(第19回)


説教日:2000年12月10日
聖書箇所:創世記1章1節〜2章3節


 今日も、これまでお話ししてきました聖なるものであることの基本的な意味についてお話しします。いつものように、まず、このことを考えるための出発点である、神さまの聖さについてまとめておきます。
 神さまの聖さは、基本的に、神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。
 神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方です。存在において無限、永遠、不変の方ですし、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。また、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。
 しかし、このように言いましても、神さまによって造られたどのようなものも、神さまの無限、永遠、不変の栄光に直接的に触れることはできませんし、それを直接的に見ることもできません。繰り返しのたとえになりますが、それは、紙切れが燃える太陽に直に触れることができないのと同じです。また、これも繰り返しの引用ですが、テモテへの手紙第一・6章15節、16節で、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と言われているとおりです。
 私たちは、神さまの御手によって造られた世界の中に住んでいるもので、存在においても、知恵と知識においても、力においても限りのあるものです。それで、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であるということを、考えたり口にすることはできますが、神さまの無限の豊かさそのものを、ありのままに知ることはできません。まして、その現実に直接的に触れることは決してできません。
 そのように、神さまの無限の豊かさの現実に直接的に触れることができないばかりか、その豊かさをありのままを知ることができない私たちには、神さまと神さまによって造られたものとを比べることはできません。神さまは、人間の比較ということを超えた方で、この世界のどのようなものとも比べることはできません。そのような意味で、神さまはこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方です。そして、それが神さまの聖さの基本的な意味です。


 私たちには、神さまの存在と一つ一つの属性の無限の豊かさと、その輝きである無限の栄光をありのままに知ることはできませんが、神さまご自身は、それを完全に知っておられます。ヨハネの手紙第一・1章5節で、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と言われていますように、神さまのうちには暗いところがまったくありません。神さまは、ご自身がお造りになったこの世界のすべての物事を完全にご存知です。そればかりでなく、無限に豊かな、ご自身の存在と一つ一つの属性をすべて完全に知っておられます。それで、神さまの知恵と知識は無限、永遠、不変であるのです。
 神さまがすべてのことをご存知であるということは、しばしば、神さまがこの世界のすべての物事を知っておられるということとして理解されています。もちろん、神さまはそのような方です。けれども、神さまがすべてのことをご存知であるということは、何よりも、神さまがご自身の無限の豊かさを完全に知っておられるということを意味しています。
 人間的な言い方になりますが、神さまは、ご自身の存在と一つ一つの属性の無限の豊かさを、単なる知識として知っておられるのではありません。神さまは、ご自身のうちに暗いところがないばかりか、欠けたところもありません。生きておられる人格的な方である神さまは、ご自身においてまったく充足しておられる方です。神さまはご自身の無限の豊かさのうちにまったく充足しておられます。
 私たちの場合には、自分に与えられている能力に気づかないでいることがあります。そのために、その能力を死蔵させてしまっていることがあります。また、自分を取り巻いている豊かさに気がつかないこともあります。そのために、不平や不満が噴出してしまうこともあります。
 しかし、神さまには、このようなことはありません。神さまはご自身の無限の豊かさをすべてご存知ですし、その無限の豊かさのうちに、まったく充足しておられます。神さまにあっては、その無限の豊かさの一部が(「無限の一部」というような言い方はおかしいのですが)、一時でも、「死蔵」されてしまうというようなことはありません。神さまにあっては、その無限の豊かさが、すべて生きた現実となっているのです。その意味において、神さまは、永遠に、まったき充足のうちにおられます。
 この意味においても、神さまは神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方です。(「この意味においても」というのは、神さまと神さまによって造られたすべてのものの「絶対的な」区別には、私たちの目から見ますと、さまざまな面があるということです。)
 神さまは、ご自身において、永遠にまた完全に充足しておられますので、ご自身の必要を満たすために他の何ものも必要としてはおられません。神さまがこの世界をお造りになったのも、ご自身の必要を満たすためではありません。この世界をお造りにならなくても、神さまは永遠に、無限の豊かさをもって充足しておられます。むしろ、神さまがこの世界をお造りになったのは、この世界にある一つ一つのものを、ご自身の豊かさをもって満たしてくださるためです。このように、神さまは、神さまによって造られて、全面的に神さまの御手によって支えられているこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方です。

