(第25回)


説教日:2001年1月28日
聖書箇所:創世記2章4節〜14節


 今日もこれまでのお話に続きまして、聖なるものであることの基本的な意味につきましてお話しします。
 いつものように、まず、このことを考えるうえでの出発点である神さまの聖さの基本的な意味について、まとめておきましょう。神さまの聖さは、基本的に、神さまが、ご自身のお造りになったこの世界のすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しています。
 そのように神さまが聖い方であるということは、神さまご自身が、あらゆる点において、無限に豊かであることに根差しています。神さまは、存在において無限、永遠、不変の方です。また、その知恵、力、聖、義、善、真実、そして、愛といつくしみなどの人格的な属性においても、無限、永遠、不変の方です。そして、神さまの存在とこれら一つ一つの属性の輝きである栄光も、無限、永遠、不変です。


 あらゆる点において無限に豊かな方である神さまは、ご自身の無限の豊かさのうちに、まったく充足しておられます。特に、神さまは、愛を本質的な特性とする人格的な方として、愛のうちにまったく充足しておられます。三位一体の御父、御子、御霊の間には、無限、永遠、不変の愛が常に新鮮なものとして通わされています。
 そのことは、ヨハネの福音書1章1節、2節で、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていることに表わされています。
 このことについては、すでにお話ししたことですので、簡単にまとめておきます。
 まず、「ことば」のことが、

初めに、ことばがあった。

と言われています。これは、「ことば」が、天地創造の「初めに」すでに存在し続けておられた、永遠の存在であることを示しています。そして、

ことばは神であった。

と言われていることによって、「ことば」が神であられることが明確に示されています。
 また、永遠の「ことば」と父なる神さまの関係のことが、

ことばは神とともにあった。

と言われており、さらに、

この方は、初めに神とともにおられた。

と言われています。これは、「ことば」は、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられるということを示しています。当然、このことは、「ことば」が父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられるということを意味しています。
 続く3節において、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていて、「ことば」と、この世界の関係のことが記されています。これによって、この世界の「すべてのもの」は、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られたということが示されています。
 ですから、天地創造の御業は、三位一体の神さまの無限の豊かさにあるまったき充足、特に、無限、永遠、不変の愛の交わりにある充足を、永遠の「ことば」によって、いわば、ご自身の外に向けて表現してくださったものです。

 このように、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られたこの世界のすべてのものは、神さまのまったき充足によって包まれています。その意味で、神さまによって造られたこの世界は、聖い世界であるのです。
 この「聖なるものであること」のお話の初めの方で、繰り返しお話ししましたが、神さまによって造られたものは、神さまによって造られ、神さまのものであるという点で、すべて、聖いものです。造り主である神さまとの本来の関係にあるものは、みな聖いとされます。その、造られたものの聖さは、決して実質のない空しいものではありません。なぜなら、造られたものの聖さは、神さまの聖さにあずかって、それを映し出すものであるからです。
 神さまの聖さは、神さまご自身が、あらゆる点において、無限に豊かであることに根差しています。また、神さまはご自身の無限の豊かさのうちにまったく充足しておられます。造られたものの聖さは、そのような神さまの聖さにあずかって、それを映し出すものです。それで、造られたものの聖さも、造り主である神さまの豊かさに包まれて、満たされていること、そして、人格的な存在の場合には、そのことのうちに充足していることに現われてきます。

 ヨハネの福音書1章では、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われいて、永遠の「ことば」と「すべてのもの」の関係が示されていました。これに続きまして、4節では、

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われています。
 ここでは、「すべてのもの」の中でも、特に、「神のかたち」に造られている人間と永遠の「ことば」との関係が示されています。父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られたこの世界のすべてのものが、神さまのまったき充足によって包まれているのですが、その中心が「神のかたち」に造られている人間であることが示されています。

この方にいのちがあった。

ということは、私たちにいのちがあるというのとは、少し意味が違います。というのは、「この方」は「すべてのもの」をお造りになって、それぞれの特性にしたがって満たしてくださり、真実に支えておられる方だからです。
 私たちは、この世界にあるさまざまなものによって支えられています。私たちは、私たちの住んでいる世界を満たしている空気を呼吸して生きています。また、水や食べ物がなければ生きていけません。そして、この世界の環境がさまざまな面で適切に保たれているので生きています。もちろん、これらすべてのことを備えてくださっているのは、「すべてのもの」をお造りになった「この方」です。
 このように、私たちは、自らの力で自分のいのちを支えることができません。しかし、「この方」は、他の何者かによって支えられてはいません。ご自身がお造りになった「すべてのもの」を支えておられますが、ご自身は何者の支えも必要としていません。「この方」は「すべてのもの」を支え、「すべてのもの」を満たしておられますが、それによってご自身のうちから何かが失われることはなく、常に、無限の豊かさで満ちあふれておられます。
 ですから、

