまっている人間が考える「神」が、そのようなむなしいものであるために、その「神」も人間と同じように、この世界に住んでいると考えられたり、せいぜい、この世界そのものが「神」であると考えられてしまうということです。 このように、人間の罪が人間自身のうちに霊的な暗やみを生み出しているために、人間は、造り主である神さまの聖さをわきまえることができなくなってしまっています。神さまの聖さをわきまえないことが人間の罪の本質ですから、霊的な暗やみの本質も、神さまの聖さをわきまえることができないことにあります。 このことから、あらゆる種類の「愚かさ」が生み出されてしまっています。 その最初の現われが、自らの罪を悔い改めて、造り主である神さまの御許に帰る代わりに、自分たちのイメージに合う偶像を作って、これを拝み、これに仕え、これに頼ることによって、「神のかたち」に造られている人間としての心の奥底からの要求を満たそうとすることです。 偶像を作って、これを拝むものは、逆に、自分が「神」として作った偶像に縛られてしまうことになります。神さまの聖さをわきまえている者にとっては、偶像は人間が作ったものであって、「神」という点では偽りであり空しいものであることが分かります。しかし、神さまの聖さをわきまえることができないも者には、自分がそれを「神」としているために、偶像にも何らかの力があると感じられて、その力を恐れてしまいます。結果的に、その人は、空しいものに縛られてしまうことになります。 このような霊的な暗やみの中から救い出されるためには、私たち自身のうちにそのような霊的な暗やみを生み出している罪が取り除かれるほかはありません。そして、神さまのご臨在の御前に立って神さまを礼拝し、神さまとの愛の交わりのうちに生かされることによって、神さまの聖さをわきまえるも者となるほかはありません。 しかし、それは人間の力でできることではありません。 人間は自らの罪によって、「神のかたち」の本性が腐敗してしまっています。それで、人間の心は造り主である神さまから離れてしまっており、神さまも罪によって堕落してしまっている人間を、ご自身の御前から退けておられます。そのような状態の中で、人間は、「神のかたち」に造られているものとしての本性の要求を満たすために、偶像を作ってしまうわけです。このような、人間の罪と、罪が生み出した本性の腐敗は、人間の力で取り去ることはできません。 以前用いたたとえを用いますと、腐った魚は、魚自体の腐敗したものです。魚に「腐敗」というもの(実体)がくっついているのではありません。それで、腐った魚から「腐敗」というものを取り去れば、また、新鮮な魚になるということはありません。その腐敗をなくすためには、魚自体を処分するほかはありません。 罪によって「神のかたち」の本性が腐敗してしまっている人間の場合も、「腐敗」というものがついているのではありません。「神のかたち」そのものが、その本性から罪によって腐敗してしまっているのです。そのように、「神のかたち」の本性が腐敗してしまっている人間から、腐敗を取り除くことはできません。その腐敗を取り除くためには、そのような状態にある私たち自身を「処分」してしまわなければならないのです。 神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死によって、罪によって「神のかたち」の本性を腐敗させてしまっていた私たちを「処分」してくださいました。 まず、私たちのすべての罪を「処分」する意味をもっているさばきを十字架にかかられた御子イエス・キリストの上に下されました。それによって、罪によって「神のかたち」の本性を腐敗させていた私たちは、イエス・キリストとともに十字架につけられて死にました。先ほどの言葉でいいますと、古い私たちは「処分」されてしまったのです。 その上で、神さまは、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んだ私たちを、死者の中からよみがえられたイエス・キリストとともによみがえらせてくださいました。 ローマ人への手紙6章3節〜7節では、 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 と言われています。 同じことは、御霊のお働きによる新しい創造として述べられています。御霊は、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことによって成し遂げてくださった罪の贖いの御業に基づいてお働きになります。イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いを私たちに当てはめてくださり、私たちを新しく造り変えてくださいます。 コリント人への手紙第二・3章18節では、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と言われており、5章17節〜19節では、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 と言われています。 このように、私たちは、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んで、罪によって「神のかたち」の本性を腐敗させてしまっていた古い自分に死にました。