(第21回)


説教日:2000年12月31日
聖書箇所:創世記1章26節〜2章3節


 先週は2000年のクリスマス礼拝にちなんだお話をしましたので、一週の間が空きましたが、今日も、これまでお話ししてきました「聖なるものであること」の基本的な意味についてのお話を続けます。今日は、前回と前々回お話したことをさらに補足するお話をいたします。そのために、特に前半の部分においては、多少の補足を加えますが、前回と前々回お話ししたことを、かなり繰り返すことになります。
 まず、いつものように、このことを考えるうえでの出発点である神さまの聖さの基本的な意味について、簡単にまとめておきましょう。
 神さまの聖さは、基本的に、神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。
 神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということは、神さまと神さまによって造られたすべてのものを、人間が比べてみたときに、神さまの方が造られたすべてのものよりもはるかに大きくて偉大な存在であるという意味ではありません。神さまは、人間の限られた思考力と想像力によってなされる比較対照を越えた方です。
 よく、「神」とは、人間が「よいもの」、「よいこと」と考えているすべてのものを理想化したものである、というようなことが言われます。けれども、それは、人間の限られた思考力と想像力によって考えられた「神」です。人間の思考力と想像力を尽くして最高の存在を考えても、それは、人間の思考力と想像力の限界の中にあります。とても、神さまと比べることができるようなものではありません。それは、想像の産物でしかありませんが、かりに、そのような存在があったとしても、そのようなものを神であると考えることは、神さまの聖さを冒すことです。


 神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるのは、神さまが、あらゆる点において無限に豊かな方であるからです。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方ですし、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。また、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。それで、神さまは、神さまがお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方なのです。そして、そのことを表わすのが、神さまの聖さです。
 人間の場合には、ある人が豊かであるというときには、その人が多くの物を持っていることを意味する場合が多いのですが、神さまが無限に豊かな方であるということは、神さまが無限に多くの物を持っておられるということではありません。神さまは、ご自身で無限に豊かな方なのです。
 確かに、神さまは天地万物をお造りになった方です。それで、神さまはこの世界のすべてのものを所有しておられます。けれども、それで、神さまの無限の豊かさがさらに豊かになったということはありません。また、神さまはこの世界をご自身の豊かさをもって満たしてくださっておられますが、それで、神さまの豊かさから何かが失われることもありません。神さまの豊かさは無限であり、永遠に不変です。
 とはいえ、その不変であることをコップの中に水が一杯になっていて、その水が、もうそれ以上は増えようがないというようなイメージで考えてはならないと思います。そのイメージでは、その水はそこで静止してしまってしまっています。神さまの無限の豊かさが永遠に不変であるということを、そのように、どこかで止まってしまっていることのように考えてしまってはならないと思われます。思考力にも想像力にも限りがある私たちとしては、「無限にあふれている豊かさ」としてイメージするほかはありません。
 いずれにしましても、天地創造の御業によってこの世界が造り出されたにもかかわらず、神さまの豊かさが無限であり、永遠に不変であるのは、一つには、この世界のすべてのものが神さまによって造られたものであって、もともと神さまのものであるということによっています。
 けれども、それ以上に、神さまの豊かさが無限であるということ自体が、それが増えたり減ったりしないことを意味しています。何かが増えたり減ったりするのは、それが無限ではないからです。「ここまで」という限りがあるから、それ以上とか、それ以下ということが言えるのですし、増えたとか減ったということが言えるのです。
 このように、神さまはご自身で無限に豊かな方です。そのことを、神さまの「自己充足性」と呼びます。
 一般に、神さまの「自己充足性」ということは、神さまが他の何ものにも依存されることがなく、ご自身で完全に満ちておられる方であることを意味しています。
 私たちは、これまで、そのことを、神さまが永遠に生きておられる人格的な方であることから考えてきました。神さまは人格的な方ですから、ご自身の無限の豊かさを知っておられます。ただ、知識として知っておられるだけでなく、その豊かさのうちに、まったく充足しておられます。
 私たちは、特に、その充足は、神さまの人格の本質的な特性である愛における充足であることに注目してきました。三位一体の神さまにあっては、御父、御子、御霊の間に無限、永遠、不変の愛が通わされています。それで、神さまは愛において永遠に充足しておられます。