この方にいのちがあった。

ということは、「この方」が「いのちそのもの」であられることを伝えています。「この方」の「いのち」こそが本当のいのちであり、この世界にあって生きているすべてのもののいのちの源であり、すべてのもののいのちを、根底から支えているのです。
 さらに、「この方」の「いのち」は、ただ、造られた世界のいのちあるすべてのもののいのちを支えている「いのち」であるだけでなく、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにある「いのち」です。

 4節では、さらに、

このいのちは人の光であった。

と言われています。
 先ほど言いましたように、ここでは、永遠の「ことば」によって造られた「すべてのもの」の中でも、特に、「神のかたち」に造られている人間に焦点が合わされています。
 私たちは、この世界のいのちあるものが光を必要としていることを知っています。そのことがこの言葉の背景になっています。私たち人間も「この方」によって支えられています。そのことが、

このいのちは人の光であった。

という言葉によって表わされています。
 ただし、

このいのちは人の光であった。

という言葉は、造られたすべてのいのちが「この方」によって支えられているという一般的なことではなく、特に、「この方」のうちにある「いのち」が「人の光であった」と言われるほどに、人間にとって特別なものであるということを示しています。
 なぜ、「この方」のうちにある「いのち」が「人の光であった」と言われるほどに、人間にとって特別なものであるかと言いますと、人間が「神のかたち」に造られているからです。人間のいのちは「神のかたち」としてのいのちであり、造り主である神さまとの愛のうちにある交わりに生きるいのちです。他の動物たちにも、いのちはあります。しかし、動物たちは造り主である神さまを知りません。動物たちのいのちは、「すべてのもの」をお造りになった「この方」によって支えられています。けれども、動物たちはその事実を知りませんし、「この方」を知ることはありません。
 けれども「神のかたち」に造られている人間は、自分たちも含めて「すべてのもの」が「この方」によって造られており、「この方」によって支えられていることを知ることができる能力とわきまえを与えられています。また、そのことをわきまえる責任を負っています。そればかりか、人間は、造り主である神さまを知り、神さまとの愛にある交わりの中に生きることができる特権を与えられています。
 人間がそのように、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることができるためには、神さまが、人間にご自身を表わしてくださり、出会ってくださり、愛を示してくださらなければなりません。そのように、人間にご自身を示してくださり、限りない愛のうちに、ご自身との交わりの中に生かしてくださる方が、永遠の「ことば」です。
 先ほど言いましたように、「この方」の「いのち」の特質は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛にある交わりのうちにある「いのち」であることです。「この方」の「いのち」は、愛にある交わりを生み出し、愛のうちにある交わりのうちに現われている「いのち」です。
 それで、「この方」の「いのち」は、「この方」の「いのち」に支えられている人間のいのちが造り主である神さまとの愛の交わりのうちにあり、その交わりのうちにいのちの特質を発揮することを示しています。「この方」の「いのち」が「人の光」として私たちを照らし、私たちのいのちを支えてくださるので、私たちのいのちは、神さまとの愛の交わりの中に現われてくるのです。
 人は光に照らされて初めて、目の前にあるものを見ることができます。それは目に見えるもののことですが、目で見ることができない神さまを知ることができるためにも「」が必要です。そのように私たちを照らして、神さまを示してくださるばかりでなく、私たちをご自身との愛にある交わりに生かしてくださるのは永遠の「ことば」です。それで、

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われています。
 人は、本来、「神のかたち」に造られており、造り主である神さまの愛に包んでいただいて、神さまとの愛の交わりにあるいのちに生きるものとして造られています。それは、

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

ということがあって初めて実現したことです。

 このように、「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることができるのは、永遠の「ことば」がご自身の「いのち」を「人の光」としてくださっていることに基づいています。永遠の「ことば」は、ご自身の「いのち」を「人の光」として「」に与えてくださっています。それによって、「」は、神さまの愛と恵みを知り、神さまの愛に包まれて、神さまとの交わりに生きることができます。
 私たちにとって、神さまの愛と恵みは、さらに豊かな形で示されています。永遠の「ことば」は、私たちと同じ人の性質を取ってきてくださり、十字架にかかってくださって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださるまでに、ご自身の「いのち」を私たちに与えてくださいました。それによって、ご自身が私たちのいのちとなり、私たちの光となってくださいました。
 そして、この永遠の「ことば」の御業に基づいて、実際に、「」を神さまとの愛の交わりの中に生かしてくださるのは、神さまの御霊です。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

