(第23回)


説教日:2001年1月14日
聖書箇所:ヨハネの福音書5章1節〜18節


 今日も、これまでのお話に続いて、聖なるものであることについてお話ししたいと思います。まず、いつものように、このことを考えるうえでの出発点である、神さまの聖さの基本的な意味をまとめておきます。
 神さまが聖い方であるということは、基本的に、神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということを意味しています。
 神さまが、神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということは、神さまによって造られたすべてのものが、あらゆる点において、限りがあるものであるのに対して、神さまは、あらゆる点において無限に豊かな方であるということによっています。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方です。また、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。さらに、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。それで、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別されます。
 このように、私たちは、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であると言っていますが、私たちが人間としての限界の中で神さまの無限、永遠、不変の豊かさを考えることには、どうしても無理があります。
 たとえば、私たちは、「変わらない」ということを、ある一定のところでで「止まってしまっている」というようにイメージしています。それで、私たちが、神さまの存在とすべての属性が無限、永遠、不変であるということを考えますと、特に「不変」という言葉から、それが一定のところで止まっていて、かわることがない、あるいは、もういっぱいになってしまっていて、変わることがない、というようにイメージしてしまいます。
 けれども、そのような意味で変わらないのは、限りがあるもののことです。そのようなイメージを神さまの無限、永遠、不変の豊かさに当てはめるわけにはいきません。それで、私たちとしましては、神さまの無限、永遠、不変の豊かさを、無限の豊かをもって、永遠にあふれ続けているので変わらない豊かさというように、ダイナミックな豊かさ、あるいは、生きた豊かさとして受け止めるほかはありません。


 神さまの豊かさは、無限に豊かにあるれていて永遠に変わることがない豊かさ、あるいは、無限に豊かにあふれているという点で永遠に変わることがない豊かさであることを思い起こさせる御言葉を見てみましょう。
 すでに(第六回のお話で)取り上げましたが、黙示録4章と5章には、ヨハネが幻のうちに示された天上の礼拝のことが記されています。4章6節〜8節には、

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
  「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
  神であられる主、万物の支配者、
  昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

と記されています。
 この「四つの生き物」は神である主のご臨在の御前に仕える生き物で、そこに主のご臨在があることを表示しつつ、その聖さを守っている生き物です。もちろん、この生き物たちは、その当時の黙示文学の手法によって、表象的な意味をもつものとして描かれています。また、これには、旧約聖書のエゼキエル書1章と10章に記されている「四つの生き物」やイザヤ書6章に記されているセラフィム(サーラーフの複数形)が背景となっていると考えられます。そして、これらの生き物によって、神である主のご臨在が(特に、神さまによって造られた世界との関係で)どのようなものであるかが表象的に示されていると思われます。
 この生き物たちは「昼も夜も絶え間なく」、

  聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
  神であられる主、万物の支配者、
  昔いまし、常にいまし、後に来られる方。

と叫び続けています。これは、神である主が聖なる方であられること、全能の支配者であられること、そして、永遠なる方であられることを告白するものです。「万物の支配者」と訳されている言葉(パントクラトール)は、「万物の支配者」とともに「全能者」をも表わす言葉です。

 「四つの生き物」は、神である主の聖さを告白するときに、

  聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

と主が聖い方であることを三回繰り返しています。これは、三位一体の御父、御子、御霊のそれぞれの聖さを讚えるものであると理解されることがあります。けれども、ここに三位一体論を読み込むのは拡大解釈であると思われます。この三回の繰り返しは、「三」という数がいわゆる「完全数」であることにかかわっていて、神である主の聖さが完全な聖さ、すなわち、これは神さまの完全さですから、無限、永遠、不変の聖さであることを示していると考えられます。
 「四つの生き物」は表象的な意味をもつ存在であると考えられますが、この「四つの生き物」の立場に立って考えてみましょう。この場合、「四つの生き物」は、神である主の聖さを考えたり想像したりしているのではありません。「四つの生き物」にとって神である主の聖さは、自分たちを包み込む現実です。しかもそれは、常に新鮮な現実です。「四つの生き物」は、神である主の聖さの現実に常に包み込まれ、揺り動かされているものとして「昼も夜も絶え間なく」、

  聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

と叫び続けているのです。
 これは、神である主のご臨在の御前に仕えている「四つの生き物」によって表象的に表わされている神さまの聖さの現実を示しています。神さまのご臨在の御前に近づくものは、それがどのようなものであっても、その御前にひれ伏して、ただひたすら、

  聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

と叫び続ける他はないのです。そして、その叫びを止めることができるようになることはありません。
 このことは、「四つの生き物」にとっては、神さまの聖さの現実が、自分たちには決して捉えきることはできないけれども、自分たちを包み込み圧倒する確かな現実として、しかも、常に新しく迫ってきていることを意味しています。
 これは、私たちにもそのまま当てはまることであり、神さまの無限の豊かさが私たちに向かって表わされるなら、私たちとしては、その豊かさを、常に無限にあふれていて、永遠に変わることがない豊かさと受け止める他はないということの一つの現われです。

 このように、神さまの無限、永遠、不変の豊かさが私たちに示されるときには、私たちとしましては、それを無限にあふれ続けている豊かさとして受け止めるべきです。
 このことは、これまでお話ししてきました、神さまが天地創造の御業において創造の第七日をご自身の安息の時としてくださり、そのために、その日を祝福して聖別してくださったことと深くかかわっています。
 簡単に復習しますと、創世記2章1節で、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と言われているとおり、造られたこの世界そのものは、天地創造の第六日に完成しています。
 しかし、神さまの創造の御業は、それで完結しませんでした。2節、3節では、

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と言われています。
 神さまの創造の御業は、第七日をご自身の安息の時としてくださり、そのために第七日を、祝福して聖別してくださることによって初めて、完成し完結したのです。
 神さまが第七日をご自身の安息の時としてくださり、この日を祝福して聖別してくださったことは、あらゆる点において無限に豊かな方であり、永遠に充足しておられる神さまが、ご自身の充足をこの世界に向けて表現してくださって、ご自身の安息もって造られたすべてのものを包んでくださることを意味しています。それは、言い換えますと、無限に豊かにあふれているご自身の豊かさをもって、すべての造られたものを包んでくださることを意味しています。

 この神さまの安息と、祝福と聖別は第七日全体を覆っています。そして、第七日は、今日に至るまで閉じてはいません。それで、今日に至るまで、第七日の神さまの安息と、祝福と聖別は続いています。
 先週は、ヘブル人への手紙3章と4章に記されていることから、造り主である神さまの安息の時として、祝福され、聖別されている第七日が今日に至るまで続いているということをお話ししました。第七日が今日に至るまで続いているということは、また、ヨハネの福音書5章1節〜18節に記されていることからも知ることができます。
 8節〜18節には、

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

と記されています。
 ここで「いやされた人」は、5節にありますように、38年もの間、病気にかかっていた人で、この時は、ベテスダという池の周りに伏せっていた人のことです。この人ばかりでなく、多くの人がベテスダの池の周りに伏せっていました。それは、4節にありますように、この人々が、「御使いが降りてきて、この池の水を動かした後、最初にその池に入った者がいやされる」ということを、信じていたからです。
 4節は、新約聖書の写本の中でも初期に書かれて優れたものの中に見当たらないことなどから、後に書き加えられたものと判断する他はありません。そのために、新改訳では欄外に記されています。4節は、霊感された本文に含まれるものではないと考えられますので、そこに記されている、その池に御使いが降りて来て水を動かしたということは、実際に起こったことであると考える必要はありません。むしろ、それは一種の「迷信」であったと思われます。
 ただ、7節に記されている、その人の、

主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。

という言葉からしますと、時々、その池の水は何らかの原因で動いたようですし、その時に、そこにいた病人たちが競って池に入ったことも確かなようです。
 その水が動くことの不思議さから、御使いの働きという迷信が生み出され、それを信じた人々がそこに群がるようになったと思われます。そして、何らかの心理的な効果から、実際に病気が治ったと主張する人々もいたことでしょう。そのようなことは、今日でも、あちこちで見られることです。実際、最初にその池に入るという「競争を勝ち抜いた」人々には、それなりに体力があったと思われます。

 また、ここで「ユダヤ人たち」と言われているのは、ユダヤ人の指導者たちのことです。
 ユダヤ人の指導者たちがイエス・キリストを非難したのは、緊急の時以外は、安息日には医療行為をしてはならないというラビたちの規定があったからです。もちろん、それは御言葉に記されている規定ではありません。

しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。
出エジプト記20章10節

という戒めを守るための「指針」として、どういうことをしたら「仕事」をしたことになるのかを示すために、ラビたちが定めた規定です。
 ユダヤ人の指導者たちに言わせれば、この人は38年もの間ずっとこの病気を患ってきていました。その長さに比べれば、たった一日の違いは、ないに等しいのだから、何も、その安息日の日でなくても、次の日にいやしてもらえばよかったはずだということになります。
 もちろん、イエス・キリストはユダヤ人の指導者たちがそのように考えていることを知っておられました。その上で、安息日にこの人をいやされました。ですから、あえて安息日に、この人をおいやしになったのです。その上で、このことは、安息日にふさわしいことであると教えておられます。そして、このことが安息日にふさわしいということの根拠として、17節に記されていますように、