 このような神さまのまったき充足は、特に、神さまの本質的な特性である愛において現実となっています。すでにお話ししましたように、三位一体の神さまにあっては、御父、御子、御霊の交わりにおいて、無限、永遠、不変の愛が完全に表現されています。それで、神さまは、愛においてまったく充足しておられます。
 その神さまが、この世界をお造りになったのは、ご自身の欠けを満たすためではなく、ご自身の豊かさをもってこの世界のすべてのものを満たしてくださるためです。そして、そのことの中心にあるのは、「神のかたち」に造られている人間を、ご自身との愛の交わりの中に生かしてくださって、神さまの充足にあずかるようにしてくださることです。
 神さまがこの世界をお造りになったのは、「神のかたち」に造られている人間をご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛の交わりの中に生かしてくださることによって、神さまの充足にあずかるようにしてくださるためであるということは、天地創造の御業を記している創世記1章1節〜2章3節の記事から汲み取ることができます。
 今日は、そのような観点から天地創造の御業の記事を見て、二つのことを取り上げてお話ししたいと思います。
 一つは、すでに、この数週間にわたってお話ししてきたことです。神さまが、ご自身の無限、永遠、不変の栄光の直接の御前にこの世界を造り出されるなら、この世界は一瞬のうちに焼き尽くされてしまいます。それで、神さまは、この世界をお造りになるに当たって、三位一体の御父、御子、御霊の間で、いわば「役割分担」をされました。そのことは、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事からも汲み取ることができます。
 そのことをお話しする前に、少し回り道になりますが、改めて、その「役割分担」について確認しておきたいと思います。まず、父なる神さまは、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する「役割」を担われました。それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光は、父なる神さまにおいて常に表現され、無限の豊かさをもって輝いています。このように、無限、永遠、不変の神さまを代表しておられる父なる神さまは、天地創造の御業をご計画されました。
 御子は、父なる神さまのご計画のうちにあるみこころにしたがって、実際に、創造の御業を遂行されました。その際に、造られたものをご自身の無限、永遠、不変の栄光によって焼き尽くしてしまうことがないように、その栄光を徹底的にお隠しになっておられます。
 御霊は、この世界のあらゆる所にご臨在してくださって、御子が遂行された創造の御業をこの世界の現実として実現してくださっています。
 このことにつきまして、すでに(11月19日に)、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されています、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

という御言葉からお話ししました。
 このヨハネの福音書1章1節〜3節からは、三つのことを確認しておきたいと思います。
 一つは、永遠の「ことば」と呼ばれている御子が、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにあって充足しておられるということです。
 もう一つは、父なる神さまが御子を通してこの世界をお造りになったということです。
 そして、もう一つは、御父と御子の間にある永遠にして無限の愛の現実が、この造られた世界に向けて表現されたのが、天地創造の御業であるということです。このことから、この世界全体が御子を通して示されている神さまの愛に包まれていることと、その愛を受け止めるのは、「神のかたち」に造られている人間であることが考えられます。

 話を元に戻しますが、ヨハネの福音書1章1節〜3節ほどは、はっきりしていませんが、神さまが、この世界をお造りになるに当たって、御父、御子、御霊の間で「役割分担」をされたということは、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事からも汲み取ることができます。
 すでにいろいろな機会にお話ししたことを繰り返すことになりますが、創世記1章1節の、
初めに、神が天と地を創造した。
という言葉は、天地創造の御業の記事全体の「見出し」です。これは、私たちが実際に見ている、この宇宙のすべてのものが神さまの創造の御業によって存在するようになったということを宣言しています。この壮大な宇宙に存在するすべてのものと、その全体的な調和も、すべて神さまがお造りになったものであるということを示しています。
 天地創造の御業の記事の「見出し」である1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