という言葉は「いのち」と「」をテーマとしています。ヨハネの福音書では、この「いのち」と「」は、十字架の死をもって私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストが、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださってから遣わしてくださる御霊のお働きによって、私たちの現実になることが示されています。

 このことを踏まえて、「神のかたち」に造られている人間が、御霊によって、神さまとの交わりに生かされるようになったことを、創造の御業の記事に沿って見てみましょう。
 創世記2章7節では、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と言われています。
 ここでは、擬人化された表現で、神である主のお働きが語られています。神である主は「陶器師」の表象で示されています。そして、神である主ご自身が、「土地のちり」で造られた「」と顔と顔を合わせるようにして向き合ってくださって、「」の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことが記されています。このことによって、

人は、生きものとなった。

と言われています。
 ここに出てくる「いのちの息」の「」という言葉(ネシャーマー)は、「霊」を表わす言葉(ルーァハ)ではありません。この二つの言葉は、同じことを表わすもの(同義語)として用いられることもありますが、「霊」を表わす言葉(ルーァハ)は意味が広くて、「霊」や「息」だけでなく「風」も表わします。それに対して、「」という言葉(ネシャーマー)は、そのような意味の広がりがなく、「息」を表わしています。それで、ここでは、これによって、「」が呼吸をして生きるようになったことが示されています。
 これは、擬人化という表現方法によって、神さまが、ご自身の身を低くして、「神のかたち」に造られている人間に親しく近づいてくださったことと、呼吸という、人間のいのちにとってもっとも基本的なことにかかわってくださっていることを、生き生きと示しています。
 確かに、ここで示されていることは、いわば、目で見える形における近さです。しかし、それは。擬人化によって神さまを「陶器師」になぞらえて表わしているための「限界」によることです。
 それでも、ここに示されていることは、ただ単に、神さまが「」の呼吸を支えてくださるということではなく、神さまがじかに「いのちの息」吹き込んでくださったことによって、「」は呼吸を始めて、生きるものとなったということです。当然、「」が吸い込んだのは、神さまご自身の「息」であることが想像できるようになっています。
 このことから、私たちは、ここで、神さまは、ただ単に、人間の身体の「呼吸」を始めてくださったということだけでなく、「神のかたち」に造られている人間のうちに、神さまご自身の「息」としての御霊を宿らせてくださったということを推測することができます。それは、また、聖書が全体的に示していることとも調和します。

 まず、(聖書神学的な考察ですが)、「」は、エデンの園において、そこにご臨在される神である主とのいのちの交わりに生きていました。そのことは、先ほどのヨハネの福音書1章4節で、

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われていることを「神のかたち」に造られている人間の間に実現してくださる、神である主の御霊が「」のうちに宿っていてくださって初めて可能なことです。
 また、エデンの園の中央には、「」に対して、この神である主とのいのちの交わりを表示し保証している「いのちの木」がありました。これは、今日、私たちがあずかっている主の聖餐において、御子イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と、流してくださった血を表わす、パンとぶどう酒と同じように「礼典的」(サクラメンタル)な意味をもっていて、「」はそれを食べることを通して、見えない神である主のご臨在に触れていたと考えられます。このことも、神である主の御霊のお働きによる恵みです。
 このように、「神のかたち」に造られている人間のうちには、初めから、神である主の御霊が宿っていてくださったと考えられます。そうしますと、それは、2章7節で、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と言われている時から始まったことである、と考えるほかはありません。

 より具体的なこととしましては、2章7節の「いのちの息」のことは、ノアの時代の洪水の前の人類の状況を記す6章3節にも出てきます。そこでは、

そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

と言われています。ここで、主が「わたしの霊(ルーァハ)」と言われるのは、一般に、2章7節に出てくる「いのちの息」のことであると考えられています。
 また、この(主が言われる)「わたしの霊」と同じ言葉は、終わりの時代における主の再創造のお働きを預言的に記しているエゼキエル書37章14節に記されている神である主の言葉の中に出てきます。そこでは、

わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。

と言われています。
 これは、有名な「干からびた骨の谷」の幻としてエゼキエルに示されたことです。4節、5節には、

主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」

と記されています。
 ここに述べられている、終わりの日における神である主の再創造のお働きは、明らかに、神である主の最初の創造の御業を記している創世記2章7節で、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と言われていることを背景としたものです。
 実は、ここで用いられている「」という言葉は、「霊」を表わす言葉(ルーァハ)です。このことから、最初の創造の御業においても、

神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

と言われているときに、身体的な息だけでなく、「神のかたち」に造られている人間を霊的に生かす御霊が与えられたと推測することができます。
 さらに、ヨハネの福音書20章22節では、

