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説教日:2001年1月7日 |
そのように、ご自身のうちに無限に豊かにあふれている神さまの豊かさは、天地創造の御業において、ご自身の外に向かって表現されるようになりました。それは、永遠に生きておられる人格的な神さまの愛におけるまったき充足が、この世界を包んでくださることを意味しています。 この世界のすべてのものは、あらゆる点において無限に豊かである神さまのまったき充足によって包まれているものとして造り出されました。やがてそのようになるということではなく、この世界のすべてのものは、初めから、神さまのまったき充足に包まれているものとして造り出されたのです。もちろん、それは、さらに豊かな充足に包まれるようになることを目指しています。 その中心は「神のかたち」に造られている人間です。人間は、神さまとの愛の交わりのうちに充足するものとして「神のかたち」に造られています。そして、より深い愛にある交わりの中に導き入れられてまったき安息にあずかるようになることを目的としています。 繰り返しお話ししてきましたように、このことは、神さまの創造の御業を記す創世記1章1節〜2章三節の記事の初めと終わりの部分から汲み取ることができます。それは、今日お話しすることとかかわっていますので、まずそれを簡単にまとめておきましょう。 最初に造り出された時の「地」のことを記す1章2節では、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われています。 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり と言われている状態の「地」に、すでに、神さまが御霊によってご臨在してくださっていました。これによって、この「地」が、初めから、神さまが御霊によってご臨在してくださる所であることが示されています。言い換えますと、この「地」は、初めから、造り主である神さまがご臨在してくださる所として聖別されているのです。 そして、イザヤ書45章18節で、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方、 と言われていますように、神さまは、そのように聖別されているこの「地」を「神のかたち」に造られている人間の「住みか」として整えてくださいました。それは、「神のかたち」に造られている人間をご自身のご臨在の御前に立たせてくださって、ご自身との愛の交わりのうちにある、真の充足(安息)にあずからせてくださるために他なりません。 そして、そのことは、2章1節〜3節において、よりはっきりと示されています。そこには、 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と記されています。 神さまは、ただこの世界を素晴らしい世界としてお造りになっただけではありません。さらに、第七日全体をご自身の安息の時としてくださり、この日を祝福して聖別してくださいました。この第七日は、「神のかたち」に造られている人間が神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることによって歴史を造り出すべき時です。 神さまがお造りになったこの世界の歴史は、目的もなく行き当たりばったりにさまようものではありません。神さまのみこころのうちに定められている目的に向かって進んで行く歴史です。その目的は、神さまによって造られたこの世界のすべてのものが、造り主である神さまのまったき安息にあずかることです。結論的に言いますと、それは、御子イエス・キリストが再びこの世界に来られて、いま神の子どもたちが築いている歴史を完成させてくださる「終わりの日」に、最終的な形で実現します。 すでにいろいろな機会にお話ししましたが、天地創造の御業が神さまの「神殿建設」としての意味をもっていることは、イザヤ書66章1節、2節で、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 ── 主の御告げ。── わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と言われていることからも分かります。 神さまがお造りになった天と地は、神さまご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっています。その中で、「神のかたち」に造られている人間の「住みか」として造られたこの「地」は、その中心である「聖所」に当たります。そして、その「地」の中でも、最初に造られた人間が住んでいたエデンの園は、さらにその中心である「至聖所」に当たる所であったと考えられます。 このイザヤ書66章1節、2節では、神である主の「神殿」のことが問題になっています。このイザヤの時代には、ソロモンが建てた壮大で華麗な神殿が建っていました。イスラエルの民はそれを誇りとし、主もその神殿に満足しておられると思っていました。 これに対しまして、主は、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と言われて、ご自身の御手でお造りになったこの世界全体が、ご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっている世界であることを示しておられます。 ですから、主は、ご自身のお住まいになる所がないので、イスラエルの民に神殿を造るようにお命じになったのではありません。