という言葉は、この宇宙全体を視野に入れています。しかし、2節では、その視点を「」に移しています。そして、天地創造の初めに造り出された「」の状態について、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記しています。
 「形がなく、何もなかった」と言われている状態の「」は「大いなる水」に覆われており、その上に「やみ」がありました。このような「」そのものには、積極的なものはありません。「」そのものの力によって、今日私たちが目にしているような暖かさと明るさといのちに満ちている世界となっていくというような可能性はありません。
 そのような状態にあった「」ですが、そこには「望み」がありました。同じ2節で、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、そこに、神さまの御霊がご臨在しておられました。
 そして、3節では、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されています。
 神さまが、御霊によって、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり

と言われている状態の「」にご臨在してくださっており、そのご臨在の御許から発せられた、

光よ。あれ。

という「ことば」によって、この「」に「」があるようにしてくださったのです。

 神さまの創造の御業は、この後、すべてこれと同じ形で進められていきます。神さまが、「ことば」をもって、そして、御霊によって、創造の御業を進めておられるのです。
 それで、この天地創造の御業の記事に記されていることの中にも、三位一体の神さまの「役割分担」と「共同」による創造の御業の遂行が読み取れます。
 ただし、それは、御言葉をとおしての啓示が完成した後の時代に生きていて、御言葉の全体から導き出される三位一体の教理を知っている今日の私たちの目から読み取れるということです。この記事を書いたと考えられるモーセが、そのことをすでに分かっていたという意味ではありません。
 また、この記事から、三位一体の教理を導き出すことができるということでもありません。三位一体の教理は、これよりさらにはっきりとした御言葉の教えを総合して導き出されるものです。この記事は、そのように、御言葉の全体から導き出される三位一体の教理と調和しているのです。
 特に注目したいのは、2節で、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われていることです。
 神さまの御業をとおして、この「」がさまざまな面で整えられていき、やがてそこに植物が芽生え、生き物たちが群がり、「神のかたち」に造られている人間が住むようになります。しかし、神さまの御霊は、いまだ、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり

と言われている状態にあった「」に、すでに、ご臨在してくださっていました。
 これによって、この「」は、私たちの住み家であるよりも前に、神さまご自身が御霊によってご臨在してくださっている世界であることが示されています。いわば、この「」は、初めから、神さまが御霊によってご臨在される「神殿」として聖別されていたのです。そして、「神のかたち」に造られている人間は、神さまが御霊によってご臨在してくださっている、この「」において、神さまの御臨在の御前に立って神さまを礼拝することを中心とする、神さまとの愛の交わりに生きるものとされているのです。

 創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事から汲み取ることができるもう一つのことは、天地創造の御業には目的があるということです。
 神さまは知恵と力において無限、永遠、不変の方ですから、一瞬のうちに、この世界のすべてのものをお造りになることがおできになります。けれども、神さまはこの世界を、創造の六日に分けてお造りになりました。これによって、神さまは、ご自身がお造りになった世界が「歴史的な世界」であることをお示しになりました。神さまの創造の御業自体が、時間的な経過をたどって、一つの目的に向かっていることが示されています。当然、その御業によって造り出されたこの世界も歴史的な世界であることが予想されます。
 神さまの天地創造の御業の目的は、一見すると、創造の第六日の終わりのことを記す1章31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と言われていることにあるように思われます。
 確かに、続く2章1節では、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と言われていて、神さまによって造られたこの世界が第六日に完成していることを示しています。
 けれども、天地創造の御業自体は、そこで終わってはいません。2章2節、3節には、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています。

