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説教日:2001年1月21日 |
今日は、このこととの関連で、先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。それは、先週、取り上げました黙示録4章6節〜8節に記されている「四つの生き物」にかかわることです。 まず、この「四つの生き物」そのもののことを見てみましょう。黙示録4章6節〜8節を見てみますと、そこには、 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ6つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、 昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」 と記されています。 この「四つの生き物」は、神である主のご臨在がそこにあることを表示し、そのご臨在の栄光を守っている存在です。今、私が理解しているところでは、この「四つの生き物」は、それ自体が、実在の生き物ではなく、黙示文学というその当時の文学様式の手法で描かれている、表象であると考えられます。そして、これによって、神である主のご臨在が、特に、この造られたすべてのものにとってどのような意味をもっているかが表わされていると考えられます。 「四つの生き物」の「四」という数は、聖書の中では、しばしば、この世界の広がりを示すものとして用いられています。それは、たとえば、「天の四方」(エレミヤ書49章36節.マタイの福音書24章31節など)、「天の四方の風」(エレミヤ書49章36節、ダニエル書7章2節など)、「(地の)四方」(エレミヤ書49章5節、エゼキエル書12章14節など)、「地の四方の風」(エゼキエル書37章9節、黙示録7章1節など)というような表現に見られます。 これによって、神である主のご臨在が、この世界の全体と、その中に広がっているすべてのものにかかわっていることを表示していると考えられます。 また、「四つの生き物」には「それぞれ6つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。」と言われています。これは、神である主のご臨在が、この造られた世界全体と、その中のすべてのものを、注意深く見守っていてくださることを表示していると考えられます。 さらに、この「四つの生き物」の姿は、順番に、「ししのようであり」、「雄牛のようであり」、「人間のような顔を持ち」、「空飛ぶわしのよう」であったと言われています。これが何を表わしているかの解釈については、いろいろな見方があります。 ユダヤ教のラビたちの時代から、「しし」は野獣の中で最も強く、「雄牛」は家畜の中で最も強く、「わし」は鳥の中で最も強いが、これらの中で「人間」がもっとも強い、というような見方があるようです。 この見方を当てはめますと、この「四つの生き物」の姿は、いのちあるすべての生き物を表象的に示していると考えられます。「魚」が入っていないと言われるかも知れませんが、「四」という数の制限のある中で、より身近なものが選ばれているのではないかと思われます。それで、この「四つの生き物」の姿によって、主のご臨在が、特にすべてのいのちあるものとかかわってくださり、それを支えてくださっていることを表示していると考えられるわけです。 これとともに、「しし」は威厳を表わし、「雄牛」は強さを表わし、「人間」は知恵を表わし、「わし」は気高さを表わす、というような見方もあります。これによって、神である主のご臨在が、威厳と、強さと、知恵と、気高さに満ちていることを示している、ということでしょうか。 これに対しまして、「しし」、「雄牛」、「人間」、「わし」が、それぞれ「獅子座」、「牡牛座」、「水瓶座」、「さそり座」の四つの星座に対応しているという見方には、賛成できません。いろいろな説明がなされてはいますが、そこにきちんとした対応関係が成り立たないように思われます。また、聖書は、その当時の文化の中に見られる、星を神格化するような発想につながりやすいもの、そのような誤解を生み出しかねないものを避けていると思われます。 この「四つの生き物」は、「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 と叫び続けています。先週お話ししましたように、この、三回の繰り返しは、神さまの聖さが完全な聖さであることを告白するものであると同時に、生き物たちが、神である主のご臨在の御前にいるために、その聖さに「常に新しく」撃たれるようにして、叫び続けていることを意味しています。「四つの生き物」にとって、神さまの聖さは圧倒的なものとして迫ってくる現実なのです。 このような現実を想像することは、少し難しいという気がします。というのは、これと同じように、ある現実に圧倒されて叫び続けるということを想像しますと、私たちの場合には、よいことについては、あまり、そのようなことがないように思えるからです。 たとえば、皆さんも、素晴らしい音楽の曲を聴いて涙が出るほど感動したという経験をしておられると思います。ところが、その曲を繰り返し聴いていますと、だんだんそれに馴れてきまして、いい曲だとは思いますが、最初に感じたほどの感動がなくなってしまうのが普通です。 