 このことは、私たちの信仰の姿勢にとって、とても大きな意味をもっています。それは消極的な面と積極的な面から考えることができます。
 消極的には、神さまはご自身のうちに何らかの欠けがあって、その欠けを満たすために、私たちを含めたこの世界をお造りになったのではないということを意味しています。むしろ、神さまは、ご自身の豊かさをもって、私たち人間はもちろんのこと、この世界のすべてのものを、それぞれの特性にしたがって、満たしてくださっておられます。
 ですから、私たちと神さまとの関係は、世間で考えられているような、人間が常日頃から「神」の世話をしていると、まさかの時に「神」が助けてくれるというような、「持ちつ持たれつ」の関係ではありません。神さまと私たちの関係が「持ちつ持たれつ」の関係であると考えることは、神さまにも欠けがあると言うことに等しく、神さまの聖さを冒すことです。まして、人間が「神」の世話をしないので、「神」が怒って災いを下すというような考えは、よりいっそう神さまの聖さを冒すものです。
 気をつけていませんと、私たちの中にも、現われてくる形は違っても、これと同じような発想が生きていて、神さまとの「持ちつ持たれつ」の関係の中で、神さまに礼拝をささげ奉仕をするというようなことになりかねません。そこでは、礼拝や奉仕をしないと神さまが怒るから、礼拝や奉仕をするというようなことになってしまいます。
 積極的には、神さまが天地創造の御業を遂行なさったのは、そのように、あらゆる点において、まったく充足しておられる神さまが、ご自身の充足をもってすべてのものを包んでくださるためであったことを意味しています。
 神さまは人格的な方です。それで、神さまの充足は、ご自身の人格的な特性である愛における充足です。その愛における充足をもって、ご自身がお造りになったすべてのものを包んでくださることが、天地創造の御業の目的でした。そして、そのことを受け止めるものとして、神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになりました。
 先ほど、私たちの礼拝や奉仕にかかわる危険についてお話ししましたが、私たちの礼拝奉仕の基本的な意味につきましては、後ほどお話しします、神さまが「神のかたち」に造られている人間に委ねてくださっている「歴史と文化を造る使命」とのかかわりで考えるべきものです。
 そして、あらかじめ申し上げておきますと、その「歴史と文化を造る使命」の中心は、まさに、神さまの創造の御業の目的が、ご自身の愛におけるまったき充足をもって、お造りになったすべてのものを包んでくださることにあるということを自覚して受け止めて、神さまとの愛の交わりにある充足のうちに生きることにあります。このことが欠けているなら、私たちの造る歴史も文化も、神さまを中心とした歴史や文化にはなりません。

 神さまの創造の御業の目的は、ご自身の愛におけるまったき充足をもって、お造りになったすべてのものを包んでくださることにあります。言い換えますと、お造りになったすべてのものを、それぞれの特性にしたがって、ご自身の無限の豊かさから満たしてくださることにあります。このことは、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事から汲み取ることができます。
 天地創造の御業において、神さまが最初に造り出された状態の「」のことを記す1章2節では、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり

という状態にあった「」に、すでに、神さまの御霊がご臨在しておられました。これによって、この「」は、何よりもまず、神さまがご臨在してくださる所として、いわば、聖別されていることが示されています。
 それとともに、イザヤ書45章18節で、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

