(第20回)


説教日:2000年12月17日
聖書箇所:創世記2章1節〜3節


 今日も、聖なるものであることの基本的な意味についてお話しします。今日は、特に、先週お話ししましたことを補足するお話をいたします。そのために、先週お話ししたことの繰り返しが多くなることをご了承ください。
 いつものように、まず、神さまの聖さの基本的な意味についてまとめておきましょう。言うまでもなく、神さまの聖さの基本的な意味をわきまえることは、聖なるものであることを理解するための出発点です。
 神さまの聖さは、基本的に、神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。
 神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということには、「根拠」となることがあります。それは、神さまが、あらゆる点において無限に豊かな方であるということです。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方ですし、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。また、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。それで、神さまは、神さまがお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方なのです。


 私たちは、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であるということを考えることはできますが、神さまの無限の豊かさそのものを知ることはできません。まして、その現実に触れることは決してできません。
 それは、一つには、私たちの考える力と理解力、また想像力に限界があることによっています。この点だけを取ってみますと、私たちは、神さまの無限の豊かさを、自分たちが経験している豊かさになぞらえて理解しているたけであるということになります。私たちは、そのようにしてしか、神さまの豊かさを理解することはできません。
 私たちが神さまの無限の豊かさそのものを知ることも、その現実に触れることができないことは、それ以上に、神さまの存在と一つ一つの属性の輝きである栄光が無限の栄光であることによっています。この点において、これまで繰り返し用いてきました、紙切れが太陽に直接的に触れることができないように、私たちは、神さまの無限の栄光に直接的に触れることができないというたとえが当てはまります。
 このように、私たちは、神さまの無限の豊かさを、自分たちの経験している豊かさになぞらえてしか理解することはできません。けれども、神さまは、私たちをお造りになった方であり、私たちの限界を十分にご存知であられますので、ご自身のことを私たちの限界に合わせてお示しくださっておられます。それで、聖書の中では、神さまはご自身のことを「人間になぞらえて」、すなわち、擬人化的な表現で、示してくださっておられます。

 これを、神さまのお働きとしてみますと、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間で、この世界に対する御業を遂行されるに当たっての「役割分担」をしてくださって、父なる神さまが、御子を通して、御霊のお働きによってご自身を啓示してくださっていることによっています。
 その「役割分担」において、父なる神さまは、あらゆる点において無限に豊かであり、無限、永遠、不変の栄光のうちにおられる神さまを代表しておられます。ですから、どのような被造物も、父なる神さまにおいて現わされている無限、永遠、不変の栄光に直接的に触れることはできません。
 御子は、無限、永遠、不変の栄光を徹底的にお隠しになって、この造られた世界に関わってくださる役割を担っておられます。それで、御子が、無限、永遠、不変の栄光のうちにおられる父なる神さまを、私たちに分かる形でお示しになりました。この意味で、御子は私たちにご自身を啓示してくださる神さまです。
 そして、御霊は、同じようにご自身の無限の栄光をお隠しになって、私たちの内側に働きかけてくださって、御子か啓示してくださっている神さまと、神さまの御業とみこころを悟らせてくださいます。
 これによって、神さまは、私たちが受け止めることができる形でご自身を示してくださっています。それで、私たちは、神さまが生きておられる人格的な方であることを知ることができますし、神さまをより親しい方として知ることができるようになっています。
 しかし、その一方で、これによって、神さまが自分たちとあまり違わない方であると考えてしまう危険が生まれてしまいます。せいぜい、自分たちよりはるかに優れた方であるというように、自分たちと比較できる方であるかのように考えてしまいやすいのです。それによって、神さまの聖さを冒すことになってしまいます。(すでにお話ししましたように、神さまは、この世界のどのようなものとも比べることはできない方であるという意味で、この世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方です。)
 このような危険は、特に、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまったことによって、よりいっそう顕著なものになっています。けれども、それは、人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落する前にすでにあった危険です。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
創世記3章5節

という、誘惑者の言葉を信じてしまった時のエバは、まだ罪を犯して堕落する前ですが、明らかに、その危険の中に落ち込んでしまっています。

 このように、私たちは、神さまの無限の豊かさをありのままに知ることはできませんし、それに直接的に触れることはできません。けれども、神さまは、ご自身のすべてをご存知であられます。その無限の豊かさを完全に知っておられますし、それによって満たされ、充足しておられます。
 神さまは、特に、ご自身の人格の本質的な特性である愛においてまったく充足しておられます。このことは、ヨハネの福音書1章1節、2節に記されている、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