これに対しまして、個人的なことになりますが、この数年はおさまっていますが、私は、俗に、風が吹いても痛いと言われている「痛風」の発作を何回か経験しています。ひどいときには、一方の足の痛みがおさまったころに、もう一方の足が痛み出したということもありました。本当に骨を噛られているような痛みでした。これは、いくらその痛みが何日も続いたからといっても、馴れてしまって、あまり感じなくなるというようなことはありません。絶えず痛みの「現実に撃たれて」、「痛い、痛い」とうめき続けたわけです。 その他の場合でも、私たちは、いやなものの現実に触れているときには、その現実に対して、変わらない反応をし続けるものです。時には、不満やいらいらが募って、もっとひどい反応を起こしてしまいます。 もちろん、痛みの場合には、意味があります。痛みは「危険信号」です。痛みが続くことによって痛みに馴れてしまって、何も感じなくなってしまったら、自分に悪いところがあることにも気がつかなくなってしまいます。 そのようなわけで、私は、あの「四つの生き物」が「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 と叫び続けているのがどのようなことであるかを想像するときには、自分が絶えず痛みに襲われて、「痛い、痛い」とうめき続けている状態を考えてしまうのです。 しかし、これは、ある現実が、絶えず私たちを圧倒しているために、私たちの中からそれに対する反応としての叫びが絶えず出てくるという点が符合しているだけです。 あの「四つの生き物」が「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 と叫び続けている時には、神である主のご臨在の聖さに圧倒されているのですが、それは、決して、激痛のように、できれば避けたいものに撃たれて、仕方がなくそうしているというようなことではありません。 この生き物たちは、神である主のご臨在によって示されている神さまの聖さの現実に触れ、その圧倒的な現実に「撃たれて」います。では、その神である主の聖さはどのようなものかと言いますと、それは、私たちとっても、また、その生き物たちにとっても、無限の豊かさをもって絶えずあふれ出てきて、ご臨在の御前にあるものを包み込んでしまう、無限、永遠、不変の豊かさ、特に無限の愛と恵みの豊かさを特質とする聖さであるのです。 ですから、神である主のご臨在の御前において、神さまのご臨在の聖さの現実に触れて、「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 と叫び続けている「四つの生き物」は、主のご臨在の御前にあるものが味わうもっとも豊かな祝福に満たされており、まったき充足のうちにあるわけです。彼らの発する言葉は、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、 昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 という、わずか三行で表わすことができるものですが、その言葉の内実は無限の広がりと重さをもっています。その言葉が出てくる源となっている、彼らの内側にある現実は無限にあふれ出てくる神さまの豊かさに包まれていることからくる、まったき充足です。 先ほどお話ししましたように、この「四つの生き物」は、実在の生き物ではなく、黙示文学の手法で表現された表象であると考えられます。そして、特に、神さまによって造られたものとのかかわりで、神である主のご臨在がどのような意味をもっているかを示していると考えられます。 つまり、この「四つの生き物」が「昼も夜も絶え間なく」叫んでいる言葉は、神さまのご臨在は、神さまの完全な聖さと、全能の主権性と、永遠性の充満な現われであって、そのご臨在の御前に近づけられたものは、どのような存在であっても、その圧倒的な現実に触れるために、自らの内側から揺り動かされて、「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、 昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 と叫び続ける他はなくなる、ということを表示し、あかししていると考えられます。 繰り返しになりますが、そのように、神である主のご臨在の御前において、無限に豊かにあふれている神さまの豊かさに触れるものは、この上ない祝福にあずかっていて、その内側にまったき充足があふれています。 この「聖なるものであること」についてのお話の初めの方でお話ししましたように、私たちが聖なるものであることの中心は、私たちが、特別な意味で神さまのものとされて、神さまのご臨在の御前で、無限にあふれている神さまの愛に包まれての交わりの中に生かされていることにあります。 そのような神である主のご臨在の御前に近づけられて、無限に豊かにあふれ出てくる神さまの豊かさの現実に触れること、そして、神さまの聖さを讚えることを中心として、神さまを礼拝するようになることは、御子イエス・キリストの再臨によって贖いの御業が最終的に完成するときに、私たち神の子どもたちの間に、まったき豊かさをもって実現し、完成すると考えられます。言うまでもなく、それが、これまでお話ししてきました、神さまが創造の御業の第七日をご自身の安息の時としてくださり、そのためにこの第七日を祝福して聖別してくださったことの完成です。 