神さまがイスラエルの民に神殿を造るように命じられたのは、神殿を通して、基本的に三つのことを示してくださるためでした。 第一に、この世界は、神さまがご臨在される世界であるということです。あるいは、神さまはご自身がお造りになったこの世界にご臨在しておられるということです。 第二に、罪を犯して神さまの御前に堕落してしまっている人間は、神さまのご臨在の御前に立つことはできないということです。 これは、神殿の聖所と至聖所が、神である主のご臨在を表示するケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていて、主のご臨在のある至聖所には聖所で仕えていた祭司たちさえも入ることができなかったことによって示されています。 至聖所は完全に閉ざされていたのではなく、そこには、年に一度、大贖罪の日に大祭司が入ることを許されていました。ヘブル人への手紙9章6節、7節で、 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 と言われているとおりです。 第三に、神である主ご自身が人間の罪の贖いを備えてくださり、それにあずかる者たちは、神さまのご臨在の御前に立って、神さまとの愛の交わりに生きることができるようになるという約束です。それは、神殿においてささげられている動物のいけにえによって示されていました。 また、大贖罪の日に、大祭司が至聖所に入ってイスラエルの民のために罪の贖いをしたことは、主のご臨在の御前に自由に近づくことはできないけれども、主のご臨在の御前に至る道は残されていることを示しています。その道が閉ざされていたのは、動物の血によっては、「神のかたち」に造られている人間の罪を贖うことができなかったからです。 地上の建物としての神殿は、このようなことを示すために建てられた「視聴覚教材」です。 そのことは、もし人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、地上の建物としての神殿も建てられる必要がなかったし、実際に、建てられることもなかった、ということを考えればよく分かります。 私たちは、神社、仏閣が至る所にある社会に生まれて育ちましたから、神さまの「神殿」があるということに、それほどの違和感を感じないかもしれません。しかし、もし人間が神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまうことがなかったとしたら、「神のかたち」に造られている人間と神さまとの交わりの妨げとなるものは何もなかったはずです。神さまのご臨在を「神殿」という人の手による建物の中に閉じこめてしまって、人間を神さまのご臨在の御前から「隔離」する必要はまったくなかったのです。 神である主に罪を犯して御前に堕落してしまった人間が、主のご臨在のあるエデンの園から追放されたのは、人間が罪あるままで主のご臨在の御前に立って主の聖さを冒すことになれば、たちまちのうちに滅びを刈り取ることになるからです。エデンの園からの追放は、主が、差し当たって人間の存在を守ってくださるために、堕落してしまった人間をご自身のご臨在の御前から「隔離」してくださったものです。古い契約の下で、主のご臨在が地上の建物である神殿の中に限定されているものとして示されているのも、そのような人間の現実を示しています。それは、あくまでも、人間が神である主に罪を犯して、御前に堕落してしまっているための「非常手段」です。本来は、「神のかたち」に造られている人間は、常に、神である主のご臨在の御前にあって生きるものなのです。 それは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪の完全な贖いが成し遂げられているために、もはや、地上の建物としての神殿が必要でなくなっていることと似ています。イエス・キリストの贖いの御業が成し遂げられた後は、主がご臨在してくださる神殿は、人の手によって建てられる建物ではなく、主の御言葉の土台の上に建てられているキリストのからだである教会です。エペソ人への手紙2章20節〜22節で、 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と言われているとおりです。 また、キリストのからだである教会に連なる私たち一人一人のからだも、神さまの御霊が宿られる聖所としての意味をもっています。コリント人への手紙第一・6章19節で、 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 と言われているとおりです。 ここで注目したいことは、先ほどのイザヤ書66章1節で、主が、ご自身の神殿のことを「わたしのいこいの場」と呼んでおられるということです。そして、そこでは、主の「いこいの場」は、地上の建物としての神殿そのものではないということが示されています。地上の建物としての神殿は、神さまの必要のために建てられたものではありません。むしろ、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間のために、神さまが一方的な恵みによって罪の贖いを備えてくださり、死と滅びの道から贖い出してくださり、ご自身との愛の交わりにある、本来のいのちに生かしてくださる約束を示してくださっているものです。 それなのに、イスラエルの民は、へりくだって、自らの罪を認めて、そこに示されている神さまの贖いの恵みの約束を信じ、それに頼って生きることはありませんでした。かえって、その建物としての壮大さと華麗さが神さまを喜ばせるものであると考えていました。そのような神殿は、もはや、神さまにとって「いこいの場」ではなかったのです。 