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。

と述べておられます。
 これによってイエス・キリストは、ご自身の一般的な御業のことを弁護しておられるのではありません。38年もの間ずっと病気を患っていた人を、安息日においやしになったことの理由を述べておられるのす。そして、そのいやしの御業をなさった根拠は、

わたしの父は今に至るまで働いておられます。

ということにある、と言っておられます。
 なぜ、父なる神さまが「今に至るまで働いておられ」るということが、イエス・キリストが安息日にいやしの御業をなさったことの根拠になるのでしょうか。それは、この「今に至るまで」が、神さまがご自身の安息の時として祝福し、聖別してくださった第七日であるからです。
 ご自身の無限の豊かさのうちに、特に、無限、永遠、不変の愛のうちに充足しておられる神さまが、ご自身の充足をもってすべての造られたものを包んでくださるために、第七日をご自身の安息の時としてくださり、祝福し、聖別してくださいました。それで、「今に至るまで」すべてのものが、この祝福と聖別の下にあります。それで、イエス・キリストの御業は安息日にふさわしいと言われているのです。

 「神のかたち」に造られている人間は、その祝福と聖別の下にあるにもかかわらず、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。その結果、この世界に虚無が忍び込んできましたし、人間は労苦と死を刈り取るものとなりました。これは、造り主である神さまが、「神のかたち」に造られている人間を、ご自身の無限にあふれている愛の交わりのうちに生かしてくださって、ご自身の安息にあずからせてくださっているのに、そして、さらに豊かな充足に導き入れてくださろうとしているのに、そのみこころを拒絶してしまった結果です。
 その一つの現われが、この人が38年もの間、病を患っていたことです。14節にありますように、イエス・キリストはこの人に向かって、

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。

と言われました。この「もう罪を犯してはなりません」という言葉は、この人が、その時までずっと罪を犯し続けていたことを暗示しています。そして、この人の場合には、その罪を犯していたことが、この人の病気の原因であるか、少なくとも、その罪が病気を悪化させ、長引かせていたことを暗示しています。
 もちろん、同じヨハネの福音書の9章2節、3節に記されていますように、生まれつき目の見えない人のことについて、弟子たちが、

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。

と質問したのに対して、イエス・キリストは、

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

とお教えになりました。これによって、すべての病気が本人のある特定の罪の結果であるわけではないということを教えておられます。ただ、この38年の間ずっと病気であった人の場合には、この人の罪が病気と何らかの形でかかわっていたということです。
 この人の罪が具体的にどのようなものであったかは、私たちには知らされていません。けれども、この人はずっと病気でしたし、この時には病気で伏せっていました。それでも、この人は、この時までずっと罪を犯してきていたわけです。このことから、この人の罪は人に損害や危害を加える罪ではなく、心の中で、人や神さまに対して恨みや憤りをいだいているようなことであったと思われます。7節の、

主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。

という、この人の言葉には、自分の不幸は他の人々のせいであるというような恨みや憤りの意味合いが含まれているように思われます。

 いずれにしましても、はっきりとしていることは、イエス・キリストが、38年もの間、ずっと病気を患ってきただけでなく、その時まで罪を犯し続けていた人をお選びになって、あえて、安息日にその人をおいやしになったということです。ですから、その人は、ただ身体を弱らせていた病気をいやしていただいただけではありません。その人と神さまの間を隔てていた、その人の罪の力からも解放していただいているのです。
 イエス・キリストは、

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。

と言われました。この「もっと悪い事があなたの身に起こるから」というのは、もっと悪い病気が再発するというより、その罪に対する神さまのさばきがもたらす神さまとの断絶という「滅び」のことを示していると考えられます。このことも、イエス・キリストが、この人の病気をおいやしになっただけでなく、この人を罪の結果である死と滅びから解放してくださったことを示しています。

 この、

もう罪を犯してはなりません。

というイエス・キリストの命令の言葉は、単なる戒めではありません。
 それは、8節の、

起きて、床を取り上げて歩きなさい。

という命令の言葉と同じように、生きていて力があり、その現実を生み出す言葉です。この言葉が、どのように生きていて力があり、その現実を生み出す言葉であるかを、簡単に見てみましょう。
 その人は、

起きて、床を取り上げて歩きなさい。

というイエス・キリストの言葉に従ったときに、「起きて、床を取り上げて歩」くことができました。
 それだけではありません、実際に歩いたのはその人であり、その人の意志によることです。いくらイエス・キリストが