黙示録を見てみますと、「四つの生き物」が最後に出てくるのは、神さまの最終的なさばき実現する時のことを記している19章の4節です。御子イエス・キリストの再臨によって完成する新しい天と新しい地の様子を記している21章と22章には、もう「四つの生き物」は出てきません。 これは、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づく新しい創造の御業によって、「四つの生き物」によって表象的に示されていたことが、この造られた世界の現実になっているからであると考えられます。表象的に示されていたことが、現実になっているのであれば、もう、それを表象的に表わす必要はなくなります。(このことも、この「四つの生き物」が、実在の存在ではなく、黙示文学の手法で表現された表象であるという見方と調和しています。) 新しい天と地においては、「四つの生き物」によって表象的に示されている、神である主のご臨在の御許に無限にあるれている神さまの豊かさの圧倒的な現実が、神の子どもたちの現実となり、神の子どもたちを中心とするすべての造られたものを包むようになります。 もちろん、私たちは、今すでに、この神さまのご臨在の御前の無限の豊かさの現実に、「ある形で」触れています。それは、主イエス・キリストご自身が定めてくださったことで、主の聖餐において、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかることです。 この主の聖餐に示されていることに関連して、イエス・キリストは、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 ヨハネの福音書6章53節〜57節
と教えてくださいました。 私たちは、主の聖餐において、福音の御言葉によってあかしされ、私たちに差し出されている、御子イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血を、信仰によって受け取り、これにあずかっています。それで、 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 と言われていることが、すでに、私たちの現実となっています。私たちは、すでに「永遠のいのちを持っています。」そして、そのことは、イエス・キリストが「終わりの日に」私たちをよみがえらせてくださることにつながっています。この二つのことは、私たちにとっては、その実現の時がずれていますが、主にあっては、ワンセットのものとして与えられており、切り離すことができないものです。 さらに、 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 と言われています。 これは、イエス・キリストのご臨在が、信仰によって、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と流された血にあずかる者とともにあることを意味しています。そして、そのようにして確立される、私たちとイエス・キリストの交わりのモデルは、御子イエス・キリストと父なる神さまの交わりにあることが示されています。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 というイエス・キリストの言葉では、それまで「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」と言われていたことが、「わたしを食べる者」と言い換えられています。 イエス・キリストを信じて受け入れることは、イエス・キリストを「食べる」ことです。そして、イエス・キリストを「食べる」ことは、イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血にあずかることです。 このような意味でイエス・キリストを「食べる」こと、すなわち、イエス・キリストを信じることは、イエス・キリストが私たちのいのちとなってくださって、私たちがイエス・キリストによって生きるようになるほどに、イエス・キリストを自分のものとすることを意味しています。それはイエス・キリストが、御霊によって私たちのうちにご臨在してくださって、私たちのいのちとなってくださることによって実現します。ヨハネの福音書7章37節〜39節で、 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 と言われているとおりです。 これまで、神さまの無限、永遠、不変の豊かさは、私たちにとっては、無限の豊かさにおいて常にあふれている豊かさであるということをお話ししました。そのような豊かさがどこにあるのかと言いますと、それは、この、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血にあずかることのうちにあるのです。 突き詰めて言いますと、無限、永遠、不変の豊かさとは、神さまご自身のことです。それは、御子イエス・キリストにあって、私たちに示されています。けれども、私たちは、神さまの無限、永遠、不変の豊かさを、私たちの外にあるものとして見るのではありませんし、触れるのでもありません。御子イエス・キリストのご臨在が私たちのうちにある時に、そして、その時にだけ、私たちは、私たちに示されている神さまの無限、永遠、不変の豊かさ、特に愛と恵みの豊かさにあずかっているのです。