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

と言われています。これは、栄光をお受けになってよみがえられたイエス・キリストが弟子たちに現われてくださった時のことを記しています。
 この「息を吹きかけ」という言葉(エムフサオー)は新約聖書ではここに出てくるだけですが、ギリシャ語訳(70人訳)では、先ほどの創世記2章7節で、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

と言われていることの「吹き込まれた」にこの言葉が用いられています。
 ここでイエス・キリストが弟子たちにご自身の「息を吹きかけ」られたことは、弟子たちに、御霊をお与えになることを象徴的に示しています。これは、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストが、ペンテコステの日に、新しい契約の共同体である教会に「約束の御霊」を注いでくださったことの「先取り」です。このことの背景に、やはり、創世記2章7節で、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

と言われていることがあると考えられます。
 先ほど、ヨハネの福音書では、「いのち」と「」は、御子イエス・キリストが遣わしてくださる御霊のお働きによって、私たちの現実になることが示されていると言いました。そのことが、

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

と言われていることにおいて、いわば「先取り」の形ではありますが、確かに、実現しているのです。

 このように、神である主は、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」時から、「」のうちにご自身の御霊を宿らせてくださり、「」をご自身とのいのちの交わりに生かしてくださったと考えられます。
 最後に、この、神である主が「」の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことの理解に、一筋の光を投げかける出来事に触れておきたいと思います。
 1972年2月、星野富弘さんが群馬大学病院に入院しておられた時のことです。その日に降った雪を見に廊下に出ていた星野さんは、すきま風に当たって喉を痛め、喉に痰が絡まって取れなくなってしまいました。痰はどんどん多くなって吸引器でも取れない状態になってしまいました。
 以下は、星野さんの本からの引用です。

 当直の先生も、からだを横にしたり、背中をたたいたり、いろんなことをしてくれたが、私としては針の穴から息を吸い込むような苦しさだった。
 廊下を帰っていく西村先生を看護婦さんが大声で呼び止め、かけつけてきてくれた先生に私は「苦しい」と言えるだけの空気が、からだのなかに残っていない状態で、それをわかってもらうために、わずかな力をふりしぼって首を左右にふるだけだった。
 西村先生が「口をあけろ」という声も水の中の会話のように不鮮明になり、顔に近づけてくる先生の顔もかすんでみえた。
 西村先生は私の口にじかに口をつけて、自分で吸い込んだ空気を私の肺に吹き込んでくれた。そんなことを、何度かくり返しているうちに、かすんでいた目の前の世界が少しみえるようになり、まわりの音もはっきりききとれるようになった。西村先生の息を吸いながら、胸の中に先生のやさしさと力強さがひと息ごとにたまっていき、空気とはまた別のもので私の胸はいっぱいになってしまった。
『愛、深き縁より』(立風書房 86頁)

 天地創造の初めに、神さまは、「土地のちりで」形造られた「」にご自身の顔を近づけてくださって、「その鼻にいのちの息を吹き込」んでくださいました。その時、「」は自分の胸のうちに、造り主である神さまの愛と恵みが無限の豊かさをもって満ちあふれてくるのを感じたはずです。「」は、自分の身体のうちにみなぎる「いのち」を実感しただけでなく、自分ののうちに宿ってくださっている御霊によって、心の奥底まで神さまの愛と恵みで満たしていただいて、この上ない充足を感じ取っていたはずです。
 それは、先ほどのヨハネの福音書1章4節の言葉で言いますと、

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

とあかしされている「」が「」を心の奥底から明るくして、神さまの愛と恵みを悟らせてくださり、自分が造り主である神さまとの交わりのうちに生きていることを自覚したということでしょう。
 「」の存在と「いのち」はそのようにして始まりました。「」は、「生きたもの」となったその瞬間に、自分が心の奥底まで、神さまの愛と恵みで満たしていただいているということを自覚していたのです。これが、「神のかたち」に造られている人間にとっての最初の事実です。そして、これが私たちの本来の姿です。
 今、私たちは、福音の御言葉を信じて、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかっています。それで、御霊が御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちのうちに宿ってくださっています。そして、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿を、私たちのうちに回復してくださっています。
 それで、私たちの一息一息が、今も、神さまの愛と恵みをあかししています。(残念ながら、私たちは、そのことを、呼吸困難というような状況になって初めて自覚するというような、霊的な鈍さをもっているようです。)
 そればかりでなく、私たちのうちに宿っていてくださる御霊が、イエス・キリストの十字架からあふれてくる神さまの愛と恵みをもって、私たちを心の奥底から満たしてくださっています。

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ人への手紙4章25節〜5章5節

 


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