という言葉から汲み取ることができます。
 ここでは、「初めに、ことばがあった。」ということと、「ことばは神であった。」ということによって、「ことば」が永遠の存在であり、無限、永遠、不変の栄光の神であられることが示されています。
 さらに、「ことばは神とともにあった。」ということが繰り返し述べられて強調されています。この「神とともに」という言い方(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が父なる神さまと向き合っていることを示し、そこに永遠の愛の交わりがあることが暗示されています。
 「ことば」が父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられることは、後に18節で、「ことば」のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と呼ばれていることによって確証されます。

 もし、神さまが一位一体であるとしたら、神さまは永遠の次元においては「独りぼっち」であるということになります。そして、神さまの愛が無限、永遠、不変の愛であっても、それを表現する相手がいないということになります。その場合、神さまは、ご自身の愛を受け止める存在が必要となりますので、この世界をお造りになって、この世界に向けてご自身の愛を表現されるようになったということになります。そうしますと、神さまもご自身のお造りになったものに依存されるということになり、神さまと神さまによって造られたこの世界のすべてのものとの間の区別は、「絶対的な」ものではなくなります。
 また、その場合には、神さまは無限、永遠、不変の愛をそのまま表現することができなくなります。なぜなら、神さまの無限、永遠、不変の愛を受け止めることができる無限、永遠、不変の存在がいないからです。
 これに対して、生まれたばかりの赤ちゃんであっても、親の精一杯の愛を受けることができるように、人間も、神さまの無限、永遠、不変の愛を受け止めることができるのではないか、と言われるかもしれません。確かに、生まれたばかりの赤ちゃんは、一方的に親の愛を受けるだけです。そのように、人間も、神さまの愛を一方的に受けるだけであれば、神さまの無限、永遠、不変の愛を受けることはできるのではないでしょうか。
 しかし、赤ちゃんと親の愛の違いは、程度の違いです。それで、これを、「絶対的に」区別される、神さまの無限、永遠、不変の愛と人間の愛の関係にそのまま当てはめることはできません。
 神さまの愛は無限、永遠、不変の愛ですので、その輝きである栄光もまた無限、永遠、不変です。それで、神さまの無限、永遠、不変の愛をそのまま受け止めることができる存在も、栄光において無限、永遠、不変の存在でなければならないのです。神さまによって造られたどのようなものも、神さまの愛の無限の栄光に耐えられるものではありません。
 あるいは、こう言ったらいいでしょうか。神さまが無限、永遠、不変の愛を完全に表現されるということは、神さまが、ご自身をそのまま、その愛しておられる相手にまったく「お与えになる」ということを意味しています。そこに「包み隠すもの」があるとしたら、無限、永遠、不変の愛の完全な表現ではなくなります。無限、永遠、不変の栄光の神さまがそのような意味でご自身をまったく「お与えになる」としたら、神さまによって造られたどのようなものもそれに耐えることはできません。それは、例のたとえを用いますと、太陽の方が紙切れに触れてくるようなことです。
 また、神さまが無限、永遠、不変の愛を完全に表現されるということは、愛しておられる相手を、まったくご自身のものとして、ご自身の御前に立たせてくださることを意味しています。そのように、神さまの無限、永遠、不変の栄光の御前にまったく近づけられるとしたら、この場合は一位一体論の上に立つわけですから、直接的に神さまの栄光に触れることになります。神さまによって造られたどのようなものも、それに耐えることはできません。
 もちろん、神さまは無限、永遠、不変の愛をもって私たちを愛してくださっておられます。けれども、神さまは、その愛を私たちに直接的に示されるのではありません。常に、御子イエス・キリストにあって示してくださいます。それで、私たちも、御子イエス・キリストにあって、神さまの愛を受け止めることができますし、御子イエス・キリストにあって、神さまを愛することができるのです。
 このように、神さまが愛であり、その愛が無限、永遠、不変の愛であるということは、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間においてのみ現実のことになります。御父、御子、御霊の間においては、神さまの無限、永遠、不変の愛が完全な形で表現されています。その意味で、神さまは、愛においてまったく充足しておられます。

