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説教日:2000年12月3日 |
確かに、テモテへの手紙第一・6章15節、16節では、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と言われています。無限、永遠、不変の栄光の神さまの「直接の御前」には、神さまによって造られたこの世界のどのようなものも存在することはできません。それは、先に用いたたとえを用いますと、燃える太陽の中に紙切れが存在することができないのと同じです。 しかし、実際には、この世界は神さまの御手によって造られたものであり、今も、神さまの御手によって支えられています。この世界とその中のすべてのものは、造り主である神さまの御手のうちに存在しています。 先々週は、それがどのようなことによっているかということをお話ししました。 きょうお話しすることは、そのことと関わっていますので、簡単にまとめてみましょう。 人間になぞらえて言うことになりますが、天地創造の御業を遂行されるに当たって、三位一体の神さまは、御父、御子、御霊の間で、「役割分担」をされました。 父なる神さまは、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する「役割」を担われました。それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光は、父なる神さまにおいて、常に、充満な形で表現されており、無限の豊かさをもって輝いています。その父なる神さまは、天地創造の御業をご計画されました。 御子は、父なる神さまのみこころにしたがって、実際に、創造の御業を遂行されました。その際に、造られたものをご自身の無限、永遠、不変の栄光によって「痛める」ことがないように、その栄光をお隠しになっておられます。 そして、御霊は、御子が遂行された創造の御業をこの世界の現実として実現してくださっています。 ずいぶん前に、何かの本で読んで、印象だけが残っているお話があります。それで私の脚色を加えてお話ししますと、次のようなお話になります。 ある所に、とても力の強い巨人がおりました。彼はまた、とても優しい心の持ち主で、鳥が大好きでした。それで、鳥が住みやすくなるようにと、森の手入れをしたり、鳥を襲うようなものが来るとそれを追い払ったりしていました。彼の力は鳥たちのために発揮されていました。 ある時、一羽の鳥が飛んで来て、彼の手に止まりました。彼はとても嬉しくなって、その鳥の頭を優しく撫でてあげました。ところが、彼が気がつくと、なんと、その鳥は首が折れて死んでいました。彼の力があまりにも強いために、そっと触れただけでしたのに、鳥の首の骨が折れてしまったのです。そのことがあってから、心の優しい巨人は、自分がどんなに鳥が好きでも、直接、鳥に触れてはいけないということを心に刻みました。 その巨人の力は、さまざまな形で、鳥たちを支え、鳥たちを守るために使われてきました。けれども、もし直接、鳥に触れるなら、ほんの少しの力も、鳥にとっては死をもたらす、とても危険なものであるのです。 神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であり、その栄光においても無限、永遠、不変の、聖なる方であるということには、これと通じる面があります。神さまが無限に豊かな方であり、その栄光も無限、永遠、不変の栄光であるので、神さまがお造りになったこの世界は、本当に豊かで、美しく、しっかりと保たれている世界です。けれども、神さまの無限の豊かさと、その輝きである栄光は、それが直接この世界に触れるようなことがあるとしますと、この世界がそれに一時も耐えられない程のものです。それで、神さまは、御子にあって、この世界に関わってくださるのです。 このような、三位一体の神さまにおける「役割分担」は、私たちの目からは、贖いの御業において、よりはっきりと見て取ることができます。 父なる神さまは、やはり、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられます。それで、贖いの御業のご計画をお立てになりました。 御子イエス・キリストは、父なる神さまのご計画にしたがって人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、死者の中からよみがえってくださって、私たちのいのちの源となってくださいました。その後、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座され、そこから、御霊を注いでくださいました。これらのことは、御業としては、今から二千年前に、したがって私たちの外で、しかし私たちのために成し遂げられた、いわば客観的な御業です。 また、十字架にかかって、私たちの罪のための贖いの御業を成し遂げられた後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストご自身は、今も生きておられます。 御霊は、父なる神さまの右の座に着座しておられる御子イエス・キリストの御霊として、御子によって遣わされました。私たちのうちに住んでくださっています。そして、御子が成し遂げてくださった贖いに基づいて、私たちに対してお働きになっておられます。 まず、私たちをイエス・キリストに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちをもって新しく生まれさせてくださいました。その結果、私たちは、イエス・キリストを信じて自分のうちに迎え入れるようになりました。それで、御霊が、イエス・キリストの御霊として私たちのうちに住んでくださっています。