これと同じようなことは、同じイザヤ書の初めの部分でも語られています。1章11節〜15節では、 「あなたがたの多くのいけにえは、 わたしに何になろう。」と、主は仰せられる。 「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、 肥えた家畜の脂肪に飽きた。 雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、 だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と あなたがたに求めたのか。 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。 香の煙── それもわたしの忌みきらうもの。 新月の祭りと安息日── 会合の召集、 不義と、きよめの集会、 これにわたしは耐えられない。 あなたがたの新月の祭りや例祭を、 わたしの心は憎む。 それはわたしの重荷となり、 わたしは負うのに.果てた。 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、 わたしはあなたがたから目をそらす。 どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。 あなたがたの手は血まみれだ。」 と言われています。 ここに記されているいけにえや祭りは、モーセ律法の規定にしたがってなされたものです。また、「肥えた家畜の脂肪」という言葉が示していますように、ささげられる動物はしっかりと吟味されたものでした。ですから、いけにえや祭りそのものは、立派なものであったのです。それだけの犠牲を払い、注意深く執り行なっていたはずです。 問題は、主が、それらのいけにえや祭りを通して、教えてくださっていることに耳を傾けて、それに従うことがなかったことです。実際、 あなたがたの手は血まみれだ。 と言われていますように、彼らの歩みが、それらのいけにえと祭りの精神を裏切っていました。 そのようなことになってしまうのは、イスラエルの民が、いけにえや祭りそのものが主を喜ばせると考えていたからであると思われます。そのような発想のあるところでは、立派ないけにえをささげ、祭りを行なえば、それでよいということになります。 そのようないけにえと祭りに対して、主は、 それはわたしの重荷となり、 わたしは負うのに.果てた。 と言われます。先ほどの66章1節で、主にとって「いこいの場」であるとされている神殿において、規定どおりささげられるいけにえや、神殿を中心として行なわれる祭りが、かえって、主の重荷となり、主を疲れさせると言われています。もちろん、主がお疲れになるということは、人間にたとえた(擬人化した)言い方です。 この「いこいの場」と訳されているメヌーハァーという言葉は、この場合のように、「いこいの場」、「安息の地」を表わすとともに、「休息」や「安息」を表わします。この言葉が用いられている個所のうち、今お話ししていることとのかかわりで二つの個所を見てみましょう。 ソロモンは、例の壮大で華麗な神殿を建てた後、それを主にささげる祈りをささげました。その後で、イスラエルの民を祝福しました。その祝福の最初の言葉が列王記第一・8章56節に記されています。そこでは、 約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。 と言われています。ここで「安住の地」と言われている言葉が先ほどのメヌーハァーです。 ソロモンが述べている「安住の地」はカナンの地のことですが、それは地上的な影(視聴覚教材)でしかありません。それは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて実現している神の御国を指し示していました。 この神の御国は、地上のどこかに限定されてはいません。神の御国は、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストが、御霊によってご臨在してくださる所に成り立ちます。イエス・キリストの御霊が、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、イエス・キリストの民を治めてくださる所には、神の御国が成り立っているのです。そこでは、神の子どもたちが御子イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、父なる神さまとのいのちの交わりに生かされます。 このような神の御国は、特に、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と、流してくださった血による贖いを覚える聖餐式が、御言葉に基づく信仰によって、執行されるところに成り立っています。 この「安住の地」は、もちろん、主の贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、死と滅びの中から贖い出された神の子どもたちの「安住の地」です。けれども、その「安住の地」の中心は、主が「わたしのいこいの場」と呼ばれる主の神殿です。そして、そこでは主の贖いの恵みを約束するいけにえがささげられていたのです。 このことから、神である主が神の子どもたちに「安住の地」(メヌーハァー)を与えてくださることと、その中心に、主がご自身の「いこいの場」(メヌーハァー)と呼ばれる神殿があることは、深くつながっていることが分かります。 主の神殿が指し示している主のご臨在がないなら、そこがどんなに楽しい所であっても、そこは私たちの「安住の地」ではありません。