 先ほどの、ヨハネの福音書1章では、1節、2節に続きまして、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。
 これは今お話ししましたような意味での1節、2節とのつながりで理解しなければなりません。つまり、この世界の「すべてのもの」は父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られたということです。
 ここには(ここばかりでなく聖書全体を通しても)、この世界が神さまの必要を満たすために造られたというような考え方はまったくありません。むしろ、ここでは、父なる神さまとの永遠にして無限の愛のうちに充足しておられる御子が、「すべてのもの」をお造りになったと言われています。
 ですから、御子は、ご自身の充足をこの世界に向けて表現してくださり、この世界のすべてのものを、ご自身の充足によって包んでくださるために、この世界を創造してくださったのです。それは、特に、「神のかたち」に造られている人間を、父なる神さまとの永遠にして無限の愛の交わりにあって充足しておられるご自身の充足にあずからせてくださるようになることを意味しています。

 このように、神さまの天地創造の御業の目的は、お造りになったものを、ご自身の安息にまったくあずかるようにしてくださることにあります。そのことは、天地創造の御業が創造の六つの日にわたってなされてきて、第七日にその御業を完成された、ということからも汲み取ることができます。
 創世記2章1節〜3節には、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と記されています、
 先週お話ししたことを簡単に復習しておきますと、2節で、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。

と訳されている部分には「告げる」という言葉はありませんので、その部分は、単純に「その御業を完成(完結)された」と訳した方がいいと思われます。
 神さまは、第七日に、それまでなさってきた創造の御業を完成しておられるのです。
 そのために神さまは、二つのことをなさいました。
 一つは、私たちの目から見ますと、消極的なことで、2節後半に記されている、

第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

ということです。もう一つは、私たちの目から見ますと、積極的なことで、3節前半に記されている、

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

ということです。

 まず、神さまが、

第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

ということですが、これは、神さまがお疲れになったから休まれたということではありません。イザヤ書40章28節で、

  あなたは知らないのか。聞いていないのか。
  主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
  疲れることなく、たゆむことなく、
  その英知は測り知れない。

と言われているとおりです。
 むしろ、この神さまの安息は、御父、御子、御霊の間に通わされている永遠にして無限の愛のうちにまったく充足しておられる神さまが、そのまったき充足を、いよいよ、ご自身がお造りになったこの世界に向けて表現されるようになったということ、そして、この世界を神さまの安息をもって包んでくださるということを意味しています。
 このような意味をもっている神さまの安息は、第七日全体を包んでいます。そして、そこから、

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

という、第七日全体の祝福と聖別が流れ出てきています。
 神さまが第七日を祝福して、聖別してくださったというときの祝福と聖別は、深いところでつながっています。
 この「聖なるものであること」についてのお話の最初の方で、繰り返してお話ししましたが、神さまがあるものを聖なるものとしてくださることの基本的な意味は、神さまがそれを特別な意味でご自身のものとしてくださり、ご臨在の御前により近いものとしてくださることにあります。
 一般には、聖なるものとするということは、汚れを聖めることであると考えられていますが、聖なるものとすることの基本的な意味は、神さまがそれを特別な意味でご自身のものとしてくださり、ご自身により近く、また、より深くかかわらせてくださることにあります。そのようにしてくださるためには、もしそれが汚れている状態にあれば、その汚れを聖めてくださらなければなりません。ですから、汚れを聖めてくださることには、神さまがそれを特別な意味でご自身のものとしてくださり、ご自身により近くまた深くかかわらせてくださるという、さらに深い目的があります。
 一方、神さまがあるものを祝福してくださることは、それを、神さまの豊かさにあずからせてくださることを意味しています。特に、それは。いのちの豊かさにかかわっていて、より豊かないのちにあずからせてくださることを意味しています。創造の御業における最初の祝福は、初めて生き物たちが造られたときになされました。そのことを記す創世記1章22節には、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されています。
 「神のかたち」に造られている人間のいのちは、神さまのご臨在の御前に近づけられて、神さまとの愛の交わりに生きることにあります。それで、神さまの祝福は、神さまのご臨在の御前により近づけられて、より深く豊かな愛にある交わりの中に生かしていただくことを意味しています。
 この意味で、神さまの祝福と聖別はほぼ同じことを意味していて、ただ、その強調点が違うだけであると考えられます。祝福においては、神さまの豊かさにあずからせてくださることが前面に出ており、聖別においては、特別な意味で神さまのものとされて、神さまの御臨在の御前に近づけられることが前面に出ています。
 さらに、これらのことを考え合わせて見ますと、神さまが創造の御業を休まれたことと、神さまが第七日を祝福して聖別してくださったことは、一つのことの裏表であることが分かります。