 2節の「神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」は、直訳すれば「神は第七日に、その作業を終えられた。」となります。
 新改訳が「なさっていたわざの完成を告げられた」と訳しているのは、その「終えた」という言葉(カーラー)が強調形(キッラー)で記されていますので、その強調形に「宣言する」という意味合いが含まれていると理解しているからです。ただ、その直前の1節の「天と地とそのすべての万象が完成された。」の「完成された」も、同じ言葉の(受動態ですが)強調形です。その意味では、この2節も「なさっていたわざの完成を告げられた」とするよりも、「なさっていたわざを完成された」と訳した方がいいと思われます。
 この「なさっていたわざを完成された」ということをどのように理解するかについては、いくつか意見があります。結論的に言いますと、ここに記されているのは、神さまが創造の第七日に天地創造の御業を完成されたことですが、そのために神さまは、二つのことをなさいました。
 一つは、いわば消極的なことで、2節後半に記されている、

第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

ということです。もう一つは、いわば積極的なことで、3節前半に記されている、

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

ということです。
 これがどのようなことであるかを詳しくお話しする余裕はありませんので、これまでお話ししてきたことと関連することだけをお話しします。
 まず、はっきりしていることは、神さまが、

第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

のは、神さまがお疲れになったからではありません。
 それでは、どういうことかと言いますと、一つには、神さまが創造の御業を終えられたことによって、確かに、すべてのものが完成していることが示されることになります。神さまが「やり残したこと」として振り返るものは一つもないということです。
 それ以上に、これも人間的な言い方になりますが、それまで、神さまの御思いが創造の御業の遂行に向けられていたのが、これによって、専ら「神のかたち」に造られている人間を中心とするこの世界そのものに向けられるようになったということを意味しています。
 先ほどお話ししたこととのかかわりで言いますと、この神さまの安息は、御父、御子、御霊の間に通わされている永遠にして無限の愛のうちにまったく充足しておられる神さまが、そのまったき充足を、いよいよ、ご自身がお造りになった世界に向けて表現されるようになったということ、そして、この世界を神さまの安息をもって包んでくださるということを意味しています。そして、それを自覚的に受け止めるのは、「神のかたち」に造られている人間です。
 このような意味をもっている神さまの安息は、第七日全体を包んでいます。そして、そこから、

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

という、第七日全体の祝福と聖別が流れ出てきています。

 お気づきのように、第六日までは、

こうして夕があり、朝があった。第 ・・・・ 日。

と言われていますように、その日は閉じています。しかし、第七日は閉じていません。つまり、この第七日には、今日に至るまで連綿と続いてきている、「神のかたち」に造られている人間を中心とする歴史が造られてきているのです。それは、本来、神さまが、「神のかたち」に造られている人間を、ご自身との愛の交わりの中に生かしてくださることによって、ご自身のまったき充足にあずからせてくださることを目的とする歴史として、祝福され聖別されています。
 このようにして、「神のかたち」に造られている人間が歴史を造る舞台であるこの「」は、神さまが御霊によってご臨在される「神殿」としての意味をもった世界として、天地創造の初めから聖別されていました。また、「神のかたち」に造られている人間がこの「」において造る歴史全体が、神さまのまったき充足にあずかるようになることを目的として、祝福され聖別されています。
 けれども、実際には、「神のかたち」に造られている人間は、造り主である神さまに対して罪を犯してしまい、神さまの御前に堕落してしまったために、このような、この世界とそこに住む自分たちの目的を見失ってしまいました。
 しかし、アウグスティヌスも、その『告白』の冒頭で、

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。
 (山田 晶訳・中央公論社)

と告白しています。「神のかたち」に造られている人間は、造り主である神さまのご臨在の御前に帰って、神さまとの愛の交わりにあずかることによって与えられる、まったき充足を得るまでは、真の安息を得ることはできません。
 その神さまとの愛の交わりは、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって成し遂げてくださった罪の贖いによって、死と滅びの中から贖い出していたたくことによって、初めて、私たちの現実となります。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
ローマ人への手紙5章8節〜11節

 


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