御霊は、イエス・キリストが確立してくださった義を私たちに当てはめてくださいました。それで、私たちは、すでに義と認められています。御霊は、今、私たちを聖め、イエス・キリストの栄光の「かたち」に似た者となるようにと、新しく造り変えてくださっておられます。 このようにして、無限、永遠、不変の栄光の神さまは、御子にあって、この世界にかかわってくださっています。 それは、十分なたとえではありませんが、耐火金庫の中に保管されている貴重品が、火事の火の中でも無事に守られるというようなことでしょう。その貴重品がお札や証書であれば、直接、火にさらされると燃えしてしまいます。けれども、耐火金庫に覆われていれば、燃えないですみます。御子は、ちょうど、私たちとこの世界にとって、「耐火金庫」のような役割を果たしてくださっておられます。 神さまの栄光を火事の火にたとえるのはどうかと思いますが、あくまで、もののたとえです。それとともに、そのようなたとえも許されるのではないかという面もあります。 たとえば、申命記4章23節、24節では、 気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。 と言われていますし、ヘブル人への手紙12章29節でも、 私たちの神は焼き尽くす火です。 と言われています。神さまの無限、永遠、不変の栄光は、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であり、この世界のどのようなものとも比べることもできず、すべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを示す、神さまの聖さを冒すものを、焼き尽くしてしまわれます。 いずれにしましても、御子は、栄光において無限、永遠、不変の神さまですが、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、この世界に接してくださっておられます。その一方で、御子は、その無限、永遠、不変の栄光において、常に父なる神さまと一つであられます。これは、耐火金庫の内側は貴重品に接しており、外側は、燃えさかる火事の火に接しているということに当たります。 このような御子のお働き(「役割分担」)は、私たちの目には、やはり、贖いの御業において、よりはっきりと見て取ることができます。 「神のかたち」に造られている人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、神さまの聖さをわきまえることなくなってしまいました。そのために、常に神さまの聖さを犯してしまう状態にあります。その意味で、神さまの、無限、永遠、不変の栄光は、罪のために、神さまの御前に堕落している人間にとって「焼き尽くす火」です。すべての人間は神さまの御前にさばきを受けることが避けられません。 そのような状態にあった私たちのために、御子は、贖いの御業を成し遂げてくださいました。無限、永遠、不変の栄光の神さまであられる御子が、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださり、そこで、私たちに下されるべき神さまのさばきをすべてその身に負ってくださいました。 その際に、御子は、無限、永遠、不変の神であられることをおやめになったのではありません。無限、永遠、不変の神さまが変化するというようなことは、天地がなくなっても、決してありえないことです。無限、永遠、不変の神さまであられる御子が、いわば、それに加えて、人の性質をお取りになったのです。くどいようですが、御子が人の性質をお取りになったからといって、それで、御子の神としての本質に変化が生じたということはありません。御子は、その人の性質において、さばきの苦しみをすべて味わってくださいました。これによって、御子は、私たちが受けなければならないさばきに対して、私たちを守ってくださる「耐火金庫」のようになってくださったのです。 テモテへの手紙第一・2章5節、6節では、 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 と言われています。 神さまは、その存在においても、一つ一つの属性においても、無限、永遠、不変の方です。また、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。そのような神さまは、創造の御業において、また、後には贖いの御業において、この世界にかかわってくださるために、三位一体の御父と御子と御霊の間で、「役割分担」をされました。そして、御子にあって、この世界にかかわってくださるようになりました。それが、この世界が無限、永遠、不変の栄光の神さまがお造りになったのに、なおもこのように明るく、温かく、豊かな世界として存在していることの奥にある「秘密」あるいは「わけ」です。 コロサイ人への手紙1章15節〜17節で、 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 と言われていますように、神さまは、御子にあって、この世界のすべてのものをお造りになりました。そして、御子にあってすべてのものを保っていてくださいます。それで、すべてのものは、御子にあって、無限、永遠、不変の神さまのものとして存在することができています。 また、先ほど引用しましたテモテへの手紙第一・6章15節、16節では、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。 と言われていました。 これを受けて、ヨハネの福音書1章18節では、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と言われています。 無限、永遠、不変の栄光の神さまは、御子にあって、ご自身を私たちに示してくださいました。