 以上のことを踏まえてのことですが、ここには少し分かりにくいところがありますので、それを、改めてお話ししたいと思います。
 天地創造の第六日の御業を記す1章31節では、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われており、2章1節では、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と言われています。神さまによって造られたこの世界は、第六日までの御業によって完成しています。
 それなのに、第七日に、なさっていた御業を完成されたということはどういうことかという疑問が出てきます。
 実際、新改訳は、この点を解決しようとして、「完成する」がヘブル語では強調形で記されていますので、その強調形に「宣言する」という意味を読み取って、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。

と訳しています。また、(アアルダースのように)「完成した」は大完了であって、第七日までには「すでに完成していた」ことを示しているとする見方もあります。
 しかし、この個所は、そのように解釈する必要はありませんし、むしろ、しないほうがよいと思われます。
 神さまによって造られたこの世界だけに注目しますと、確かに、この世界は、第六日において完成しています。先ほども引用しました1章31節では、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われているとおりです。
 しかし、それは、神さまによって造られた「この世界の完成」であって、神さまの「創造の御業の完成」ではありません。創造の御業は、天と地とその中のすべてのものをお造りになっただけでは完成していないのです。これが、この個所を理解するための「鍵」です。
 それは、さきほどお話ししましたように、天地創造の御業の目的が、ただ単に、この世界をお造りになること自体にあるのではなく、「神のかたち」に造られている人間を中心とするこの世界のすべてのものを、ご自身のまったき充足(安息)にあずからせてくださることにあるからです。

 神さまは、天と地とその中のすべてのものを素晴らしくお造りになりました。神さまご自身が「見よ。それは非常によかった。」とご覧になったほどです。それで、この世界は、放っておいても自動的に動いていくのではないかと思われそうです。実際、理神論者はそのように考えています。ちょうど、時計職人が時計を作ってゼンマイを巻くと、後は、時計が自動的に動いていくように、この世界も自動的に動いていくようになっているというようなことです。
 けれども、神さまの創造の御業の目的は、お造りになったものを、ご自身のまったき充足(安息)にあずからせてくださるという、さらに深いところにあります。それで、神さまの創造の御業は、第七日をご自身の安息の時とし、この日をご自身のまったき充足で満たしてくださることと、そのために、この第七日を祝福して聖別してくださることをもって初めて、完成し完結したのです。
 しかも、神さまは、創造の御業の第六日に完成した段階の「世界を」祝福し聖別してくださったのではなく、「第七日を」祝福し聖別してくださいました。
 先週お話ししましたように、この第七日は、いまだ閉じていません。神さまがお造りになったこの世界において、「神のかたち」に造られている人間を中心として歴史が築かれていきますが、第七日は、その歴史が造られる時間的な「舞台」です。神さまは、このような意味をもっている第七日全体を祝福し聖別してくださっているのです。
 ただ単に、第六日に完成した段階のこの世界を祝福し聖別てくださったというだけであれば、この世界の歴史の出発点において、神さまがこの世界を祝福し聖別してくださったということになります。それは、先ほどの時計のたとえで言えば、神さまが時計のゼンマイを巻いてくださるというようなことに当たると理解されかねません。そこには、先ほどの理神論者たちが考えるように、後は自分たちに与えられている可能性によって歴史が造られていくだけである、というような余地が生まれてきます。
 しかし、神さまが創造の御業の「第七日」を祝福して聖別してくださったことは、その第七日全体にご自身が深くかかわってくださることを意味しています。神さまの安息は第七日全体を覆っており、その祝福と聖別は第七日全体に下されています。それで、神さまの安息も、祝福と聖別も過去のものではなく、今も、この時代を覆っています。