もし、主のご臨在があるのであれば、この世界のどこであっても、また、どのような状況にあっても、そこは私たちの「安住の地」となります。 そして、主が神殿のことを「わたしのいこいの場」と呼ばれるのは、そこで、ご自身のご臨在の御前に近づく神の子どもたちを見出してくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださるからです。 ヨハネの福音書4章23節には、 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。神さまは、真理の御霊に導かれて神さまのご臨在の御許に至り、真理の御言葉に基づいて礼拝する人々を探し求めておられます。そのような「礼拝者」を見出されたときには、神さまご自身が安息されるのです。 御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、主のご臨在の御前に近づく者たちを、ご自身の安息で包んでくださる時に、神さまご自身も安息してくださり、「いこいの場」が実現します。 その意味で、先ほどのイザヤ書66章2節で、 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と言われているのは、基本的には、主が神殿を通して示してくださっている贖いの恵みをあかしする御言葉を信じ、へりくだって主の恵みに信頼する人のことです。 メヌーハァーという言葉が用いられているということで取り上げたいもう一つの個所は、詩篇95篇7節〜11節です。そこには、 きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、 荒野のマサでの日のように、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 あのとき、あなたがたの先祖たちは すでにわたしのわざを見ておりながら、 わたしを試み、わたしをためした。 わたしは4十年の間、 その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。 「彼らは、心の迷っている民だ。 彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。 それゆえ、わたしは怒って誓った。 「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。 と記されています。 ここでは、主の力強い御手によってエジプトの奴隷の身分から贖い出されたイスラエルの民が、主に対する不信仰から、絶えず主を試みたことに対する主のさばきのことが記されています。最後の部分に出てきます「わたしの安息」の「安息」が、先ほどのメヌーハァーという言葉です。 ここで主が「わたしの安息」と言われている「安息」は、先ほどの「安住の地」とほぼ同じ現実を示しています。その違いは、「安住の地」が場所的であるのに対して、主の「安息」は時間的、歴史的であることです。 この詩篇95篇8節〜11節は、ヘブル人への手紙3章と4章で取り上げられています。4章3節〜9節では、 みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、 「きょう、もし御声を聞くならば、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 と言われています。 言うまでもなく、3節、4節の、 みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。 という言葉は、天地創造の第七日のことを述べています。このことを受けて、地上の影(視聴覚教材)に仕えていたイスラエルの不信仰に触れた後で、 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 と言われています。 ですから、ヘブル人への手紙4章3節〜9節は、天地創造の第七日をご自身の安息の時とされ、これを祝福し聖別してくださった神さまの安息がいまだ最終的な完成に至っていないことを示しています。 私たちは、すでに、神殿でささげられていたいけにえの本体である御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神さまのご臨在の御前に近づくことができます。同じヘブル人への手紙10章19節で、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。 と言われているとおりです。 これは、先ほどの言葉で言いますと、私たちはすでに「安住の地」に入っているということです。 けれども、第七日の神さまの安息の最終的な完成は、まだ実現していません。それは、父なる神さまの右の座に着いて、御霊によってご自身の民を導いてくださっている御子イエス・キリストが、再びこの世に来てくださって、ご自身の民が築いてきた歴史を聖めてくださり、完成してくださる時を待たなければなりません。 その完成を記す黙示録21章1節〜4節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 私たちは、新しい世紀を迎えました。ますます、御言葉を恐れかしこんで、御言葉に約束されている主の安息の完成の時を待ち望みたいと思います。 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。 黙示録22章20節
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