それで、私たちは、御子にあって、無限、永遠、不変の神さまを知ることができますし、神さまの聖さをわきまえて、神さまを礼拝することができるのです。また、御子によらないでは、無限、永遠、不変の神さまを知ることはできませんし、神さまの御前に近づいて神さまを礼拝し、神さまとのいのちの交わりに生きることはできません。 御子を離れて、直接、神さまの御前に近づくことができると主張することは、神さまの聖さを冒すことです。特に、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまってからは、御子が成し遂げてくださった贖いに包まれなくても、神さまの御前に近づくことができると考えることは、神さまを罪の汚れと共存できる方としてしまうことです。より深い意味で、神さまの聖さを冒すことです。 それで、イエス・キリストは、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ヨハネの福音書14章6節 と言われましたし、ピリポに向かって、 ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。 ヨハネの福音書14章9節 と言われたのです。 このことをさらに確認する意味で、もし神さまが一位一体の神さまであられるとしたら、どういうことになるかということを、二週間前にお話ししたこととは少し違う角度から、考えてみましょう。 前にお話ししたときには、もし神さまが一位一体であられ、しかも、無限、永遠、不変の栄光の神さまであられるとしたら、神さまが、この世界をお造りになった途端に、この世界は、神さまの無限の栄光によって焼き尽くされてしまうということをお話ししました。その時用いたたとえでは、それは、ちょうど、太陽の中に紙切れが造り出されるようなものであるということもお話ししました。 これに対しまして、一位一体論を採る人々は、どのように考えるでしょうか。 正直に言いまして、私はその人々がどのように考えているのかは分かりません。それで、ここでは、予想される考え方を述べるだけです。 おそらくもっとも一般的なイメージは、ちょうど太陽から遠く離れている地球が太陽の熱によって暖められてはいるけれども、太陽の熱によって焼き尽くされることがないように、この世界が神さまから離れているから、神さまの栄光によって焼き尽くされることはない、というものでしょう。難しい言葉を使いますと、いわば、超越論的に神さまをこの世界から遠ざけることによって、この問題を解決しようとしているわけです。 けれども、これは、「相手」が太陽であるから言えることです。太陽は、その大きさが限られていますし、その放出する熱も限られています。その大きさが限られていますから、太陽から遠く離れることができます。しかし、その存在において無限、永遠、不変の神さまから、離れるということはできません。また、太陽が放出する熱も限られていますので、太陽から離れると、その熱によって溶かされることもなくなるということになります。けれども、神さまの栄光は無限、永遠、不変です。それで、どこか遠くに行けば、その栄光の度合いが弱くなるというようなことはありえません。 このように言いますと、聖書の中には、神さまに対して罪を犯した人間が、神さまの御前から離れて行ったということが記されているではないか、というような反論がなされることでしょう。けれども、それは、まさに、御子にあってご自身を示してくださっている、神さまの御前から離れて行っているということです。 たとえば、黙示録4章2節〜8節では、 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。7つのともしびが御座の前で燃えていた。神の7つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ6つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」 と言われています。この天における礼拝であっても、神さまの無限、永遠、不変の栄光が、そのまま(直接的に)現わされているのではありません。 もしここで、神さまの無限、永遠、不変の栄光がそのまま現わされていたとすれば、もっとも聖い生き物たちも、たちまちのうちに、その栄光によって焼き尽くされてしまっていたことでしょう。ここに記されている主のご臨在の栄光も、御子にあって、その御前に立っている者たちに合わせて(手加減されて)示されている栄光です。 神さまに対して罪を犯して、堕落してしまっている人間が、神さまの御前から離れ去ってしまっているということは、御子にあってこの世界にご臨在してくださっている神さまの御前から離れ去ってしまっているということです。 神さまの無限、永遠、不変の栄光そのものは、少しも衰えることのない栄光として、永遠に輝いています。また、その栄光が及ばないところはありません。それが神さまの聖さの現われです。もし神さまの栄光が、少しでも、また一時でも、衰えることがあるとしたら、また、その栄光が及ばないところがあるとしたら、その栄光は無限でもなく、永遠でもなく、不変でもなくなります。 この意味で、おそらく、一位一体論の立場をとる人が考えるであろうもう一つの可能性も、否定されます。それは、神さまがご自身の無限、永遠、不変の栄光を、御子にあってという形ではなく、栄光そのものを制限されることによって、この世界を守ってくださるという考え方です。 しかし、御子にあってという形ではなく、神さまの栄光そのものが制限されるということは、神さまの栄光そのものが、この世界にマッチするものに変わってしまうということです。それは、神さまの栄光が、無限、永遠、不変の栄光ではなくなってしまうということであり、神さまご自身が神さまでなくなってしまうことを意味しています。