起きて、床を取り上げて歩きなさい。

と言われても、その人が起き上がろうとしなければ、「起きて、床を取り上げて歩」くことはできません。
 しかし、6節には、

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

と記されています。
 38年もの長い間、ずっと病気だった人に向かって「よくなりたいか。」とお聞きになるのは、分かりきったことを聞いているような気がします。しかし、この人は38年もの長い間ずっと病気だったので、治ることをあきらめてしまっていたと思われます。先ほど引用しました、

主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。

という、この人の言葉には、他の人々に対する憤りや恨みとともに、あきらめの思いが含まれていると思われます。
 ですから、イエス・キリストは、

起きて、床を取り上げて歩きなさい。

という言葉をもって、その人の内側に治りたいという思いを回復してくださり、実際に、イエス・キリストの言葉にしたがって起き上がって、歩こうとする意志も回復してくださっているのです。
 それと同じように、その人は、

もう罪を犯してはなりません。

というイエス・キリストの言葉に従うときに、それまで自分を縛り続けてきた罪の力から解放されていくのです。
 それも、その人がすることですし、その人の意志でそうすることです。この場合も、イエス・キリストはその人の意志をも新しくし、回復してくださったと考えられます。その人は、イエス・キリストの言葉に従うことによって、贖いの恵みを実現してくださる御霊のお働きによって、内側から造り変えられていくのです。

 イエス・キリストは、その人が「起きて、床を取り上げて歩」くようになって直ぐにではなく、その後になって、ベテスダの池ではなく「宮の中で」その人を見つけて、

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。

と言われました。
 このことの中にも、イエス・キリストのご配慮が読み取れます。この人は38年もの間ずっと病気でしたから、自分が本当にいやされたことを確信するまでに、それなりの時間がかかったことでしょう。また、ベテスダの池の水が動いたということで、そこに入って病気が治ったと感じた人々が、また、病気で伏せってしまうようになったというようなこともあったかもしれません。その場合にも、その人が本当にいやされたことを確信するようになるには、時間が必要であったはずです。
 いずれにしましても、

見なさい。あなたはよくなった。

というイエス・キリストの言葉は(完了形で)、その人がいやされてしまっている状態がずっと続いていることを示す言葉です。それは、その人自身が自分に起こったこととして納得していることです。いわば、イエス・キリストは、

見なさい。あなたはよくなった。

と言われて、その人とともにこの事実を確認しておられるわけです。
 このように、この人は、イエス・キリストの言葉に従うことが、自分を内側から新しく造り変えて生かしてくれることであることを身にしみて経験していました。そのことがまずあったうえで、イエス・キリストは、この人に向かって、

もう罪を犯してはなりません。

と言われました。このことによって、この人は、イエス・キリストに対する確かな信頼の中で、この言葉を聞くことができたと考えられます。

 イエス・キリストは、安息日にこのような御業をなさったことによって、ユダヤ人の指導者たちから罪に定められ、ついには十字架につけられて殺されることになります。それは、まさに、ここでいやされた人を含めて、私たちのすべてを、罪と死の力から解放してくださる贖いの御業を成し遂げてくださるために他なりません。それによって、神さまの安息がこの人を包み、また、私たちを包み込んでくださるようになりました。
 このように、イエス・キリストは、ご自身の身の危険を知りながら、あえて、安息日に、38年もの間、ずっと病に苦しめられつつ、その中で罪を犯し続けていた人をおいやしになり、罪の力から解放されました。これは、イエス・キリストの愛が、無限にあふれる豊かさにおいて、この人に豊かに注がれていることを意味しています。
 それとともに、イエス・キリストは、このことが、第七日における父なる神さまのお働きを映し出すものであるとお教えになりました。
 それで、私たちは、第七日が今日に至るまで続いていることを知ることができます。
 それだけではありません。第七日をご自身の安息の時としてくださり、この日を祝福して聖別してくださった神さまの御業が、御子イエス・キリストを通して成し遂げられ、神さまの安息が私たちの間に実現していることを見ることができます。
 ですから、今に至るまで第七日が続いているということは、ただ単に、その「時」が今も続いているということで終わるものではありません。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっている私たちにとっては、私たちをご自身の愛のうちにまったく充足させてくださるために、神さまの愛が御子イエス・キリストにあって、無限にあふれる豊かさで、私たちに注がれているということを意味しています。
 私たちは、この神さまの愛にいつも新鮮に触れるように招かれています。それで、私たちも、神さまの無限にあふれている愛に包まれて、あの「四つの生き物」のように、神さまの聖さを絶えず讚え続けるものでありたいと思います。

 


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