そして、イエス・キリストとともによみがえることによって、造り主である神さまのご臨在の御前に立って神さまを礼拝し、神さまとの愛の交わりに生きるものに造り変えていただきました。これによって、神さまの聖さをわきまえて、神さまを礼拝することができるようになりました。 また、これによって、私たちは、聖書の御言葉に示されている真の知恵を自分のうちにもつ者となりました。 ローマ人への手紙11章36節では、 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 と言われています。「すべてのこと」は神さまから出ています。それが「すべてのこと」にとっての最も根本的な事実です。それで、私たちは、何かを考えるときにも、まず、神さまがどのような方であるかということをわきまえることから始めます。具体的には、まず、神さまの聖さをわきまえることから始めるということです。それが、私たち自身を知るためにも、物事を正しく知るためにも必要な第一歩です。 箴言9章10節では、 主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟りである。 と言われています。 ご存知のように、 主を恐れることは知恵の初め、 ということは、知恵文学の中心的なテーマで、「神のかたち」に造られている人間の知恵の本質を述べています。同じことは、聖書の中に繰り返し出てきます。箴言1章7節では、 主を恐れることは知識の初めである。 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 と言われています。また、9章10節では、 主を恐れることは知恵の訓戒である。 謙遜は栄誉に先立つ。 と言われています。 この知恵の本質を述べる言葉は、箴言以外にも記されています。ヨブ記28章28節では、 こうして、神は人に仰せられた。 「見よ。主を恐れること、これが知恵である。 悪から離れることは悟りである。」 と言われています。また、詩篇111篇10節では、 主を恐れることは、知恵の初め。 これを行なう人はみな、良い明察を得る。 主の誉れは永遠に堅く立つ。 と言われています。 先ほどの 箴言9章10節では、 主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟りである。 と言われていました。まず、 主を恐れることは知恵の初め、 という知恵の本質が述べられています。次に、それが、並行法による言い換えによって、 聖なる方を知ることは悟りである。 と言い換えられています。 この「聖なる方」は、その前の「主」を指しています。その「主」は、新改訳で太字になっていますことから分かりますように、契約の神である主、ヤハウェです。それで、「聖なる方を知ること」とは「主」を「聖なる方」として知ることです。 実は、この「聖なる方」(ケドーシーム)は複数形の形容詞です。これは、その前の部分で、 主を恐れることは知恵の初め、 と言われていることの「主」に当たりますので(実体化されていて)、「聖なる方」と訳されています。それで、この複数形は、「強意(あるいは尊厳)の複数形」で、「聖なる方」の聖さを強調していると考えられます。 これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、「聖なる方を知ること」とは、「主」が、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることをわきまえることです。また、その意味で「主」が「聖なる方」であることをわきまえて礼拝することの中で、さらに「主」を深く、また、親しく知ることす。 そのように、「主」が、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であること、その意味で、聖なる方であることをわきまえることから自然に生まれてくるのが、知恵の本質である「主を恐れること」です。 また、箴言30章2節、3節では、 確かに、私は人間の中でも最も愚かで、 私には人間の悟りがない。 私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も知らない。 と言われています。 この「聖なる方」も、先ほどの9章10節に出てくる「聖なる方」と同じ言葉で、その方の聖さを強調しています。言い方は違いますが、ここでも、「聖なる方」を知ることが、私たちの人間としての知恵の本質であり、知恵の初めであることが示されています。「主」が、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることをわきまえて、また、その意味で「聖なる方」であることをわきまえて礼拝することの中で、「主」をより深く、また親しく知ることが、知恵の本質であり、知恵の初めです。 このように、聖書の御言葉は、「神のかたち」に造られている人間の知恵の本質である「主を恐れること」が、「主」を「聖なる方」としてわきまえることと実質的に同じことであることを示しています。これは、知恵の本質を理解する上でとても大切なことです。先ほど言いましたように、「主を恐れること」は、「主」を「聖なる方」としてわきまえることから生まれてくる心の姿勢です。それで、「主」を「聖なる方」としてわきまえることがなければ、真の意味で「主を恐れること」もありえません。 