と言われていますように、神さまは、この「」を「人の住みか」として形造ってくださいました。
 創造の御業の初めから、御霊によってこの「」にご臨在された神さまは、ご自身がご臨在される場所としての意味をもっているこの「」に、やがて「神のかたち」に造られるようになる人間を住まわせてくださったのです。それは、人間を、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださって、ご自身との愛の交わりにあるいのちに生かしてくださり、ご自身の安息にあずからせてくださるために他なりません。
 このように、神さまの天地創造の御業は、あらゆる点で無限に豊かである神さまが、ご自身の充足をもってこの世界のすべてのものを包んでくださることによって、ご自身の無限、永遠、不変の栄光をこの世界に映し出してくださることを目的としています。特に、愛を本質的な特質とする人格的な方である神さまの充足が表現されて、「神のかたち」に造られている人間をご自身との愛の交わりの中に充足させてくださることがその中心にあります。          
 さらに、そのことは、創世記2章1節〜3節において、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と言われていることに、よりはっきりとあかしされています。
 造られたこの世界そのものを見ますなら、この世界は、創造の御業の第六日に完成しています。1章31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と言われており、2章1節で、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と言われているとおりです。
 しかし、そのように、この世界が完成したことは、神さまの創造の御業の完成・完結を意味してはいませんでした。それが、2章2節、3節で、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と言われていることの意味することです。
 神さまの創造の御業は、第七日をご自身の安息の時としてくださり、第七日を、祝福して聖別してくださることによって初めて、完成し完結したのです。
 神さまが第七日をご自身の安息の時としてくださり、この第七日を祝福して聖別してくださったことは、あらゆる点において無限に豊かな方であり、永遠に充足しておられる神さまが、ご自身の充足をこの世界に向けて表現してくださって、ご自身の安息もって造られたすべてのものを包んでくださることを意味しています。
 しかも、この神さまの安息と、祝福と聖別は第七日全体を覆っています。そして、第七日は未だ閉じていません。ですから、今日に至るまで、神さまの安息と、祝福と聖別が覆っている第七日は続いています。
 第七日は、イエス・キリストが再び来てくださって、贖いの恵みにあずかっている神の子どもたちが築いてきた歴史と文化を完成して、新しい天と新しい地の栄光に満たしてくださる時に閉じるようになります。そこから、新しい天と新しい地の歴史と文化が始まります。いわば、第八日は、イエス・キリストの贖いの御業に基づいて遂行される再創造の御業をもって始まります。          
 以上のことは、これまでお話ししてきましたことのまとめですが、これらのことを念頭に置きまして、さらに一つのことを考えたいと思います。
 創世記1章26節〜28節では、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここでは、神さまが、人を「神のかたち」にお造りになって、これに「歴史と文化を造る使命」をお授けになったと言われています。
 このように「歴史と文化を造る使命」を委ねられた人間が、その使命にしたがって歴史と文化を造る場所的な舞台は、神さまが「人の住みか」として形造ってくださったこの世界です。そして、時間的な舞台が第七日です。ですから、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の時としてくださり、第七日全体を祝福して聖別してくださったことは、「神のかたち」に造られている人間が歴史と文化を造ることと、人間が造る歴史と文化を祝福して聖別してくださっていることを意味しています。
 このことに関して、一つの疑問がわいてきます。
 1章28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。「神はまた、彼らを祝福し」と言われていますように、これは、神さまが「神のかたち」に造られている人間を祝福してくださって、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださったことを示しています。
 そうであれば、人間が歴史と文化を造ることと、人間が造る歴史と文化は、すでに、この時に祝福されており、その意味で、聖別されていたのではないでしょうか。さらに、そうしますと、神さまが第七日をご自身の安息の時としてくださり、その第七日を祝福して聖別してくださったことには、これとは違う意味があるというのでしょうか。          
 これについては、次のように考えられます。1章28節で、神さまが、「神のかたち」に造られている人間に、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださったことは、確かに、神さまの祝福によることでした。そのために、神さまは、人間に必要なすべての能力をお与えになり、環境を整えてくださっていました。それによって、人間は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という神さまの祝福の言葉によって支えられて、いのちを伝播し、親から子へと、「歴史と文化を造る使命」を受け継いで、歴史と文化を築いていくようになりました。
 その意味で、この1章28節に記されている神さまの祝福の言葉としての「歴史と文化を造る使命」は、「神のかたち」に造られている人間が、実際に、歴史と文化を築いていくための「土台」であり「出発点」です。
 実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまっています。けれども、それで、人間が「神のかたち」に造られて、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているという、人間にとって最も根本的な事実がなくなってしまうわけではありません。堕落によっては、人間が、自分たちが「神のかたち」に造られて、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということを認めなくなってしまっただけです。そして、その罪のために、神さまを中心として歴史と文化を造ることはなくなってしまいましたが、歴史と文化を造るということ自体は、なくなってしまうことはありません。
 その意味で、今日に至るまで築かれてきた人間の歴史は、人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」を委ねられてくださった、神さまの創造の御業を土台としていますし、出発点としています。
 これに対しまして、これまで繰り返しお話ししてきたことから分かりますように、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の時としてくださり、この日を祝福して聖別してくださったことは、「神のかたち」に造られている人間の造る歴史と文化の「目的」を示しています。
 さらに言いますと、それは、ただ単に、「神のかたち」に造られている人間が造る歴史と文化の目的を示しているだけではありません。それとともに、というより、それ以上に、神さまの創造の御業の目的を示しているのです。
 神さまの創造の御業の目的は、神さまがご自身の無限の豊かさをもって、お造りになったすべてのものを、それぞれの特性にしたがって満たしてくださることによって、栄光を表してくださることです。言い換えますと、神さまが、ご自身のまったき充足をもって、お造りになったすべてのものを包んでくださることです。
 それは、「神のかたち」に造られている人間にとっては、愛を本質的な特性とする人格的な神さまの充足にまったくあずかるものとしていただくことを意味しています。それは、人間が、神さまのご臨在の御前に近づけられて、神さまとの愛の交わりのうちに生きるようになることによって、まったき充足を見出すようになることです。          
 これら二つのことの区別と関係、すなわち、「神のかたち」に造られている人間が歴史と文化を作ることの「土台」と、その「目的」の区別と関係をわきまえることは、とても大切なことです。
 「神のかたち」に造られている人間は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という祝福の言葉とともに「歴史と文化を造る使命」を委ねられています。
 さまざまな機会にお話ししましたが、「地を従え」、「すべての生き物を支配」することは、決して、人間が自己中心的な欲望のままに、この「」や「生き物」たちを利用し搾取することを許可しているのではありません。「従え」ることや「支配」することが自己中心的な人間の欲望にしたがってなされるようになったのは、人間が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後のことです。
 この使命は、むしろ、神さまから使命を委ねられているものとして、神さまがお造りになった「」を神さまのみこころにしたがって整え、この「」に秘められている可能性を開発して、「すべての生き物」たちが、それぞれに与えられている特性を十分に発揮して生きることができる環境を整えるようにして仕えていくことを意味しています。
 そのことの現われとして、二章一五節には、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されています。これは、「地を従えよ。」という使命を与えられている人間の姿を記すものです。
 このように、この「歴史と文化を造る使命」は、造り主である神さまのみこころにしたがって、神さまがお造りになったこの世界を管理し、整えていくことを意味しています。その意味で、これは、神さまとの関係を中心として遂行されるべき使命です。
 そうではありましても、この使命だけを見ますと、人間は務めとしての奉仕を求められているだけのように見えます。しかし、この「歴史と文化を造る使命」にしたがってなされる「奉仕」(使命の遂行)は、第七日になされるものです。それで、その使命の目的は、神さまが天地創造の第七日をご自身の安息の時としてくださり、この第七日全体を祝福し聖別してくださったことのうちに示されています。それは、「神のかたち」に造られている人間にとっては、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることによって、神さまの安息にあずかり、神さまにあって充足するようになることを意味しています。このことを欠いては、「歴史と文化を造る使命」にしたがって使命を果たしたことにはなりません。言い換えますと、神さまを中心とした歴史と文化を造ったことにはなりません。
 このような、「歴史と文化を造る使命」を遂行することの「目的」を見失ってしまいますと、どういうことになるでしょうか。そうなりますと、人間は、ただひたすら、委ねられた務めを果たすだけの存在になってしまいます。
 もちろん、そのことにも、達成感などがもたらすある種の充足は伴います。けれども、それは、悪くすると、次の務めへと人間を駆り立てていくものになりかねません。そのようにして、人間は、務め(仕事)そのものに心を奪われていってしまうことになるでしょう。
 事実、造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまった人間は、天地創造の第七日が神さまの安息の時であり、その安息に包まれて充足することを「目的」とすることを見失ってしまっています。そのために、仕事そのものやその達成感、あるいは、仕事が生みだす報酬が目的化してしまっています。その結果、仕事に縛られてしまっています。
 しかし、仕事そのものは、「神のかたち」に造られている人間を最終的に充足させるものではありません。「神のかたち」に造られている人間にとっての最終的な充足は、神である主のご臨在の御前に近づいて、主との愛にある交わりにあずかることにあります。          
 それでは、このように神さまの御前に近づいて、神さまとの愛にある交わりのうちに充足することと、「歴史と文化を造る使命」に示されている使命を遂行することはどのようにかかわっているのでしょうか。
 このことについては、すでにいくつかの機会にお話ししてきました。ここでは、いまお話ししていることとかかわることを簡単にお話しすることしかできません。
 まず、コリント人への手紙第一・10章31節で、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