それは、神さまの聖さを否定することです。 ですから、神さまの無限、永遠、不変の栄光そのものは、少しも衰えることのない栄光として、永遠に輝いています。それで、どのようなものも、神さまの無限、永遠、不変の栄光そのものから離れていくというようなことはできません。ただ、この世界のすべてのものは、御子にあって造られ、御子のうちに保たれているので、神さまのものとして、また、神さまの御前に存在することができていますし、このように豊かで美しい世界として存在しているのです。 先ほどの耐火金庫のたとえを用いますと、この世界が御子にあって造られ、御子にあって保たれているということは、耐火金庫にたとえられる御子のうちにあって、この世界(宇宙)全体が守られ、保たれているということです。この世界が「耐火金庫」なのではありません。御子が「耐火金庫」です。この世界は「耐火金庫」である御子のうちに、神さまの宝物のように守られており、保たれているのです。 そして、この世界が御子にあって守られている世界であるので、そして、神さまが御子にあって、この世界にご臨在してくださっておられるので、「神のかたち」に造られている人間派神さまの御前に近づくことができます。また、その一方では、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落している人間が、神さまの〔ご臨在の〕御前から離れ去ることができるわけです。 しかし、聖書の御言葉は、御子にあって隠されている神さまの栄光が、より豊かな形で現わされる時が来ることを示しています。それが、イエス・キリストが父なる神さまの栄光を帯びて再臨される時です。その時に、すべての人は御子イエス・キリストにあって現わされる、より豊かな神さまの栄光の御前に立つようになります。 「より豊かな神さまの栄光」というのは、今、御子にあって示されている神さまの栄光に比べて、より充満な形で示されるようになる栄光という意味です。決して、神さまの無限、永遠、不変の栄光が、そのまま〔直接的に〕示されるということではありません。 マタイの福音書26章63節、64節には、イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜になされた、大祭司の家での尋問の様子が記されています。そこには、 それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」 と記されています。 また、主の再臨のことを記すペテロの手紙第二・3章8節〜10節では、 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 と言われています。 その時も、御子イエス・キリストは、先ほどの「耐火金庫」のように、私たちを覆ってくださいます。 けれどもそれは、神さまの栄光を徹底的に隠してくださるという形によってではありません。むしろ、これらの御言葉から分かりますように、御子イエス・キリストは、神さまの栄光をより豊かにお示しになります。それで、それに備えて、私たちを、ご自身が十字架の上での死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった、罪の贖いにあずからせてくださいます。いわば、「耐火金庫」に、さらに贖いという「シールド」を加えてくださったのです。 具体的には、ご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いによって、私たちの罪を、すべて「焼き尽くす火」によって焼き尽くされてしまったもののように、清算してくださいました。そして、ご自身が十字架の死に至るまでの生涯によって確立してくださった義によって私たちを包んでくださって、私たちを義と認めてくださっています。さらに、ご自身の復活のいのちにあずからせてくださって、ご自身の栄光にふさわしく造り変えてくださいます。それは、主イエス・キリストの再臨の日に、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって、復活することによって最終的に完成します。 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 ピリピ人への手紙3章20節、21節 繰り返しになりますが、それは、私たちが、御子イエス・キリストにあって示される、神さまのより豊かな栄光に触れるようになるということであり、御子イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、神さまのご臨在の御前により近づいて、神さまとのより親しい交わりのうちに生きるようになるということです。決して、神さまの無限、永遠、不変の栄光に直に触れるようになるということではありません。 私たちが復活の栄光にあずかって、どんなに栄光ある者に造り変えられたとしても、神さまの被造物であることには変わりがありません。神さまは、やはり、私たちと「絶対的に」区別される聖なる方です。ですから、その時に、神さまの無限、永遠、不変の栄光に直に触れることができるようになると考えることは、神さまと私たちの「絶対的な」区別を否定することであり、神さまの聖さを冒すことです。 ですから、私たちは、主イエス・キリストが再臨されて私たちの救いを完成してくださるその時にも、また、その後もとこしえに、神さまが無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方として、すべてのものと「絶対的に」区別される方であることをわきまえて、神さまを聖なる方として礼拝し続けることになります。
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