たとえば、「神」と人間が、お互いに持ちつ持たれつの関係でこの世界に共存しているというような発想をもっている人のことを考えてみましょう。その人は、 主を恐れることは知恵の初め、 ということをどのように理解するでしょうか。きっと、それを、常日ごろから「神」を恐れて「神」に仕えているなら、まさかの時には「神」からの加護がいただける、というような形で理解することでしょう。これは、いわば、宗教的な「保険」を掛けるようなものです。それが「知恵の初め」であると考えられるのは、人間がいちばん深いところで恐れているものが、病気や事故や死などの「まさかの時」の災いであるからです。そのような、いちばん深いところで恐れているものに「保険」をかけておくことこそが、「知恵の初め」であるということになります。 しかし、聖書の御言葉は、 主を恐れることは知恵の初め、 ということについて、これとは本質的に違う理解へと私たちを導いています。御言葉は、「主を恐れること」は、「主」を「聖なる方」としてわきまえることであると教えています。「主」を「聖なる方」としてわきまえること自体が、知恵の本質であり、出発点であるというのです。 繰り返しお話ししてきました、汎神論的な世界観や発想に見られますように、神さまの聖さに対するわきまえのないところでは、神さまと神さまがお造りになったこの世界のすべてのものとの「絶対的な」区別が否定されています。そこから、神さまに対する真の恐れも失われていきます。 その結果、おまじないやおまじないのようになった祈りなど、自分たちの「操作」によって「神」を自分たちの願いにしたがって動かそうとしたり、思い通りに動かそうとすることが、当たり前のように行なわれています。さらには、自分たちが「神的な存在」になれるというような教えが生まれてきていますし、実際に、「神的な存在」になろうとして、さまざまなことが試されています。 そのような中で、自分を「神」の位置に据えて他人を踏みつけてしまうほどの自己中心性に縛られたり、人間や偶像のように相対的なものでしかないものを絶対化して、逆にそれに縛られてしまったりしてしまいます。 それによって、外側からお互いを傷つけ合ってしまうだけではありません。自らが、「神のかたち」としての尊厳性を内側から損なってしまうことになります。造り主である神さまが人間を「神のかたち」にお造りになったことによって与えてくださった「神のかたち」の栄光と尊厳性を、内側から腐敗させ、破壊してしまっているのです。 このように、神さまの聖さをわきまえていない状態、また、そのために、神さまに対する恐れが失われている状態が、聖書の御言葉が示す罪の本質であり、「愚かさ」の本質です。そこから、あらゆる種類の罪が生まれてきます。 ですから、先週もお話ししましたように、すべて、神さまの御前に罪を犯して堕落している者は、最終的には、この神さまの聖さを犯している者として、さばきを受けることになります。神さまは、そのようなさばきによって、ご自身が聖なる方であることをお示しになります。 これらのことから、私たちは、 主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟りである。 という御言葉の教えにうなずきます。そして、造り主である神さまの聖さをわきまえて、神さまを礼拝することを本質とする、真の知恵に導かれて歩みたいと思います。 そのような知恵をもつために必要な、神さまの聖さに対するわきまえは、神さまの御前に立って神さまを礼拝することの中でより深く培われていきます。 ここには、一種の循環論法があると思われるかもしれません。神さまの聖さをわきまえていなくては、真の意味で、神さまを礼拝することはできません。その一方で、神さまの聖さに対するわきまえは、神さまを礼拝することの中で培われていくというのは、循環論法のように思われます。 しかし、これには、出発点があります。天地創造の初めに神さまが人間を「神のかたち」にお造りくださったとき、人間は、初めから神さまのご臨在の御前に立って造り主である神さまを礼拝するものとして造られていました。言い換えますと、初めから、「神のかたち」に造られている人間のうちには、神さまの聖さに対する基本的なわきまえがあったのです。その人間は、神さまのご臨在の御前に立って神さまを礼拝することによって、神さまの聖さに対するより深いわきまえを培っていくことができたのです。 しかし、実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落し、「神のかたち」の本性を腐敗させてしまいました。それによって、罪が生み出す霊的な暗やみに閉ざされて、神さまの聖さに対する基本的なわきまえを失ってしまいました。 そのような状態にあった私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって罪を聖められ、新しく造り変えていただいています。それによって、再び、神さまの聖さに対する基本的なわきまえを自分のうちにもつものとしていただいています。その私たちは、イエス・キリストの贖いのうちにあって初めて、神さまのご臨在の御前に立つて、神さまを礼拝することができます。このことを、決して忘れないようにしたいと思います。
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