と言われていますように、仕事に限らず、私たちの見るもの触れるもの、また、私たちのなすことのすべてが、私たちと神さまを結ぶものです。
 たとえば、穀物や野菜などの作物を作る人にとって、その人が蒔く種も、それを地に蒔けば、芽を出し生長して実を結ぶようになっていることも、すべて造り主である神さまが備えてくださっていることです。その人は、神さまが備えてくださっているものを用いているだけです。
 また、その人がそれらのことを用いることができるという「能力」も、神さまが「神のかたち」に造られている人間に備えてくださったものです。
 ですから、あらゆることが造り主である神さまとつながっています。この地の可能性の豊かさ、種から実が結ばれていくことの豊かさ、そして、人間に与えられているさまざまな能力の豊かさなど、これらのことに伴う豊かさは、神さまがご自身の豊かさの中から満たしてくださっているこの世界の豊かさの現われです。
 ですから、私たちは、自分が仕事のために能力を傾けること自体に(「神のかたち」に造られている人間にはそのような能力が与えられているということで)、すでに、神さまの豊かな賜物を感じ取ります。その結果、何かが生みだされることにも、神さまがこの世界をご自身の豊かさをもって満たしてくださって、実を結ぶ世界としてお造りくださっていることの現われを感じ取ります。
 このように、私たちは、仕事をすること自体を神さまの賜物として受け止めます。だからといって、それは、仕事そのものに縛られることを意味してはいません。むしろ、それらの賜物で満たしてくださっている神さまご自身に私たちの目を向けて、神さまを愛し、神さまを喜ぶようになることを意味しています。それは、仕事に限らず、食べることにおいても、飲むことにおいてもできることです。
 そして、食べることや飲むこと、仕事や芸術などさまざまな活動をとおして神さまに私たちの目を向けることの中心に、御子イエス・キリストにあって、神さまのご臨在の御前に近づいて、直接的に神さまの御顔を仰いで、讃美と感謝をささげつつ神さまを礼拝することがあります。言い換えますと、礼拝を中心として、神さまご自身との交わりのうちに充足することが中心、あるいは、要(かなめ)となって、食べることや飲むことから始まって、さまざまな活動において、造り主である神さまの豊かな賜物に触れつつ、神さまを喜ぶことができるのです。          
 このように、神さまの創造の御業の目的は、神さまが、ご自身のまったき充足をもって、お造りになったすべてのものを包んでくださることです。
 もちろん、このような神さまの創造の御業の目的を自覚的に受け止めるのは、「神のかたち」に造られている人間です。けれども、神さまの充足(安息)にあずかるのは人間だけではありません。たとえば、出エジプト記20章8節〜11節に記されている十戒の安息日規定では、