 先ほどの、ヨハネの福音書1章1節〜3節から汲み取れますように、天地創造の御業は、父なる神さまとの永遠にして無限の愛の交わりのうちに充足しておられる御子によって遂行された御業です。それで、天地創造の御業においては、無限、永遠、不変の愛においてまったく充足しておられる神さまの愛と充足がこの世界に向けて表現されるようになります。その神さまの愛におけるまったき充足がこの世界を覆っているということを、自覚して受け止めるのは、「神のかたち」に造られている人間です。
 それで、先週も引用しましたが、アウグスティヌスが『告白』の冒頭で、

あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。

と告白していますように、私たちは、御子イエス・キリストにあってご自身を示してくださっておられる神さまのご臨在の御許において、神さまの愛に包んでいただくようになるまでは、真の安息を得ることはできません。
 また、これを、あえて神さまの側から見るとしますと、どうなるでしょうか。このことを考えるために、これまでお話ししたことを合わせて考えてみたいと思います。
 永遠にして無限の愛のうちに完全に充足しておられる神さまが、御子にあってこの世界をお造りになり、この世界を御子にあってご自身の無限の愛と充足で包んでいてくださいます。このことを自覚的に受け止めることができるのは、「神のかたち」に造られている人間です。
 また、神さまは、天地創造の御業において、創造の第七日をご自身の安息の時としてくださり、第七日全体を祝福し聖別してくださいました。これが、単に人間の安息の時というのではなく、神さまご自身の安息の時であるということに注意してください。それは、「神のかたち」に造られている人間が造る歴史の全体をご自身の安息をもって包んでくださり、ご自身のいのちの豊かさにあずからせようとしてくださっているみこころの現われです。
 そして、第七日をご自身の安息の時とし、その日を祝福し聖別してくださるまでは、ご自身の御業は終わっていないとされました。
 これらのことを考え合わせますと、私たちをご自身の愛にある安息のうちにまったく充足させてくださるまでは、創造の第七日におけるご自身の安息は決して完成しない、という神さまの御声が、歴史を通してこの世界に響き渡っていることに気がつきます。
 そして、その御声は、そのようにご自身の愛が向けられているにも関わらず、ご自身に対して罪を犯して、御前から離れ去ってしまった人間を、なおも、ご自身の愛の御許に引き取ってくださるために、御子イエス・キリストをなだめの供え物として備えてくださった贖いの御業において、より鮮明に響き渡るようになりました。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの手紙第一・4章9節、10節


 ここに、私たちをご自身の愛にある安息のうちにまったく充足させてくださるという、神さまの確固たるご意志が感じられます。
 しかし、ここには、疑問に思えることがあります。それは、三位一体の御父、御子、御霊の間には無限、永遠、不変の愛が通わされており、神さまはその愛のうちにまったく充足しておられます。その神さまが、わざわざ、天地創造の御業を遂行されて、ご自身の愛を、「神のかたち」に造られている人間を中心とするこの世界のすべてのものに向けて表現なさるのは、なぜなのかということです。さらには、そのように、まったき充足のうちにおられる神さまが、私たちをご自身の愛にある安息のうちにまったく充足させてくださるまでは安息されない、というのはおかしいのではないかということです。
 これに十分な形で答えることは、私はもちろん、誰にもできません。けれども、私たち人間のことを考えてみましても、真に人を愛することができる人は、自分自身が愛にあって充足している人です。自分自身が愛において充足している人は、他の人を愛します。そのことを考えますと、無限、永遠、不変の愛にあってまったく充足しておられる神さまが、「神のかたち」に造られている人間を中心とするこの世界のすべてのものに向けてご自身の愛を表現してくださっておられることは理解できます。そして、神さまがこの世界をお造りになったのが、ご自身に何らかの欠けがあって、その欠けを満たすためではなく、ひとえに私たちを愛してくださるためであることも理解できます。
 また、神さまがそのような愛で私たちを愛してくださったのであれば、私たちをご自身の愛のうちにまったく充足させてくださるまでは、ご自身の安息も完成しないとされることも理解できます。
 神さまは、無限、永遠、不変の愛のうちにまったく充足しておられます。そして、御子イエス・キリストにあって、その愛をもって私たちを愛してくださっておられます。それで、まことに大胆な告白ですが、私たちを完全にご自身のものとしてくださるまでは、第七日における神さまの安息は完成しません。神さまは、あなたをご自身の愛のうちにまったく充足させてくださるまでは、ご自身が最終的に安息されることはありません。

 


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