ですから、御子イエス・キリストのご臨在が私たちとともにないなら、私たちは、真の意味で、神さまの無限、永遠、不変の豊かさにあずかってはいませんし、永遠のいのちを持ってはいません。 ヨハネの手紙第一・5章11節、12節では、このことが、 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 と言われて示されています。そして、続く13節では、 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。 とあかしされています。 私たちは、すでに、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と流してくださった血に、信仰によってあずかっています。それで、私たちのうちには、御子イエス・キリストのご臨在がともにあります。それは、御子イエス・キリストの御霊が私たちのうちに宿っていてくださることによって、私たちの現実となっているのです。 このことは、時間的に、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを中心として、二つの方向で見ることができます。 一つは、それ以前の状況との関係で、この御子イエス・キリストのご臨在は、旧約の聖徒たちがあこがれつつ待ち望んでいたことの成就であるということです。 詩篇16篇2節では、 私は、主に申し上げました。 「あなたこそ、私の主。 私の幸いは、あなたのほかにはありません。」 と言われています。ここでは、神である主を「私の主」として持つことの幸いが告白されています。また、11節では、 あなたは私に、いのちの道を 知らせてくださいます。 あなたの御前には喜びが満ち、 あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。 と言われています。ここでは、主のご臨在の御前には、主との交わりにあるいのちの豊かさの「喜び」と「楽しみ」が永遠に満ちていることが告白されています。 使徒の働き2章25節〜31節に記されていることから分かりますように、この詩篇16篇では、御子イエス・キリストの復活のことが預言的に語られています。この詩篇16篇で告白されている祝福は、イエス・キリストが栄光をお受けになって復活されたことによって成就しています。それで、これらの祝福は、御子イエス・キリストが、御霊によって私たちのうちにご臨在してくださるようになったことによって、私たちのうちに実現しています。 先ほどの引用で、ヨハネが、「生ける水の川」について、 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 と説明していましたが、御子イエス・キリストは、すでに、栄光をお受けになってよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されて、ご自身の御霊を注いでくださいました。それで、御霊は、イエス・キリストを「食べる」私たちのうちに宿ってくださって、「生ける水の川」となってあふれてくださっています。 それとともに、イエス・キリストは、私たちがあずかっています主の聖餐を制定してくださったときに、次のように言われました。 みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。 マタイの福音書26章27節〜29節
この「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日」というイエス・キリストの言葉には、先ほど引用しました、ヨハネの福音書6章54節の、 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 というイエス・キリストの言葉が示している約束の成就の時が示されています。それは、御子イエス・キリストの再臨の日に、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかって、よみがえる時に実現します。そして、それが、創造の御業の第七日の神さまの安息の完成です。 その時、私たちは、あの「四つの生き物」によって表象的に示されている、神である主のご臨在の御前で無限にあふれる豊かさに、まったくあずかるようになります。 ですから、「四つの生き物」が「昼も夜も絶え間なく」、 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 神であられる主、万物の支配者、 昔いまし、常にいまし、後に来られる方。 と叫び続けていることによって表象的に示されている祝福は、すでに、私たちが、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって受け継いでいるものです。そして、今、私たちは、そのまったき完成の日を待ち望んでいます。 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 ・・・・・・ これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。 黙示録22章17節、20節
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