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。── あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。── それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

と言われています。この規定では、「家畜」も主の安息にあずかるべきことが示されています。また、レビ記25章4節に記されている七年目の安息の規定では、

七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。

と言われていて、「土地」も主の安息にあずかるべきことが示されています。
 ですから、神さまの安息は、神さまがご臨在されるこの世界全体を包んでいるのです。そして、その中心に、神さまの安息を自覚して受け止める、「神のかたち」に造られている人間がいるのです。
 この意味でも、造り主である神さまが、第七日をご自身の安息の時としてくださったことは、


神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

という「神のかたち」に造られている人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」と深くかかわっています。
          
 人間は、本来、神さまの創造の御業の目的が、神さまが、お造りになったすべてのものをご自身の安息をもって包んでくださることにあることを自覚して受け止めるものとして、「神のかたち」に造られ、「歴史と文化を造る使命」を委ねられました。それで、自分自身が、神さまのご臨在の御前に近づいて、礼拝を中心とする、神さまとのより深い愛の交わりに生きることによって、神さまの安息にあずかります。それによって、「神のかたち」に造られている人間としての本来の充足を持つようになります。
 これは、造り主である神さまを礼拝している私たちにとっては、ごく自然なことになっていることがお分かりだと思います。それは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている神の子どもたちが、そのような「神のかたち」の本来の姿に回復されているからです。
 それのような、神の子どもたちにとってごく自然な営みが、「神のかたち」に造られている人間が造る、本来の文化と歴史の本質をなしています。まず、私たち自身が、神さまのご臨在の御前に近づいて、礼拝を中心とする、神さまとのより深い愛の交わりに生きることによって、「神のかたち」に造られている人間としての本来の充足を持つようになることがなければ、「歴史と文化を造る使命」にしたがって歴史と文化を造ることはできません。
 また、「神のかたち」に造られている人間が造り主である神さまを礼拝することを中心として、「歴史と文化を造る使命」をとおして人間に委ねられているすべてのものが、神さまの安息にあずかるようになります。人間は、そのために、造り主である神さまを礼拝することの中で、すべてのものを聖別して神さまの恵みの御手にお委ねしていきます。それが、「歴史と文化を造る使命」にしたがって文化を造り、歴史を造ることの中心です。
 実際、神さまによって造られたすべてのものが、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、「神のかたち」の本来の姿を回復され、神さまから委ねられている使命を自覚して生きる神の子どもたちの出現を待ち望んでいます。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているとおりです。

 


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